2014年1月20日月曜日

神の怒り


科学と宗教を別個に考える人は少なからずいる。
私もその一人であった。

科学と宗教の差異を考えるならば、科学とは世界の法則を見つけることであって、その営みは経験的に行われるのに対し、宗教は根拠もなく神を信じ、信じがたい現象をも受け入れる行為に思える。

しかしある側面で見れば、両者は同一の思想に基づいているとも言える。
その共通項が「神の怒り」である。

神の怒りとは、何か悪い出来事があったときに、それを自分の行為によって引き起こされたものとして見る考え方である。
科学でもまた、悪いことが起きたら、それは何がいけなかったのか考える。

つまり両者ともに、悪いことを避けるために改善できる点を探す、という部分は共通している。
原因を内省する姿勢をもっているということだ。

では神の奇蹟のように、経験的でない、おおよそ信じがたいものを受容する考えはどのように解釈したら良いのか。
「ふしぎなキリスト教」という本によれば、奇蹟とはつまり神の代弁者である預言者の信用性を主張するための証明であるという。本来覆せないはずの法則をいじくって、奇蹟を起こすことによって、そこに神の存在を見るというのだ。
そういった思考をするためには、秩序だった世界が大前提だと言う。

たしかにこの解釈なら科学と宗教を同じ世界観で語ることができるように思える。
しかしもっと突き詰めてみると、奇蹟とは経験的に起こりにくい、珍事とも言い換えることができる。
例えば、日食などは周期が長いため、経験的に考えることは難しい。
それを奇蹟と捉えてしまうと、スケールの大きいことはすべて神の奇蹟と解釈することになる。
つまりスケールの大きいことは人間の力の及ぶ範囲外であり、また本来のルールではないと考えることになる。
しかし科学はそういった部分も疑って、正しいと思える論理を構成してきた。

そういう意味で、先の論理は完全に科学と宗教を結びつけるものではないようにも考えられる。
ややこしくなってきたので、論理を整理しよう。
世界が秩序だっていると前提し、その裏返しとして奇蹟を起こると神の存在の確度があがる。
しかし、奇蹟を珍事だと捉えると、スケールの大きな事象はすべて奇蹟になる。
だが科学は、スケールの大きな事象も解き明かしてきた。

つまり奇蹟を信じる姿勢は、機序の解明を諦めるに値し、科学的姿勢を捨てることではないのか。
また、奇蹟をすべて解き明かす姿勢は、神の存在を危うくするのではないか(否定するものではないが)。

なぜ奇蹟を信じるのか。
またそれを科学と結びつける妥当な解釈はあるだろうか。

おそらくこれは論理パズルであって、「すべては法則で成り立っている」と「奇蹟」の集合的解釈の問題である。すべての法則の中に奇蹟を含めるかどうかという点が問題だ。すべての法則に奇蹟を加えるとすればそれは奇蹟でなくなる。加えなければ科学的懐疑主義の姿勢は崩れるだろう。

そんな根本的な不和を抱えながら、西洋文化を土壌にして両方がすくすくと育ってきたのは一体どういうことだろうか。

うまいこと論理的説明がつけられれば、素敵だなと思う次第だ。

言語と表現性


昨今、コミュニケーション力、略してコミュ力を問われる場面が多くなった。

コミュ力と言われても、その内容はあまりにも漠然としている。
その中身はおそらく、空気が読めるとか、なんとなくうまいことやれる、質問に対して正しい回答ができる、など様々である。
もっと堅い言葉で包括的に表現するなら、意思や思考を正しく伝達する能力である。

もっと抽象的なもので言い換えるなら、表現力である。

伝達力というとどうしても言葉を重視してしまうのが学歴社会であると言えよう。
例えば数学や国語は別ジャンルとして捉えられることが多いが、論理の表現形式やツールとしての役割が違うだけであって、求めているものは伝達力である。
特に数学は厳密性が高いので、数学的な後ろ盾が得られた議論は説得力が高い。
英語もまた、表現するための形式に数えられる。

