2013年8月4日日曜日

平等論と再分配


先日NHKのコロンビア白熱教室で、先生が生徒に3つのグラフを見せていた。
その内訳は、

①富を5つのグループで5等分する。
②努力の割合に応じてちょっと分け前を変動させる。
③極端に分配がおこなわれる。

といった具合だ。
果たしてどれが平等か、と生徒に問うわけである。

私は③が平等でないのはわかった。
っていうか、自分で極端って書いているし。

問題は①か②だ。

どちらが平等かに答えはない。

何故なら富を等分してしまうと、頑張った人が報われないからだ。
これではいけない。
ちゃんと働きを評価しなければ、やる気は失われてしまう。

では②が平等かというと、そうではない。

何故なら元々身体が悪かったりして頑張りようのない人は、どうしようもないからだ。
個人の頑張りというのは、持って生まれた性質に左右される。


しかし恐らくは、②が平等だと主張する人が多いとは思う。

言ってしまえば弱く生まれついたものは力をもたない。
役に立たなければ食っていけない。

弱く生まれたものにとっては、このシステムはたまらなくつらいのだが。
誰も好き好んで弱く生まれついたわけではないのだから。
しかも自分のせいではない。


ちなみにその講義の先生が、「①は私が平等だと思って書いたものです」というような発言をしていて驚いた。

その先生は病気を患って目が見えないので、そういう考え方をしたくなるのもわかるが、私はそれが平等だとは思えない。


この問題の根本的な考え方はこうだ。

「生まれついての差は埋めるべきか否か?」

私のかつての知り合いに、学びの格差をなくしたいと言っている人がいた。
つまり、生まれつきの環境によって、学べない人をなくしたいという。

凄くクリーンな論理に聞こえるが、どうだろうか。

たしかに有能な人材の発掘、ひいては国の将来のためと言えば聞こえはいい。
しかし、学力の面だけでそういった地ならしをおこなうことが、果たして平等と言えるだろうか。

それはつまり、もともと頭のいい人間は、環境にも恵まれるべきだ、という風に聞こえる。
これはとんでもなく不平等な話ではないか。

考え方としては非常に実利的だしそれでかまわないと私は思う。
しかし、その人はそれがさも平等に与えられる権利かのように語っているのが気になる。

頭のよさは育てられる面もあるが、生まれつきの部分もある。
なんに関してもそうだ。

生まれつきが違うのは絶対なので、その差とどう向き合っていくかを考えなければならない。
そこには必ず利益に基づく判断が存在する。

平等とは聞こえはいいが、そんな言葉はまやかしなので騙されてはいけない。
そこには実利的な判断が必ず存在する。


もっとちゃんと書くなら、平等は個人の利益のためではなく、大衆のためにあるということだ。
当たり前と思うかもしれないが違う。

個人は自分にとって何が利益かで物事を判断しがちだ。
それに相手の置かれている状況を想像するのはそう簡単なことではない。

生まれつきが平等ではない以上、本質的な平等条件は存在しえない。
ならば、法の下での平等、社会としての平等は、社会にとっての利益にフォーカスしなければならない。

平等なら皆得なんてことはことはない。
誰かは損をする。

でも誰かが損をすることで、全体の利益になるなら、それは損をした人も大局的には損じゃないかもしれない。

それが、平等条件の落とし所なのだ。

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