2014年1月6日月曜日
当然起きる食品偽装
昨年、阪急ホテルグループの食品偽装を皮きりに偽装が次々と発覚した事件があった。
なぜこういったことが起きるのか。
そもそも食を人に預けるとはなにか。
近年のコンビニや外食産業の発達をみれば、人々が毎日の食事を外部委託することに心理的抵抗を抱かなくなっていることがわかる。
だからこそ、こういった機会に食の重要性を考え直すことも必要かもしれない。
今回の事件はあくまで品質が多少落ちる程度の問題だったが、これが安全性の問題まで発展すると大変だ。
なにをまた大袈裟な、と思われるかもしれないが、劇的に危険な食品ならまだ恐ろしくない。
なぜなら、すぐに効果がわかるし大多数への被害も少ないからだ。確率的リスクは少ない。
もっとも恐ろしいのは、長期的に身体をむしばむ食品だ。
これは判明するまでに時間を要するため、我々の身に降りかかる可能性が高い。
劇的とまではいかなくとも、体調を崩すレベルでの食に関する事件がアクリフーズの冷凍食品への農薬混入事件だ。
仮に意図的ではなくとも恐ろしい話だ。
外食産業ではなくとも、我々は食べ物を人に預けるのが当たり前になっている。
野菜は農家からではなくスーパーで買うし、肉などの材料だってそうだ。
まとめて購入できるのは便利だが、間に人を介すると信用がしにくくなる。
食べ物は信用のうえで成り立っているのだが、責任の追求は難しい。
短期的に影響が出る食品はまだしも、発がん性物質などに関しては長期的に調べなければわからない。
だから食べ物に関しては、いままで食べられてきたものを食べる、のが一番である。
新しい食品に含まれる新しい技術や素材は、よくも悪くも未知数なのである。
食の伝統を守ることは大切なことだ。
昔の宗教が食に関して言及するものが多いのも頷けるというものである。
2013年12月21日土曜日
馬鹿にすること
誰かを馬鹿にすることは、無意味だと思う。
何かを見下してものを言うことは、ネット上では大変流行っている。
twitterでは馬鹿を叩き、2ちゃんねるでも「おまえら」なる架空の集団を叩く。
芸能人が不祥事を起こせば、炎上される。
何をそんなに叩きたいのか、と思う。
たしかに悪は是正されるべきだと思う。
何か悪いことをしたら正すのは当然であって、それが未来を見据えた訓示であるなら、なんら問題ない。
だが、今世の中(主にネット社会になるが)に蔓延している叩く雰囲気は、何も発展性がなく、ただ他人を馬鹿にしているような部分も見受けられる。
誰かを馬鹿にして時間を潰すことは、なにも意味を成さない。
相手は自分に対して何も得をもたらさない。
そこにあるのは、他社を見下して自分を偉く感じるという錯覚による優越感ならびに快感だけである。
認められたい気持ちは誰しももっていると思うが、他人を叩くことで認められることはない。
何よりも、苛烈に他人を批判することは恐ろしいと思う。
自分の間違いの可能性を一分一厘も考慮にいれず、相手に食ってかかっていけるというのは思慮が足りないのをひけらかしているようなものだ。
やはりどこかで自分のことも疑うようでなければ、人は成長していけまい。
なにより、他人を馬鹿にするのは危ない。
馬鹿にされるような人間というのは、この世の大抵のことがどうでもよかったりするので、そういう人間が自棄になってしまったとき、果たして自分の優越感を守りに入っている人間が勝てるかということである。
自棄になった人間が怖いのは、宗教に地獄があることを見ればお分かりだろう。
地獄というのは世捨て人が自暴自棄になるのを防ぐために賢人が考えた世界観である。
馬鹿にされるような人間をつつくのは、爆弾をつつくようなものだ。
優越感程度の幻に浸るべく手をだすには、危なすぎる代物だ。
何より、馬鹿にする側の人間は、自分の弱さを知るべきである。
他人を馬鹿にしないと自尊心を保てないのは自我がない証拠であって、弱みでしかない。
自分の価値の保証を自分が馬鹿にするものに求めるというのは何かおかしな話である。
馬鹿にする行為が溢れる世の中は、爆弾だらけで恐ろしい。
2013年12月6日金曜日
ブラック企業は誰のせい
ブラック企業、という言葉が世間でも聞かれるようになってしばらく経つ。
昨年の流行語大賞にノミネートされたし、厚生労働省も対策に乗り出した。
