2014年2月17日月曜日
他人のために生きること
人間はなんのために生きているか。
この問いに対する答えは決してひとつに定まることはないだろう。
生物学的解釈では子孫繁栄が生物の主目的とされているが、では子を産まない人は何を残すために生きるというのか。作品や文化的遺伝子(思想)なのかもしれない。
だがそもそも、何かを残すという行為に執着しない人もいるだろう。
なぜなら、自分のいなくなった世界は自分に関係ないので、そこに何かを残したところでわかりはしないし、意味もありはしない。なら、本当に大切なのは今を楽しむことだけだ、と考えることもありえる。
これはつまり、利他的と利己的、主義の違いである。
自分の望みが、人に尽くすことであるか、自分を満たすことかという違い。
根本的には自分の望みには違いないのだが、結果的に他人のためになるかどうかの違いである。
楽天イーグルスの優勝やフィギュアスケートの羽生選手の金メダルを見ていると、他人のために強くなることはあるのだなと思う。
その点では、利他主義は強い。
なにより、生物による進化上で淘汰されなかった利他主義は、おそらくパワーを秘めているんだろう。
自分が生きるということよりも、子を守ることを優先する考えが、結果的に最善の策になるのかもしれない。
もちろん、自分が生きて、また子を産めばいいという考えもあるが、それは状況次第ということになるだろうか。
ではなぜ利他主義が強いか。
それは「他人のためだから」である。これでは説明にならないか。
つまり、目的を乗り越えるためには当然苦しみが予想されるが、それを利己主義で乗りきろうとすると、結局自分の喜びと苦しみを天秤にかけることになり、苦しみのほうが大きくなると、心がくじけてしまう。しかも喜びというのは、大抵目標達成のあとに満たされるものだから、苦しみが先にきてしまって、喜びは後回しになるのである。この際に想像力を働かせて、「これを乗りきればきっといいことがある」と信じることができなければ、簡単に心は折れてしまうだろう。
その点利他主義は、他人が満足すれば自分が苦しんでも構わないので、そもそも自分の苦しみと喜びを天秤にかけるという構図は生まないのである。
ただ我々が利己主義を捨て去ることは難しい。
なぜなら、自分に余裕がない人間は利己主義に陥りがちである。
そして利己主義に陥ると、さらに努力が難しくなり、余裕がなくなるという悪循環を産む。
そこでこれを回避するために、教育や宗教の出番である。
他人のために何かをすることはいいことですよ、と教え込む。盲目的に。
「情けは人のためならず」などと。
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