2012年9月17日月曜日

悪夢


夢を見た。

先月別れたはずの彼女と、ベッドの上でのんびり過ごしていた。
笑顔を浮かべて、お互いをからかいながら、愛情溢れる怠惰な朝を過ごしていた。
とても幸せだった。

夢から覚めたときの虚しさは言い表しようがない。

もう一ヶ月近くが経ち、想いも払拭出来たと考えていた。
彼女を思わない日はなかったとはいえ、心の整理はつけたつもりだった。
彼女という仮宿に預けた心を回収して、自らの堅牢な砦を、心の中に築いている中途であった。

そう思っていたのは、どうやら私の表層だけだったようだ。

人はどうしてこうも自分の心がわからないのか。
まして他人の気持ちなど、わかるはずがない。

それでいて、もし彼女が復縁を申し出てきたらどう断ろうか、などと考えている。
想いがありながら断ることもおかしいが、そもそも彼女が復縁を申し出てくるなどという考えをすることがおかしい。
彼女の方から、それも半ば私の狭量に呆れる形で去ったのに、未だにそんな都合のいい妄想をしている自分が滑稽でならない。
何より惨めだ。

あるいはその架空の申出を想像上断ることで、自らに潜む未練に終止符を打ちたいのかもしれない。
そんな自分がとても嫌になる。

都合の良い、非現実的な出来事を空想する自分。
その申し出を断ることでふられたという事実を認めたくない自分。
その中で相手の後悔する姿を喜ばしく思う自分。

すべては私の幼稚さと、狭量を物語っている。
ふられた原因を突きつけられるようだ。
自分の扱いにくさを自覚する。

何より彼女がもう一度戻ってはくれないかという、淡い期待を自覚するのがつらい。
結局好きだったのだと素直に認められない。
二度と帰ってはこないとわかっているのに、認めたところで今更どうなるのか。

twitterを開けば、おすすめユーザーに彼女の名前が表示される。
もう勘弁してほしい。
機械学習のシステムまで私の精神に踏み込んでくるのは。

人間が諦めをつけるというのは難しいことだ。
だが一度穏やかになれば、きっと二度と波立つことはないと思いたい。
それは同時に、一度失った彼女の心は二度と帰ってこないということでもある。
あまりにも皮肉だ。

何より、女性よりも男性のほうが諦めが悪い。
世間でもそう言われている。
だからきっと、こうして不燃の想いを抱えているのは私だけだ。
その考えが、より状況を悲しくする。
しかし失恋とはそういうものだ。
どちらかが未練を残す。
だからせめて、彼女にこんな想いをさせなかっただけよかったと、そう考えるしかない。

私の心に凪が訪れますよう。

2012年9月15日土曜日

路傍の石【同名の本とは関係ありません】


人は皆、路傍の石だ。
興味のない他人を見つめるとき、人には他人が、あたかも路傍の石のように、何の意味も、何の害もなさない、ただそれだけのものに見えているに違いない。
例えば都会の雑踏で立っていると、誰一人として自分に見向きもしない。

私はいつも感じる。
何の力も才能も持たない人間は世の中にそれこそ溢れかえるほどおり、私もその中の一人でしかない。
ましてや凡庸ならまだいい、凡庸以下である。
人々は良くも悪くも突き抜けた存在には関心を示すが、半端者に目をくれるものはいやしない。
若い時分は、少しでも良い一面をみて、丁寧にすくい上げてくれる人間がいつか表れるのではないかという仄かな期待を持ったものだが、そんなものは夢想でしかないと今は知っている。

能力的な問題で、社会や人にとって寄与し得ない人間はどうすればよいのだろう。
毎日を生きるのに精一杯で、他人の役に立つことなどできるわけがない。
そんな想いを抱えて日々を過ごしている。

