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2014年8月25日月曜日

イメージ・トレーニング


スポーツなどの世界では、練習としてイメージ・トレーニングがよくおこなわれているようだが、本当に効果があるのだろうか。

イメージと言っても、具体的には、ゲームの流れや成功する自分を想像するという。

別に想像するだけなら誰でも出来るし、そう難しいことではないように思える。
にも関わらず、それだけで効果が上がるなら素晴らしい。

しかしイメージ・トレーニングでさえも、うまくやれなければ効果を得ることはできないようだ。
手軽にできて成功できる、なんて魔法とはちょっと違うようだ。

すでに、どこかの記事で述べたが、人間は「水槽の脳」である。
我々が生きている世界は、擬似感覚かもしれず、あるいは夢かもしれない。

寝ているとき、無意識に見られる夢を、意識的に見られない理由はどこにもないと思わないか。

実際、妄想という言葉があるように、人間は夢を自発的に見ることができる。
この能力を、想像力という。

あるとき私は、目の見えないピアニストが、なぜピアノを弾けるのか不思議に思った。

でもよくよく考えてみると、別に難しいことではないのかもしれない。
現に私も、世の中の現代人の大半も、キーボードを見ずに文字を打つタッチタイピングをおこなうことができる。
同レベルで語るのは失礼かもしれないが、手元を見ずに特定のキーを打つという点で、何も違いはない。

これを世間では「身体で覚える」と呼ぶが、正確には夢を見る能力だと思う。
つまり、目で見えてない部分も、自分の頭の中には存在している点で夢や幻覚と似ている。

別に誰も、目を開じて視界が真っ暗になったからといって、世界が消えてしまったとは思わないだろう。
いきなり停電がきても、慣れ親しんだ建物なら出口に辿り着けるだろう。

それは、過去の記憶を引き出して、現在の世界に重ねているからに過ぎない。
停電の例に限らず、普段目にしている世界もすべて、目から入った光を脳で情報処理するまでの時間を通して見ているから、過去である。
それを元に動作を行うのだから、双方の実例になんら違いはない。
ただ、記憶の新旧の違いでしかない。

つまり、我々はそもそも記憶の中に生きているのに、そうではないと勘違いしている。
だから、記憶よりもなるべく目の前の情報に頼ろうとする。特に一刻一秒を争うスポーツにおいては。

それによって、即時に対応する意識が強くなりすぎて、結果的に記憶を保持する能力が落ちる。
だから、意識的に記憶を保つ練習をする。

これがイメージ・トレーニングの正体だろう。

別に魔法の言葉でもなんでもないし、スポーツに限らず様々なジャンルで役立つ方法と言えそうだ。

だから、成功をイメージするのは実はそんなに重要ではないと私は思う。
ただ、イメージするのは実は結構な労力だから、どうせなら楽しい内容でやったほうが意欲が沸くというだけのことではないか。


2014年4月2日水曜日

死生を諦めた人(死すべきものとしての人間?)


最近、iPhoneの電子書籍ストアで面白そうな本を探してきて読むのが習慣になりつつある。
たまたま、般若心経の本をみつけたとき、そういえば高校時代には仏教を教わって般若心経を唱えていたにも関わらずまったく教えを知らない自分に気がついた。論語読みの論語知らずである。
手に取ってみたら、以外に私の過去の日記と一致する点があったので、ピックアップする。

この本の中で、死生を諦めることが、ある種の悟りであると書いてある。

本来人間は必ず死ぬべきものである。
物語のあらすじとして、不死を求める悪役の野望が正義の手により潰えるという形式は、一昔前の勧善懲悪におけるスタンダードと言ってもいい。

しかしよく考えてみると、なぜ不死、あるいは不老を求める者が悪として描かれるのか。
彼ら悪役が不死を得るためには、犠牲を強いられるものが多いためであろうか。
ならば、なぜ不老不死は手痛い犠牲を伴うものとして描かれるのか。

人間の目標、ひいては医療の究極目的は、不老不死ではないのか。
世の中から病気が無くなるとはそういうことだろう。
しかし、それが悪として描かれるのはなぜか。

それは恐らく、我々人間がどこかで、死は自然の法則であり、抗ってはいけないと思い込んでいるからだ。
いわゆる生命倫理である。
むやみに命を絶つのがいけないとか、そこまでは明確ではないとしても、不老不死はあまりよくないことだと考えられているのだろう。

つまり、人間は本来死ぬべきものである、ということだ。

大前提として、多くの人間は生きたい。
なぜなら、死ぬのはほっといても死ぬが、生きるのは難しいからである。
難しいから生きたいかというとそれは違うが、大抵価値あることは難しい。

なにより直感的に死ぬのは怖い。
怖いというのは、究極的な自己愛である。
自分を守りたいから、恐怖を感じ、危険を排除する。

しかし、虎穴に入らずんば虎児を得ずという言葉があるように、ときには危険を冒しても行動せねばならない。

こうしたとき、死生を諦めることができなければ、行動することはできない。

死生というのは大仰な言い方であるが、私利私欲を捨て、自己愛を捨て去る、そうしたときに初めて、苦しさに耐えて研鑽できるということであろう。

別にそれは結果としての生死そのものが生き様を決定づけると言っているわけではない。
大義のために死ねることは格好良いが、出来れば死なないに限る。
ただ、大義のために、命を投げ出す覚悟でありさえすればいいということだろう。

