2014年4月2日水曜日
死生を諦めた人(死すべきものとしての人間?)
最近、iPhoneの電子書籍ストアで面白そうな本を探してきて読むのが習慣になりつつある。
たまたま、般若心経の本をみつけたとき、そういえば高校時代には仏教を教わって般若心経を唱えていたにも関わらずまったく教えを知らない自分に気がついた。論語読みの論語知らずである。
手に取ってみたら、以外に私の過去の日記と一致する点があったので、ピックアップする。
この本の中で、死生を諦めることが、ある種の悟りであると書いてある。
本来人間は必ず死ぬべきものである。
物語のあらすじとして、不死を求める悪役の野望が正義の手により潰えるという形式は、一昔前の勧善懲悪におけるスタンダードと言ってもいい。
しかしよく考えてみると、なぜ不死、あるいは不老を求める者が悪として描かれるのか。
彼ら悪役が不死を得るためには、犠牲を強いられるものが多いためであろうか。
ならば、なぜ不老不死は手痛い犠牲を伴うものとして描かれるのか。
人間の目標、ひいては医療の究極目的は、不老不死ではないのか。
世の中から病気が無くなるとはそういうことだろう。
しかし、それが悪として描かれるのはなぜか。
それは恐らく、我々人間がどこかで、死は自然の法則であり、抗ってはいけないと思い込んでいるからだ。
いわゆる生命倫理である。
むやみに命を絶つのがいけないとか、そこまでは明確ではないとしても、不老不死はあまりよくないことだと考えられているのだろう。
つまり、人間は本来死ぬべきものである、ということだ。
大前提として、多くの人間は生きたい。
なぜなら、死ぬのはほっといても死ぬが、生きるのは難しいからである。
難しいから生きたいかというとそれは違うが、大抵価値あることは難しい。
なにより直感的に死ぬのは怖い。
怖いというのは、究極的な自己愛である。
自分を守りたいから、恐怖を感じ、危険を排除する。
しかし、虎穴に入らずんば虎児を得ずという言葉があるように、ときには危険を冒しても行動せねばならない。
こうしたとき、死生を諦めることができなければ、行動することはできない。
死生というのは大仰な言い方であるが、私利私欲を捨て、自己愛を捨て去る、そうしたときに初めて、苦しさに耐えて研鑽できるということであろう。
別にそれは結果としての生死そのものが生き様を決定づけると言っているわけではない。
大義のために死ねることは格好良いが、出来れば死なないに限る。
ただ、大義のために、命を投げ出す覚悟でありさえすればいいということだろう。
だが、このように、死を受け入れる悟りの解釈は勘違いを生む可能性がある。
それは、死を恐れないことだけが本当の悟りだと思ってしまうことである。
例えば、この世を嫌い、早く憂き世を離れたいと思っている者は、果たして健全かということである。
彼らは、生を諦め、死を受け入れる心をもっているが、死生を諦めたのではなく、死を望んでいるのである。
自分から死を望むことが幸せではないことはおおよそわかると思うし、死を受け入れることを理由に、生を諦めればよいということではない。
憂き世を離れたい想いは、ただ逃げだしたいだけであって、死生にこだわりなく生をこなすこととはまったくもって別物であろう。
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