ときどき、似た人間に出会うと、鏡を見ているようで惨めな気分になる。
不細工が鏡を見たがらないのと同じ、同族嫌悪というやつだ。
仲良くしようにも「おれは違うんだ」という妙なプライドが尊大な態度を生み出し、碌なことにならない。

いっそ孤独を選ぼうにも、一人で生きてゆけるほどの力はないし、それが如何に難しいかは知っている。
生きるというのはどうもいけない、不平等が常につきまとう。
あいつはあんなにいい思いをしているのに、どうして自分だけこうなのか、と思う。
そんな雑念が活力さえも殺いでゆく。

その点死は平等でいい。
死に様は違うだろうという反論があるかもしれない、だがあれは生き様であるから、死はやはり平等である。
命の価値は根源的に平等だと言い出す輩がいるかもしれない。が、そんなのは綺麗事であって、合理主義の果てに命の平等はない。

だが生きることに文句を垂れても、困ったことに死ぬ勇気は沸いてこない。
死ねない以上は生きていくしかない。

私が自ら死を選ぶときがあるとするなら、それはきっと自己という存在が社会や周囲の人々に害悪を及ぼし始めたときになるだろう。そのときすでに私は路傍の石ではない。

そう考えれば、今はまだなんてことはないのかもしれない。

2012年9月14日金曜日

とげとげしい心


人に話しかけられて、うまい返答ができない。
何か気の利いた返答ができればいいのだが、面倒が勝つ。

何かしらマイノリティな一面を抱えてしまうと、共感を得るのが難しいためか、人と関わる機会が少なくなる。
たまに話す機会が訪れても、とげとげしい態度で応じてしまうということがままある。
一度や二度ならいいが、度重なってくると当然ながら相手は気分を害するし、必要以上には話しかけてこなくなる。

ときに寂しいと思う。
だが寂しささえも表に出せば、相手に重みを感じさせてしまう。
寂しさという感情は、自己顕示の態度として、言葉の端々に滲み出してしまう。

こうして心は刃のように、細く、鋭く研がれてゆく。
触れれば怪我をするか、もろく崩れてしまうように思える。

友達は多いほうがいいだとか、友達がいないのは寂しいだとか、そんな理想や幻想はいっそ、捨ててしまうのもよいかもしれない。
そんなものは、多数派にしか許されない楽しみ方だ。
馴染めないなら、無理に馴染む必要はないのかもしれない。
そこを諦めたとて、何も恥ずべきことではない。

その代わり、友の代わりとなる趣味を見つければ良い。
何かをやっていて楽しければそれだけで、人間的魅力も自ずと引き出されるというものかもしれない。

人生において自分が置かれる場所というのは、どうも困難なように思える。

そんなことを気軽に洩らそうものなら、当然周囲の人間は、あんたより辛い人がたくさんいるんだよ、とか言の慰とも諫言ともつかないことを言ってくるわけで、そうした物言いはささくれだった心を余計に刺激してくる。

困難の度合いを比べるというのは、なんとなしにおかしいような気がする。
それで根源的な苦しみが消え去るわけでもあるまい。

第一そんなものは、なんの進歩ももたらしはしない"我慢の哲学"だと言えるだろう。

そう思いながらも、自分は人と比べて大変な想いをしているのだと考えるときもある気がする。
まったく矛盾している。

決して、貴重な経験だからと割り切ることはできない。

悲しい体験をしたからこそ他人に優しくできるというような言い分も一理あるが、そうでなくても他人に優しい人はいるだろうと思う。

そんなフレーズはあくまで自分や他人を半ば無理矢理に納得させる詭弁に過ぎない。

ただその一方で、そうした綺麗事や詭弁こそが、この世を乗り切る術なのもたしかだ。
自分の置かれている苦しさや境遇に文句を言ったとて、何が変わるわけでもあるまい。

行動を恐れる人間は、過去に文句をつけることしかできない。

何かに文句をつける自分は文句を言えるほど強いのではない、むしろ弱い。
変化をただ待つという点で、厳冬をやり過ごすさなぎと何も変わらない。
むしろ文句も言わず摂理に従順な彼らのほうが、堪え性が備わっているだけ幸せかもしれない。