つまり、学歴重視型の社会は、文字による確実な表現を求めている。
表現に厳密性を求めている。

そこで重視されるのは、言葉の意味をいかに妥当に疎通できるか、また表現できるかである。
その下地として、基礎的な表現を学ぶ。

しかしここである悩みが生まれる。
自分が厳密な表現を心掛けることは大切だが、相手にそれを求めるのは違うという点だ。
リテラシーのない人間に対しては、厳密性を排除して耳を傾けなければならない。

例えば、パソコンに詳しくない人間に対して説明を行うとき、厳密な言葉遣いで表現することは重要であるが、あちらの要求はざっくりと聞き取らなければならない。
その使い分けが、真の意味でのコミュ力であると言えるだろう。

一方で厳密性をもちながら、他方では曖昧性を汲み取れる存在でなければならない。
その柔軟な使い分けは、人によっては混乱してしまうだろう。

昔の哲学者が対話形式を大事にしたのは、この点について強く認識していたからに違いない。
相手の表現を受け取り、それを自分の表現形式に直して問い直すことで初めて意思の疎通ができるようになる。

しかし、なんでもかんでも質問しているようでは、相手に負担をかけてしまうだろう。
察しがいい人間になるには、どうしたらいいか。

例えばこういう方法はどうだろうか。

相手にyes/noを求めるのではなく、こちらの解釈が間違っていたときだけ、訂正を求めるのである。

例えばメールの文面を例にとれば、「それは~ということですか?」と再確認するのではなく、「それは~ということですよね、わかりました」と一旦完結しておく。
すると、相手はこちらの考えが間違っているときだけ返事をすればよいので、ほぼ聞き流すだけでいい。

難しい言葉を使わないなど、目に見えて省ける手間に加えて、こういう部分で少し工夫すると、相手の負担を減らすことができるのではないか。
相手の負担を減らしつつ、適切な意思疎通をするのがコミュ力、という結論である。

2014年1月10日金曜日

言葉の功罪


言葉を覚えるのが早いことはいいことだろうか?

言葉をうまく操れることは、一般的に評価されやすい。
言葉は現代社会では自己表現に不可欠なツールだ。
その意味で、言葉を早く覚えることは、社会に早く馴染むための近道に思えるかもしれない。

しかし、20世紀の天才のひとりとして数えられるアインシュタインは、言葉を覚えるのが遅過ぎて親の心配を買ったという話もある。
また、「バカの壁」の著者として知られる養老孟司もまた、自身は言葉を覚えるのが遅かった著書で語っている。

こうした例を見ると、言語による表現力の早熟が天才や秀才としての絶対条件ではないという気がしてくる。たったニ例から判断するのは早計とはいえ、可能性を考えることは興味深い。

もし言葉が天才の絶対条件ではないとすれば、それは言葉があくまでツールだからだろう。
言語能力はあくまで表現の一手段であり、その高さは身を助けてくれるが必ずしも必要ではない。

例えば人に説明するとき、言葉だけではわからないので図を使うことを考えれば、言語能力が万能ではないことがわかる。

つまり、言葉そのものに価値があるのではなく、その表現内容に価値があるのであって、その表現形式が世の中に受け入れられるものであれば、それは言葉ではなくてもいいということである。


もうひとつ、こんな話がある。

考え事をするとき、あなたは何語で考えているか?
母語で考えている人もいるだろうし、そうじゃないかもしれない。

言葉で何かを表現するのに苦労を感じた事はないだろうか。
それはあなたの言語能力が低いせいではない可能性がある。
むしろ、想像力が豊かすぎるがために、自分の考えを言葉で表現することが難しいだけなのかもしれない。

人間は言葉にすると物事に対する理解が浅くなる、と心理学者の植木先生が著書で書かれているように、言語表現によって、表現内容が固定されてしまう、つまり言葉のイメージに引き摺られてしまうことはあり得る。

だから、母語で考える人よりも、そうでない人のほうが、淀みなく話せる人よりもそうでない人のほうが、実は頭が良いというのは十二分にあり得る話である。
表現できなければ意味がない、という批判はひとまずおいておこう。


