2012年9月15日土曜日
路傍の石【同名の本とは関係ありません】
人は皆、路傍の石だ。
興味のない他人を見つめるとき、人には他人が、あたかも路傍の石のように、何の意味も、何の害もなさない、ただそれだけのものに見えているに違いない。
例えば都会の雑踏で立っていると、誰一人として自分に見向きもしない。
私はいつも感じる。
何の力も才能も持たない人間は世の中にそれこそ溢れかえるほどおり、私もその中の一人でしかない。
ましてや凡庸ならまだいい、凡庸以下である。
人々は良くも悪くも突き抜けた存在には関心を示すが、半端者に目をくれるものはいやしない。
若い時分は、少しでも良い一面をみて、丁寧にすくい上げてくれる人間がいつか表れるのではないかという仄かな期待を持ったものだが、そんなものは夢想でしかないと今は知っている。
能力的な問題で、社会や人にとって寄与し得ない人間はどうすればよいのだろう。
毎日を生きるのに精一杯で、他人の役に立つことなどできるわけがない。
そんな想いを抱えて日々を過ごしている。
ときどき、似た人間に出会うと、鏡を見ているようで惨めな気分になる。
不細工が鏡を見たがらないのと同じ、同族嫌悪というやつだ。
仲良くしようにも「おれは違うんだ」という妙なプライドが尊大な態度を生み出し、碌なことにならない。
いっそ孤独を選ぼうにも、一人で生きてゆけるほどの力はないし、それが如何に難しいかは知っている。
生きるというのはどうもいけない、不平等が常につきまとう。
あいつはあんなにいい思いをしているのに、どうして自分だけこうなのか、と思う。
そんな雑念が活力さえも殺いでゆく。
その点死は平等でいい。
死に様は違うだろうという反論があるかもしれない、だがあれは生き様であるから、死はやはり平等である。
命の価値は根源的に平等だと言い出す輩がいるかもしれない。が、そんなのは綺麗事であって、合理主義の果てに命の平等はない。
だが生きることに文句を垂れても、困ったことに死ぬ勇気は沸いてこない。
死ねない以上は生きていくしかない。
私が自ら死を選ぶときがあるとするなら、それはきっと自己という存在が社会や周囲の人々に害悪を及ぼし始めたときになるだろう。そのときすでに私は路傍の石ではない。
そう考えれば、今はまだなんてことはないのかもしれない。
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