大仰に言えば、人生なんて堪えるか堪えないかの二択である。

堪えられないやつが死ぬ。
堪えたやつは皆、妥協を覚えて生きている。

若いころは自分でなんでもできると信じがちなところがある。
現実との摩擦でずたぼろになる。

そんなときに、自分の形をぐにゃりと曲げてしまうか、抵抗し続けるかの違いだ。

自分を信じ続けられるならそれでもいいかもしれない。
けれど、大半がそうではないだろうと思う。

だから年を重ねた人間は、角が取れて丸くなったりする。
いろんな物と折り合いをつけることを覚える。

それは諦めではあるが、恥ずべきことではない。
頑なな抵抗をしないのもひとつの哲学だと私は思う。

2012年9月12日水曜日

未来的予測


未来を予測するというのは難しい。

何より予測が怖いのは、それはあくまで予測でしかなく、想定された範囲内のことにしか対処できないことである。

予測は科学的な見方と深い繋がりを持つが、これは日常生活にも潜んでいる。

人を信じるとき、どういった観点でみるか。
ただこれだけのテーマも、ある意味で予測と言える。
話し方や、顔立ち、声を見てその人となりを判断していく。
そして信頼に値するかどうかを見分ける。

経験則として、こういう風な人はこういう傾向がある、ということはよく言われるが、その経験の中に含まれない人物がでてきてしまったとき、どうすればよいか。
それは誰にもわからないことだ。
ただ、予測を信じすぎると痛い目に合うことがよくわかる。

信仰や一貫した考えの恐ろしいところはそこである。
何か決まった方向性をもっているのは生きていく上で決断に迷ったときには役に立つ。
しかしそれは同時に、考えを狭めかねない可能性を含んでいる。

常に安寧を求めて思考を放棄してはいけない。
だが、必要以上に疑うこともまた、経験上の判断でしかないから、未知の事態に対して、フットワークを軽くしておくことが必要だ。

2012年9月11日火曜日

生真面目の悲しみ


私は、真面目と言われる人に憐憫の情を感じることがある。

真面目だという評価は、世間では良いものとされているが、実際は虚しいことだと思う。
大抵真面目だと言われる人は、何かに打ち込んでいたり、態度が紳士であったりするものだが、それが結果に繋がっていたら、きっと周囲の人間は真面目と言わないだろう。凄い人であるとか、言うはずだ。

そういう意味で、真面目という言葉の裏には、無難さを感じる、つまりは突き抜けた個性を感じないのだ。
私はそういう人間であることはあまり好きではない。
もちろん、適当でおちゃらけた人間よりは、真面目で実直な人間のほうが仕事はしやすいし信用も出きるけれど、友人にしたいかどうかはまた別である。

真面目な話というのは大抵浅い付き合いの関係に持ち出してしまうと重く感じられるものだ。
そういう話が出来る関係は素敵だと思うが、どこにでもそういう態度を持ち出す姿勢には閉口せざるを得ない。

何より生真面目という正確にはある種の危うさがある。
それは、考え込んでしまうということだ。
事件の犯人に関する取材の場面で、普段はおとなしい人なのにねぇ…といわれるのはこのタイプの人間だ。
周りがあまり真面目な話の相手をしてくれないから、視野狭窄に陥るのではないかと思う。
そして、鬱を患う人間に多いのも、このタイプの人間なのだ。