就職活動をする大学生の間では、「あそこはブラックだから」と噂が飛び交う。
若者の話を聞けば、労働環境が悪いからやめた、とまだ勤め始めて数年でやめたという話をよく聞く。
果たして何がブラック企業を産み出しているのか。
そもそもブラック企業とは、どういう会社を言うのだろう。
労基法を守っていない、労働環境の劣悪さ、パワハラ、サービス残業を強要するなどを言うようだ。
つまり、あんまり酷すぎる環境だとダメ、ということらしい。
でも僕はこれに疑問を感じている。
ブラック企業がそれだけ非人間的なことに手を染めるのはきっと理由があるはずだ。
会社の仕事はすべて利益のため、ならば、ブラックな労働の利益はどこへいくのか。
一つ考えられるのは、中間搾取が酷いパターン。
例えば数年前に派遣会社が問題になった。
派遣会社は社員を他の会社で働かせる。
でもよくよく考えれば、別に派遣会社で働く必要はなくて、自分で働く会社に入社すればいい。
というか、そのほうが派遣会社にマージンをとられないから絶対効率いいじゃないか、と思う。
だが、現状そういう雇用形態がある以上、需要があるのだろう。
恐らくは、正社員を雇うより手軽なので、一時期の作業に必要なスキルをもった社員をとっかえひっかえできるのがいいに違いない。
それは逆に、働く側の安定なんて知ったこっちゃないし、使えなければポイすればいいし、という、ちょっと酷い考えが入っている。
これは会社が人材の流動的な確保についていけておらず、昔の正社員システムに引きずられているからとも言えよう。
もうひとつ、ブラック企業の原因としてあまり言われていないのが、人材の能力不足だ。
不況で儲からない、それもたしかにそうかもしれない。
しかし、そもそも会社というのは、人が働いた分の成果が儲けに繋がるはずだ。これは働いた時間の分だけ給与が発生すべきだ、などという暴論ではなく、単純に、働きに見合った給料が払われるべき、という主張に過ぎない。
言い換えてしまうなら、今の人たちは働いた時間の割に利益をだせてないんじゃないの?ということである。
もっぱらブラック企業という言葉は、被害者側が企業に悪印象をもったためにつけられた名前であるが、果たして自省する必要はないのかと言われると、それは違う気がする。
ブラック企業が嫌ならやめればいい…という意見は冷たいように聞こえるだろう。
だがそれも一つの真実だと思う。
働き手がいなくなるのは会社も困る。だが、働けない方はもっと困るから安値で働いてしまう。
しかしながら、そもそも働き口が危ういような人間が、どんどん生産されていること自体が問題なのではないか。
今や大学全入時代と言われることすらなくなったほど、大学に行くのは珍しくなくなった。
しかし、それは若い時間をと労働力をみすみす逃しているに過ぎない。
教育は投資だと考えれば、今の大学の平均レベルは投資ではなく資産を遊ばせているに過ぎない状態のように思える。
そもそも大学と言いながら、底辺の大学では高校内容の焼き増しのようなことをやっているのだから、それは高校のときに済ませておけ、という話ではないか。
人の成長速度が違ったとしても、果たしてそこに長い時間をかける意味はあるのだろうか。
そのうえ、就職の話となれば、企業が求めるスキルと大学での勉強内容が合致しない、という。
そして大学は就職予備校ではない、と言われるわけだが、現状は就職予備校以外の何でもない。
例え研究がしたくても、博士課程まで進むとその後が心配だから、と諦めるものもいる。
そんな中途半端な姿勢を貫いて、若き者の時間をもてあまさせることは、社会に悪影響を及ぼす。
最近言われている、未婚率の増加や晩婚化の傾向の要因として、不況による低収入だけでなく、早くから稼いで貯蓄できないことによる足踏みが挙げられるような気もする。
さらに言うなら、女性の社会進出も悪影響だ。
こんなことを言うと女性から猛抗議を喰らいそうだが、あえて言おう。
稼ぎが苦しいから夫婦共働き、というのは、大変な美談のように聞こえるが、雇用的には人材の価値が上がらなくてまずい。
なにせ働き手が二倍になるわけだから、安値で買い叩かれるのが道理だろう。
つまり、目先の利益を稼ぐために大局的には安い労働を買って出ているような気がする。
それだけ仕事というものの価値があがったとも言えるかもしれない。
