私たちは普段、ものに名前をつける。
赤く甘酸っぱい果実に林檎という名前がついているように、幾多にある触れる物体のみならず、現象や概念にまで言葉を当てはめている。
つまり、言葉は万能で、世界のすべてを言葉で表現できるような気もする。
しかしその反面で、情景や感覚を伝えるときには言葉の無力さを存分に味わうことになる。
「百聞は一見に如かず」という諺があるように、言葉を尽くしての説明には限界がある。
言葉は結局なんなのか。
言葉は単なる属性である。
つまり、林檎は林檎という名前の物体ではない。
赤くて、丸っこい、甘酸っぱい果実の属性がたまたま日本という場所では林檎となる。
ところ変わればappleになったりする。
日本の英語教育では、日本語の単語を英語に、英単語を日本語に訳するテストを課すけれど、あれは間違いをうむ可能性がある。
林檎という単語に関して、appleを対応づけてしまう可能性がある。
これはつまり、林檎を指で指されたとき、「林檎って英語でなんて言うんだっけ?」と思い出し、「林檎はappleだ」というプロセスを辿ることをさす。
しかし我々は日本語を使うとき、直接「林檎」という呼称を思い出すことが出来る。
だから、上記のような英単語の覚え方は不自然だと言える。
日本人が英語を不得手とする理由のひとつが、そこにある気がする。
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