2013年12月8日日曜日
想像力
想像力は日常生活においても大切な能力だと思う。
想像力というと、ああしたらこうなる、というような、例えば、ここで怠けたら明日苦労するかもしれない、というように未来を予期する能力を指すものだと思われるかもしれないが、想像力を語る上で押さえられるべき事項は、そのような因果的なものよりも、むしろ我々がもつモデリング能力であると思う。
つまり、私たちは何かを想像している。
こうなったら、ああなるという流れを想像するためには、まず、ああしたらこうなるものである、というモデルが存在しなければならない。つまり、私たちは対象に対して概念を明確にもっており、その前提の下で対象のふるまいを予測しようとする。
もし予測が間違えば、それは自分の中に形成した概念が間違っていたか、あるいはいままでに経験しなかった対象となる概念の新しい側面を見たかのどちらかである。
その違和感を元に、概念の内容を更新する。
ここで概念と言っているのは、つまりあるものに対するイメージとも呼べる。
つまりは、何かをイメージすることがなければ、答え合わせができない、ということを言いたい。
かつての偉人たちが、自分の頭の中に巨大なイメージ空間をもっていたであろう、という話は以前他の記事で触れたと思うが、要するには、目を瞑っていてもできる、というのは、対象に関する情報を他の器官に頼って補完しているだけでなく、今までの経験の蓄積から、すでに見なくても振る舞いが分かっている、とも考えられる。
認識論的な話しでも言われるように、つまり我々が見ている世界は、我々の世界なのであって、個々の人間が独自に作り上げているイメージ空間だと言えるだろう。
目を話していてもタイピングができるのは、手で感触がわかる、という単純な理由だけではなく、そこにキーボードが、このようなサイズで、このような形で存在しているという、明確なイメージをもっているからである。
だから私たちは、自分が見ることのできない世界の状態を勝手に想像する。
北極では熊が暮らしているとか、そういうような。
そして実際に見聞きすることで、現実との答え合わせができるというわけだ。
別にこんなことはわざわざ言うまでもない。
無意識にやっている人はやっている。
しかし、意識されないからこそ、意識してみると面白い、そういうことなのかもしれない。
以前苫米地さんが、人間は一度見たイメージの世界で生きている、と言ったのは恐らくそういうことを指していて、決して我々が好き勝手な世界で生きている、という意味ではなく、一度頭の中に世界のモデルを構築している、そして整合性が合うか確認しながら生きている、ということを言いたかったんだと思う。
また、最近(2014/10/15)になってデカルトの「方法序説」を読んだのだが、その中にも似たような考えがあるので、興味がある方は一読されると良いだろう。
かの有名な「我思う、故に我あり」という文言は、上記の内容と関連していると思える。
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