2015年12月20日日曜日

瞑想とは何か


仏教の修行の中に、『瞑想』なるものがあるのは御存じだろう。
ipodやiphoneを作りだしたApple社の創始者である故スティーブ・ジョブズも、この瞑想をおこなっていたという。


瞑想とは、その名の通り、目を瞑る修行である。
ただし、寝るわけではない。
ただ眼を瞑って、心を静める。そして何も考えない状態を保つ。


しかし、そんなことに何の意味があるのか。
私はずっと疑わしく思っていた。


どうも色々な情報を見ている限りは、集中力を上げる訓練のようだ。
しかし、瞑想は我慢であり、無思考状態の維持だから、継続的にある物事を行う点では集中力の修行と言うより、持続力の修行ではないか、と思っていた。


けれどどうもそうではないようだ。
考えてみれば、物事に対して深く思考するとき、我々は外部に目を向ける事はできない。
つまり、外界と遮断されている必要がある。


この排他性こそが、瞑想の追い求めるものである。
つまり、普段思考を行う際に、外部と自分をシャットアウトするために、その予備練習をしておくのが『瞑想』の意味合いであるようだ。


であれば、瞑想にはレベル付けが生まれる事になる。
目を瞑るのはあくまで形式であって、むしろ現実を重視するならば、目を開いたままで、深い思考を行う必要があるということである。


つまり、五感をすべて、意識的にシャットアウトできる能力が、究極の集中力であり、これを育てる第一歩として、瞑想の意義があるのである。


しかし、これには前提がある。
自分の内部世界が、明確に構築されている事である。


つまり、自分自身の外部と内部は、隔たりがあって、自分の内部がしっかりと固められていなければ、この修行を行う意味はない。


なぜなら、最終的には、排他力によって得た思考空間で、いったい何を考えるかが、最重要項目だからである。


であるからして、瞑想はやはり修行であって、あくまでそれを達成すれば、何か力が手に入る類のものではない。
ただし、雑多な世界の中で、何かを思考するうえで、必ずや必要となる能力のひとつではあるだろう。


ここから推測できるのは、瞑想と対をなす修行がある、ということである。
瞑想で得た集中力を活かすには、内部世界を構築する必要があるが、内部世界を構築する術について、修行が必要となるだろう。


その足掛かりとして考えられるのが、記憶力の訓練である。
自分の内部空間を構築するには、部品が必要である、それを集める能力があるとすれば、記憶力しかありえない。

記憶力とは、五感によって得た感覚をそのまま記憶する能力を指す。
この訓練に相当する内容が、きっと仏教の教えの中にあるはずだ。


2015年5月17日日曜日

フロー状態


最近、フロー状態について知った。


フロー状態とは、作業に集中して、我を忘れる状態だという。
詳しい説明は、下記の動画で語られている。



私は、このフロー状態は、仏教の瞑想に似ているのではないかと思った。

というのは、仏教の瞑想が無我の状態を求める行為だからである。

ただし、瞑想は無我どころか何も考えないのを目的とするのに対して、フロー状態は、自分が行っている作業に集中しているがために我を忘れるという点で違っている。

つまり、瞑想は何も考えないが、フロー状態は作業のことだけを考える。

しかし、これはノイズを排除するという点では同じである。

フロー状態も瞑想も極度の集中状態であり、周囲の状況を認識しているようでしていない。

特に動画内で語られる内容については、半信半疑にもう方もおられるかもしれない。

なぜなら、我を忘れて、別の現実に入り込む感覚、などと、摩訶不思議で怪しい感覚が平然と語られているからだ。

しかしよく考えると我々は、いつも現実を見ているわけではない。

当ブログでも過去に語ったように、我々が見ている現実はまず、今現在のものではない。

物が見える仕組みは、光の反射によるから、当然光が目に届くまでに時間がかかる。
つまり我々が見ている今現在は厳密には過去である。

さらに、我々はこの世界をそんなに真剣に見ていない。
書き損じをした経験が誰しもあるだろうし、なかなか見直してもミスが見つからないことはよくある。
それは現実と我々の認識がずれているに過ぎない。

つまり我々は、案外適当に世界を認識している。
見たものは、一時的に記憶して、脳内で処理される。

しかし我々は、見たワンシーンを完全に覚えているということは通常ない。

それはつまり、認識が、曖昧であることに他ならない。

我々は動き回るとき、自分のいる場所の視覚情報から、記憶とつなぎ合わせて世界を作っている。

となれば、当然与えられる情報が違ってくれば別の世界に入り込むことはできるし、記憶に情報さえあれば、その世界で生きているつもりになることだってできる。

これは俗にいう想像力である。

動画内で語られている、同じジャンルに10年以上携わっていないとフロー状態に到達できないというのは、単に一般人が、対象の作業に対して、記憶を蓄積するのに10年近くかかるということでしかない。

私自身は、別に10年たたなくても、想像力さえ高めて、記憶の重要性さえ理解すれば、記憶力は自然と伸びると考えている。

記憶が蓄積されて、それらをもとに新しい世界を想像できる領域、それがフロー状態だ。
一種の幻覚に近いかもしれない。

幻覚と現実の認識が重なる状態のことだろう。

例えば、幽霊を見る人があるが、彼らはきっと幻覚と現実を混ぜこぜに見ているのだと私は考えている。

それと同じように、今までの記憶と現実を重ね合わせているのが、フロー状態に違いない。

つまり、フロー状態にとってもっとも重要なのは、課題とスキルが見合っていることなどではないと思う。
記憶が蓄積されており、目をつぶってもそれを想起できるということ、それが重要だ。

外界の世界について、自分の中でいかに再現でき、その認識が正しいかということである。

2014年12月13日土曜日

優柔不断と決定力


優柔不断は悪しき特性である。

物事のほとんどは短所と長所の二面性をもっているが、優柔不断は悪である。

それは単に言葉の与える印象の問題で、慎重と言い換えれば良い特性と捉えることもできると主張する人もあるかもしれないが、私はそうは思わない。

適切に判断を留保し、適切に判断を下せるならば、それは慎重と言えるだろう。
だが、むやみやたらに悩んで時間を浪費するのは、優柔不断以外の何でもない。

判断にかけるべき時間は、事の重大性によって使い分けられるべきである。

例えば今晩の夕飯を何にしようか決めるのに、一時間も二時間もかけていたのでは夕飯を作る時間がなくなってしまうし、逆に将来に関わる志望校を決めるのに二時間程度で決定を下すのはあまりにも慎重さに欠けると言えるだろう。

リスクが、事の重大性とそれが起こる確率によって表現されるように、適切な判断とは時間(労力とも言える)と事の重大性から決まる二元的な行為だと言える。

つまり、事の重大性が低いにも関わらず時間や労力をかけすぎたり、逆に重大な事柄を即時決定してしまうことは悪しき特性であり、特に前者を優柔不断と呼ぶ。

優柔不断は、整理能力の低さか情報蓄積力の不足によって起こると考えられる。

何かを決定するうえで絶対に必要な能力は、情報の蓄積力である。

それは、今決定すべき事項が一体何であるかという問題設定をすべて頭の中に保持するという能力である。

夕飯の決定なら、まず麻婆豆腐か、筑前煮か、ステーキかなどなど、列挙した選択肢をすべて頭の中に浮かべて、それらを比較しなければならない。

このとき、ひとつ浮かべてはひとつ忘れていたのでは、永遠にゴールに辿り着かないのは当然である。

もちろん、最低限ふたつだけ覚えておいて、逐次的に比較し、最終的に決定するという方法も考えられるが、コンドルセのパラドクスによれば、操作の順番によって結果が変わってしまうため、問題を大局的に見なければ公正な決定ができないケースもある。

この情報蓄積力に問題がないとして、優柔不断の原因となりうるのは整理能力の低さである。

冒頭で例を挙げたように、優柔不断という性質について、いや慎重とも言えるのではないかという反論はまっとうに思えるが、そこで思考をやめてしまうと、結局優柔不断はケースバイケースで良くも悪くもあるという結論に至る。
もちろんそういう鷹揚な見方も一つの選択肢ではあると思うが、それが深く考えたうえでの結論か、考えるのをやめたうえでの結論か、そこには大きな違いがあるように思える。
もし一歩踏み込んでどちらかに決定しなければならない場面を迎えたとき、前者は決定ができるが、後者はできないだろう。
それは決定の対象について、何も分類することなく、ただそのときどきであるという当たり前の摂理をうわっつらに述べただけだからだ。

対象を比べるときは、必ず性質を列挙し、それらにポイントをつけなければならないだろう。
そのためには、整理能力が不可欠である。そこには分類をするための処理能力や、列挙するための想起力も含まれていると考えてもよいかもしれない。

別に、決定を留保すること自体を否定するわけではない。
ただ、留保することが慎重で賢いと考えているのであれば、それは違うような気がする。
現実的に頼れる人間は、何かしらの説得力ある決定力をもつ人間だと私は思う。