私が何を危惧しているのか、そろそろお察しだろう。
今までの話を総合すると、言語で表現することは必ずしもよい事ではない、ということである。
そのままの形で、感じたことを自分の中にとっておくことも大切なのだ。
言語をあまりに早く覚えてしまうと、知っている範囲の言葉でなんでも表現しようとするため、感性が鈍る可能性があると私は指摘したい。
鋭い感性を表現するには、言葉はあまりにも不完全過ぎる。


結論として、表現内容に適した表現形式をとれることが大切だ。
言語はそのうちのひとつであって、すべてではない。
社会的には言語能力が必要だとしても、それを早く覚えさせることがいいかどうかはまた別問題である。


こぼれ話として、早期英語教育に言及しよう。
グローバル化にともなって、就職ではTOEICの資格が有利、小学校では英語教育の必要性が叫ばれ始めている。

母語を大切にしようとか、英語と日本語どちらがよいかという議論は以前に書いてあるので割愛して、早期英語教育の是非とそのやり方について、思うところを述べる。

先程述べたように、言語は表現形式であるから、言語能力とは自分の表現したい内容をいかに的確かつ一般的に表現できるかを指すと考えられる。
つまり、英語だろうが日本語だろうが、表現前の内容は同じだ。

しかし、今の英語教育は、単語帳で日本語と英語を覚えているだけだ。
これでは、表現内容が結びつかないと思う。
つまり、本来ならりんごを見て、apple、と発したいところが、りんごを見たのち、りんごという日本語は英語でappleだから、appleと述べる。
このように、ひとつプロセスが多くなってしまう。

そういう意味で、早期の英語教育は問題ないと思う。
日本語的な感性が出来上がる前に英語を教える点が問題視されているが、むしろ逆で、日本語的感性は英語教育に必要ない。少なくとも単語を覚えるレベルではそうだ。

というか、ネイティヴレベルで英語を覚えようと思ったら、いちいち日本語で考えて英語で訳しているようではきっと意味がない。
それでは機械翻訳も同然である。

2014年1月6日月曜日

当然起きる食品偽装


昨年、阪急ホテルグループの食品偽装を皮きりに偽装が次々と発覚した事件があった

なぜこういったことが起きるのか。
そもそも食を人に預けるとはなにか。

近年のコンビニや外食産業の発達をみれば、人々が毎日の食事を外部委託することに心理的抵抗を抱かなくなっていることがわかる。
だからこそ、こういった機会に食の重要性を考え直すことも必要かもしれない。

今回の事件はあくまで品質が多少落ちる程度の問題だったが、これが安全性の問題まで発展すると大変だ。
なにをまた大袈裟な、と思われるかもしれないが、劇的に危険な食品ならまだ恐ろしくない。
なぜなら、すぐに効果がわかるし大多数への被害も少ないからだ。確率的リスクは少ない。
もっとも恐ろしいのは、長期的に身体をむしばむ食品だ。
これは判明するまでに時間を要するため、我々の身に降りかかる可能性が高い。

劇的とまではいかなくとも、体調を崩すレベルでの食に関する事件がアクリフーズの冷凍食品への農薬混入事件だ。
仮に意図的ではなくとも恐ろしい話だ。


外食産業ではなくとも、我々は食べ物を人に預けるのが当たり前になっている。
野菜は農家からではなくスーパーで買うし、肉などの材料だってそうだ。
まとめて購入できるのは便利だが、間に人を介すると信用がしにくくなる。

食べ物は信用のうえで成り立っているのだが、責任の追求は難しい。
短期的に影響が出る食品はまだしも、発がん性物質などに関しては長期的に調べなければわからない。

だから食べ物に関しては、いままで食べられてきたものを食べる、のが一番である。
新しい食品に含まれる新しい技術や素材は、よくも悪くも未知数なのである。

食の伝統を守ることは大切なことだ。
昔の宗教が食に関して言及するものが多いのも頷けるというものである。

2014年1月2日木曜日

認識論


認識論は哲学の一ジャンルで、

1.人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
2.人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
3.ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
4.人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。

wikipediaによれば、上記のような項目を探求するジャンルらしい。

私はこれらのテーマに関して予備知識をまったくもっていない。
だが、だからこそ既成概念を無視して柔軟な発想ができることもあると信じている。
それぞれのテーマについて書き記してゆく。


