認識論は哲学の一ジャンルで、
1.人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
2.人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
3.ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
4.人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。
wikipediaによれば、上記のような項目を探求するジャンルらしい。
私はこれらのテーマに関して予備知識をまったくもっていない。
だが、だからこそ既成概念を無視して柔軟な発想ができることもあると信じている。
それぞれのテーマについて書き記してゆく。
1. 人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
そもそも問題を問い直す形になってしまうが、我々は物事を正しく知る方法について語る前に、物事を正しく知ることはできないことを知っておくべきだ。そのために有名な例を挙げよう。
昔、ソクラテスという学者がいた。彼は賢人と呼ばれていたが、それはただ賢く、知識が豊富だったからではない。彼は自分がすべて知っているわけではないことを知っていたからである。これを「無知の知」という。
この話ではつまり、物事を知り尽くすことは絶対にできない、という教訓が語られている。似たような例をもうひとつ挙げよう。
プラトンという学者は、イデア(概念)について語る上で、我々は物事について、まるで洞窟の壁に写った影を見ているようなものだ、と例えた。
この話では、我々が見ているものはすべて本質ではなく、ある物の一部分でしかないと解釈できるだろう。
上に挙げた例のように、我々は何かについてすべてを知ることはできない。例えばコインを知ろうとしても、我々はコインのすべてを知ることはできない。表を見ているときに裏は見れない。じゃあ裏返せばいいじゃないか、と仰るかもしれないが、表と裏を同時に見ることはできない。
つまり、我々がある立場である限りは、何事も全容を知ることはできない。常にある一部分を切り取って感じている。
そういう意味で、我々は物事について正しく知ることはできない。しかしこれは悲観的な結論ではなく、スタートである。では、どうやってより真実に近いものを知るか…というテーマにすり変える必要がある。
2.人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
まず、この題はあることを前提としている。それは、必ず物事には真実と嘘があるということである。あるいは、正誤で判定できるもののみ扱うことを示唆している。
つまり、先ほどで言うところの真実により近づいた場合を正とし、より遠い場合を誤りとする。どの程度の乖離が許されるのかは問題に依存する。
例えば、誤りを抱く状況のわかりやすい例として詐欺がある。9人に明日の天気を予告し続ける。晴れ、曇り、雨を毎日予想し続ける。ただし、3人ずつにそれぞれ違う予想を伝える。翌日仮に晴れたとして、晴れの予想をした人それぞれに違う予想を伝える。すると、翌々日には1人だけ二日連続で正しい予想結果を送った人がでることになる。
二日天気を当てたくらいでは大したことはないが、これをもっと大規模に行えば、10日連続的中も必ず可能だ。
つまり、普段起こり得ないことを簡単に起こせる。そして、騙される側は10連続当てるなんてすごい、と信じるかもしれない。このとき間違いが起こる。
この間違いが起きた原因は、立場による違いである。騙す側にとっては当然でも、騙される側にとってはそうではない、つまり情報が欠如しているのだ。仮に情報が満ち足りているとき、正しく推論ができると仮定すれば、情報の欠如が間違いの一因だということがわかるだろう。
そして、テーマ1で情報をすべて知ることはできないということについて指摘した。つまり、情報の欠如は常々あり、我々は常に間違うリスクを背負っている。
3.ある考え方が正しいかどうか確かめる方法はあるか?
ある考え方が正しいという結論に辿り着くことは永遠にない。例えば数学の問題に関しては正しさが証明によって保証されていると思うかもしれない。だが、我々にとって正しく見えているだけで、正しいとは限らない。ただ、論理的な穴がいまのところ見つかっていないだけである。つまり、正しい可能性が高いことはあるが、完全に正しいと断定することはできない。
4.人間にとって不可知の領域はあるか、あるとしたらどんな形で存在するか?
不可知なことだらけだろう。1のテーマで語ったように、ある立場から見ているとき、もう片側を同時に見ることはできない。また、我々の認識外のもの、例えば幽霊などは不可知の領域と言えよう。だが、わからないのなら存在しないも同然なので、語るまでもないだろう。我々にとっても問題になるのは、我々が扱える問題だけである。
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