2014年10月19日日曜日

宗教を恐れるということ


現代日本では宗教は恐れられている。

そのため政教分離は当たり前である。
しかし私は、皇族というシステムがある時点で、既にそれは崩壊していると思う。

誰が国を動かしていくかを血脈によって決定することは、例えそれが制度であったとしても、疑うことなく行っている時点で、宗教ではないかと思う。

だから良いとも悪いとも言うつもりはない。

だが、宗教は我々にとって身近であると思う。
ご飯を食べるときの「いただきます」や「ごちそうさま」も、命をいただいているという教えが慣習化しているわけだが、特別それを疑うこともなく受け入れている。

そんなわけで、日本人は無意識の宗教をもっていると言えるわけだが、当の本人たちはあたかも自分たちは無神論者であるかのような顔をして、宗教は怖いものだと決めつけている。

たしかに、新興宗教と呼ばれるものの中には怪しいものも多い。
にわかには信じがたいような効用を謳い文句にして信者を獲得している集団もある。

とりわけサリン事件でテレビを賑わせた新興宗教にいたっては、その思想は犯罪シンジケートそのものと言っても過言ではないかもしれない。

だからそういうものを恐れて、関わりたくないと考えるのは当然のことだし、それ自体はなんら問題がない。

しかし、宗教に無関心で無自覚でいることは違う。

自分たちが何かを無意識に信じているという事実を、認識することは大変重要だ。

我々はメタ的に自分を見直すことによって「気づき」を得ることが出来る。

だから自信を無神論者であると信じている人々は、まだ気付いていないだけで、本当は無意識的に信じているものがある。

また、無神論者であることを理由に宗教を避けるのは、もちろん面倒に巻き込まれたくない理由もあるかもしれないが、恐れもあるだろう。

それは「もしかしたら自分も染まってしまうのではないか」という恐れである。

何かを信じることは大変勇気の要ることだ。

だが、こちらがコントロールする側に回ると思えば、何も恐ろしいことはない。

良い考えをとりいれるだけなら、問題はない。

本当に恐ろしいのは、盲信することと疑いつづけることだ。

極端に疑い続ければ、何事をもなすことは出来ない。

猜疑はゴールのための布石でしかなく、それ自体がゴールではない。

また、自分の間違いを常に可能性として頭に入れておかねば、盲信してしまうことになる。

宗教を恐れるなら、結果論を常に批判する姿勢を持ちつづければ良い。

宗教は大抵、結果論である。

ときには、信じたあなたが悪いと言う。

あるときには、疑わなかったあなたが悪いと言う。

そして逆をアドバイスする。

それは真理でも何でもなくて、単に、「あなたは今憂き目にあっている。逆をゆけ。」というわけである。

それは明らかに結果論である。

おおよそ危ない宗教は、そういうものの言い方をして、あたかも理屈をつけたような顔をする。

心に隙があるとつけこまれる。


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