2014年8月22日金曜日

ひねくれ者


不幸なひねくれ者に対して、「そんな態度だから不幸になるのだ」という発言は、正しいのだろうか。

正しくない。
ひねくれ者は不幸のせいでひねくれるのであって、ひねくれているから不幸になったのではない。

そもそも上述の台詞を言うような輩は、大して辛い思いをしたことがないに決まっている。
自分は健全な態度をとっているから幸せだとでも言うのか。

たしかに、ひねくれた態度をとるものは、より不幸になっていくだろう。
別に世間に迎合することを良しとするわけではない。
ただ、ひねくれ者と時間を共にしたところで興ざめだろうから、運も人も遠ざかっていくには違いない。

とはいえ、「ひねくれた態度が人を不幸にする」などと言ってはいけない。
それは半分正しいけれども、ともすれば「ひねくれた態度を改めさえすれば幸せになれる」と聞こえなくもない。

ひねくれ者に解釈の選択肢を与えれば、悪意的に解釈するに決まっている。

大体、そんな忠言はお節介である。
ひねくれ者をよりひねくれさせるだけなら言わないほうがましだ。

こうなるとそもそも、なぜひねくれ者にそこまで気を遣わねばならないのか、という話になってくる。
何か彼らが力をもっていて、それを借りたいというならまだしも、大抵のひねくれ者は不幸を呪うほど無力である。
そして無力な者に使う気持ちの余裕など、多くの人は持ち合わせていない。

となれば、ひねくれ者は放っておかれることになる。
これがひねくれ者の悲しみである。

別に当人だって、好きでひねくれ者になるわけではない。
当人は、いかにもそんな自分が好きですという顔をしているが、それはただ、自分が嵌まってしまった落とし穴に対して、どうしようもないので、素敵な造型だわと褒め称えて納得しているに過ぎない。

こういうことをひねくれ者に言うと、「何を勝手に決めつけてくれているんだ」と目くじらを立てて反論されるに違いないのだが、ひねくれ者のくせして勝手な決めつけを嫌うさまは、とても矛盾めいたものを感じさせる。
どうせひねくれ者なら、世間の評判など気になさらず、どうぞご勝手になさればよろしい、という気もはしないか。

ひねくれ者はお節介を養分にひねくれてゆくのである。

それは半ば生まれ持った性質、運命がそうしてしまったのだから、どうしようもない。
どうしようもない、ということは、放っておかれる運命にあるということだ。

ならば、ひねくれ者に救いはないのか。
ない。


・おまけ
上述の「ひねくれ者」とは、決して「世間と違った意見をもつ者」のことではない。
それは個性であって、価値であるから、ひねくれ者という言葉があてられたとしても、褒め言葉である。
ただ、人の言うことやること、なんでも認めることが出来ずに、ただ文句ばかりを垂れている一言居士のことを指している。

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