だが、このように、死を受け入れる悟りの解釈は勘違いを生む可能性がある。
それは、死を恐れないことだけが本当の悟りだと思ってしまうことである。

例えば、この世を嫌い、早く憂き世を離れたいと思っている者は、果たして健全かということである。
彼らは、生を諦め、死を受け入れる心をもっているが、死生を諦めたのではなく、死を望んでいるのである。
自分から死を望むことが幸せではないことはおおよそわかると思うし、死を受け入れることを理由に、生を諦めればよいということではない。

憂き世を離れたい想いは、ただ逃げだしたいだけであって、死生にこだわりなく生をこなすこととはまったくもって別物であろう。

2014年1月2日木曜日

認識論


認識論は哲学の一ジャンルで、

1.人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
2.人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
3.ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
4.人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。

wikipediaによれば、上記のような項目を探求するジャンルらしい。

私はこれらのテーマに関して予備知識をまったくもっていない。
だが、だからこそ既成概念を無視して柔軟な発想ができることもあると信じている。
それぞれのテーマについて書き記してゆく。


1. 人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。

 そもそも問題を問い直す形になってしまうが、我々は物事を正しく知る方法について語る前に、物事を正しく知ることはできないことを知っておくべきだ。そのために有名な例を挙げよう。

 昔、ソクラテスという学者がいた。彼は賢人と呼ばれていたが、それはただ賢く、知識が豊富だったからではない。彼は自分がすべて知っているわけではないことを知っていたからである。これを「無知の知」という。
 この話ではつまり、物事を知り尽くすことは絶対にできない、という教訓が語られている。似たような例をもうひとつ挙げよう。

 プラトンという学者は、イデア(概念)について語る上で、我々は物事について、まるで洞窟の壁に写った影を見ているようなものだ、と例えた。
 この話では、我々が見ているものはすべて本質ではなく、ある物の一部分でしかないと解釈できるだろう。

 上に挙げた例のように、我々は何かについてすべてを知ることはできない。例えばコインを知ろうとしても、我々はコインのすべてを知ることはできない。表を見ているときに裏は見れない。じゃあ裏返せばいいじゃないか、と仰るかもしれないが、表と裏を同時に見ることはできない。

 つまり、我々がある立場である限りは、何事も全容を知ることはできない。常にある一部分を切り取って感じている。

 そういう意味で、我々は物事について正しく知ることはできない。しかしこれは悲観的な結論ではなく、スタートである。では、どうやってより真実に近いものを知るか…というテーマにすり変える必要がある。

2.人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。

 まず、この題はあることを前提としている。それは、必ず物事には真実と嘘があるということである。あるいは、正誤で判定できるもののみ扱うことを示唆している。

 つまり、先ほどで言うところの真実により近づいた場合を正とし、より遠い場合を誤りとする。どの程度の乖離が許されるのかは問題に依存する。

 例えば、誤りを抱く状況のわかりやすい例として詐欺がある。9人に明日の天気を予告し続ける。晴れ、曇り、雨を毎日予想し続ける。ただし、3人ずつにそれぞれ違う予想を伝える。翌日仮に晴れたとして、晴れの予想をした人それぞれに違う予想を伝える。すると、翌々日には1人だけ二日連続で正しい予想結果を送った人がでることになる。
 二日天気を当てたくらいでは大したことはないが、これをもっと大規模に行えば、10日連続的中も必ず可能だ。
 つまり、普段起こり得ないことを簡単に起こせる。そして、騙される側は10連続当てるなんてすごい、と信じるかもしれない。このとき間違いが起こる。
 この間違いが起きた原因は、立場による違いである。騙す側にとっては当然でも、騙される側にとってはそうではない、つまり情報が欠如しているのだ。仮に情報が満ち足りているとき、正しく推論ができると仮定すれば、情報の欠如が間違いの一因だということがわかるだろう。

 そして、テーマ1で情報をすべて知ることはできないということについて指摘した。つまり、情報の欠如は常々あり、我々は常に間違うリスクを背負っている。


3.ある考え方が正しいかどうか確かめる方法はあるか?

 ある考え方が正しいという結論に辿り着くことは永遠にない。例えば数学の問題に関しては正しさが証明によって保証されていると思うかもしれない。だが、我々にとって正しく見えているだけで、正しいとは限らない。ただ、論理的な穴がいまのところ見つかっていないだけである。つまり、正しい可能性が高いことはあるが、完全に正しいと断定することはできない。


4.人間にとって不可知の領域はあるか、あるとしたらどんな形で存在するか?