2014年11月3日月曜日

瞑想のすすめ


私は最近になって瞑想をはじめた。

瞑想は、仏教やその他の宗教で取り入れられている修行であり、雑念を払うことを目的としている。

雑念を払うというと、煩悩や欲を追い出すという意味合いに聞こえるが、これはわかりにくい表現である。

恐らく瞑想は、集中力の訓練であろう。

というのも、仏典によれば、仏教は独りで歩むことを良しとしている。

それはつまり、他の人たちと仲良くすることはあっても、つるむようなことがあってはいけないということである。

もっと具体的に言うなら、仏教はおしゃべりを禁止している。

それは、寄り集まってだらだらと時間を過ごすことが、人生にとって無益でしかないという考えに基づいているに違いない。

それを断つ心を手に入れようというわけである。

また、仏教の目的は涅槃に到達することで、つまるところ、この世の苦しみから解放されること意味すると思われる。

集中をすると、周りの状況が良くも悪くも見えなくなる。

その意味では、あれこれ悩むことから救われると言えるだろう。

もちろん、対処療法に過ぎないやり方だけれども、実際問題どうしようもないことで、無駄に精神だけ参ってしまうということはよくあるので、そのための対策にはなると考えられる。

瞑想の面白いところは、目的が目的でないということである。

つまり、本来集中力というのは何かに傾けるものである。

何かを製作するために集中するとか、そういった類のものであるはずだが、瞑想においては違っていて、それは集中力を養うために他のものを排して集中するという謎のアクティビティである。

すべての思考を排するために集中するのである。

もっと言うなら、集中しよう…!と唱える心の声さえも消えると良い。

このとき、自分の心の中に無が生まれる。

やってみるとわかるが、これが意外と難しい。

なにせ、意識がなくなるのとは違う。

確かに自分が存在して、意識もあるのだが、意識的な思考は一切排されている、そんな感覚である。

もちろん現実的なことを言えば、「そろそろやめようかな…」と考えてやめる以上は、完全に無意識の状態を作るというのは恐らく不可能なのだが、限りなくそれに近づくという行為は、雑多な情報の処理を要求される現代の世の中において貴重な時間である。

何もしない状態を意図的に作ること自体が無駄だというのなら、それはそれでいいだろう。

だが、集中力がなくて作業が進まないとか、思考が途切れやすいと感じる人に、私はおすすめする。

2014年10月22日水曜日

仏教 スッタニパータを読んで


スッタニパータを読んだ。

これは歴史上最古の仏典である。

仏典として最古であることが意味するところ、それは時代の変遷とともに起こりうる意味の曲解を逃れているという原始性である。

私が読んだのは日本語の訳文なので、厳密にはその段階で伝言ゲームが起きているのだけど、他の経路よりはましだと思われる。

仏教の考えについては、まったく知らない状態で読んだので、備忘録として、感想と疑問を記しておく。


まず読んでの雑感としては、仏教ってそんなに崇高でもないな、ということである。

どうも宗教と言うのは、日本人にとって近づきづらく危ない、尊大なもの、というイメージがあるように思われる。

本が240ページもあるものだから、大層立派な説教かと思ったのだが、意外にも当然のことばかり書かれていた。

内容は詩的な対話形式で表現されていて、神霊やバラモン(当時の修行者、偉い人)、弟子たちからの質問に仏陀が受け答えをし、彼らを説得していく様が描かれている。

全体のテーマとしては、涅槃に至る方法(苦しみを取り除く)を説いている。

そのために具体的なルールを大まかに種別すると、

・種々の欲望に囚われてはいけない
・悪事を働いてはいけない
・他人を受け入れ、尊重すること

の三つに大別される。

もしかすると、私が仏教の教えを読んで当然のように感じたのは、それらの思想が現代に無意識的に広く普及しているからこそかもしれない。

もしそれが仏教の影響だとしたら、驚くべきことだが、たしかめようはない。
ただ、幅広く受け入れられる内容だったことは間違いないだろう。

中でも驚いたのは、デカルトが「我思う、故に我あり」という考え方を発見するそのずっと前に仏陀が発見していたということである。

ただし、デカルトが疑いようのない自我を確立するために唱えたのに対して、仏陀は自我を自覚し滅するために唱えた点で真逆であることも興味深い。

基本的な考え方はこうだ。
世の中は苦しみに溢れている。
その苦しみを逃れるには、自分を変えるしかない。
ではその苦しみの原因を列挙して、取り除いてゆくことが必要である。

そこで、悪事や、欲望、他人への軽蔑を挙げて、禁じることにしたのである。

また、自我はすべて六識から生まれる。
これは五感と意(表象と思われる)から生ずる。
それらすべてを取り払うことで、苦しみから逃れるわけである。


だが、そのためには並々ならぬ努力が必要だ。
実際現代人には不可能と思われるような内容も説かれている。

例えば、「慣れしたしむことは恐れを生む。家をもつと塵が生じる。」と述べられている。
これは、家をもたず定住しないのが聖者のさとりだという意味だ。

これではホームレスじゃないか。

また、集会を禁じ、おしゃべりもよくないものとする。
たしかに人とのおしゃべりは、楽しいが過剰だと時間を奪う。
だが、現代では通信が発達しており、これを排するのはますます難しくなるだろう。


スッタニパータでとりわけ納得できなかったのは、神霊の存在である。

神霊は人間以上の存在で、仏陀が生まれるときには偉大な人が生まれると喜んでいる。

それをアシタ仙人が仏陀の両親に伝える。

当の仏陀は悟りを開いて、「人は生まれによってバラモンとなるのではない。行為によってバラモンとなる。」という。

もしも行為によってバラモンになるのなら、仏陀が生まれる以前から偉大であるとされるのは矛盾だ。

つまり、権威は決定論で決まるという考えを否定する仏陀の出自のエピソードが、決定論的なのである。

またその神霊に仏陀が説教をする。

これでは、双方の力関係が不明確過ぎる。

つまりその時点で、言説は歪んでいるのである。

仏陀自身は行為を評価したかもしれない、だが、スッタニパータを書き伝えた人は、権威主義にとらわれて余計なエピソードを付け加えてしまったのだろう。


他にも矛盾はある。

仏陀は、「真に悟った人は他人の考えに依らない」という。
これは自分で判断力をもっているということだろう。
だが一方で、仏陀のいいつけを大いに守るよう奨めている。


そもそも、托鉢で他人から食べ物をもらうシステムもピンとこない。
彼はバラモンには食べ物を与えるように言いつけているが、それは乞食とは何が違うのだろう。
同じとしても違うとしても、それのどこが立派だというのか。

私にはまだわからない。


時代背景もあるだろう。
原始仏教は、やはり未知の世界であった。

ただ、当時から人々が考えているテーマが、死や生、生活やおしゃべり、集会など、現代と多く通ずるものがあるのも事実だ。

我々は、古いものほどいいとか(クラシックのように)、新しいものがいいとか、極端になりがちだが、温故知新といわれるように、新しい時代に合わせた、かつ原始のエッセンスを含んだ仏教が求められるのかもしれない。

今回挙げた疑問については、解決次第追記してゆくつもりだ。


仏教をかじって感じたのは、「とても後ろ向き」ということだ。

この世が苦しみだなんて、超ネガティブ。

だから、仏教の考え方は、「人生の曲がり角」に直面している人向けである。

キリスト教みたく、「神に認めてもらうために頑張る」というようなボジティブさとは一線を画している。

どちらがいい悪いというつもりはないが、私は現実と戦うなら、キリスト教の方が社会の発展に寄与しそうだなと思う。

まあニーチェに言わせれば、キリスト教も隷属的という意味でネガティブであるが。

その点で言えば、仏教の方が自立的かもしれない。

2014年10月19日日曜日

宗教を恐れるということ


現代日本では宗教は恐れられている。

そのため政教分離は当たり前である。
しかし私は、皇族というシステムがある時点で、既にそれは崩壊していると思う。

誰が国を動かしていくかを血脈によって決定することは、例えそれが制度であったとしても、疑うことなく行っている時点で、宗教ではないかと思う。

だから良いとも悪いとも言うつもりはない。

だが、宗教は我々にとって身近であると思う。
ご飯を食べるときの「いただきます」や「ごちそうさま」も、命をいただいているという教えが慣習化しているわけだが、特別それを疑うこともなく受け入れている。

そんなわけで、日本人は無意識の宗教をもっていると言えるわけだが、当の本人たちはあたかも自分たちは無神論者であるかのような顔をして、宗教は怖いものだと決めつけている。

