2014年1月10日金曜日

言葉の功罪


言葉を覚えるのが早いことはいいことだろうか?

言葉をうまく操れることは、一般的に評価されやすい。
言葉は現代社会では自己表現に不可欠なツールだ。
その意味で、言葉を早く覚えることは、社会に早く馴染むための近道に思えるかもしれない。

しかし、20世紀の天才のひとりとして数えられるアインシュタインは、言葉を覚えるのが遅過ぎて親の心配を買ったという話もある。
また、「バカの壁」の著者として知られる養老孟司もまた、自身は言葉を覚えるのが遅かった著書で語っている。

こうした例を見ると、言語による表現力の早熟が天才や秀才としての絶対条件ではないという気がしてくる。たったニ例から判断するのは早計とはいえ、可能性を考えることは興味深い。

もし言葉が天才の絶対条件ではないとすれば、それは言葉があくまでツールだからだろう。
言語能力はあくまで表現の一手段であり、その高さは身を助けてくれるが必ずしも必要ではない。

例えば人に説明するとき、言葉だけではわからないので図を使うことを考えれば、言語能力が万能ではないことがわかる。

つまり、言葉そのものに価値があるのではなく、その表現内容に価値があるのであって、その表現形式が世の中に受け入れられるものであれば、それは言葉ではなくてもいいということである。


もうひとつ、こんな話がある。

考え事をするとき、あなたは何語で考えているか?
母語で考えている人もいるだろうし、そうじゃないかもしれない。

言葉で何かを表現するのに苦労を感じた事はないだろうか。
それはあなたの言語能力が低いせいではない可能性がある。
むしろ、想像力が豊かすぎるがために、自分の考えを言葉で表現することが難しいだけなのかもしれない。

人間は言葉にすると物事に対する理解が浅くなる、と心理学者の植木先生が著書で書かれているように、言語表現によって、表現内容が固定されてしまう、つまり言葉のイメージに引き摺られてしまうことはあり得る。

だから、母語で考える人よりも、そうでない人のほうが、淀みなく話せる人よりもそうでない人のほうが、実は頭が良いというのは十二分にあり得る話である。
表現できなければ意味がない、という批判はひとまずおいておこう。


私が何を危惧しているのか、そろそろお察しだろう。
今までの話を総合すると、言語で表現することは必ずしもよい事ではない、ということである。
そのままの形で、感じたことを自分の中にとっておくことも大切なのだ。
言語をあまりに早く覚えてしまうと、知っている範囲の言葉でなんでも表現しようとするため、感性が鈍る可能性があると私は指摘したい。
鋭い感性を表現するには、言葉はあまりにも不完全過ぎる。


結論として、表現内容に適した表現形式をとれることが大切だ。
言語はそのうちのひとつであって、すべてではない。
社会的には言語能力が必要だとしても、それを早く覚えさせることがいいかどうかはまた別問題である。


こぼれ話として、早期英語教育に言及しよう。
グローバル化にともなって、就職ではTOEICの資格が有利、小学校では英語教育の必要性が叫ばれ始めている。

母語を大切にしようとか、英語と日本語どちらがよいかという議論は以前に書いてあるので割愛して、早期英語教育の是非とそのやり方について、思うところを述べる。

先程述べたように、言語は表現形式であるから、言語能力とは自分の表現したい内容をいかに的確かつ一般的に表現できるかを指すと考えられる。
つまり、英語だろうが日本語だろうが、表現前の内容は同じだ。

しかし、今の英語教育は、単語帳で日本語と英語を覚えているだけだ。
これでは、表現内容が結びつかないと思う。
つまり、本来ならりんごを見て、apple、と発したいところが、りんごを見たのち、りんごという日本語は英語でappleだから、appleと述べる。
このように、ひとつプロセスが多くなってしまう。

そういう意味で、早期の英語教育は問題ないと思う。
日本語的な感性が出来上がる前に英語を教える点が問題視されているが、むしろ逆で、日本語的感性は英語教育に必要ない。少なくとも単語を覚えるレベルではそうだ。

というか、ネイティヴレベルで英語を覚えようと思ったら、いちいち日本語で考えて英語で訳しているようではきっと意味がない。
それでは機械翻訳も同然である。

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