 不可知なことだらけだろう。1のテーマで語ったように、ある立場から見ているとき、もう片側を同時に見ることはできない。また、我々の認識外のもの、例えば幽霊などは不可知の領域と言えよう。だが、わからないのなら存在しないも同然なので、語るまでもないだろう。我々にとっても問題になるのは、我々が扱える問題だけである。

2013年12月21日土曜日

馬鹿にすること


誰かを馬鹿にすることは、無意味だと思う。

何かを見下してものを言うことは、ネット上では大変流行っている。
twitterでは馬鹿を叩き、2ちゃんねるでも「おまえら」なる架空の集団を叩く。
芸能人が不祥事を起こせば、炎上される。

何をそんなに叩きたいのか、と思う。

たしかに悪は是正されるべきだと思う。
何か悪いことをしたら正すのは当然であって、それが未来を見据えた訓示であるなら、なんら問題ない。

だが、今世の中(主にネット社会になるが)に蔓延している叩く雰囲気は、何も発展性がなく、ただ他人を馬鹿にしているような部分も見受けられる。

誰かを馬鹿にして時間を潰すことは、なにも意味を成さない。
相手は自分に対して何も得をもたらさない。
そこにあるのは、他社を見下して自分を偉く感じるという錯覚による優越感ならびに快感だけである。

認められたい気持ちは誰しももっていると思うが、他人を叩くことで認められることはない。

何よりも、苛烈に他人を批判することは恐ろしいと思う。

自分の間違いの可能性を一分一厘も考慮にいれず、相手に食ってかかっていけるというのは思慮が足りないのをひけらかしているようなものだ。
やはりどこかで自分のことも疑うようでなければ、人は成長していけまい。

なにより、他人を馬鹿にするのは危ない。

馬鹿にされるような人間というのは、この世の大抵のことがどうでもよかったりするので、そういう人間が自棄になってしまったとき、果たして自分の優越感を守りに入っている人間が勝てるかということである。

自棄になった人間が怖いのは、宗教に地獄があることを見ればお分かりだろう。
地獄というのは世捨て人が自暴自棄になるのを防ぐために賢人が考えた世界観である。

馬鹿にされるような人間をつつくのは、爆弾をつつくようなものだ。
優越感程度の幻に浸るべく手をだすには、危なすぎる代物だ。

何より、馬鹿にする側の人間は、自分の弱さを知るべきである。
他人を馬鹿にしないと自尊心を保てないのは自我がない証拠であって、弱みでしかない。
自分の価値の保証を自分が馬鹿にするものに求めるというのは何かおかしな話である。

馬鹿にする行為が溢れる世の中は、爆弾だらけで恐ろしい。

2013年12月17日火曜日

真面目に言えてニ流、ジョークが言えて一流


何かを言う時、正論を言ってはいけない。
なぜか。

正論は、返す言葉をなくすからだ。

正しいことは基本的に、話す内容として不適切である。
なぜならそんなこと皆わかっていることが多い。

それなら間違ったことを言えるくらいのほうがいい。
いわばボケだ。

もちろん、正しい事を把握できる能力は評価しなければならないが、それをそのまま言う事はナンセンス。
あえて裏返して見せるほうがいい。

そこでジョークが評価されることになる。

なぜならジョークは、ひとつのストーリーがあり、かつ可笑しい。
さらに話は膨らむし、政治や職業に関する常識を知っていてこそ面白みがわかる。

自分がもつ知識、その正しさを主張する上で、相手を困らせない。
なおかつ、それが通じる相手は、自分に見合う相手であると見抜けるわけだ。

そういう意味で、ジョークは試金石である。

ジョークのようにストーリー性を含む必要性はない。
面白い要素があって、かつ事実や意味ある内容を含んでいればいい。

真面目なことを真面目に語るのは、ニ流のやる事。

では私がなぜ真面目に語ることの愚を真面目に語っているか。
それは、別にこれを見ている人はストレートな内容を求めているからだ。

冗談は、理解できない人を本来の意図から遠ざけてしまう。
だから、相手を見る必要はあるだろう。

2013年12月12日木曜日

安定性のない人間は成功しない


私たちは外界を見る時、それらを認知します。

目の前にあるりんごを見ます。
そしてその存在を認める。

存在を認め、食べようと思った時、手を伸ばします。
りんごの感触をたしかめ、かじると味がしますね。
ああ、りんご美味しいな、と思う。
このとき、私の中でりんごは存在している。

では、スイカ割りの話をしましょう。

スイカを砂浜に置きます。
棒をもって、スイカから離れます。
目隠しをされます。

さあ、スイカを探せますか。
位置は大体わかりそうですね。

つまり、あなたはスイカからどれくらい離れたか逆算して、スイカがある位置をおおまかに把握しています。

スイカがあるであろう地点までいってみて、試しに棒を振ります。
あれ、スイカが割れた感触がない。

スイカとの距離感が、掴めてなかったようですね。
棒を振っても感触がなかったから、スイカがなかったとわかりました。

きっと少し位置を間違えたのかもしれない。
少し右、少し左にも棒を振り下ろしてみますが、手応えがありません。
おかしいな、たしかにここらへんだったはずなのに…。

わからないよ、と言って目隠しをはずします。
すると、にやにやしながら友達がスイカをもっていました。

なーんだ、もってるんじゃあ、あたりっこないじゃんか。


りんごとスイカの例を比較して違うのは、りんごの場合は自分が思うようにすべての事が運んだという事で、スイカの場合は目隠しによって状況がまったくわからなかったうえに、友人のいじわるという、予想が難しい事態が起こったということです。