たしかに、新興宗教と呼ばれるものの中には怪しいものも多い。
にわかには信じがたいような効用を謳い文句にして信者を獲得している集団もある。

とりわけサリン事件でテレビを賑わせた新興宗教にいたっては、その思想は犯罪シンジケートそのものと言っても過言ではないかもしれない。

だからそういうものを恐れて、関わりたくないと考えるのは当然のことだし、それ自体はなんら問題がない。

しかし、宗教に無関心で無自覚でいることは違う。

自分たちが何かを無意識に信じているという事実を、認識することは大変重要だ。

我々はメタ的に自分を見直すことによって「気づき」を得ることが出来る。

だから自信を無神論者であると信じている人々は、まだ気付いていないだけで、本当は無意識的に信じているものがある。

また、無神論者であることを理由に宗教を避けるのは、もちろん面倒に巻き込まれたくない理由もあるかもしれないが、恐れもあるだろう。

それは「もしかしたら自分も染まってしまうのではないか」という恐れである。

何かを信じることは大変勇気の要ることだ。

だが、こちらがコントロールする側に回ると思えば、何も恐ろしいことはない。

良い考えをとりいれるだけなら、問題はない。

本当に恐ろしいのは、盲信することと疑いつづけることだ。

極端に疑い続ければ、何事をもなすことは出来ない。

猜疑はゴールのための布石でしかなく、それ自体がゴールではない。

また、自分の間違いを常に可能性として頭に入れておかねば、盲信してしまうことになる。

宗教を恐れるなら、結果論を常に批判する姿勢を持ちつづければ良い。

宗教は大抵、結果論である。

ときには、信じたあなたが悪いと言う。

あるときには、疑わなかったあなたが悪いと言う。

そして逆をアドバイスする。

それは真理でも何でもなくて、単に、「あなたは今憂き目にあっている。逆をゆけ。」というわけである。

それは明らかに結果論である。

おおよそ危ない宗教は、そういうものの言い方をして、あたかも理屈をつけたような顔をする。

心に隙があるとつけこまれる。


2014年10月13日月曜日

愚かしい哲学


物事に疑問を抱くということは、拒絶である。

とりわけ哲学では、「我思う、故に我あり」とか言って、なんでもかんでも疑うのが美徳であるとされるようだ。

何かを盲信するのはご法度であり、そうするためには理由が必要とされる。

また何かを突き詰めてある考え方を確立したとき、それは「~哲学」という風に呼ばれたりもする。

哲学は理性的でなければならず、ただ物事を鵜呑みにすることは許されない。
そして、難しいことを考え抜いた先にある。

とまあ、私の哲学に対するイメージはそんなものだ。

そういうストイックな姿勢は大変カッコよいのだが、たまに疑問に思うことがある。

そんなの本当に役立つんだろうか。

哲学なんてのはロマンみたいなもので、煮ても焼いても食えない、世俗から離れた者だけに許される道楽である、とも思う。

実際、哲学科は就職も厳しいと聞く。

なぜか。

それは、哲学が「物事を拒絶すること」を良しとしているからである。

かつてアリストテレスが言ったように、世の中の物体は無限後退を引き起こす。

宇宙はどうやって生まれたのかと問いを立てれば、ビッグバンという仮説に辿り着き、ではビッグバンはどこからきたのかと当然の問いが立てられるように、根本原因などというものは存在しない。

宗教も似たようなもので、聖書の創世記では、まず光があるところから世界がはじまるわけだが、では光はどこからきたかと言えば、神が作ったのであって、ではその神は誰が作ったかと言われれば、神は絶対的存在なので、神を作るような上位存在はいない、ということになる。

現代で大きな力を振るっている科学でさえも同じ構造から抜け出すことは出来ない。
科学の基礎となる経験論は「繰り返しやったらうまくいった、だからこの先もうまくいく」という前提のもとに肯定されるが、その根拠は「今までもそうだったから」でしかなく、経験的にうまくいったことを続けるというスタンスに他ならない。
つまり、宗教となんら変わりはない。

宗教を忌避する傾向にある多くの日本人にとって、その意味では哲学は健全なはずである。

疑うことは、一歩距離を置くことでもあるので、哲学をしていれば、宗教に取り込まれる心配はなくなるからである。

だがこれは手放しに喜べる傾向ではないと私は思う。

たしかに疑うことは重要であるが、人間の寿命は限定されている以上、疑い続けているわけにはいかない。

そこらに転がっている前提を、すべて疑って生きていては人生が暮れてしまう。

だから、ときとして疑うことをやめ、まず覚えてしまうことも重要ではないだろうか。

その上で思考することが価値ある哲学を生み出すのであり、すべてを疑い距離を置きつづけることは、愚かしい哲学を生み出すだけだと思うのだ。

2014年9月13日土曜日

仏教と決定論


決定論といえば、我々の「運命」に関する哲学の問題である。

現代社会に生きる我々の人生は、科学によって大きく助けられている。
それは、科学がもつ再現性によるところが大きい。
つまり、科学が役立つのは、ただなにかしらの機能を果たすからでもあるが、なによりも意図したとおり確実に機能するからだと言える。

例えば、1/2の確率でしか起動しないパソコンがあったらどうだろう。
使えないよりはましかもしれないが、できれば確実に使えたらいいし、そうあるべきだ。
科学に求められるのは、この再現性(確実性)の高さである。

さて、科学が追い求めるのは機能だけではないことはわかった。
それがなぜ運命と結びつくのか。
運命とは、「確実に起こること」であり、言い換えれば、「予定調和」である。
つまり、科学の追い求める究極的な目的は「運命の手綱を握ること」である。

しかし、ここでひとつの違和感に気付く。
もしも、究極的科学の力をもってして、今現在の状態から、未来すべてを予測することができたとしたら。
我々の行動が科学によって紐解かれ、次に何をするかが予見できてしまうとしたら。
これはつまり、我々の状態が決まってしまえば、すべての未来が決定するという仮定である。
とすれば、生まれながらに授かった運命が、どのようにして終焉を迎えるのか、既知である。

このような世界では、我々は、神の手のひらに踊らされていることになる。
だとすれば、何が起きようとも、それは我々の責任ではないし、すべては因果のせいである。

と、これだけなら特に面白くもないが、ここに仏教を絡めるとどうなるか。

仏教のおもな考え方は、苦を乗り越え、涅槃に至ることだそうだ。
我々は輪廻転生というシステムの一部であり、これにより死ねば次の生を与えられる。
生と死がまるで螺旋構造を描くように、ぐるぐると繰り替えされる。

気の遠くなるような話である。
しかも仏教では四苦という考え方があり、生老病死のよっつをそう呼ぶ。
読んで字の如く、並べた感じ四つの漢字で示される概念が、我々を苦しめる根源だという意味である。

これを見て、いやおかしいと思ったろう。
もし上述のとおり生きることすべてが苦しみで、それが永遠に廻るとしたら、一体救いはどこにあるのかと。
それが、解脱である。

解脱することで、人は仏になることができる。
仏になれば、輪廻からも解き放たれ、苦しみから救われる。
だから、これを主目的とする。

では、解脱するためには具体的にどうしたらよいか。
それは、善行を積むことである。
卑近な例えで申し訳ないが、善行を積むとさながらゲームのレベル上げのように経験値がたまるわけである。
そして、死というジョブチェンジをおこなうことで人間としての位が上がっていくわけである。
もちろん、悪行を積み重ねれば、転落もしてゆく。

人間としての位は、自分の境遇で決まる。
生まれながらの不幸な境遇は、前世の自分の行いが悪かったからである。
このように、自分の行動が、未来へと連鎖してゆく。
これを因果説という。

さて、ここでいくつか矛盾を感じないだろうか。
もし、因果説の通り、すべてが自分のおこないが自分に返ってくるとするなら、物事の因果関係は決定していると言える。
だが、自分で行動して運命を変えてゆくという考え方は、非決定論的ではないのか。

つまり、仏教は決定論と非決定論の両立説をとることになるのかもしれない。
これについては、もう少し学んでから書くこととする。

もうひとつの矛盾としては、輪廻の一番最初ってなんだろう、という素朴な疑問である。
キリスト教の場合は、まず光あり、というわけで、神様がビックバン的ななにかで、この世界を創造なされたわけである。
これを科学的に追い求めると、ビッグバンの原因はなんだろうね、という話になるのだが、たとえそれが解明できたとしても、ビッグバンの原因の原因の…というように無限後退に陥るため、終止符を打つ存在としての神の存在を仮定することは、理解できる。

だが、輪廻の場合は神とかそんなのはあんまり偉くないし、別に世界は誰がつくりたもうたものでもないから、じゃあ最初の状態に平等があったとして、それがどうしてこんな悲劇の引き金が引かれてしまったのかという説明が必要な気がする。
この点についても、後日まとめたい。

とまあ、仏教の教えをざっくりと読んで疑問をあげてみた。
興味がある方、答えを知ってる方、あるいは間違いを指摘してくださる方がいれば、幸いである。

2014年8月25日月曜日

イメージ・トレーニング


スポーツなどの世界では、練習としてイメージ・トレーニングがよくおこなわれているようだが、本当に効果があるのだろうか。

イメージと言っても、具体的には、ゲームの流れや成功する自分を想像するという。

別に想像するだけなら誰でも出来るし、そう難しいことではないように思える。
にも関わらず、それだけで効果が上がるなら素晴らしい。

しかしイメージ・トレーニングでさえも、うまくやれなければ効果を得ることはできないようだ。
手軽にできて成功できる、なんて魔法とはちょっと違うようだ。

すでに、どこかの記事で述べたが、人間は「水槽の脳」である。
我々が生きている世界は、擬似感覚かもしれず、あるいは夢かもしれない。

寝ているとき、無意識に見られる夢を、意識的に見られない理由はどこにもないと思わないか。

実際、妄想という言葉があるように、人間は夢を自発的に見ることができる。
この能力を、想像力という。

あるとき私は、目の見えないピアニストが、なぜピアノを弾けるのか不思議に思った。

でもよくよく考えてみると、別に難しいことではないのかもしれない。
現に私も、世の中の現代人の大半も、キーボードを見ずに文字を打つタッチタイピングをおこなうことができる。
同レベルで語るのは失礼かもしれないが、手元を見ずに特定のキーを打つという点で、何も違いはない。