鬱の原因としては遺伝的なことや生活習慣など、様々な要因が挙げられているが、そのうちのひとつに、「生真面目な性格による考え込みすぎ」ということがある。
ただしこれには、その真面目さが報われない、という追加条件がある。
結果をだせているならなんら問題はないのだが、真面目にやっていて結果がでないと、ああ、私はどうしてこんなに頑張っているのに結果がでないのだろう、と考え込んでしまう。
こうして、自分の思う努力に見合うと感じられる報酬が得られない状態が続くと、努力することを身体が拒否し始めるのだ。
これは人間が学習をする性質を考えれば当然といえば当然で、報酬の返ってこないことなどやっても生きてはいけないから、やりたくなくなるのは至極自然である。
けれどそこで頑張ってしまうと、身体が悲鳴をあげてしまうのだ。

人間にはある程度の適当さや、力を抜く瞬間があるべきだ。
ただ、それが他人に迷惑をかける場面であってはならないだけで。


2012年9月9日日曜日

依存


人間関係は難しい。

どれほど親しいか、どこまで踏み込んでよいのか、迷うときは沢山ある。
仮に自分が親しいと思っていても、相手はそうは思っていなかったり、逆に煙たいと思っているのに過剰に関わりをもたれて苛立ちを覚えるということもある。

これらをうまく処理していくには、どうしたらいいだろうか。

例えば恋人という関係は、非常に繊細な位置に成り立っているモデルの一つだと思う。
それは知り合いや友人を越えてはいるが、家族ではない。
関係性として発展途上であるとも言えるし、ある程度成熟した関係とも言える。
大抵人が悩むのは友人関係よりも恋愛関係であることが多いのではないか。
これは何故だろう?

恋愛関係という形に突入する前には、ある種の壁が存在する。
肉体や行為以前に、精神的な部分でだ。
そうして相手に深入りしていくことは、ある意味で距離を縮める行為だと言えるが、果たしてそれが本当に、助け合いといえるのかどうか、私にはまだわからない。

ただひとつわかっていることは、依存関係になってはいけないということだ。
つまるところ、恋愛をしていようが家族であろうが、甘え過ぎてはいけない。
心の何処かで、「人間最後はこの身ひとつなのだ」という覚悟を持たなければならない。
例えばいつ家族や恋人を失うかもわからない。
そういった突然訪れる悲しみに備える意味で言っているのではない。
ただ、自分の不遜や我侭を押し付けたまま、それでも関係を繋いでいられるという思い込みをしていてはいけないということだ。
常に注意を払わなければならないし、相手に負担を感じさせてはいけない。

2012年9月8日土曜日

女々しさ


ときたま、あの時もう少しああしていれば…と後悔することがある。
例えば入浴中や、寝る前のふとした瞬間に、過去の過ちを想起して、切なくなるときがある。

こうした日常生活のちょっとした隙間に、別れた彼女のことを想っている自分の女々しさに溜め息をつく。

「女々しさ」というのは、男特有の性質である。
女女しいのは男だけだという主張は、少し奇異に感じるかもしれない。
だが、女は女であって、女らしいことはあっても、女々しいということはない。
その点男が少しでも女の顔をのぞかせようものなら、途端に女々しいと揶揄される。

女が男に対して、「女々しい男だ」というのはちょっと不思議だと思う。
女々しいというのは、女っぽさを否定的に捉えた発言なのに、女自身が男に向けてそれを言うのは、おかしい気がしないか。
いやしかしこれは、男は男らしく、という考えに則って、男であるお前は女々しくあってはならない、という意味だと考えれば納得がいく。

逆に、「男々しい」という言葉もある。
これは、男々しく立ち向かう、とかいったように、勇気ある男らしいことを指す。
そこにはまったく否定的な意味は含まれていない。
となれば、男々しいはよくて、女々しいはいけないのであって、つまりこれは男尊女卑を如実に表している言葉だと言えるような気がする。

というようなことを言い出すと、これだから男は…とぶー垂れる女性がいそうだが、ある意味で男性のほうが女性よりも要求水準が高いということでもある。
すなわち、女は男を批判する言葉の持ち数上、一歩リードしている。
これは何も今に始まったことではなく、昔から男は女から品定めされるものなんだと私は考えている。

