2013年10月20日日曜日

ポジティブな哲学


哲学は悲観的学問である。

なぜなら我々は、哲学を学んでいくうえで、数々の厳しい事実に直面することになるからだ。
その例を挙げていこう。

まず、私たちが見ている世界は同一ではない。
哲学ではこの推測をクオリアと呼ぶ。
同じ世界を見つめているようでいて、我々の捉え方はまったく違う。
例えば、私にとって青は冷たい色でも、他の人にとっては違うかもしれない。

また、ウィトゲンシュタインが語ったように、言語で語る事が出来ないものに関して、我々は沈黙しなければならない。

つまり、クオリアのように互いに違う感じ方のように言葉で表現出来ないものは、言語による相互理解からほど遠いところにある。

仮に言葉で意思の伝達ができたとしても、それはあくまで部分的なものである。
我々が互いにすべてを理解し合うことはない。

また、プラトン的に考えれば、我々が見ているものは、あくまで影であって、本質ではない。
つまり、ある物に対してもっているイメージと現実のギャップは、永遠に埋まる事はない。
イメージとは、我々が培った経験から形成される像であるから、あくまで一面的である。
単純に言えば、ある時点で、ある物体の、ある方向からの映像を見ているとき、私たちはその裏側を同時に見ることはできない。
すべてのことは多面的であるのに対して、我々が観測によって獲得するイデア(概念)はそれらの複合によって得られる解釈でしかなく、実際の事物そのものの真実の姿とは溝がある。

これはソクラテスの語った、「無知の知」にも似ている。
「我々は何かについて完全に知ることはない」ということを知っているのが本当の賢さである、という考え方だ。

つまり、私たちは世界を見ても、永遠に真実に辿り着くことはない。
仮に真実を知ったとしても、すべてを知ったと自覚する日は永遠にこない。

そのうえ、皆世界の受け取り方が違ううえに、満足に共有することもできない。
これでは、相互理解なんて夢のまた夢だ。

と、哲学を解釈してしまうと大変後ろ向きな結論を得ることになる。
しかし、ポジティブに捉えてこそ前進する力になる。

上に挙げたような性質は、事実ではあるが、それは逆に他人とうまくやっていくための手掛かりでもある。
心得ておくことで、相互理解の不可能性を理解すれば、自分の意見をむやみに押しつけずに済むし、「無知の知」を意識すれば、常に謙虚な姿勢でいられる。
頭ごなしに怒ることもなくなり、人の話をちゃんと受け止めることが出来るようになる。

悲しい真実をふまえるからこそ、相互理解の瞬間がより一層ありがたいものになる。

このようにポジティブに捉えれば、哲学はネガティブでペシミスティックというイメージそのものが、一面的な受け止め方であるとわかるだろう。
物事は多面的な性質をもつのだ。

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