りんごの場合ではただりんごを見てとっただけですが、スイカの場合は自分がスイカの位置を予想していましたね。実はそれが大事なのですね。

存在論の記事も話したように、人間は外界を見て、その状態を頭の中に入れます。
なのでりんごの場合も、いったんりんごの場所を頭に入れていて、手を伸ばしています。

こういった想像力は、理解力に直結しています。

何故かというと、理解とは、外的世界の状態を自分なりに解釈することだからです。
そしてもし現実と食い違った時、答え合わせをして解釈通りにいかなかった理由を考えます。

安定性が重要になるのはその理由を考える時です。
さっき、スイカの例で、友人のいたずらのせいでスイカが割れなかったのは、「友人のいたずら」という要素が普段とかけ離れていたからです。
もし友人がよくいじわるをする人なら気付いたかもしれません。

このように、普段起こらないことが混じると、途端に判定が難しくなるのはわかると思います。
表現を変えると、生活が安定していれば、なにかが起こった時に原因が見抜きやすくなるのですね。

だから、いつもと同じように過ごすと、自分の体調や、周りの様子に対して敏感になれるわけです。

2013年11月11日月曜日

哲学は役に立つのか


以前、『哲学は人生の役に立つのか?』とかいうタイトルの本を見かけた。

著者は哲学者で、自叙伝的な内容だったので、タイトル詐欺のような印象を受けた。
とりあえずわかったのは、哲学者は原文で読むことを大事にするということだけ。

他にも、哲学科を出たために就職が危ぶまれる学生が新聞の投書欄でお悩み相談してるのも見かけたことがある。

それだけ哲学の価値について、世間の評価が低いと、哲学者自身が強く感じているのかもしれない。

僕自身も、大学の教養で学んだ哲学は正直面白くなかった。
存在とはなにか、人間とはなにか、~であるとはなにか、などなど。
それから、イデア論とか、そういうの。

はっきり言って哲学と名のついてるものは役に立たないと思う。
少なくとも僕には役立てられない。

純粋理性批判だの、形而上学だのというやつは謎だし、わからない。
わからないものを役立たないと批判するのは愚かしいが、時間を費やす前に価値を判断したいのは人間が常に抱える問題だ。

哲学はすべての勉強の素だと言うけれど、役立つものはそれぞれ数学や、物理、社会学など一ジャンルを築く形で巣立っている。

つまり、未だに哲学と崇められてるものは、残りかすのようなものだ。

ああいうのは、貴族やらが暇を持て余してやっていた試みがたまたま実利を獲得しただけで、はじまりは日々の生活からかけ離れたものだ。
そんな歴史も鑑みずに、哲学じゃ食っていけない、なんて言うようでは、逆に哲学してないんじゃないか。

哲学者は霞食って生きてるんだ。きっとね。

2013年10月22日火曜日

結果論ってなんだよ


「それって結果論だよね」

こんな台詞を聞いたことがある。
何か問題が起こったとき、責任者に厳しい批判を浴びせる人は必ずいる。
そんな人を諫める意味で発される言葉が「結果論」だ。

でも実は僕、結果論の意味をよくわかっていないが、印象だけで善悪判断をするならそれは悪だと思う。
深く立ち入らずに流してしまうのも気味が悪いので、例を挙げて考えてみたい。

例えば、伊豆大島で避難勧告のやり方が杜撰だった事例がある。
避難勧告をちゃんとしなかった結果、土砂崩れで犠牲者が出た。

この事例では、避難勧告をもっとちゃんとしていれば被害者は少なかったはずだ、という批判が出て当然だと思う。

なので僕はそれを結果論だとは思わない。
犠牲になる人数は結果的に減らせたかもしれないならば、最大限の努力は尽くすべきだと思う。

この場合は明らかに、やらないよりはやったほうがいい策があったうえで、ベストを尽くさなかったのが問題なのだから、責任は追及されるべきだし、それを結果論とは言わない。


では別の事例で、ふたつにひとつ、プロジェクトをうまく運ぶうえでとるべき戦略の選択に迫られて、しかも選択肢両方共大して見通しが立たない。こんな場合はどうか。

結果的にプロジェクトリーダーが失敗して、批判に晒されるのは、役職をもつ人間の責任を考えれば当然かもしれない。
しかしこの場合、批判する側も勝馬にのっただけで、実際なんでダメだったのかはわかってない。

あとあとで、あれがダメだった、これがダメだったと原因追及をしてみても、それはすべて、失敗したうえでの結論なので、事前に判断するのとは状況が違う。
結果が出ているという意味で絶対の後ろ盾があるので、批判としてはアンフェアだと思う。

しかしである。
後々から批判を加えること自体は決して悪いことではないと考える。

なぜなら世の中のことはすべて結果論から導かれてきたのだから。
失敗してみて、ああダメだった、次はこうしよう、という思考は当前で、それをやめてしまうのは、改善の糸口を自ら手放すに等しい。