さて、ブラック企業の話に戻ると、たしかに労基法を守らないのは悪い。
だが、稼いで食っていけないならより厳しい環境で働くしかないのではないか。
それが嫌なら知恵を絞るしかないのではないか。
それは自然の摂理のように思えないか。
労基法で労働時間を決めたところで、それは逆に、その労働時間で生きていくだけの働きをしなければならない、ということなのだ。
多分独力で生きていけるような能力の持ち主は馬車馬のように働かなくたって生きていけるだろう。
というわけで、私はブラック企業のせいにするだけではなく、人材の教育を見直してほしい、という風に考えている。
2013年12月4日水曜日
子供の遺伝子操作
米国で、遺伝情報を解析し、親が望む子供を作るデザイナーベビーに繋がる技術が開発されたそうだ。
既に特許はとられており、十数年後にはビジネスになるかもしれない。
こうした最新技術について回るのが、倫理問題である。
今回の場合は、遺伝子を操作するという行為が、自然の掟に反するのではないか、という点である。
これは論理的な問題ではない。
何故なら、それによって誰が不利益を被るわけではないからだ。
強いて言えば、操作されることなく生まれてくる赤ちゃんが被害者とも言えるかもしれないが、病気のリスクを避けられるというならば、反対する理由はないだろう。
つまり、人間は自然(あるいは神か)に支配されているべきものであって、交配や自然淘汰のシステムは自然の法則にそぐわないというわけである。
しかしこれは妙な話ではないか。
そもそも交配や自然淘汰のシステムなど、人間が勝手に解釈しただけで誰が生んだとも知れないものを、人間が乗り越えてはいけないというルールがどこにあるのか。
そんなことを言うなら、セックスにおける避妊だって、中絶だって、十二分に掟破りである。
それは宗教として論じられるべきことであって、倫理ではないと私は思う。
中絶はたしかに人を殺すわけであるから、罪の意識があるのも納得できる。
しかし、遺伝情報の操作は違う。
これは子供の産み分けと逆の問題である。
子供の産み分けが、望みにかなわない子を捨てるという発想であるのに対し、遺伝子操作は望みにかなわない子が生まれ、捨てられるのを事前に防いでいると言えるのではないか。
そういう意味で、私は有効だと思う。
子供の産み分けの是非については、私は否定はしない。
なぜなら生むのは親の勝手である。だからといって殺すのも勝手ということはないとしても、責任をもって育てられないなら産み分けと称して命を絶つのはやむを得ない。もちろん手は尽くすべきではあるが、赤ちゃんも親も苦労するであろう(たとえば病気を患っている)などの場合は、やはり当人たちの問題であって、責任をもたない他人が口をはさむべきことではないように思う。
だが、できるならそんな悲劇を避けたいと考えるのは当然のことではないか。
となれば、遺伝子操作による産み分けがノーリスクなら、非常に有効な方法だと思うのだが、どうだろうか。
2013年3月25日月曜日
処女信仰
ネット上の某掲示板のまとめブログをみていると、定期的に処女信仰に関する話題が挙がる。
そしてコメント欄は大荒れする。
誰でも参加できる話題だけに関心も高いということだろうか。
処女信仰とは、誰にも身体を許してこなかった女性を好む考え方のことだ。
某掲示板ではそういった信仰を揶揄する意味で、信者に「処女厨」なんて蔑称がつけられている。
そして、処女厨vsその他という構図で、大論争が巻き起こる。
処女厨の主な言い分はこうだ。
①「人が汚したものなんて触りたくない」
②「性交渉は結婚してからすべき」
③「別れるような男に身体を許すなんてありえない」
それぞれ考察しよう。
①「人が汚したものなんて触りたくない」
この意見は分かる気がする。
他人がベタベタ触った人と密接に触れあうのは少し抵抗がある。
これは潔癖症みたいなものだから、好みとしては仕方のないことだと思う。
事実そういった経験が多いほど、疾病のリスクは高いと思われるので、ただの神経質と切り捨てることもできない。
心情の問題としては、好きな相手が自分だけのものであってほしいという独占欲の現れとも言えるだろう。
ただそれが、今現在だけでなく過去にまで及ぶという意味で強烈な束縛である。
女性側からすれば、男性が女性をモノとして見ているようで嫌かもしれない。