これを世間では「身体で覚える」と呼ぶが、正確には夢を見る能力だと思う。
つまり、目で見えてない部分も、自分の頭の中には存在している点で夢や幻覚と似ている。

別に誰も、目を開じて視界が真っ暗になったからといって、世界が消えてしまったとは思わないだろう。
いきなり停電がきても、慣れ親しんだ建物なら出口に辿り着けるだろう。

それは、過去の記憶を引き出して、現在の世界に重ねているからに過ぎない。
停電の例に限らず、普段目にしている世界もすべて、目から入った光を脳で情報処理するまでの時間を通して見ているから、過去である。
それを元に動作を行うのだから、双方の実例になんら違いはない。
ただ、記憶の新旧の違いでしかない。

つまり、我々はそもそも記憶の中に生きているのに、そうではないと勘違いしている。
だから、記憶よりもなるべく目の前の情報に頼ろうとする。特に一刻一秒を争うスポーツにおいては。

それによって、即時に対応する意識が強くなりすぎて、結果的に記憶を保持する能力が落ちる。
だから、意識的に記憶を保つ練習をする。

これがイメージ・トレーニングの正体だろう。

別に魔法の言葉でもなんでもないし、スポーツに限らず様々なジャンルで役立つ方法と言えそうだ。

だから、成功をイメージするのは実はそんなに重要ではないと私は思う。
ただ、イメージするのは実は結構な労力だから、どうせなら楽しい内容でやったほうが意欲が沸くというだけのことではないか。


2014年8月22日金曜日

アイス・バケツ・チャレンジについて


最近、アイス・バケツ・チャレンジなるキャンペーンが話題らしい。

ALSという難病の患者とその友人が立ち上げたチャリティーイベントだそうだ。
ルールはこうだ。

①氷水をかぶるか、寄付するか、あるいはその両方を選択して実行する。
②SNSを通じて、次の実行者として友人・知人を指名する。

歌手やタレント、スポーツ選手など多くの著名人が参加しているが、ネット上では物議を醸しているようだ。

そもそも、このイベントはチャリティーという名目ではあるが、それをダシにしたお祭りと化している。
実際はお金は集まっているが、普通に寄付をするんじゃいけないのか、というわけである。

別に、多くの人は氷水も寄付も両方選択しているのだから寄付が集まってよいと思うのだが、結局のところ、有名人が話題作りのためにおこなっているという側面もある。

つまり、純粋なチャリティーではなく、楽しんだり、売名行為に走っているだけの偽善じゃないか、というわけである。

だが、実際に莫大な寄付金が集まっているのも事実だし、話題になっている。
成功している。

ALS患者の一人は、嫌悪感を示しているようだが、それが代表意見というわけでもなさそうだ。

個人的には、「発案者はうまいことやったな」としか思えない。

別に、チャリティーをダシにしてお祭り騒ぎをしていたとしても、お金が集まっているならかまわない。
拝金主義的かもしれないが、患者やその周りの人々の生活が少しでも楽になるなら、手段はあまり重要ではない。(死人がでているわけでもないので)

悲しいのは、そうでもしないと寄付金が集まらない状況、病気に興味をもたれることもない、患者の立場である。
ダシにされて、可哀想と同情されてお金を貰うなんて、道化と変わらないような気もする。

もちろんそうやってでも生きなければならないのだろうが、だからこそ悲しい。

そしてもうひとつ、SNSで承認欲求を満たす行為も、ついにここまできたかという感じもする。
SNSが人間の愚かな側面を見せてくれるのは今に始まったことではない。

それがついに寄付という名のビジネス(これはもはやビジネス)に利用されるという結果に至った。
なんか世も末という気がする。

そういった時代に合わせて、うまいこと寄付金を集めた手口は、見事としか言えない。
ただ、その場のノリで参加した人は、一度立ち止まって、よくよく考えたほうがいいんじゃないか。

自分たちの目立ちたいという気持ちが、膨れすぎて利用されているということに。
別に寄付のためだからいいじゃない、というならそれでいい。

ただ、それが悪意的に利用される可能性は心に止めておくべきだと思う。

この問題が一番反発を生んでいるのは、リレー方式、という事だと思う。
指名してやらせるという、暗黙の強制力や、人脈の広さをアピールする行動自体が気持ち悪い。

もしもこれが単に、インターネットで動画を公開して、「僕は氷水をかぶって寄付をします。気骨のある同志募集!」だったら、美談で終われたんじゃないかと思う。

このイベントが生む同調圧力、これが反発を生む原因に違いない。
しかし同時に、それだからこそうまくいったとも言える。

ひねくれ者


不幸なひねくれ者に対して、「そんな態度だから不幸になるのだ」という発言は、正しいのだろうか。

正しくない。
ひねくれ者は不幸のせいでひねくれるのであって、ひねくれているから不幸になったのではない。

そもそも上述の台詞を言うような輩は、大して辛い思いをしたことがないに決まっている。
自分は健全な態度をとっているから幸せだとでも言うのか。

たしかに、ひねくれた態度をとるものは、より不幸になっていくだろう。
別に世間に迎合することを良しとするわけではない。
ただ、ひねくれ者と時間を共にしたところで興ざめだろうから、運も人も遠ざかっていくには違いない。

とはいえ、「ひねくれた態度が人を不幸にする」などと言ってはいけない。
それは半分正しいけれども、ともすれば「ひねくれた態度を改めさえすれば幸せになれる」と聞こえなくもない。

ひねくれ者に解釈の選択肢を与えれば、悪意的に解釈するに決まっている。

大体、そんな忠言はお節介である。
ひねくれ者をよりひねくれさせるだけなら言わないほうがましだ。

こうなるとそもそも、なぜひねくれ者にそこまで気を遣わねばならないのか、という話になってくる。
何か彼らが力をもっていて、それを借りたいというならまだしも、大抵のひねくれ者は不幸を呪うほど無力である。
そして無力な者に使う気持ちの余裕など、多くの人は持ち合わせていない。

となれば、ひねくれ者は放っておかれることになる。
これがひねくれ者の悲しみである。

別に当人だって、好きでひねくれ者になるわけではない。
当人は、いかにもそんな自分が好きですという顔をしているが、それはただ、自分が嵌まってしまった落とし穴に対して、どうしようもないので、素敵な造型だわと褒め称えて納得しているに過ぎない。

こういうことをひねくれ者に言うと、「何を勝手に決めつけてくれているんだ」と目くじらを立てて反論されるに違いないのだが、ひねくれ者のくせして勝手な決めつけを嫌うさまは、とても矛盾めいたものを感じさせる。
どうせひねくれ者なら、世間の評判など気になさらず、どうぞご勝手になさればよろしい、という気もはしないか。

ひねくれ者はお節介を養分にひねくれてゆくのである。

それは半ば生まれ持った性質、運命がそうしてしまったのだから、どうしようもない。
どうしようもない、ということは、放っておかれる運命にあるということだ。

ならば、ひねくれ者に救いはないのか。
ない。


・おまけ
上述の「ひねくれ者」とは、決して「世間と違った意見をもつ者」のことではない。
それは個性であって、価値であるから、ひねくれ者という言葉があてられたとしても、褒め言葉である。
ただ、人の言うことやること、なんでも認めることが出来ずに、ただ文句ばかりを垂れている一言居士のことを指している。

2014年8月19日火曜日

自己実現


自己実現とは、自分の理想像に自分を近づけていくこと。


自分の理想と社会の規範にズレが生じると、苦しい思いをしそうです。
そうなると、偽りの仮面(ペルソナと呼びます)を被って社会に適応するか、奔放な自分を解放して世捨て人になるか、苦渋の選択に迫られるわけです。

大雑把に言えば、誰しも自分の存在を受け入れてほしいんですよね。
人類は昔から集団行動が基本ですから、きっと遺伝子に刻み込まれてるのでしょう。
だから、包み込んでくれる愛情には心地良さを感じる。

でももし、自分が自分の理想とかけ離れていたらどうでしょうね。
努力すれば近づけると言ったって、限界はあります。
歌手になりたいとか、スポーツマンになりたいとか、背が高くなりたいとか。
そういった理想像は、生まれたときの形質で決まる部分が大きい。
才能というやつです。憎いですね。

それを手にするのは一握りの運のいい人間で、残り大半の人間はいつか自分の非力さを痛感する日を迎えます。
挫折、というやつですね。

いつか、追い求めていた理想を捨てる瞬間が訪れる。
切ないですね。
そうなってしまったら、自己実現は永遠に達成されないわけです。

じゃあ一生自己を承認できないまま生きるのでしょうか。
いえ、第二の理想を立てればいいのです。
『与えられたカードで勝負するしかない』
私が好きなスヌーピーの言葉です。

この世は理で出来ていますが、不条理です。
なぜなら、生まれながらに人生を大きく左右する容姿や環境が決まっていて、その決定に努力が介入する余地はないのですから。

つまり取るべき道は、妥協するか、死ぬかです。
一般的に自殺は良くないとされますが、私は大いにありだと思います。
不平等なゲームを降りるというのも立派な選択です。
命が惜しくないなら。

