2012年9月11日火曜日

生真面目の悲しみ


私は、真面目と言われる人に憐憫の情を感じることがある。

真面目だという評価は、世間では良いものとされているが、実際は虚しいことだと思う。
大抵真面目だと言われる人は、何かに打ち込んでいたり、態度が紳士であったりするものだが、それが結果に繋がっていたら、きっと周囲の人間は真面目と言わないだろう。凄い人であるとか、言うはずだ。

そういう意味で、真面目という言葉の裏には、無難さを感じる、つまりは突き抜けた個性を感じないのだ。
私はそういう人間であることはあまり好きではない。
もちろん、適当でおちゃらけた人間よりは、真面目で実直な人間のほうが仕事はしやすいし信用も出きるけれど、友人にしたいかどうかはまた別である。

真面目な話というのは大抵浅い付き合いの関係に持ち出してしまうと重く感じられるものだ。
そういう話が出来る関係は素敵だと思うが、どこにでもそういう態度を持ち出す姿勢には閉口せざるを得ない。

何より生真面目という正確にはある種の危うさがある。
それは、考え込んでしまうということだ。
事件の犯人に関する取材の場面で、普段はおとなしい人なのにねぇ…といわれるのはこのタイプの人間だ。
周りがあまり真面目な話の相手をしてくれないから、視野狭窄に陥るのではないかと思う。
そして、鬱を患う人間に多いのも、このタイプの人間なのだ。

鬱の原因としては遺伝的なことや生活習慣など、様々な要因が挙げられているが、そのうちのひとつに、「生真面目な性格による考え込みすぎ」ということがある。
ただしこれには、その真面目さが報われない、という追加条件がある。
結果をだせているならなんら問題はないのだが、真面目にやっていて結果がでないと、ああ、私はどうしてこんなに頑張っているのに結果がでないのだろう、と考え込んでしまう。
こうして、自分の思う努力に見合うと感じられる報酬が得られない状態が続くと、努力することを身体が拒否し始めるのだ。
これは人間が学習をする性質を考えれば当然といえば当然で、報酬の返ってこないことなどやっても生きてはいけないから、やりたくなくなるのは至極自然である。
けれどそこで頑張ってしまうと、身体が悲鳴をあげてしまうのだ。

人間にはある程度の適当さや、力を抜く瞬間があるべきだ。
ただ、それが他人に迷惑をかける場面であってはならないだけで。


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