2013年11月12日火曜日
小鳥とわたしと鈴と
小学校のとき、『私と小鳥と鈴と』という詩を習った。
私は小鳥のように空を飛べないが、地面を早く走れる。
鈴は綺麗な音色を奏でるが、私のように唄は知らない。
だから、皆違って皆いい。
そういう内容だ。
皆違って皆いい。確かにそうかもしれない。
皆が、優れているなら。
そう、この詩で唄われる世界のように、皆が皆、優れた点を持っているなら素晴らしい。
だが私は、それは虚構だとしか思えない。
楽しみを追求するだけなら、それでいいかもしれない。
走るのは楽しい。飛べるのも楽しい。音色も楽しい。唄も楽しい。
けれど、生活は違う。
走っても飛んでもお金は稼げるかもしれない。
だが、唄や音色で食っていくのは難しいんじゃないか。
皆違う個性で、それを認めようという気持ちはわかる。
だが、社会という規格化された世界においては、突き抜けた個性が役立つことは稀だ。
左利きは寿命が短い。
多くのモノが右利きのために作られているために、ストレスを感じるのが原因だという。
この説も推測の域を出ないが、一理ある。
あるいは、左利きは不利なのかもしれない。
もともと重力下で暮らす人間にとって、上下は大切でも、左右を区別する意味はない。
そのうえで、右利きが多数派を占めている。
その多数派が決めたルールによって、少数派が苦しむのは当然のことだ。
なぜなら、数は力だからだ。
言い方を換えるなら、民主主義的には、最大多数の最大幸福が原則だから。
個性を大事にする考え方は、必要だ。
でも、それを幻想的に教えるのは違う気がする。
社会は個性を認めない場所でありながら、一方初等教育では個性を認める教育をする。
なんだか不思議な気がする。
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