ニーチェがキリスト教批判をしたのも、永劫回帰を説いたのもこういった考えを背景にしていると思います。(聞きかじりの知識なので話半分で読んでください)
ニーチェがキリスト教を批判した理由は、その禁欲的にエネルギーを抑え込む教えを、弱者の強者に対する嫉妬だと捉えたからだと感じます。
また、永劫回帰は、なんど廻っても自分の人生は同じということ。
そしてそれを受け入れることを良しとしている。

つまり、不平等なゲームだからといって降りたとしても、どうせまた同じ札が廻ってくる。
ならば、今ある状況を認める必要があるということです。
そして、現実から目を背けて弱い自分を善しとすることを否定するわけです。
ということは、残るは努力して前向きに生きるしかない。
そういうことみたいですね。

何度廻っても人生が同じっていうのは、「時間が無限で物質が有限とするなら、いつか同じ状況が廻ってくる」という考えに基づいているそうです。
原典を読んでないので断定的なことは言えませんが、すごく根拠薄弱ですね。

考え方は人それぞれです。
自分の可能性をまだ信じたいなら頑張ってもいい。
もう諦めるなら第二の理想を探してもいい。
その気も起きないならドロップアウトすればいい。

決断は難しいですね。
足がかりが欲しいところです。
強いて言えば、ただひとつわかるのは、何事も試してみなきゃ分からないってことだけですね。

2014年8月14日木曜日

エヴァンゲリオンで目指された世界


私の好きなアニメの中に新世紀エヴァンゲリオンがある。

エヴァンゲリオンは主人公の碇シンジが、使徒と呼ばれる地球を荒らす生命体と戦う物語である。

エヴァンゲリオンの世界では、表向きは人造人間による使徒抹殺が目標とされるが、実はその裏で、世界中の人間を生命のスープに戻すという、恐ろしい事態が計画されている。

当初観たときは、「すげー話だな、よく思いついたな」と思った。

だってなんだか、突飛だ。
皆ひとつになろう、って呼びかけたところで、大半の人間は拒絶すると思う。
でもよくよく考えると、それは世界のあるべき形を突き詰めると辿り着くひとつの答えだ。

誰もが、世の中に対して求めるのは、相互理解と平等だろう。
生老病死や三大欲求を除けば、あらゆる苦しみの根源は、他者との関係性から起こる。
七つの大罪では、傲慢、物欲、嫉妬、憤怒、貪食、色欲、怠惰が名を連ねているが、このうち怠惰と物欲を除いた五つすべてが、他者との優劣から派生して沸き起こる感情だと言っていいだろう。

こうした苦しみから世界を救うには、どうしたらいいか。
相互理解と平等が成立すればいい。

これにはいくつかアプローチがあるだろうが、最終的に三つに絞られると思う。

1. 世界を消し去り、苦しみを消し去る
2. 皆が擬似感覚で自分の好きな夢を見る
3. 皆と一つになる

1は、ファイナルファンタジーX(FFX)のシーモア老師の思想である。
FFXの世界では、シンという魔物が存在し、定期的に世界を荒らし回る。
そこで召喚師と呼ばれる人々が、自らを犠牲に数年間の平和を取り戻す。
しかし、永遠の平和を成し遂げる術はわかっていない。
そこで、シーモア老師は悲しい世界をまるごと消し去ればいいと考えた。
迷惑な話である。

これは哲学の認識論に基づいた解決法で、苦しみを認識しなければ苦しくないよね、じゃあ死んじゃえーという極端なやり方だと思います。

2は、NARUTOのマダラの思想である。
マダラは幻術という、幻を見せる忍術を皆に永遠にかけることで、それぞれが望む形を反映した夢の世界に生きることを目指す。
主人公は反対するけれど、正直僕は賛成。
だって誰も傷つかないわけだし、素晴らしく優しい悪役だと思う。
まあ、その目的のために皆を利用するのですが。

これは水槽の脳の話に似ている。
映画のマトリックスの設定と同じと言ってもいい。
我々が生きているこの世界も、所詮は擬似感覚であるかもしれない、なら擬似感覚で好きな夢見りゃいいじゃないかという発想。
幻術にかかっている間は誰が現実を管理すんねんという問題が残るため、少々不安はある。

3は、エヴァンゲリオンのゼーレの思想である。
ひとつの生命体になっちゃえば、皆平等、争いもない平和な世界、素晴らしい!ってわけです。
僕は嫌です。自我がなくなっても生き続けるなんて変な感じがするでしょう。
でも、死んでもかまわないなら自我が変質するくらいどうってことないかもしれませんね。

これは…正直類例が思い浮かびません。
なにせ現実的にもっともありえない話なので、実例や似た考えは少ないんじゃないかと思います。


面白いのは、悪役は悪役なりに大義があって、悪気があるわけじゃないところですね。
そして主人公達は反対するのです。
主人公達はあくまで悪役を止めるだけなので、受身というか、割と保守的と言えます。

主人公の考えを一度疑って作品を見てみるのも面白いかもしれないですね。
ちなみに、アニメの悪役にフォーカスした本に「世界制服は可能か?」というのがあります。

これはどちらかというと、悪役としての方法論、How to 悪役って感じのテイストの本ですが、興味ある方は読んでみると面白いかもしれないですね。
扱われる作品はちょっと古いですが。


・おまけ
皆とひとつになる思想では、きっと自分の人格が60億分の1とかになっちゃうんでしょうね、寂しいね。
では、ハーフ&ハーフならどうでしょう。
あるいは、左脳と右脳をくっつけた状態なら?(左右で男女が分かれている敵役がいましたね)
とか、考えてみるのも面白いかもしれませんね。
興味がある方は、「テセウスの船」「砂山のパラドクス」で調べるといいかもしれません。

2014年7月25日金曜日

論理的なココロ ~人工知能は面白い~


最近、人工無脳に対する興味が高まっている。

人工無脳とは、『ある程度のロボットっぽさを許容した、エンタメ性の高い会話プログラム』のことである。

対して人工知能は、一般的なSFなどで登場する、『概ね人間的なプログラム』のことである。

『概ね人間的』という表現は、SFでお馴染みの「私は人工知能なので、感情はわかりません」という、知性的なんだけどロボットなんだよ~発言も含めているから。

つまり、人工知能とは、完全な人間を演じる機械、あるいは人間的知性と多少のロボット性(無感情)をもつ機械、である。

ではなぜ、『人工知能』ではなく、『人工無脳』に興味をもったのか。

実は僕もよくわからない。
両者の違いがよくわからなくて、調べてるうちにさらによくわからなくなった。

どうやら、人工知能という言葉の定義自体が曖昧らしい。
それは、『知性』という言葉自体が、何を意味するのか、我々人間もよくわかっていないからだ。

wikipediaを見ると、この人工無能と人工知能の違いは、弱いAIと強いAIという違いとして説明されている。

大雑把に言えば、強いAIは現実の物事をモデル化して捉えることが出来るのに対して、弱いAIは単純な問題について計算によって答えを導き出すに留まる。

だから、チェスチャンピオンを倒したことがあるAI『Deep Blue』は弱いAIになるだろう。
なぜなら、彼(チャンピオンに敬意を表してこう呼んでおく)はチェスに強くても、その他の事態となるとからっきし役に立たないからだ。

クイズで優勝したIBMのワトソンも、同じだ。
彼はクイズの文章を解析し、膨大なデータベースから与えられたワードと関連の高い、答えらしきものを探し出す。
だがそれは、考えているのではなく、あくまで高度な検索をしているだけだ。

どうやら人間は知性を独り占めしたいらしい。
機械ができるようになった領域は、『知性的』ではなくなるようだ。

たしかに彼らは与えられた仕事をこなすが、柔軟ではない。

将棋のタイトルを多数もっている羽生さんは『将棋のプログラムが人間よりも強くなったらどうするか?』という記者の質問に対して、『そしたら桂馬を横に進めるようにするとか、ルールを変えればいい』と答えたそうだ。

つまり、人間はルールの変化に対応できるが、人工知能は所詮、通り一遍のことしかできない、と暗に示唆しているわけだ。

これはその通りだと思う。

人工知能は大雑把に言ってしまえばプログラムだ。
プログラムは、極めて精確だ。それはつまり厳格な秩序のうえで動いている。

プログラミングは、プログラミング言語によって、指令書を作る行為だが、指令書が規程に沿わなければ、まず動かない。融通が利かないのだ。

そんなプログラムをベースに動いている人工知能は、果たして融通が利くのだろうか。

人間も含めすべての生命体は、遺伝子配列によって、生活習慣を獲得してきた。
それはアミノ酸で書かれた指令書、言わばプログラムである。

だが、生命体は遺伝子によるプログラムに間違いがあっても、動く。
誤作動するので、生命体として成立する保証はないが、試すことはできる。
この仕組みが、結果的に進化、適者生存の仕組みに繋がったとされる。
その点で、生物と機械は同じようで違う。