本質的な問題は、すでに起こってしまったことに対して、批判することだけに囚われて前向きな結論を導き出せないことである。

最近の報道を見ていると、こんなことが起こった→○○が悪い!までの流れはあるが、だからどうしようか…ってところの話し合いがすっぽ抜けている。
専門家は考えているのかもしれないが、一般の人々はその点に無関心だ。

これが「結果論」という響きが悪印象を帯びる主要因である。。

だから、結果論の一言で原因追及までをやめてしまう必要はない。
ただ批判に傾倒する姿勢を、前向きな力を得ることに切り替えることが大切なのだ。


・他の事例
ノーベル賞のような世界的な賞に関わる研究でも、「結果論」は生まれる。
有名なので御存知かもしれないが、ロボトミー手術なんかまさにそうだ。

ロボトミー手術は、1949年にノーベル生理学・医学賞を受賞した研究である。
その内容は、精神疾患を抱えて気性の荒くなった患者を穏やかにするために、前頭葉の一部を切除するというものである。
手術は一定の効果があり、実際に患者は穏やかになった。
そしてこの術式はノーベル賞を受賞するまでに至ったのだが、後々恐ろしい事実が判明する。
この手術を受けた患者の一部が、無気力やてんかんなど、様々な副作用に見舞われたのである。
投薬など他の医療法が確立され、一定の効果をあげてきた背景もあり、最終的に医学界ではロボトミー手術は禁忌とされることになる。

ここで単純に「ロボトミーを考えた医者は悪い」と断ずるのはまさに「結果論」である。
たとえ猿で検証したとしても、精神的な副作用については見抜きにくかったかもしれない。
結局人間で試さない限りは、効果はわからないのだ。

悲しいのは、彼らがあくまで善意によっておこなった結果が悲劇を生んでしまったことだ。
だから、この問題によって明らかに言えるのは、誰が悪いということではなく、医学的な判断は慎重に慎重を重ねて判断する必要があるという教訓である。


・おまけ
通常、「批判的」であることと「否定的」であることは区別されない。
ネガティブな印象だ。
だが、哲学でいう批判は疑いをもって情報を鵜呑みにしないことであって、決して世に言われるバッシングの意味合いではない。
その姿勢が大切だ。

2013年4月1日月曜日

非難と否定、批評と批判


ポジティブとネガティブってありますね。

例えば同じ事例「ミスをしてしまったこと」に対して、「一度ミスしたから次はミスしないで済む」というのがポジティブ、「一度ミスしたんだから次もまたミスするに違いない」というのがネガティブ。

どちらが次に繋がりやすい考えかは一目瞭然かと思います。

自分の中で何かを解釈するときは、ポジティブもネガティブも気にする必要は薄いかもしれません。
しかし、人の行いに対して意見を述べるとき、その内容は絶対的にポジティブでなければなりません。

例えば人がミスをしたとき、「お前は~な性格だからそうなるんだ」というような人格否定や、「お前は馬鹿だな」というような意見はよくありません。

何故なら、次に繋がらないからです。
上記の例は単なる否定であって、次を感じさせる要素がまったくないのです。

だからせめて、「もっとこうしたほうがいい」とか「こうしたからミスしたんだ」というように、相手のためになる批評をしていかなければ、建設的な意見交換は望めません。

単なる否定というのは、自分の自信のなさから湧き出るもので、他人を下げることで自分を大きくしようとすることなのです。
しかしそういう発想は他人を傷つけるばかりでなく、自分を発展性のない、つまらない人にしてしまいます。

また他人の否定はその人に対する拒否でもありますから、関係性を拒んでいるも同然なのです。
友達ができにくくて悩んでいる方がいたら、まず未来性のない否定をやめてみるといいかもしれませんね。

2013年3月25日月曜日

処女信仰


ネット上の某掲示板のまとめブログをみていると、定期的に処女信仰に関する話題が挙がる。
そしてコメント欄は大荒れする。

誰でも参加できる話題だけに関心も高いということだろうか。

処女信仰とは、誰にも身体を許してこなかった女性を好む考え方のことだ。
某掲示板ではそういった信仰を揶揄する意味で、信者に「処女厨」なんて蔑称がつけられている。

そして、処女厨vsその他という構図で、大論争が巻き起こる。
処女厨の主な言い分はこうだ。

①「人が汚したものなんて触りたくない」
②「性交渉は結婚してからすべき」
③「別れるような男に身体を許すなんてありえない」

それぞれ考察しよう。

①「人が汚したものなんて触りたくない」
この意見は分かる気がする。
他人がベタベタ触った人と密接に触れあうのは少し抵抗がある。
これは潔癖症みたいなものだから、好みとしては仕方のないことだと思う。
事実そういった経験が多いほど、疾病のリスクは高いと思われるので、ただの神経質と切り捨てることもできない。

心情の問題としては、好きな相手が自分だけのものであってほしいという独占欲の現れとも言えるだろう。
ただそれが、今現在だけでなく過去にまで及ぶという意味で強烈な束縛である。

