2013年9月2日月曜日

差別と平等について


私は某巨大掲示板のまとめサイトをよく見る。
先日、たまたまダウン症の話題があがっていた。

内容を見てみると、どうやら掲示板では差別的な発言(彼らは遺伝子的に人間じゃないとか)が平気で飛び交っていた。

これに対して、コメント欄では嫌悪感をあらわにする人達の書き込みが並んでいた。

話の中心は、「差別的発言について」であったが、どうも差別的発言を諫めるほうも冷静じゃないように思えた。

ここ最近、どうも人々は平等とか差別とかって言葉を暴力的に振り回しているような気がする。

本来、人間は生まれながらにして誰一人同じということはない。
そこから生じる差異は、好意的に捉えれば個性だし、競争の場では優劣となる。

平等を綺麗な言葉で語れば、「個性を大切にしよう」ということになるが、裏を返せば「身の程を知れ」ということでもある。個々人が本来持つ性質とうまく付き合わなければならない。

だから私は、世に出て働きたいけれど結婚もしたい女性の主張はいまいちピンとこない(気持ちとしてはわかるのだが)し、性転換手術をする人達の勇気には恐れ入る。
もともと自分に与えられた社会的役割をはねのけるエネルギーは並大抵のことではない。

だが、そのエネルギーは見習うべきとしても、今の時代は、個人に与えられた役割が軽視されすぎていると思う。

子供を産めるのは女性の特権だ。
だからこそ邪魔くさくもあるのかもしれないが、そう生まれついたものは仕方あるまい。

前向きな解決方法があるならいいのだ。
それこそ男でも子供を産めるようになるとか。

でも今は無理だ。
なのに、平気で男女平等を推進してしまうのはまずいと思う。

これは差別に関しても同じで、差別をするな、という言葉の捉え方は難しい。

現に、違っているのだからそれに関して指摘されるのは仕方のないことだ。
例えば一般人が不細工だとか言われても、ひどいけれど「差別するな!」とは騒がないだろう。
もちろん心ない一言に心を痛めることには変わりないので、相手が誰だろうがそんなことを言ってはいけない。

しかしそうなると、差別とは一体なんだ、という話になってくる。
障碍者だから差別するな!なんて発言は、一体差別助長じゃなくてなんなのか、という話だ。
障碍を楯にとっていると言ってもいい。

私は今のところ、ここらへんの答えを明確にもってはいない。
漠然と、無意識に自然に接することが大切だと思っている。

ただ、心の端に必ず留めておきたいことがひとつある。
それは、「誰も好き好んでそうなるわけではない」ということだ。

虐げられるような人間は、好き好んで虐げられる道を選んだわけじゃない。
そういう星の下に生まれついてしまった。
だから、本人が迷惑をかけているとしても、それはその人そのものよりも、運命が悪いのだ。

もちろん、迷惑をかけられたほうとしてはたまらないし、かけたほうもそんな言い訳を使ってはいけない。
けれど、その事実は厳然と存在していると思う。

「罪を憎んで、人を憎まず」とはこういう意味なんだと思う。

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