それこそアクセサリー感覚で扱っていると考える人もあるだろう。
②「性交渉は結婚してからすべき」
これに関しては、悩むべきところだ。
今時は婚前交渉が普通になっているし、嫁入り前の娘がどうの…ということもない。
これは避妊が確実性を増してきたからこそ、性交渉の重みがなくなってきたとも言えるだろう。
そのリスクを重くみるか軽くみるかの価値観の相違が問題となる。
大半の男性にとっては、他の男性の子供を養わされるのはもってのほかである。
浮気なんてありえないし、過去の男性遍歴も気になるのは当然だ。
ただ、婚前に互いをよく知らなければ長続きしないとも言えるだろう。
離婚原因の大きな要因として数えられる問題だけに、事前に見定めようとする考えは理解できる。
③「別れるような男に身体を許すなんてありえない」
これに関しては、完全に結果論だろう。
結婚したって別れることはあるし、誰しも間違いはある。
現状をみるに女性にはもう少し慎重さがあってもいいように思えるが、やはりどうなるかはわからないものだ。
そしてこれらの意見に対して、色々な反論が飛び交うのだが…。
大抵の場合、「中古(処女でない女性を指して)が必死だ」とか「童貞が何言ってるの」と言った架空の個人に対する誹謗中傷が繰り広げられ、両者は疲弊し、いつしか争いは自然消滅していく。
なぜこうも争いが激化するのか?
それは、この争いが単なる「処女信仰」を守るための戦いではないからだ。
この争いの根底には、人を見下す精神のぶつけ合いと、それに伴う自己の価値創出がある。
つまり、処女厨は処女の価値を認めているのではなく、処女ではない人の価値を否定することで、教義を守る自分を肯定し、そこに価値を見出している。
そして反対勢力も同時に、夢見がちな理想を否定して見せることによって、「現実を知る経験豊富で大人な自分」を演出する。
相互に批判し合うことで、自らの価値を高めようとしている。
そうした行為は、「自分への自信のなさ」あるいは「承認欲求」の裏返しである。
自分への自信を付けたい気持ちは理解できるが、人を貶して得られる自信なんてものはない。
ほんとに余裕があるなら、黙って好みの女性にアプローチすればいい。
何より、終わってしまったことに関してとやかく言ってもしかたがない。
正直な心情を吐露するのは仕方ないとしても、あえてキツい言い方で安易に他人を傷つける必要はない。
互いに無視をできないインターネット社会が生み出した禍根だと言える。
このテーマは関心を抱く人が多いようだ。
ネット上の争いとは別の切り口で追記をしておく。完全に私見だ。
私が思うに、恐らく処女に関する悩みは二種類あるに違いない。
それは、「処女は重くないか、かっこ悪いのではないか」というものと、「処女とは価値あるものなのか」ということ。
これらは字面上違った悩みのようにも思えるが、その根っこにあるものは同じである。
つまり処女性はプラスなのか、マイナスなのかということ。
私個人は、「年齢による」と思う。
例えば、若いうち、責任ももてない高校生が惚れた腫れたの流れに任せて、というのは聞いていて情けない。
人間の成長速度なんてそれぞれだし、決して身分や学年だけが個人性を決定するわけではないが、有事の際にどうすることも出来ない身分で責任を伴う行為に及ぶのは好ましくない。
逆にある程度の年を重ねて経験がないとなると、これは逆に何か妙だ、と勘ぐってしまうことはあるようだ。
だからといって焦る必要はないとは思う。
それらはあくまで一つの要素なのであって、すべてではない。
本当は、その人の今を見つめるのが一番だ。
人間関係は過去ではなく、現在のインタラクティブにある。
ただ、男の本音としては、他の男性と関係のあった女性を大切にする気持ちは、ほんの少しだけ薄れるのかもしれない。
同じ条件で、処女とそうでない人どちらがいいか、と問われたら、間違いなく私は処女を選ぶだろう。
そして大半の男性も同じだ。
しかし、人間なんて様々な要素で形作られていて、誰一人同じ人間などいない。
だから先ほどの問いは、前提からして破綻している。
処女性だけを切り取ることはできないし、そうではない人だけが得る価値もきっとあるはずだ。
すべては夢見がちな男共の夢想に過ぎない。
そんなものは蹴っ飛ばして進んでしまうのが健全だ。
[20131020追記]
何故、処女信仰が存在するか?
