2014年2月6日木曜日

マイナスの個性


作曲家の佐村河内氏のニュースが世間に衝撃を与えている。
彼は完全に聴覚を失った全ろうの作曲家として活動していたが、ゴーストライターの存在が発覚した。

ゴーストライターは謝罪会見で、「佐村河内さんは耳が聞こえているようだ」と語り、聴衆にさらなる衝撃を与えた。それがもし本当なら、障害を利用して売名したとも言える。
しかしながら、「障害者手帳を見せられたこともある」と語ってもいるため、本当のところは佐村河内氏本人に確認しなければわからない。少なくとも、全ろうではなかった可能性はある。

佐村河内氏のCDは18万枚売れたそうだが、果たしてこれが普通に売り出しても同じようなことになったか。
きっと、メディアとともに、全ろうで被爆二世の悲劇の作曲家というストーリーを作り上げ、それが聴衆の心を打った部分も大きいのではないか。

ゴーストライターが発覚しただけならまだしも、全ろうまで嘘だったとなれば、追及は免れないだろう。

この一連のニュースを聞いていて思うのは、障害者についての扱いは、本当に難しいな、ということである。
これはアファーマティヴ・アクションと同じタイプの問題である。

例えばアメリカの入学テストでは、日本のような試験結果至上主義ではなく、生徒の背景を考慮に入れることがある。
この際に、裕福な家庭でいい成績を修めた者と貧困ながらに到達点には達した者、どちらを評価するかという問題が生じる。
純粋に試験の成績だけを評価するか、将来性も見込んで、逆境の中でおさめた成績を評価するか、というのが争点である。

今回の問題に置き換えれば、純粋に曲の良さを評価するか、背景事情も含めて曲の評価とするか、ということである。

あなたはどう考えるか。

私は、試験については元々ルールを定めて、通知しておけばどちらでもいいと思う。
学校のコンセプトは学校が決めてよいし、校風に沿った生徒をとるのは当然のことで、採点についてどちらの方式がとられたとしても生徒は文句を言う資格はない。
しかし、経営者の視点でみれば、教育における基準の是非を問う問題となり、慎重に考えなければならない。

だが、曲の評価については同じように考えるわけにはいかない。
なぜなら、曲の良し悪しは学校のように決められた立場の、限定された問題ではないからだ。
一視聴者としては、曲自体が評価されれば良いと考えるが、曲はそこに表現された思想も大切だから、歴史上や作曲家の背景を知ることもひとつの楽しみ方ではある。

全ろうを盾にとって評価されようという行為はとても問題であるし、障害者だから安易に評価するというのは障害者に対する逆差別だ、という意見もわかる。
だが、障害を抱えながらも頑張っている人がいる、という点については、それが一定の人に勇気や希望を与えるならば、それで構わないのかもしれない、とも思える。
しかしこの考え方をしてしまうと、今回のような嘘でさえも、希望を与えたのだから良い、ということになってしまう。
そこの線引きは、嘘は露呈すれば結果的に落胆を生むのでよくないが、頑張っている人について事実は変わらないのでよい、という風に決着をつけよう。

障害をもつということは、マイナスの個性と思われがちだが、この事件においては、逆手にとってプラスの個性として利用されてしまった。
恐らく個性などというのは、マイナスばかり目立つがプラスもある。
「短所は長所の裏返し」ってなものだ。
気をつけるべきは、それを悪意をもって利用しようとする存在についてである。

なにせ障害というのも、自己申告制である。
障害があるかのチェックは、耳なら聴力を測り、目なら視力を測る。
しかしながら、これらのチェックは、どの程度まで聞こえているか・見えているかは測れても、どの程度聞こえていないか・見えていないか、を測定することはできない。

なぜなら、聞こえてない・見えてないことに関しては完全に自己申告だからだ。
聞こえなかった、と言われてしまえば、周りもそれを検証する術をもたない。
本来、目や耳が不自由というのは、利点にはならないため、そういうシステムになっているのだろう。
しかし今回の件で、そういった個性にも逆手にとればプラスの面として利用できることが感じられた。
そういった悪意の付け入る隙を減らすのも、重要であると思う。

ちなみに私は、これに関する対策として、脳波で分析するようにすればいいと思っている。ただし脳波の計測機器はコストがかかるので、技術の問題以前に導入は難しいかもしれない。

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