最近は男女平等が掲げられるようになり、男を立てるような女性は減ってきたかもしれない。
これは一見すると女性にとって素晴らしい時代になったと思われるかもしれないが、どっこい私はそうは思わない。

もっとも理想とされる男女の関係性は恐らく、バカな男を立ててやり、手のひらで転がす女、という構図だろう。
男は生来どうも頭がよろしくない。
なんというか、仕事は出来てもギャンブルに嵌ったり、何かにのめりこむ質である。
それは自らのコントロールが出来ないということだから、傍から女性が見守っててやる必要があるのだ。

その関係性が崩れた現代、結婚をしたがらない男性が増えている理由にも頷ける気がする。
もちろんそれだけが要因ではないが、ひとつの要素としては挙げられるんじゃないだろうか。

2012年9月5日水曜日

神の存在


自分の行き合った不幸をどう処理するか、これは誰もが一度は抱える悩みではないでしょうか。

例えば生まれが不遇だったり、健康上の理由を抱えていたり 、頭がよくなかったり、顔が悪かったり。
そういったことを考えてばかりいると、陰々滅々とした気分になるものです。
そうして纏った負の情念が、他人に対して牙を向くことほど恐ろしいことはありません。
自分の発する嫉妬や、意地悪、自己顕示欲が、他人を傷つけ、不快にさせ、いつしか人の心が離れ、寂しさから人に追い縋るようになってしまうともう、孤独ここに極まれり、といった風になります。

そんなときは大抵、どうして私がこんなことに、私は悪くないのに、何がいけないんだろう、とか
考えて、自分では自覚がなかったり、あったとして直そうと素直に思えないものです。
どうせもうだめだから、と諦めたり、なんでわかってくれないの、と責めるような口ぶりになってしまったり。

救いようがない、といった感じでしょうか。

こういった状況を避けようと思うと、人に理解を求めることを諦めるより他ありません。
かといって、感情を溜め込んだままでも苦しさから救われることはありません。
ではどうしたらいいのか。
一番いい方法は、似たような人を探して苦しみを共有することです。
例えば同じ病気の人と、苦労を分かち合うことが、一つの喜びに変わる可能性はあります。
でも、そういう人が見つからない場合、どうすればいいのでしょうか。

私はそういうときこそ、神様の出番だと思います。

神の名を出すことで一気に胡散臭くなってしまうのは悲しいところですが、それは神の存在を信じようとか、否定しようとかするからです。
我々が確認していない以上、まだ出会っていないし、いるともいないともわからない、と中庸な考えをもって聞いてくださいね。

 よく悪役が、「恨むなら神様を恨むんだな」とかって言うじゃないですか。
あれでいいと思うんですよね。

悪いことが起きたら、神様を思う存分恨むんですよ、それでいい。
だって、神様が描き出す多種多様の運命が、沢山の楽しみと同時に沢山の悲しみをばら撒くわけじゃないですか。
その負の側面を背負ってしまったからといって、優遇されたものを責めるのはおかしな理屈です。
彼らは何も、自分で選択したわけではないのですから。

しかし彼らはときに、「努力が足りないからお前は出来ないんだ」とか、「俺は凄いんだ」とかって、勘違いをし始めるんですよね。
そういうときは、心の中で嘲笑してやればよいのです。
確かに彼らが成功のために注いだ努力は素直に認めなければいけませんが、その大前提となる条件、生まれがよいことは彼らの力で成し遂げたことではないのですから、彼らには他人を蔑む権利はないのです。
こういう考えをもてば、心ない人々を前向きに受け流すことが出来るようになります。

「運も実力のうち」とは、よく言ったものですね。
こういう考えをするようになると、「運も実力のうち」という言葉が、所詮運でうまくやってるだけじゃないか、という痛烈な皮肉を含んでいるようにさえ思えます。