恐らく男性にとっては、本能的に他の男性よりも先であることが大事で、それは昔、子供を授かったときに誰の子供か判断する術がなかったからに違いない。
相手が処女であれば、生まれてくるのは自分の子供だという保証が得られることが、処女信仰の第一義だとされる。
これは一見まともな論理に聞こえるが、よくよく考えるとおかしい。
女性が子供を産むまでの時間は十月十日と言われるくらい精確なわけだから、それさえ考慮に入れれば自分の子供かどうかくらいわかる。
つまりリスクを避けるためには、相手が最後にいつ交渉したかさえ知っていればいいわけで、過去すべてにおける遍歴をチェックする必要はない。
それに、処女性や男性遍歴の申告は大抵の場合、女性の自己申告である。
つまり、求めたところで真実は闇の中だ。
だから、拘ったところで無意味である。
そこが、処女信仰が信仰を脱しきれない由縁であるかもしれない。
じゃあ処女信仰が一部の男性に支持される理由ってなんだろう、という話に移ろう。
女性を物扱いするようで申し訳ないが、つまるところ「お下がり」のような感覚なんだろう。
新しいものがいい、という無根拠な価値感を土台として、それを欲しがる。
もっと言うなら、自分は新しいもの(=いいもの)を与えてもらえるだけの人間だ、とどこかで信じている。
これはとても夢想的だ。
幼い頃に、どんな夢をもっていたか。
振り返ってみると、サッカー選手やプロ野球選手、女性なら花屋やケーキ屋などが上位を占めるだろう。
今はそんな夢、見れない。
大半の人間は、そういうものを捨てて、軌道修正して大人になってゆく。
それは、「分を知る」からである。
自分が与えられたものはどの程度か、外界と対話しながら探ってゆく。
だから、大人になってまで女性に処女性を求める男性は、自分に見合ってない望みをもっている夢想家のように思える。
処女厨とかいって否定されるのはそういう部分かもしれない。
処女がいいよね、というなら、それはかまわないことだと思うし、他人に否定されるいわれは無いかもしれない。
だが他人から見ると、現実を見ろと滑稽さを感じるのかもしれない。
よく言われるのが、処女というのは要素だから、要は中身なんか見てなくて、その事実だけあればいいんじゃないか、という話だが、処女も立派な中身の評価だと私は思う。
少なくともお金持ちだから凄い人、なんて価値感よりは人の評価としてよほど妥当なんじゃないか。
だから良いとか悪いというつもりはないが、判断基準として使われること自体には疑問は無い。
実際、恋愛遍歴やそういう部分での感覚というのは、生活面でも大きく関わってくると思う。
だから、処女を求めるやつは中身なんか見てない!ってのは間違いで、そういうことを言う人は少々的外れなことを言っているように思える。
ただ、処女は未来で変貌するかもしれないが、お金は貨幣価値が変わらない限り使えるという意味では、未来志向の判断基準としてお金のほうが有効かもしれない。
2013年1月26日土曜日
責任
東電が福島第一原発の汚染水を、濃度を下げる処理をしたうえで海に放出するという。
また日本の魚は汚れるのか。
原発関連のニュースがでると、ネット上の一部では、東電の社員は何故責任をとらないのか、依然として高給を貰っているのか、という意見がでる。
責任をとれ、と。
多分それだと、東電の若い人たちは可哀相だ。
別に自分たちが引き起こしたことじゃないのに、と当人達も思っているんじゃないか。
会社としての責任と、その内部にいる人間の責任というのは、一緒くたに考えてはいけない。
会社は息が長いが、人間はそうでもない。
いざというとき、責任という言葉ほど当てにならない物はないと思う。
引責辞任なんて、最たる例だ。
失敗してやめることって、過去に対する責任はとってない。
例えば、車で人を轢き殺したから車に乗るのをやめます、というのは、本人が困るだけであって、被害者に対しては何も償ってはいない。
この先の事故のリスクは減るかもしれないが、それは謝罪でも、責任でもない。
給料を貰って仕事をしているのに、業績がだせなかったら、次は仕事を頼まれない。
責任のシステムは、持続性のもとに成り立っている。
問題だったのは、国土が汚れかねないことを、国としてやらなかったことだと思う。
一会社に手が負える問題ではなかった。
どこに責任を預けるかは、預ける側の責任だ。
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