2014年10月13日月曜日

愚かしい哲学


物事に疑問を抱くということは、拒絶である。

とりわけ哲学では、「我思う、故に我あり」とか言って、なんでもかんでも疑うのが美徳であるとされるようだ。

何かを盲信するのはご法度であり、そうするためには理由が必要とされる。

また何かを突き詰めてある考え方を確立したとき、それは「~哲学」という風に呼ばれたりもする。

哲学は理性的でなければならず、ただ物事を鵜呑みにすることは許されない。
そして、難しいことを考え抜いた先にある。

とまあ、私の哲学に対するイメージはそんなものだ。

そういうストイックな姿勢は大変カッコよいのだが、たまに疑問に思うことがある。

そんなの本当に役立つんだろうか。

哲学なんてのはロマンみたいなもので、煮ても焼いても食えない、世俗から離れた者だけに許される道楽である、とも思う。

実際、哲学科は就職も厳しいと聞く。

なぜか。

それは、哲学が「物事を拒絶すること」を良しとしているからである。

かつてアリストテレスが言ったように、世の中の物体は無限後退を引き起こす。

宇宙はどうやって生まれたのかと問いを立てれば、ビッグバンという仮説に辿り着き、ではビッグバンはどこからきたのかと当然の問いが立てられるように、根本原因などというものは存在しない。

宗教も似たようなもので、聖書の創世記では、まず光があるところから世界がはじまるわけだが、では光はどこからきたかと言えば、神が作ったのであって、ではその神は誰が作ったかと言われれば、神は絶対的存在なので、神を作るような上位存在はいない、ということになる。

現代で大きな力を振るっている科学でさえも同じ構造から抜け出すことは出来ない。
科学の基礎となる経験論は「繰り返しやったらうまくいった、だからこの先もうまくいく」という前提のもとに肯定されるが、その根拠は「今までもそうだったから」でしかなく、経験的にうまくいったことを続けるというスタンスに他ならない。
つまり、宗教となんら変わりはない。

宗教を忌避する傾向にある多くの日本人にとって、その意味では哲学は健全なはずである。

疑うことは、一歩距離を置くことでもあるので、哲学をしていれば、宗教に取り込まれる心配はなくなるからである。

だがこれは手放しに喜べる傾向ではないと私は思う。

たしかに疑うことは重要であるが、人間の寿命は限定されている以上、疑い続けているわけにはいかない。

そこらに転がっている前提を、すべて疑って生きていては人生が暮れてしまう。

だから、ときとして疑うことをやめ、まず覚えてしまうことも重要ではないだろうか。

その上で思考することが価値ある哲学を生み出すのであり、すべてを疑い距離を置きつづけることは、愚かしい哲学を生み出すだけだと思うのだ。

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