人によってはこういった考えを意地が悪いと思われるかもしれませんし、実際そうだと思います。
わざわざこんなこと、考えなくたってうまくやれる人はそれでいい。
でも私のような捻くれ者には、こういう考えが拠り所として必要だったのです。
これで他人への文句が減るのなら、間違いなくよいのです。

いい関係を築くためにも、自分を守るためにも、よければ使ってみてください。

2012年9月1日土曜日

おしゃべり人間


世の中にはおしゃべりな人間がいますね。
井戸端会議なんて言われるように、奥様がたの話好きは世間にもよく知られた例だと思います。

さて、おしゃべりはいいことなのでしょうか。
コミュ障とかいって人と仲良くすることが求められる時代ですから、当然いいと思うのですが私見を書きます。

私が大学の研究室に属して間もない時分、研究をしていると二つ上の先輩がよく様子を覗きにきたものです。そうした機会に先輩との交流を温められるので非常にありがたく感じていました。
ですが、ある程度月日が流れるようになって、どうやらその先輩のしゃべり好きが尋常ではないことに気づき始めました。私としては作業のため学校に来ていることもあって、先輩の話を聞いてばっかりはおれないけれど、無下にもできないという葛藤に悩まされ始めたのです。

先輩の話の中身が自分にとって興味を惹かれる内容であれば、苦に感じることもなかったのでしょうが、あいにく私は野球にあまり興味がないので、一方的にその手の話題を畳み掛けられる状況に対して困惑を覚えざるを得ませんでした。

そんな時期に、書店で面白い本を見つけました。
その名も、「沈黙入門」。
おしゃべり人間をやめることで、周りに飽きられない、愛想を尽かされない人間になるための一冊です。著者は東京大学出身のお坊さんというちょっと変わった経歴の持ち主です。

中身を少しだけ紹介しますと、そういったおしゃべり人間になると聞いてるほうもストレスが溜まってくるので、必要以上の口数は減らし、特に愚痴に関してはあまりこぼさないようにしようというものです。また逆に、どうやってそういったおしゃべり人間の話の腰をいかに穏便に折るか、ということも書かれています。

私自信の考えでは、話をする、というのは相手の時間をいただく行為ですので、自分にとってよりもまず相手に取って有意義な時間であるべきなわけです。

そう心掛ければ人間関係は良好になります。

また、空間を満たす言葉の量というのには限りがあって、時間が限られている以上、相手も自分も言葉数が拮抗していると感じられることが理想だと考えています。

もちろん押し引きの問題ですから、相手があまり話さなければこちらから話す、と言ったことも必要かもしれません。

しかし、そういった沈黙は、おしゃべりはこれくらいでいいや、という相手からの無言のメッセージである可能性も考えなければなりません。

つまるところ、空気を読めと言う話になるのですが、おしゃべり人間は自分の周りの状況を見るように心掛けるべきです。

人間は寂しいとき、特におしゃべりになりがちです。
ですがそういう態度は控えたほうがいいかもしれません。
相手はそういう気分じゃないかもしれないからです。
そこを気遣うことなくぺらぺら話してばかりいると、余計人から距離を置かれて寂しくなり、悪循環が生まれるということにもなりません。

一番のコツがあるとすれば、会話のピークを見極め、ピークを過ぎてすぐのところで立ち去るということです。

会ったときに飽きるまで話尽くしてしまうと、次に会おうという気が殺がれてしまいますから、少しくらい物足りなさを感じるくらいがちょうどいいと、私は考えています。

実は仏教の教えにも「おしゃべりは慎め」という項目があります。

仏教では集会や交流自体をあまり良いものと捉えていません。

逆に、賢者(聡明な人)と共にする時間はあってもよいとされています。

その理由は恐らく上述のような、限りある時間を大切にするという意味が大きいと思いますが、そんな昔から言われていたなんて、ちょっと意外ですね。