2014年6月8日日曜日
幽霊を信じるか
私はお墓参りにいくし、仏壇に手も合わせる。
だが、幽霊は信じていない。
あなたは幽霊を信じているだろうか。
私が幽霊を信じない理由は、率直に自分が見ていないからである。
だがしかし、見てないものは信じないという考え方をしてしまうと、ほとんどのものが信じられなくなるので、これが根拠ではないのだろう。
テレビでやっている内容は信じるし、インターネットに書いてあることも信じる。
もちろん疑うときもあるが、信じて楽しく見ている。
伝聞情報と幽霊の何が違うかと言われてしまえば、何も変わらないのではないか。
ただ、願望として信じたくはないだけかもしれない。
もし幽霊が存在するとしても、それは自分に見えないのは都合が悪いし、仲間外れのようでなんだか腹が立つ。
かといって、見えたら見えたで気味が悪いから。
実際問題、幽霊の有無は多数決で決まっているようにも思う。
もしも、見える人が多数を占めて、見えない自分が少数派だと思うと、もしかしたら幽霊はいるような気がしてくるかもしれない。
沢山の人が同時に空を見上げたら、ついつい見上げたくなる。
そんなものかもしれない。
幽霊などいないと主張する人間は、幽霊がいたら霊界がパンクして大変であるという。
別に、一定時間経ったら消えるのかもしれないし、現世に残れるのは優秀なものだけとか、そんなルールがあるのかもしれないではないか。
結局、躍起になって幽霊を否定しようが肯定をしようが、その存在を証明することはできない。
なぜなら、幽霊は空気とは違うからだ。
空気は、我々には見えない。
けれど、私たちはその存在を認めている。
それは、様々な実験によって空気の存在が、モデル(概念)という形でその輪郭を認められた結果である。
例えば、風が起こる。空気が移動していると考えると納得がいく。
納得がいくだけ。
ただ、人間の想像した、現実によく合う仮説を当てはめると、それが空気の存在証明となるだけだ。
共感覚も同じだ。
一部の人間は、音を聞くと色が見えたりするという。
だが、一般の人には見えない。
けれど、科学的に信じられている。
その根拠は例えば、脳の動きを見ると、音を聞いたときに視覚野が反応している、そんなところだろうか。
だが、幽霊の場合はどうだろう。
いるはずのない女の人を見たならそれは錯覚だ。
火の玉をみたならそれは自然発火現象である。
でもそれなら幽霊はいないことになる。
実際に視覚野の反応を測っても恐らく、幽霊という結論には至るまい。
つまり、科学的に説明のつかないものが幽霊なのである。
だが、人間が信じるのは科学のみである。
なぜなら科学は、確固たる信用を得るために作られたジャンルだからである。
つまり、科学で説明できない存在(非科学的存在)は、科学的に証明されていないだけで、決していないと断言することはできないのだが、科学の信者は寄ってたかって科学の論理で潰そうとする。
問題なのは、科学の領域に引きずり込まなければ役に立たないということだ。
科学のやり方は、再現性をもち、対象を知って対処するやり方だから、今までも人類に大きな発展をもたらした。
だから、科学のやり方以外は、役に立っていても証明できない。
証明した時点でそれは科学になる。
仮に幽霊が認められるとしたら、人が死んだ直後、必ず霊が現れて確実に話せる場合とか。
なぜなら、そのタイミングが決まって死んだ直後なら、わかりやすい。
しかもはっきり見えるなら、文句なくそれは現象である。
一体、一部の科学の信奉者の中に流れる、幽霊なんていないという確信はどこからくるのか?
もしかしたら、彼らは幽霊を否定したいのではないのかもしれない。
科学にとって、わからない現象があれば、それは研究対象であり、解明すべきものである。
だが、幽霊という考え方は、わからないものをわからないまま受け入れてしまう。
様々な現象が幽霊の仕業になる。
それは科学的に考えると、非常に気味が悪いし、消化不良なのだろう。
だから、一部の科学者は幽霊そのものを信じないというよりも、不思議な現象がすべて幽霊という言葉で処理されてしまうことに、憎しみを覚えるのかもしれない。
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