女性側からすれば、男性が女性をモノとして見ているようで嫌かもしれない。
それこそアクセサリー感覚で扱っていると考える人もあるだろう。


②「性交渉は結婚してからすべき」
これに関しては、悩むべきところだ。
今時は婚前交渉が普通になっているし、嫁入り前の娘がどうの…ということもない。
これは避妊が確実性を増してきたからこそ、性交渉の重みがなくなってきたとも言えるだろう。
そのリスクを重くみるか軽くみるかの価値観の相違が問題となる。

大半の男性にとっては、他の男性の子供を養わされるのはもってのほかである。
浮気なんてありえないし、過去の男性遍歴も気になるのは当然だ。

ただ、婚前に互いをよく知らなければ長続きしないとも言えるだろう。
離婚原因の大きな要因として数えられる問題だけに、事前に見定めようとする考えは理解できる。


③「別れるような男に身体を許すなんてありえない」
これに関しては、完全に結果論だろう。
結婚したって別れることはあるし、誰しも間違いはある。
現状をみるに女性にはもう少し慎重さがあってもいいように思えるが、やはりどうなるかはわからないものだ。


そしてこれらの意見に対して、色々な反論が飛び交うのだが…。
大抵の場合、「中古(処女でない女性を指して)が必死だ」とか「童貞が何言ってるの」と言った架空の個人に対する誹謗中傷が繰り広げられ、両者は疲弊し、いつしか争いは自然消滅していく。

なぜこうも争いが激化するのか?
それは、この争いが単なる「処女信仰」を守るための戦いではないからだ。

この争いの根底には、人を見下す精神のぶつけ合いと、それに伴う自己の価値創出がある。

つまり、処女厨は処女の価値を認めているのではなく、処女ではない人の価値を否定することで、教義を守る自分を肯定し、そこに価値を見出している。
そして反対勢力も同時に、夢見がちな理想を否定して見せることによって、「現実を知る経験豊富で大人な自分」を演出する。
相互に批判し合うことで、自らの価値を高めようとしている。

そうした行為は、「自分への自信のなさ」あるいは「承認欲求」の裏返しである。

自分への自信を付けたい気持ちは理解できるが、人を貶して得られる自信なんてものはない。
ほんとに余裕があるなら、黙って好みの女性にアプローチすればいい。
何より、終わってしまったことに関してとやかく言ってもしかたがない。
正直な心情を吐露するのは仕方ないとしても、あえてキツい言い方で安易に他人を傷つける必要はない。

互いに無視をできないインターネット社会が生み出した禍根だと言える。


このテーマは関心を抱く人が多いようだ。
ネット上の争いとは別の切り口で追記をしておく。完全に私見だ。

私が思うに、恐らく処女に関する悩みは二種類あるに違いない。
それは、「処女は重くないか、かっこ悪いのではないか」というものと、「処女とは価値あるものなのか」ということ。

これらは字面上違った悩みのようにも思えるが、その根っこにあるものは同じである。
つまり処女性はプラスなのか、マイナスなのかということ。

私個人は、「年齢による」と思う。

例えば、若いうち、責任ももてない高校生が惚れた腫れたの流れに任せて、というのは聞いていて情けない。
人間の成長速度なんてそれぞれだし、決して身分や学年だけが個人性を決定するわけではないが、有事の際にどうすることも出来ない身分で責任を伴う行為に及ぶのは好ましくない。

逆にある程度の年を重ねて経験がないとなると、これは逆に何か妙だ、と勘ぐってしまうことはあるようだ。

だからといって焦る必要はないとは思う。
それらはあくまで一つの要素なのであって、すべてではない。

本当は、その人の今を見つめるのが一番だ。
人間関係は過去ではなく、現在のインタラクティブにある。

ただ、男の本音としては、他の男性と関係のあった女性を大切にする気持ちは、ほんの少しだけ薄れるのかもしれない。

同じ条件で、処女とそうでない人どちらがいいか、と問われたら、間違いなく私は処女を選ぶだろう。
そして大半の男性も同じだ。

しかし、人間なんて様々な要素で形作られていて、誰一人同じ人間などいない。
だから先ほどの問いは、前提からして破綻している。

処女性だけを切り取ることはできないし、そうではない人だけが得る価値もきっとあるはずだ。

すべては夢見がちな男共の夢想に過ぎない。
そんなものは蹴っ飛ばして進んでしまうのが健全だ。


[20131020追記]
何故、処女信仰が存在するか?

