2012年9月14日金曜日

とげとげしい心


人に話しかけられて、うまい返答ができない。
何か気の利いた返答ができればいいのだが、面倒が勝つ。

何かしらマイノリティな一面を抱えてしまうと、共感を得るのが難しいためか、人と関わる機会が少なくなる。
たまに話す機会が訪れても、とげとげしい態度で応じてしまうということがままある。
一度や二度ならいいが、度重なってくると当然ながら相手は気分を害するし、必要以上には話しかけてこなくなる。

ときに寂しいと思う。
だが寂しささえも表に出せば、相手に重みを感じさせてしまう。
寂しさという感情は、自己顕示の態度として、言葉の端々に滲み出してしまう。

こうして心は刃のように、細く、鋭く研がれてゆく。
触れれば怪我をするか、もろく崩れてしまうように思える。

友達は多いほうがいいだとか、友達がいないのは寂しいだとか、そんな理想や幻想はいっそ、捨ててしまうのもよいかもしれない。
そんなものは、多数派にしか許されない楽しみ方だ。
馴染めないなら、無理に馴染む必要はないのかもしれない。
そこを諦めたとて、何も恥ずべきことではない。

その代わり、友の代わりとなる趣味を見つければ良い。
何かをやっていて楽しければそれだけで、人間的魅力も自ずと引き出されるというものかもしれない。

人生において自分が置かれる場所というのは、どうも困難なように思える。

そんなことを気軽に洩らそうものなら、当然周囲の人間は、あんたより辛い人がたくさんいるんだよ、とか言の慰とも諫言ともつかないことを言ってくるわけで、そうした物言いはささくれだった心を余計に刺激してくる。

困難の度合いを比べるというのは、なんとなしにおかしいような気がする。
それで根源的な苦しみが消え去るわけでもあるまい。

第一そんなものは、なんの進歩ももたらしはしない"我慢の哲学"だと言えるだろう。

そう思いながらも、自分は人と比べて大変な想いをしているのだと考えるときもある気がする。
まったく矛盾している。

決して、貴重な経験だからと割り切ることはできない。

悲しい体験をしたからこそ他人に優しくできるというような言い分も一理あるが、そうでなくても他人に優しい人はいるだろうと思う。

そんなフレーズはあくまで自分や他人を半ば無理矢理に納得させる詭弁に過ぎない。

ただその一方で、そうした綺麗事や詭弁こそが、この世を乗り切る術なのもたしかだ。
自分の置かれている苦しさや境遇に文句を言ったとて、何が変わるわけでもあるまい。

行動を恐れる人間は、過去に文句をつけることしかできない。

何かに文句をつける自分は文句を言えるほど強いのではない、むしろ弱い。
変化をただ待つという点で、厳冬をやり過ごすさなぎと何も変わらない。
むしろ文句も言わず摂理に従順な彼らのほうが、堪え性が備わっているだけ幸せかもしれない。

大仰に言えば、人生なんて堪えるか堪えないかの二択である。

堪えられないやつが死ぬ。
堪えたやつは皆、妥協を覚えて生きている。

若いころは自分でなんでもできると信じがちなところがある。
現実との摩擦でずたぼろになる。

そんなときに、自分の形をぐにゃりと曲げてしまうか、抵抗し続けるかの違いだ。

自分を信じ続けられるならそれでもいいかもしれない。
けれど、大半がそうではないだろうと思う。

だから年を重ねた人間は、角が取れて丸くなったりする。
いろんな物と折り合いをつけることを覚える。

それは諦めではあるが、恥ずべきことではない。
頑なな抵抗をしないのもひとつの哲学だと私は思う。

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