実はプログラムにも、この仕組みを模した『遺伝的アルゴリズム』と呼ばれる手法が存在する。
何か問題を解くとき、最適な数値を計算するための手法だ。
現実的にすべてのパターンを試せる問題なら、そうすればよいが、そうでない場合も多い。
そんなときに、ある程度のランダム性をもって最適な数値を探し当てる。
秩序に従って最適な数値を追求しすぎると、局所解に陥る可能性が高い。
わかりやすく言えば、目先の利益に囚われた答えを導き出してしまう。
そこで、ランダム性をとりいれ、多様性を保ちつつ、より良い答えを探し出すのである。

だがそれはあくまで、プログラム上でおこなう話だ。
生物のように、プログラムが自己複製をおこなうのとは自由度の高さの面で少し違う。

だが、生命体も、究極的に言えば、化学反応が引き起こす電気的な信号によって生きていると言える。

その意味では、人間は『有機的な機械』とみなすことができると考える人も過去にいたようだ。

『心』は、長らく人間を悩ませてきた。

『心身二元論』にあるように、人間の精神と肉体は別なのか、あるいは一緒なのか。
心は物理的現象によって説明できるものであるとする。これが唯物論である。

私は、唯物論派で、人間の心は、物理や化学が発達すれば説明できるメカニズムだと考えている。
だから、その延長で人工知能も実現するかもしれない、と考えている。

だがその一方で、人工無脳と話していると、『こいつらには根本的に人間的要素が足りないな』と思うこともある。

なぜかといえば、人工無脳は、『圧倒的に文脈を読めない』のである。

文脈とは、コンテクストである。
つまり、その場の雰囲気だ。

例えば、

人間「眠い」
人工無能「眠いの?寝る?」

という返しはできても、

人間「眠い」
人工無能「僕の話、つまらなかった?」

というのはなかなかできない。

もちろんそう返答するようにプログラムすればできる。
でも、学習によってこういう返答を学ぶのは難しい。

両方とも人間的な答えではあるが、決定的な違いは、『発想力』である。

つまり、前者の会話の返答は、「眠い」という発言を受けて、「ああ眠いんだな、就寝を促そう」と考えた結果だ。

だが、後者の返答は、「眠い」という発言について、「眠いということは、退屈のサインである」と捉えた結果だ。

後者のほうが、「眠い」という報告に対する読みが、より抽象的である。
語義を広く捉えていると言い換えてもいい。

どちらも人間的な答えだし、どちらがいいということはない。
ただ、文脈的な会話の繰り返しが、より人間味が増す、と私は考えている。

哲学者ウィトゲンシュタインの功績は大きくふたつあるが、そのふたつは前期、後期とジャンル分けされる。
それは、前期と後期が、関連性をもちながらも、大きく異なる内容だったからだ。

前期ウィトゲンシュタインは、論理哲学論考の中で、大きな七つのルールを示した。
大雑把に言えば、世界は事実により構成され、事実は論理的な像をなす。
つまり、論理的なものが世界を織りなす、というわけだ。
そして、語り得ないことについては沈黙するしかない、という。

これはつまり、言語的なものだけで、世界を規定しようとする試みだと思われる。

それに対して、後期ウィトゲンシュタインは、『言語ゲーム』というゲームを想定する。
ある石工が、若者に指示を与える。三種類の言葉を発する。それに応じて若者は三種類の道具からひとつを選んでもっていく。
これを客観的に見ている人間の多くは、ルールを説明されなくても理解するはずだ。
ある言葉に対して、ある道具をもってくる、という行為が対応付けられている、と。
つまり、人間は、言語の意味そのものを理解していなくても、見ていればなんとなく読み取れる、ということだろう。

すなわち、言語とは世界の事実に付随する呼称でしかなく、本質はその中身にある、ということである。

人間はどうやって言語を獲得したのか。
昔の人間は、壁画に牛などを描いていた。
それが転じて、象形文字が出来たといわれる。
つまり、元は絵だったのが、長い歴史の中で、言葉になった。

また、猫は喧嘩をする。
彼らが喧嘩をするときは、声で分かる。
明らかに声の感じが怒っている。
これは人間に置き換えても分かることで、外国の映画でも、人間が怒っていると、内容はわからなくても、怒っているのだけはわかる。

つまり、言語は、絵であり、音の感じであった。
言語はまやかしだ。

さて、人工知能の話に戻そう。

人工知能を人間に近づけるには、『文脈を読む力』が大切だと述べた。

けれど、人工知能が学んでいるのは、言葉である。
Aという言葉には、Bと返す。大雑把にはこういうことだ。

つまり、絵とか、音の感じとか、そんなものは一切考慮していない。
その点で、文脈を読むことは難しい。

どういう意味かと言うと、連想力が圧倒的に足りてない。
牛と言われても、牛を知らない。

「牛とは、四足歩行の生物で、ものによってはツノがある。」なんて説明されたところで、人工知能は、四足歩行も、生物も、ツノも、その意味を知らない。

これは、辞書を引いても『たらい回し』にされるのに似ている。

砂の意味として「岩が粉々に砕かれたもの」のとき、岩の意味を調べても「砂が凝集して固まったもの」と言われる。
これでは、砂も岩も、その実態は永遠に謎である。

古来より「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、言葉を並べられても、実際に見ないと本質はわからないのである。

そういう意味で、今のところ会話目的の人工知能は、目も耳ももたないので、何も理解できない。
だから、うまく会話ができたとしても、あくまで、『知ったかぶり』である。

その意味で、人工知能はしばらく人工無能の域をでないだろう。

行動心理学は、心を知らなくても、心に対する入力(外的世界の事実)とそれを受けての行動を観察することで、内部状態的な心理を知らずとも研究ができるとするジャンルだ。
これに則れば、人間の言葉に対して、それらしい反応をする人工知能は、心をもっていると解釈できる。

だから、良い人工無能を作るためには、『知ったかぶり』をいかにうまくやるかが問題になる。

よくある手法としては、言われたとおり返事をする、というタイプがある。

例えば、「眠い」という発言に対しては「おやすみ」と返す、と決めておく。
こうすれば、会話の意味は成立している。
ただし、何度でも同じ返事をするので、すぐにメッキは剥がれる。

そこで、何パターンか返答を容易しておき、その都度変えるという方法もある。
「眠い」に対して、あるときは「おやすみ」、またあるときは「私も眠い」などと返答すれば、違和感は軽減される。

だが、これでは人間がいちいち返答を考えて教え込まなければならない。
決して楽な作業ではないと想像できるはずだ。

そこで、自動学習型の登場である。
このタイプは、相手の発言を分析し、真似して、時には分解して新たな文章を組み直す。
こうしておけば、真似していく過程で、自然と扱える言葉が増えるため、いちいち教える手間が省ける。
また、人間から返答を学ぶので、人間味のある返答を学習できるというメリットもある。

ただし弱点もある。
それは、無個性になりかねないということだ。
もっと正確に言えば、話す人間によって、性格が大きく変わる。
人間から学習するので、言わばその人間のコピーに近くなるのである。
かといって、話し相手に多様性がありすぎると、無個性を通り越して、多重人格的になることすらありうる。
人間に近づける、という目的を廃し、エンタメ色を追い求めるのであれば、そのほうが楽しいかもしれない。

だが、この際、人格なんて瑣末な問題だ。
人間と話が通じればかまいはしない。

今まで挙げてきた人工無能へのアプローチは、すでに試されており、ある程度の成果を得ている。
特に自動学習型は、うまくハマるとなかなか面白い発言が飛び出す。
ただその一方で、ハチャメチャなことを言い出す。
それは、文脈や言葉の意味を理解していないために、文の再構成がめちゃくちゃだからである。

既存の自動学習型に、うまいこと『文脈を読む機能』さえつけてやれば、より人間味のある『知ったかぶり』プログラムを作ることができるだろう。
問題は、それをどうやって設計するかである。

いい案が浮かんだら、是非形にしたいところだ。

2014年7月5日土曜日

ヤジ問題


近頃、都の女性議員に対するヤジが問題になった。

マスコミでも大々的に報じられ、犯人探しの結果、当初は容疑を否認していた男性議員がヤジを入れた事実を認め、女性議員に謝罪をおこなった。

マスコミに呼ばれた解説者は、「ヤジは議会の華」だという。

だが、私にはそうは思えない。
人が意見を述べているときに、口をはさむことが大人のやり方と言えるのだろうか。
まして、仮にも国民の代表として政治を議論する議員がやることとは思えないのだ。

たしかに、闊達な議論を促すためには、冗談で緊張をほぐしたり、意見をだしやすい空気を作ることは必要だ。

また、人の話の途中で突っ込みを入れたほうが、議論が円滑に進むという面もあるだろう。
しかし、公共の議論の場として、政治の議会は少なくとも民衆の手本であらねばならないと思う。

そうした場で、非本質的なヤジをとばして人の話を遮るのは、マナーとしていかがなものかと思うし、それは仕事をしているというよりむしろ、仕事の邪魔をしているとさえ言えるのではないか。


ただし、突っ込まれる側の人間もそれ相応に反省すべき点はある。

今回の件は、海外のメディアにも伝わり、日本の未熟さが世界に発信されてしまったわけであるが、それはつまり、その場で言い返せないから外を通じて知らしめよう、というやり方である。