恐らく男性にとっては、本能的に他の男性よりも先であることが大事で、それは昔、子供を授かったときに誰の子供か判断する術がなかったからに違いない。

相手が処女であれば、生まれてくるのは自分の子供だという保証が得られることが、処女信仰の第一義だとされる。

これは一見まともな論理に聞こえるが、よくよく考えるとおかしい。
女性が子供を産むまでの時間は十月十日と言われるくらい精確なわけだから、それさえ考慮に入れれば自分の子供かどうかくらいわかる。

つまりリスクを避けるためには、相手が最後にいつ交渉したかさえ知っていればいいわけで、過去すべてにおける遍歴をチェックする必要はない。

それに、処女性や男性遍歴の申告は大抵の場合、女性の自己申告である。
つまり、求めたところで真実は闇の中だ。
だから、拘ったところで無意味である。

そこが、処女信仰が信仰を脱しきれない由縁であるかもしれない。


じゃあ処女信仰が一部の男性に支持される理由ってなんだろう、という話に移ろう。

女性を物扱いするようで申し訳ないが、つまるところ「お下がり」のような感覚なんだろう。
新しいものがいい、という無根拠な価値感を土台として、それを欲しがる。

もっと言うなら、自分は新しいもの(=いいもの)を与えてもらえるだけの人間だ、とどこかで信じている。

これはとても夢想的だ。

幼い頃に、どんな夢をもっていたか。
振り返ってみると、サッカー選手やプロ野球選手、女性なら花屋やケーキ屋などが上位を占めるだろう。
今はそんな夢、見れない。
大半の人間は、そういうものを捨てて、軌道修正して大人になってゆく。

それは、「分を知る」からである。
自分が与えられたものはどの程度か、外界と対話しながら探ってゆく。

だから、大人になってまで女性に処女性を求める男性は、自分に見合ってない望みをもっている夢想家のように思える。

処女厨とかいって否定されるのはそういう部分かもしれない。

処女がいいよね、というなら、それはかまわないことだと思うし、他人に否定されるいわれは無いかもしれない。
だが他人から見ると、現実を見ろと滑稽さを感じるのかもしれない。


よく言われるのが、処女というのは要素だから、要は中身なんか見てなくて、その事実だけあればいいんじゃないか、という話だが、処女も立派な中身の評価だと私は思う。

少なくともお金持ちだから凄い人、なんて価値感よりは人の評価としてよほど妥当なんじゃないか。
だから良いとか悪いというつもりはないが、判断基準として使われること自体には疑問は無い。

実際、恋愛遍歴やそういう部分での感覚というのは、生活面でも大きく関わってくると思う。

だから、処女を求めるやつは中身なんか見てない!ってのは間違いで、そういうことを言う人は少々的外れなことを言っているように思える。

ただ、処女は未来で変貌するかもしれないが、お金は貨幣価値が変わらない限り使えるという意味では、未来志向の判断基準としてお金のほうが有効かもしれない。

2013年2月25日月曜日

メタ思考


作品を楽しむとき、メタ的な発言をする人がある。
例えばドラマや映画をみて、「この役者の演技はいい」だのと批評家めいたことを言う。

私もそうだったが、これはあまり良くないことだと気付いた。

作品に対して文句を付けたりすることは、あたかも物事の良し悪しがわかっているようで格好いいと思いがちだが、そうではないかもしれない。

メタ発言は、裏を返せば作品に集中出来ていないからこそ生まれる発言だ。
つまりは、想像力の欠如だと思う。

もちろん、想像力の励起され具合は作品の質によるところも大きいが、受け手がどれだけの集中力をもって作品に付き合えるかも大事なことだ。

オタクとにわかオタクをわけるのはそのあたりな気がする。

作品を通じて共通の話題を獲得するのがにわかオタク。
作品そのものに楽しみを見出すのがオタク。
そんな感じ。

逆に言えば、オタクは作品を楽しむ過程で楽しみが終わってるから、他人と話し合うには向かない。
でも自分だけで満足できるから幸せだと思う。


[20140215追記]

メタとは、「高次の」という意味で、メタ思考とは外側から覗くことである。

例えば、ある将棋のルール通りにゲームしていて、ふと「なぜこんなルールなのだろう?」と考え込むことである。

大前提として、ある法則や秩序の中に身をおいていて、それを外側から眺めてみる、そんなイメージだ。

もうひとつ例をあげるなら、誰も不思議に思わない重力の存在に、ある日突然疑問を抱いたニューロンの思考がまさにそれである。
りんごが地に落ちるという当たり前の現象を、「なぜ落ちるのか?」と一歩引いて考えたのである。
これがメタ思考だ。

これは問題発見力である。
皆が気付かない当たり前のことに気付けるというのは、重要な価値をもっている。

問題をだされたときに、「それってそもそも~」とちゃぶ台返しをするのもこれに等しい。

問題になるのは、いつもこれを発揮すればいいわけじゃないというところ。
アニメや映画を観ていて、これはここがおかしいとか、いちいち言い出したらキリがないし、楽しめない。
ゲームでルールを守らなかったらまずいし、それは社会でも同じ。

たしかに疑っていく姿勢は大切なのだが、これはある意味で学者的・批評家的職業に求められる資質であって、それに対する好みは分かれると思う。

いつも批評している人の隣でドラマを観ても楽しくないことはなんとなく想像できるだろう。

メタ思考の能力は大事だ。
しかし、使いどころが大切ということはすべてにおいて言えることである。

[2014/10/21]

