2013年8月4日日曜日
ニーチェに何がわかるものかよ
はじめて「ルサンチマン」という言葉を目にしたときは、なんだそれはと思った。
てっきり人や役職の名前だと思っていたが、「恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態」を指す概念だと知った。
ニーチェの原本を読んでいるわけでもないから、正当な言い分かはわからない。
だが、ルサンチマンの考え方を知ったとき、私は、「おまえに何がわかるものか」と思った。
goo辞書によればルサンチマンとは、
もともと恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態をいう言葉だが,ニーチェはこれを弱い者への思いやりや自己犠牲を説く平等主義的な道徳の起源を説明するために用いた.彼によればキリスト教道徳や,そこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権の思想は,弱者の強者に対する恨みや復讐心を道徳として表した奴隷の道徳なのである.この延長上にある社会主義の思想も,このような奴隷道徳の一部にほかならないと考えられる.ニーチェはこれに対して強者の道徳,貴族的な誇りや勇気を讃える戦士の道徳,君主の道徳を対置した(ニーチェ『道徳の系譜』).しかしこれは結局ファシズムによって利用される結果にもなった.
私なりに解釈すると、
宗教的道徳や善の考え方は、力をもたない弱者の倫理である、ということだ。
弱者は強者に恨みつらみを抱えていて、その否定をしようとする。
また他の説明からも、
全ての高貴な道徳が、自己自身への勝ち誇った肯定から生じて来るのに対して、奴隷道徳は始めから“外部”“他者”“自己でないもの”に対して否を言う。そしてこの否が奴隷たちの[せめてもの]創造的行為なのである。この価値付与の眼差しの転回 - 自己自身へと立ち返らずに外部へと向かうこの必然的な方向 - はまさにルサンチマンに属するのである。
強者の道徳は自身は正しいという自信からくる健全なものだが、弱者の道徳は強者を否定する不健全なものである。
という風に解釈できる。
もしこの記述がニーチェの考えを如実に表しているとすれば、私は「おまえに何がわかるものかよ」と思わざるを得ない。
特に現代では、ルサンチマンを助長するメディアがある。
それはネットである。
匿名性があり、発信に多くの労力を要さない環境は、力をもたぬ弱者のルサンチマンを増長する。
よく言われる「炎上」は、そのうちのひとつかもしれない。
「火のないところに煙は立たない」と言われるように「非のないところに煙は立たない」のだとは思う。
だが、近年の「炎上」は明らかに行き過ぎている。
某巨大掲示板では、その場所を自嘲する意味で、「便所の落書き」という表現がしばしば使われる。
そこは、現実に受け入れてもらえない弱者のフラストレーションの捌け口である。
弱く生まれついたものは、文句を言いつつも生きるしかない。
善や道徳という建前を巧みに盾にして、数という力によって強者を抑えつけなければ、自分たちは滅びてしまう。
そもそも、強者として生まれついたものは自身がなんの努力をしたわけでもないのに、何故そんなに偉そうな口を叩くのか。
弱者として生まれただけで何故そこまで否定されなければならないか。
私はむしろ、強者こそ努力せずに才能を手に入れた部分もあるのだから、謙虚になれと思うのだが。
しかし強者は強いので、この論理は通用しない。
強者は実力を自分の手柄にしたほうが得だし、弱者は不出来を運のせいにしたほうが楽だ。
自分の掴んでいる成功は努力の賜物か、天からの授かり物か。
このふたつの考えは平行線を辿ったままだ。
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