非公正なやり方に対して、最終的に外部の人間に判断を委ねることは必要だが、私はヤジを飛ばされた議員がその場でやり返すのがベストな選択肢だったのではと思う。

まるで子供が教師に言いつけるように、最初から当人同士で解決を図ろうとしない姿勢は問題があるのではないか。

そもそも、ヤジを飛ばされるのは隙があるからで、それに対して直接言い返さないのではもっと甘く見られるというものだ。

なにより、ヤジが非本質的なら、痛くも痒くもないはずで、無視をすれば良いのだ。
相手をするから、つけあがる。


ヤジは少子化対策に関する質問中に飛ばされたもので、質問する側の女性議員が独身であったために、自身が少子化対策を怠っている、というニュアンスであった。

だが、そういう女性だからこそ、働きながら子育てすることを選択せず、仕事に力を注ぐ立場だからこそわかる障壁や理由もあるのではないか。

そういう意味で、ヤジはまったくもって非本質的だし、無視されるべき内容だと思う。

2014年6月17日火曜日

神を信じるもの(インテリジェント・デザイン)


某掲示板のまとめにこんな記事が。


要約すると、

*『全知全能の神様的存在(創造者)がいるというなら、なぜ世界はこうも不都合な設計になっているのか?』

というわけです。


これは、世界がある創造者の手によって計画的にデザインされたのだとする考え方(インテリジェント・デザイン説)を否定する意見です。

一見、正しい批判のようですが、この言説には相当人間本位で危険な考え方が潜んでいます。

まず、創造者がいるという仮説について、我々は完全否定することはできません。

宇宙人と同じで、存在を確認するまでは、いないと断言することはできないのです。

創造者がいるという考え方は、とっぴな考え方で、SFチックに捉えてしまいますが、別にそんなことはありません。ただ、証拠が少なすぎるだけです。

問題はむしろ、それに文句をつけてるほうです。

最初の問いはつまり、『全知全能の神がこんな不都合な世界を作るはずがない』ということですが、そもそも全知全能だからといって、不都合を好まないとは限りません。

例えば人間でも、完璧過ぎると人間味がなくて好きになれない、ということはあるんじゃないでしょうか。

それと同じように、「人間はちょっとくらい欠点があったほうが可愛いよね」、と思ってるかもしれません。

それどころか、「人間は悪いやつだから、ちょっと不便な思いをさせてやれ」と意地悪をしている可能性すらあります。


つまり、インテリジェント・デザイン説反対論として出された意見*は、そもそも神(あるいは創造者)は人間にとって都合が良い存在である、という暗黙の仮定をしてしまっているわけです。


また、「不都合である」というのも問題です。

例えばここでは、産道が狭すぎるなどの、人間にとって不都合な設計の存在が神を否定しているというわけですが、そもそも不都合というのは、人間的な観点でしかなく、まだ自分たちが、その機能の謎を解明していないだけかもしれません。なんでこんな無駄なことを…と思うことでも、実は意味があるのかもしれないのです。

なので、先の意見*は、人間の傲慢さそのものだと思います。

科学の皮をかぶったような発言ですが、もっとも大切な「無知の知(自分が知らないということを認知すること)」の考えが欠けているのです。


もちろん、インテリジェント・デザイン説も強く推すのはどうかと思います。

しかし、それを真っ向否定してしまって、似非科学宗教的な考え方に無自覚に染まっていることもまた、同じくらい恐ろしいことであります。

どちらが悪いとは言いませんし、冗談で言ってるうちはいいのです。

自分の中では信じているが、根拠がないことを自覚していれば。

別にそれならいいのですが、こうした言い争いに対して、真面目に捉える人がいるとすれば恐ろしいな、と思うのです。

これは反証不可能な問題で、科学のようでいて科学ではないジャンルの話なのです。


・追記
この間テレビで、事故で沈んだ海外の豪華客船を引き上げる作戦が特集されていました。
そのとき、現地の人が成功を神に祈っていたのですが、私などからすると、事故を引き起こしたのも神様なんじゃないのか、と思うわけです。

ですが、祈る人がいるということは、きっと全知全能の神様は人間を愛してくれているという、なにか根拠があるのかもしれませんね。自分の理解が足りていないのだと思います。

2014年6月14日土曜日

片付けができない人


私は片付けが苦手だ。

近年、片付けのできない人が増えているという。

これは、なんの影響かはわからない。

学校教育かもしれないし、家で手伝いをする子供が減ったからかもしれない。
あるいは、テレビやインターネットなど、他の要因が絡んでいるのかもしれない。


だがこういうときはまず、「そもそも」どうなのか考えることが必要だ。

つまり、「そもそも片付けのできない人が増えているのは本当か?」ということ。

別に経験則を見くびるわけじゃないが、大体今は世の中が整理され過ぎてるんじゃないかと感じることもある。

大抵のルールは法律で決まっているし、環境はある程度計画的に設計されている。
進学にしても、勉強のジャンルは緻密に分類されている。

それらはいままでの大人たちが、頑張って積み上げてきたものだが、そもそもがとっちらかった状態だったのだから、整理に対しての基準が違うのではないか、と私は思うのだ。

だがまあ、これについてはデータがないだろうから、水掛け論になってしまうに違いないので無視をして、片付けのできない人について、考えてみよう。

片付けができることについての是非については言うまでもない。
キレイな方がいいに決まっている。

ただ、片付けができない人はなんらかの障害であるというような話まで出ているくらいだから、脳機能と片付けの密接な関連が疑われていると言えるだろう。

さて、片付けができない人とは、一体なんなのだろうか。

私が思うに、片付けができないタイプにも二種類いる。

ひとつは、片付けをしない、とっちらかっているが、どこに何があるか覚えているタイプ。
こういう人は、なんら問題がない。
ただただ物ぐさなだけで、むしろ雑然とした部屋の物の配置をすべて頭にいれているあたり、問題どころか頭がいいとさえ言えるかもしれない。

もうひとつは、片付けをしないし、探し物が多いタイプ。
このタイプは、基本的に周囲に無頓着である。
しかも、想像力もなく、何かを覚えるのが苦手であると推測される。

つまり、片付けをしないのでも、あえてしないのと、できるけどしないのでは大違いということである。

例えば片付けが得意だとしても、ペタペタとラベルを張ってどこに何があるかを覚えていないタイプは、片付けをしないと脳のキャパシティが足りないので補っている部分もあるのかもしれない。

