2014年2月18日火曜日

話し下手


私は話下手である。

人にはよく喋ると言われていたし、学生時代も会話をリードすることが多かった。
それは、相手の言うことをよく読み取り、補足することに長けていたし、何気ない会話をすることが得意だったからだ。
しかし、あるときから、空間を言葉で埋め立てることに意味を感じなくなってしまった。

意味のない会話をすることに、意味を感じなくなった。

私は、相手を見て話していないのかもしれない、と思ったとき、絶望のようなものを感じた。
ことあるごとに、相手を分類したがる私の話し方は、相手を知るのではなく、相手を知った気になっているだけだと、気付いてしまった。
極端なことを言えば、あなたはO型だからこんな性格ですね、という決め付けと同じで、あなたはこの職業の人だから、こういうこともするんですか、というように、その人の属性としての職業ではなく、カテゴリとしてのその人を見てしまっていた。

自分は相手のことを読む力が優れているのだと自負していたが、ある時、それは相手を尊重しているのではなく、相手の意見を自分の理解しやすいよう、いいように先回りして決めつけているとも言えるのではないか、と思い至ってしまった。つまり、相手の話をほんとに聞いてるとは言えない。それは相手を尊重しているとは言えない。

やはり会話をうまく運ぶためには、相手の話に耳を傾けるのが基本だろう。
最悪相手がおしゃべりなら、相槌だけでどうにでもなることすらありうる。

そういった意味で、私の自分自身に対する、お喋り上手の評価は、根本的な部分が抜けていると感じたとき、今までかぶっていた殻が馬鹿馬鹿しい装飾にように思えて、ついには脱ぎ捨ててしまったのである。

しかし今までの武器を捨て去った私は、何も手立てをもたないので、うまい会話の仕方を目下模索中なのだが、実はここにも矛盾が存在していて、「うまい会話がしたい」というのは、所詮表層的にうまくやりたいだけであって、結局のところ他人と楽しく過ごしたいという基本的な想いが欠けているような気がするのである。

やはり話上手になるためには、聞き上手でなければならず、また他人に興味をもたなければならない。だが、義務感でもつ興味なんてものは意味がないので、結局、根が変わらねばどうしようもないのだという虚無的な結論に至るのである。

2014年2月17日月曜日

他人のために生きること


人間はなんのために生きているか。
この問いに対する答えは決してひとつに定まることはないだろう。

生物学的解釈では子孫繁栄が生物の主目的とされているが、では子を産まない人は何を残すために生きるというのか。作品や文化的遺伝子(思想)なのかもしれない。
だがそもそも、何かを残すという行為に執着しない人もいるだろう。
なぜなら、自分のいなくなった世界は自分に関係ないので、そこに何かを残したところでわかりはしないし、意味もありはしない。なら、本当に大切なのは今を楽しむことだけだ、と考えることもありえる。

これはつまり、利他的と利己的、主義の違いである。
自分の望みが、人に尽くすことであるか、自分を満たすことかという違い。
根本的には自分の望みには違いないのだが、結果的に他人のためになるかどうかの違いである。

楽天イーグルスの優勝やフィギュアスケートの羽生選手の金メダルを見ていると、他人のために強くなることはあるのだなと思う。
その点では、利他主義は強い。

なにより、生物による進化上で淘汰されなかった利他主義は、おそらくパワーを秘めているんだろう。
自分が生きるということよりも、子を守ることを優先する考えが、結果的に最善の策になるのかもしれない。
もちろん、自分が生きて、また子を産めばいいという考えもあるが、それは状況次第ということになるだろうか。

ではなぜ利他主義が強いか。
それは「他人のためだから」である。これでは説明にならないか。
つまり、目的を乗り越えるためには当然苦しみが予想されるが、それを利己主義で乗りきろうとすると、結局自分の喜びと苦しみを天秤にかけることになり、苦しみのほうが大きくなると、心がくじけてしまう。しかも喜びというのは、大抵目標達成のあとに満たされるものだから、苦しみが先にきてしまって、喜びは後回しになるのである。この際に想像力を働かせて、「これを乗りきればきっといいことがある」と信じることができなければ、簡単に心は折れてしまうだろう。
その点利他主義は、他人が満足すれば自分が苦しんでも構わないので、そもそも自分の苦しみと喜びを天秤にかけるという構図は生まないのである。

ただ我々が利己主義を捨て去ることは難しい。
なぜなら、自分に余裕がない人間は利己主義に陥りがちである。
そして利己主義に陥ると、さらに努力が難しくなり、余裕がなくなるという悪循環を産む。