メタ思考とは、前提を疑う力である。

物事を考えるとき、我々は視野狭窄に陥りがちである。

すべてを当然と信じている。

もちろん、前提を信じる力は大切だ。

何事も、前提を置かなければ前に進められない。

だがその一方で、前提を疑う力も重要である。

両方が合わさって初めて、メタ思考の威力が発揮される。

2013年2月3日日曜日

覚悟


20を過ぎたあたりから、自分の不器用さや不出来に嫌気がさしてきた。

頭が良くて身体が弱い、知恵はないが健康、何かひとつでも取り柄があれば、世の中わたっていける勇気も沸くものだが、あいにく私には健康も知恵もありはしなかった。

知恵の不足に関しては不勉強のせいもあったが、勉強に励んだからといって、高校生当時の私が残す成績なんてたかが知れていたことは今考えてみてもよくわかる。
現に大学での勉強の成績はよくないからである。

そうとなれば将来働くなんて選択肢を前向きに検討できるわけもなく、ただ流れに乗って大学院進学を決めたわけであるが、私にとってのそれは単なるモラトリアムの意味合いすらもたない。何故なら、モラトリアムというのは大人になる前の猶予期間のことであって、本来大人になれる力をもつものがあえて大人にならない選択を指すのであり、私の場合は大人になる力すらももたないのだから、これはもはや猶予というよりも、延命措置だと考えたほうがよい。

実際問題、私は自分の死に場所を求めている。
今すぐにでも、車にはねられてしまえば楽になれると思っている。

とはいいつつも、自ら命を絶つほどに思いつめてはいないのだが、将来を考えると、死以外に前向きな選択肢など存在しないような気がしてくる。

昔から「働かざる者食うべからず」というように、働く能力がなければ食えない、食えなければいずれは死ぬわけだから、「働かずんば死を与えよ」と言っても大差ない。
もちろんのこと今から働けないと決めつけていることがすでに問題なのだが、個人的には働いて一所懸命生きていくことが仮に素敵だったとしても、その生き様を人様に評価されるために生きているわけでもないので、泥を舐めるような人生を送るくらいなら、いっそここで楽に死んでしまえればどんなにありがたいかと思っている次第である。

仮に私のようなろくでなしを助けてくれる優しい人がいたとしても、それが親でも兄弟でもなければ、私は卑屈にならずにはいられないだろう。
楽しく生きていかれる自信はない。

とはいえ、何故自ら命を絶つという選択肢を前向きに検討しないかといえば、それは聞こえもしないはずの噂が死後に囁かれることを想起するからだ。そういう意味では、人様の評価を気にしているという矛盾がある。

的確に表現するなら、悪くは言われたくないが、別段褒められたくはない、ということだろうか。

生きるにしろ、死ぬにしろ、中途半端な覚悟であってはいけないと思う。
強いて言えば、生きているうちは後悔を活かせるが、死んだらそれすら出来ないからこそ、そう思う。
来世は信じていないので。
死期などいずれ訪れると、気ままに待ってるのが一番なんだろう。

2012年9月8日土曜日

女々しさ


ときたま、あの時もう少しああしていれば…と後悔することがある。
例えば入浴中や、寝る前のふとした瞬間に、過去の過ちを想起して、切なくなるときがある。

こうした日常生活のちょっとした隙間に、別れた彼女のことを想っている自分の女々しさに溜め息をつく。

「女々しさ」というのは、男特有の性質である。
女女しいのは男だけだという主張は、少し奇異に感じるかもしれない。
だが、女は女であって、女らしいことはあっても、女々しいということはない。
その点男が少しでも女の顔をのぞかせようものなら、途端に女々しいと揶揄される。

女が男に対して、「女々しい男だ」というのはちょっと不思議だと思う。
女々しいというのは、女っぽさを否定的に捉えた発言なのに、女自身が男に向けてそれを言うのは、おかしい気がしないか。
いやしかしこれは、男は男らしく、という考えに則って、男であるお前は女々しくあってはならない、という意味だと考えれば納得がいく。

逆に、「男々しい」という言葉もある。
これは、男々しく立ち向かう、とかいったように、勇気ある男らしいことを指す。
そこにはまったく否定的な意味は含まれていない。
となれば、男々しいはよくて、女々しいはいけないのであって、つまりこれは男尊女卑を如実に表している言葉だと言えるような気がする。

というようなことを言い出すと、これだから男は…とぶー垂れる女性がいそうだが、ある意味で男性のほうが女性よりも要求水準が高いということでもある。
すなわち、女は男を批判する言葉の持ち数上、一歩リードしている。
これは何も今に始まったことではなく、昔から男は女から品定めされるものなんだと私は考えている。

最近は男女平等が掲げられるようになり、男を立てるような女性は減ってきたかもしれない。
これは一見すると女性にとって素晴らしい時代になったと思われるかもしれないが、どっこい私はそうは思わない。

もっとも理想とされる男女の関係性は恐らく、バカな男を立ててやり、手のひらで転がす女、という構図だろう。
男は生来どうも頭がよろしくない。
なんというか、仕事は出来てもギャンブルに嵌ったり、何かにのめりこむ質である。
それは自らのコントロールが出来ないということだから、傍から女性が見守っててやる必要があるのだ。

その関係性が崩れた現代、結婚をしたがらない男性が増えている理由にも頷ける気がする。
もちろんそれだけが要因ではないが、ひとつの要素としては挙げられるんじゃないだろうか。