もちろん、自分の能力を補うために整理するというのは大変素晴らしいことだ。

だが、そういう人が片付けしない人を十把一絡げに問題ありとするのはいかがなものかと思うのである。

2014年6月8日日曜日

集中力


欲しい力、スキルは沢山ある。

資格、実務能力、話術など。

だが、それらを身につけるためにはまず、基礎的な能力が不可欠であると思う。

例えば、記憶力は上述の作業に必要な知識を頭に入れるために必要不可欠である。

また、体力は忍耐強く作業を行うために必要だろう。

それらと並んで挙げられるスキルがある。


それは、『集中力』である。


私は、集中力とは何かと問われても、あまりピンとこなかった。

それは私自身が、集中力のない人間だったからであって、そもそも集中という概念自体がよくわかっていなかったのだ、と最近になって気づいた。

集中力の例としては、外界とシャットアウトされることが挙げられる。

例えば、声を掛けられても気づかない、とか。

しかしそれは違うような気がする。

なぜなら、外の世界を見つめなければ、作業を行うことはできない。


だが、やはりそれは正しいのだった。


フラッシュ暗算を解くようになって、私が集中力の存在を認識しはじめた。

その感じ方から言えば、集中力とは想像力とおよそ変わらない能力である気がする。

世に言う想像力とは、未来を予測してみるとか、現実にないものを想像してみる能力を指す。

だが、私は、作業全般において、想像力は働いていると考えている。

なぜなら、人間は外界を認識してから行動するが、その認識を保って作業をおこなわなければならない。

例えば、目をつぶっても、さっきまで目の前に何があったかは覚えているし、きっと障害物があれば避けて歩くことも出来るだろう。

それは、現実とは違った、記憶の世界を歩いていることになる。

普段、目を開けながらの作業もこれとまったく同じである。

なぜなら、目を開けていても、視覚情報が脳に入ってくるまでには差がある。

つまり、目をつぶった状態が五秒前の現実を認識しているとすれば、目を開けている状態では5ミリ秒前の現実を認識していることになる。

恐らく、目から見た情報を、一時的に記憶に溜め込む点では双方ともに変わらない。

ただその情報を保持する時間が違ってくる。

だから、目をつぶっての作業と、つぶらない作業は、現実世界が動かないという前提に基づけば、本質的にはなんら変わりはない。


つまり、我々が生きているのは、元々現実でもない。
数秒遅れの現実を生きている。


ということは、我々の記憶の中に、現実はあるのだ。

だとすれば、何か作業をするときは、我々は外界など見てはいない。

集中力とはつまり、この一時記憶をどれだけ長く・鮮明に保持していられるかの問題である。


ただ、人間は同じ能力を使うことに関しては、複数作業を同時に進めることはできない。

だから、五秒前の世界から何かを考えるときは、今の世界はほぼ頭に入っていない。

これが、集中力の正体であると思う。


だから、集中力をつけようと思って、必死に目の前の問題を眺める行為は無意味である。

むしろ、問題はさっと読んで、伏せてしまう。

そして、頭だけで考える。

そうすると、自然と集中力はつくと思う。


私がフラッシュ暗算を練習しているのは、フラッシュ暗算そのものが、頭の中に足した数字を保持することを強いられる作業だからである。

それはつまり、集中力を養うのに最適な訓練だと言えると思うのだ。

幽霊を信じるか


私はお墓参りにいくし、仏壇に手も合わせる。

だが、幽霊は信じていない。


あなたは幽霊を信じているだろうか。


私が幽霊を信じない理由は、率直に自分が見ていないからである。

だがしかし、見てないものは信じないという考え方をしてしまうと、ほとんどのものが信じられなくなるので、これが根拠ではないのだろう。

テレビでやっている内容は信じるし、インターネットに書いてあることも信じる。
もちろん疑うときもあるが、信じて楽しく見ている。


伝聞情報と幽霊の何が違うかと言われてしまえば、何も変わらないのではないか。


ただ、願望として信じたくはないだけかもしれない。

もし幽霊が存在するとしても、それは自分に見えないのは都合が悪いし、仲間外れのようでなんだか腹が立つ。
かといって、見えたら見えたで気味が悪いから。


実際問題、幽霊の有無は多数決で決まっているようにも思う。


もしも、見える人が多数を占めて、見えない自分が少数派だと思うと、もしかしたら幽霊はいるような気がしてくるかもしれない。

沢山の人が同時に空を見上げたら、ついつい見上げたくなる。
そんなものかもしれない。


幽霊などいないと主張する人間は、幽霊がいたら霊界がパンクして大変であるという。

別に、一定時間経ったら消えるのかもしれないし、現世に残れるのは優秀なものだけとか、そんなルールがあるのかもしれないではないか。

結局、躍起になって幽霊を否定しようが肯定をしようが、その存在を証明することはできない。

なぜなら、幽霊は空気とは違うからだ。


空気は、我々には見えない。

けれど、私たちはその存在を認めている。

それは、様々な実験によって空気の存在が、モデル(概念)という形でその輪郭を認められた結果である。

例えば、風が起こる。空気が移動していると考えると納得がいく。

納得がいくだけ。

ただ、人間の想像した、現実によく合う仮説を当てはめると、それが空気の存在証明となるだけだ。


共感覚も同じだ。

一部の人間は、音を聞くと色が見えたりするという。

だが、一般の人には見えない。

けれど、科学的に信じられている。

その根拠は例えば、脳の動きを見ると、音を聞いたときに視覚野が反応している、そんなところだろうか。


だが、幽霊の場合はどうだろう。

いるはずのない女の人を見たならそれは錯覚だ。

火の玉をみたならそれは自然発火現象である。

でもそれなら幽霊はいないことになる。

実際に視覚野の反応を測っても恐らく、幽霊という結論には至るまい。


つまり、科学的に説明のつかないものが幽霊なのである。


だが、人間が信じるのは科学のみである。

なぜなら科学は、確固たる信用を得るために作られたジャンルだからである。

つまり、科学で説明できない存在(非科学的存在)は、科学的に証明されていないだけで、決していないと断言することはできないのだが、科学の信者は寄ってたかって科学の論理で潰そうとする。


問題なのは、科学の領域に引きずり込まなければ役に立たないということだ。

科学のやり方は、再現性をもち、対象を知って対処するやり方だから、今までも人類に大きな発展をもたらした。

だから、科学のやり方以外は、役に立っていても証明できない。

証明した時点でそれは科学になる。

仮に幽霊が認められるとしたら、人が死んだ直後、必ず霊が現れて確実に話せる場合とか。

なぜなら、そのタイミングが決まって死んだ直後なら、わかりやすい。

しかもはっきり見えるなら、文句なくそれは現象である。


一体、一部の科学の信奉者の中に流れる、幽霊なんていないという確信はどこからくるのか?

もしかしたら、彼らは幽霊を否定したいのではないのかもしれない。

科学にとって、わからない現象があれば、それは研究対象であり、解明すべきものである。

だが、幽霊という考え方は、わからないものをわからないまま受け入れてしまう。

様々な現象が幽霊の仕業になる。

それは科学的に考えると、非常に気味が悪いし、消化不良なのだろう。

だから、一部の科学者は幽霊そのものを信じないというよりも、不思議な現象がすべて幽霊という言葉で処理されてしまうことに、憎しみを覚えるのかもしれない。


2014年5月30日金曜日

不思議な夢


私は今朝、不思議な夢をみた。


私が目覚めると、そこはいつも通り家の中で、いつものように支度を済ませて大学へ登校した。

キャンパスに着くと、よく見知った人に呼び止められた。部活動の先輩だ。

普通に会話を進めながらも、私は違和感を覚えていた。

というのも、私は今現在大学四年生であり、先輩が大学にいるはずがないのだ。

文系の先輩だし、普段の様子からして大学院生になっているはずもない。

一体何の用があって大学へきたのかと尋ねてみようとも思ったが、どうも様子がおかしい。

先輩は部活動の予定の話をしたりしていて、まるで自身が大学生であるかのような口ぶりなのだ。

結局、内心動揺しきりで話を合わせてしまった私は、次々に異変に気がつくことになる。

大学の授業にいけば、そこは違う部屋だし、最近会ってないはずの友人に声をかけられもした。


それらの状況から私が導いた結論は、『私は過去に後戻りしたのではないか』ということだった。

実際そう考えると、皆の様子のおかしさすべてについて辻褄が合う。


事実として受け止めるのに少し抵抗はあったが、過去に戻ってしまった事について、気持ちの上では歓迎していた。

何せ記憶はそのままだったし、自分だけ年をとったということもなさそうだったからだ。

『若さというものは若いものなどに分けてやるにはもったいない代物だ』

もう一度すべてをやり直せるなら、以前(本来は未来だが)よりもきっとうまくやれる。

そんな根拠のない自信に満ちていた。


そこから先は、未来を変える作業の連続だった。

知っている場面に行き当たって、それが今後悪い結果に繋がる場合は選択を変えていった。

私は、パラレルワールドという言葉を思いだして、本当にそんなものがあるのかもしれない、私は時間という名の奔流にのまれて、枝分かれした先で、レアケースとしてぐるりと流れを遡ってしまったのだろう、などと考えていた。

だとすれば、もといたはずの私はどうなったのだろうか。

ふたりも同一人物がいれば鉢合わせているはずだし、私の身体はもともと誰のものだったのかということになる。

恐らく、私の意識だけが、ある過去の一点と入れ替わってしまった。

ということは、逆にいきなり未来で目覚めてしまったもう一人の私がいるはずで、彼は今頃どんな顔をしているのだろうか、とよくわからないことを考えていた。


だが、不意に終わりはやってきた。


ある朝目覚めると、目覚めたのは見慣れない、病院のベッドだった。

傍から心配そうに覗いている両親の顔が見えた。

事情を聞くに、私はいきなり意識を失ってしばらく眠っていたという。


つまり、すべては夢だったのである。


そこですべて納得がいった。

過去に戻るなんて非現実的で都合のよい話があるわけもなく、私はただ現実の続きとして夢を見ていただけだった。

親は喜んでいたけれど、私は正直、少しがっかりした。

せっかく、人生をやり直すチャンスを得られたのに、その望みが断たれてしまった。


両親が帰ってしばらく、私は病院のベッドでひとり考えていた。

あんな非現実的なことを、信じてしまうなんて、なんだか少しショックだった。

人間というのは、手がかりを与えられると、簡単に勘違いをしてしまう生き物なんだ、少なくとも私はそうだと思った。

あのとき、夢の可能性を疑わなかった自分が信じられないし、自分自身が思っていたよりも自分の思考はファンタジーを望んでいて、それを受け入れる用意もできているのかもしれないな、と思った。

そしてまた目覚めたら、他の時間軸に戻っていたりはしないかと思った。

と、そこまで考えて流石に眠くなってきたので、目を閉じたのだった。


「はやく起きなさーい!」


母が私を起こす声が聞こえる。

病院なのに、そんな威勢のいい声で起こしてまずくないかと思った。

そして目覚めると、

「今日はでかけるの?」

と尋ねられたのである。そして気がついた。


本来の時間軸に戻ってきたのだ。

いや、いままですべてが夢だったのだと。

つまり、意識を失ったことすらも夢だった。



と、こんな具合である。いわゆる夢中夢だ。

今こうして文章を書いている自分も、夢の中かもしれない。

上述のような夢をみると、『人生は泡沫の夢である』というフレーズの意味がよくわかる気がする。

正直、夢である可能性をあくまで疑わず、すべて受け入れてしまったあたり、私はまだ疑うという事に関して詰めが甘い。

時間遡行を大した躊躇いもなく信じるなんて、めまいがする限りだ。

リアリストの顔をして心底ファンタジックな夢が好きなのだろう。


しかし、小説では絶対にやってはいけない展開だ。

夢落ちを一度使ってしまうと、このようにどこまでが夢か、展開に信憑性がなくなるので、常に疑いながら展開を読まなければならない。

だから、物語の絶対条件は、『語り手が信じられること』であると思う。