1. 人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。

 そもそも問題を問い直す形になってしまうが、我々は物事を正しく知る方法について語る前に、物事を正しく知ることはできないことを知っておくべきだ。そのために有名な例を挙げよう。

 昔、ソクラテスという学者がいた。彼は賢人と呼ばれていたが、それはただ賢く、知識が豊富だったからではない。彼は自分がすべて知っているわけではないことを知っていたからである。これを「無知の知」という。
 この話ではつまり、物事を知り尽くすことは絶対にできない、という教訓が語られている。似たような例をもうひとつ挙げよう。

 プラトンという学者は、イデア(概念)について語る上で、我々は物事について、まるで洞窟の壁に写った影を見ているようなものだ、と例えた。
 この話では、我々が見ているものはすべて本質ではなく、ある物の一部分でしかないと解釈できるだろう。

 上に挙げた例のように、我々は何かについてすべてを知ることはできない。例えばコインを知ろうとしても、我々はコインのすべてを知ることはできない。表を見ているときに裏は見れない。じゃあ裏返せばいいじゃないか、と仰るかもしれないが、表と裏を同時に見ることはできない。

 つまり、我々がある立場である限りは、何事も全容を知ることはできない。常にある一部分を切り取って感じている。

 そういう意味で、我々は物事について正しく知ることはできない。しかしこれは悲観的な結論ではなく、スタートである。では、どうやってより真実に近いものを知るか…というテーマにすり変える必要がある。

2.人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。

 まず、この題はあることを前提としている。それは、必ず物事には真実と嘘があるということである。あるいは、正誤で判定できるもののみ扱うことを示唆している。

 つまり、先ほどで言うところの真実により近づいた場合を正とし、より遠い場合を誤りとする。どの程度の乖離が許されるのかは問題に依存する。

 例えば、誤りを抱く状況のわかりやすい例として詐欺がある。9人に明日の天気を予告し続ける。晴れ、曇り、雨を毎日予想し続ける。ただし、3人ずつにそれぞれ違う予想を伝える。翌日仮に晴れたとして、晴れの予想をした人それぞれに違う予想を伝える。すると、翌々日には1人だけ二日連続で正しい予想結果を送った人がでることになる。
 二日天気を当てたくらいでは大したことはないが、これをもっと大規模に行えば、10日連続的中も必ず可能だ。
 つまり、普段起こり得ないことを簡単に起こせる。そして、騙される側は10連続当てるなんてすごい、と信じるかもしれない。このとき間違いが起こる。
 この間違いが起きた原因は、立場による違いである。騙す側にとっては当然でも、騙される側にとってはそうではない、つまり情報が欠如しているのだ。仮に情報が満ち足りているとき、正しく推論ができると仮定すれば、情報の欠如が間違いの一因だということがわかるだろう。

 そして、テーマ1で情報をすべて知ることはできないということについて指摘した。つまり、情報の欠如は常々あり、我々は常に間違うリスクを背負っている。


3.ある考え方が正しいかどうか確かめる方法はあるか?

 ある考え方が正しいという結論に辿り着くことは永遠にない。例えば数学の問題に関しては正しさが証明によって保証されていると思うかもしれない。だが、我々にとって正しく見えているだけで、正しいとは限らない。ただ、論理的な穴がいまのところ見つかっていないだけである。つまり、正しい可能性が高いことはあるが、完全に正しいと断定することはできない。


4.人間にとって不可知の領域はあるか、あるとしたらどんな形で存在するか?

 不可知なことだらけだろう。1のテーマで語ったように、ある立場から見ているとき、もう片側を同時に見ることはできない。また、我々の認識外のもの、例えば幽霊などは不可知の領域と言えよう。だが、わからないのなら存在しないも同然なので、語るまでもないだろう。我々にとっても問題になるのは、我々が扱える問題だけである。