2014年1月20日月曜日
言語と表現性
昨今、コミュニケーション力、略してコミュ力を問われる場面が多くなった。
コミュ力と言われても、その内容はあまりにも漠然としている。
その中身はおそらく、空気が読めるとか、なんとなくうまいことやれる、質問に対して正しい回答ができる、など様々である。
もっと堅い言葉で包括的に表現するなら、意思や思考を正しく伝達する能力である。
もっと抽象的なもので言い換えるなら、表現力である。
伝達力というとどうしても言葉を重視してしまうのが学歴社会であると言えよう。
例えば数学や国語は別ジャンルとして捉えられることが多いが、論理の表現形式やツールとしての役割が違うだけであって、求めているものは伝達力である。
特に数学は厳密性が高いので、数学的な後ろ盾が得られた議論は説得力が高い。
英語もまた、表現するための形式に数えられる。
つまり、学歴重視型の社会は、文字による確実な表現を求めている。
表現に厳密性を求めている。
そこで重視されるのは、言葉の意味をいかに妥当に疎通できるか、また表現できるかである。
その下地として、基礎的な表現を学ぶ。
しかしここである悩みが生まれる。
自分が厳密な表現を心掛けることは大切だが、相手にそれを求めるのは違うという点だ。
リテラシーのない人間に対しては、厳密性を排除して耳を傾けなければならない。
例えば、パソコンに詳しくない人間に対して説明を行うとき、厳密な言葉遣いで表現することは重要であるが、あちらの要求はざっくりと聞き取らなければならない。
その使い分けが、真の意味でのコミュ力であると言えるだろう。
一方で厳密性をもちながら、他方では曖昧性を汲み取れる存在でなければならない。
その柔軟な使い分けは、人によっては混乱してしまうだろう。
昔の哲学者が対話形式を大事にしたのは、この点について強く認識していたからに違いない。
相手の表現を受け取り、それを自分の表現形式に直して問い直すことで初めて意思の疎通ができるようになる。
しかし、なんでもかんでも質問しているようでは、相手に負担をかけてしまうだろう。
察しがいい人間になるには、どうしたらいいか。
例えばこういう方法はどうだろうか。
相手にyes/noを求めるのではなく、こちらの解釈が間違っていたときだけ、訂正を求めるのである。
例えばメールの文面を例にとれば、「それは~ということですか?」と再確認するのではなく、「それは~ということですよね、わかりました」と一旦完結しておく。
すると、相手はこちらの考えが間違っているときだけ返事をすればよいので、ほぼ聞き流すだけでいい。
難しい言葉を使わないなど、目に見えて省ける手間に加えて、こういう部分で少し工夫すると、相手の負担を減らすことができるのではないか。
相手の負担を減らしつつ、適切な意思疎通をするのがコミュ力、という結論である。
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