そこでこれを回避するために、教育や宗教の出番である。
他人のために何かをすることはいいことですよ、と教え込む。盲目的に。
「情けは人のためならず」などと。

2014年2月6日木曜日

マイナスの個性


作曲家の佐村河内氏のニュースが世間に衝撃を与えている。
彼は完全に聴覚を失った全ろうの作曲家として活動していたが、ゴーストライターの存在が発覚した。

ゴーストライターは謝罪会見で、「佐村河内さんは耳が聞こえているようだ」と語り、聴衆にさらなる衝撃を与えた。それがもし本当なら、障害を利用して売名したとも言える。
しかしながら、「障害者手帳を見せられたこともある」と語ってもいるため、本当のところは佐村河内氏本人に確認しなければわからない。少なくとも、全ろうではなかった可能性はある。

佐村河内氏のCDは18万枚売れたそうだが、果たしてこれが普通に売り出しても同じようなことになったか。
きっと、メディアとともに、全ろうで被爆二世の悲劇の作曲家というストーリーを作り上げ、それが聴衆の心を打った部分も大きいのではないか。

ゴーストライターが発覚しただけならまだしも、全ろうまで嘘だったとなれば、追及は免れないだろう。

この一連のニュースを聞いていて思うのは、障害者についての扱いは、本当に難しいな、ということである。
これはアファーマティヴ・アクションと同じタイプの問題である。

例えばアメリカの入学テストでは、日本のような試験結果至上主義ではなく、生徒の背景を考慮に入れることがある。
この際に、裕福な家庭でいい成績を修めた者と貧困ながらに到達点には達した者、どちらを評価するかという問題が生じる。
純粋に試験の成績だけを評価するか、将来性も見込んで、逆境の中でおさめた成績を評価するか、というのが争点である。

今回の問題に置き換えれば、純粋に曲の良さを評価するか、背景事情も含めて曲の評価とするか、ということである。

あなたはどう考えるか。

私は、試験については元々ルールを定めて、通知しておけばどちらでもいいと思う。
学校のコンセプトは学校が決めてよいし、校風に沿った生徒をとるのは当然のことで、採点についてどちらの方式がとられたとしても生徒は文句を言う資格はない。
しかし、経営者の視点でみれば、教育における基準の是非を問う問題となり、慎重に考えなければならない。

だが、曲の評価については同じように考えるわけにはいかない。
なぜなら、曲の良し悪しは学校のように決められた立場の、限定された問題ではないからだ。
一視聴者としては、曲自体が評価されれば良いと考えるが、曲はそこに表現された思想も大切だから、歴史上や作曲家の背景を知ることもひとつの楽しみ方ではある。

全ろうを盾にとって評価されようという行為はとても問題であるし、障害者だから安易に評価するというのは障害者に対する逆差別だ、という意見もわかる。
だが、障害を抱えながらも頑張っている人がいる、という点については、それが一定の人に勇気や希望を与えるならば、それで構わないのかもしれない、とも思える。
しかしこの考え方をしてしまうと、今回のような嘘でさえも、希望を与えたのだから良い、ということになってしまう。
そこの線引きは、嘘は露呈すれば結果的に落胆を生むのでよくないが、頑張っている人について事実は変わらないのでよい、という風に決着をつけよう。

障害をもつということは、マイナスの個性と思われがちだが、この事件においては、逆手にとってプラスの個性として利用されてしまった。
恐らく個性などというのは、マイナスばかり目立つがプラスもある。
「短所は長所の裏返し」ってなものだ。
気をつけるべきは、それを悪意をもって利用しようとする存在についてである。

なにせ障害というのも、自己申告制である。
障害があるかのチェックは、耳なら聴力を測り、目なら視力を測る。
しかしながら、これらのチェックは、どの程度まで聞こえているか・見えているかは測れても、どの程度聞こえていないか・見えていないか、を測定することはできない。

なぜなら、聞こえてない・見えてないことに関しては完全に自己申告だからだ。
聞こえなかった、と言われてしまえば、周りもそれを検証する術をもたない。
本来、目や耳が不自由というのは、利点にはならないため、そういうシステムになっているのだろう。
しかし今回の件で、そういった個性にも逆手にとればプラスの面として利用できることが感じられた。
そういった悪意の付け入る隙を減らすのも、重要であると思う。

ちなみに私は、これに関する対策として、脳波で分析するようにすればいいと思っている。ただし脳波の計測機器はコストがかかるので、技術の問題以前に導入は難しいかもしれない。