科学と宗教を別個に考える人は少なからずいる。
私もその一人であった。
科学と宗教の差異を考えるならば、科学とは世界の法則を見つけることであって、その営みは経験的に行われるのに対し、宗教は根拠もなく神を信じ、信じがたい現象をも受け入れる行為に思える。
しかしある側面で見れば、両者は同一の思想に基づいているとも言える。
その共通項が「神の怒り」である。
神の怒りとは、何か悪い出来事があったときに、それを自分の行為によって引き起こされたものとして見る考え方である。
科学でもまた、悪いことが起きたら、それは何がいけなかったのか考える。
つまり両者ともに、悪いことを避けるために改善できる点を探す、という部分は共通している。
その共通項が「神の怒り」である。
神の怒りとは、何か悪い出来事があったときに、それを自分の行為によって引き起こされたものとして見る考え方である。
科学でもまた、悪いことが起きたら、それは何がいけなかったのか考える。
つまり両者ともに、悪いことを避けるために改善できる点を探す、という部分は共通している。
原因を内省する姿勢をもっているということだ。
では神の奇蹟のように、経験的でない、おおよそ信じがたいものを受容する考えはどのように解釈したら良いのか。
「ふしぎなキリスト教」という本によれば、奇蹟とはつまり神の代弁者である預言者の信用性を主張するための証明であるという。本来覆せないはずの法則をいじくって、奇蹟を起こすことによって、そこに神の存在を見るというのだ。
そういった思考をするためには、秩序だった世界が大前提だと言う。
たしかにこの解釈なら科学と宗教を同じ世界観で語ることができるように思える。
しかしもっと突き詰めてみると、奇蹟とは経験的に起こりにくい、珍事とも言い換えることができる。
例えば、日食などは周期が長いため、経験的に考えることは難しい。
それを奇蹟と捉えてしまうと、スケールの大きいことはすべて神の奇蹟と解釈することになる。
つまりスケールの大きいことは人間の力の及ぶ範囲外であり、また本来のルールではないと考えることになる。
しかし科学はそういった部分も疑って、正しいと思える論理を構成してきた。
そういう意味で、先の論理は完全に科学と宗教を結びつけるものではないようにも考えられる。
ややこしくなってきたので、論理を整理しよう。
世界が秩序だっていると前提し、その裏返しとして奇蹟を起こると神の存在の確度があがる。
しかし、奇蹟を珍事だと捉えると、スケールの大きな事象はすべて奇蹟になる。
だが科学は、スケールの大きな事象も解き明かしてきた。
つまり奇蹟を信じる姿勢は、機序の解明を諦めるに値し、科学的姿勢を捨てることではないのか。
また、奇蹟をすべて解き明かす姿勢は、神の存在を危うくするのではないか(否定するものではないが)。
なぜ奇蹟を信じるのか。
またそれを科学と結びつける妥当な解釈はあるだろうか。
おそらくこれは論理パズルであって、「すべては法則で成り立っている」と「奇蹟」の集合的解釈の問題である。すべての法則の中に奇蹟を含めるかどうかという点が問題だ。すべての法則に奇蹟を加えるとすればそれは奇蹟でなくなる。加えなければ科学的懐疑主義の姿勢は崩れるだろう。
そんな根本的な不和を抱えながら、西洋文化を土壌にして両方がすくすくと育ってきたのは一体どういうことだろうか。
うまいこと論理的説明がつけられれば、素敵だなと思う次第だ。
では神の奇蹟のように、経験的でない、おおよそ信じがたいものを受容する考えはどのように解釈したら良いのか。
「ふしぎなキリスト教」という本によれば、奇蹟とはつまり神の代弁者である預言者の信用性を主張するための証明であるという。本来覆せないはずの法則をいじくって、奇蹟を起こすことによって、そこに神の存在を見るというのだ。
そういった思考をするためには、秩序だった世界が大前提だと言う。
たしかにこの解釈なら科学と宗教を同じ世界観で語ることができるように思える。
しかしもっと突き詰めてみると、奇蹟とは経験的に起こりにくい、珍事とも言い換えることができる。
例えば、日食などは周期が長いため、経験的に考えることは難しい。
それを奇蹟と捉えてしまうと、スケールの大きいことはすべて神の奇蹟と解釈することになる。
つまりスケールの大きいことは人間の力の及ぶ範囲外であり、また本来のルールではないと考えることになる。
しかし科学はそういった部分も疑って、正しいと思える論理を構成してきた。
そういう意味で、先の論理は完全に科学と宗教を結びつけるものではないようにも考えられる。
ややこしくなってきたので、論理を整理しよう。
世界が秩序だっていると前提し、その裏返しとして奇蹟を起こると神の存在の確度があがる。
しかし、奇蹟を珍事だと捉えると、スケールの大きな事象はすべて奇蹟になる。
だが科学は、スケールの大きな事象も解き明かしてきた。
つまり奇蹟を信じる姿勢は、機序の解明を諦めるに値し、科学的姿勢を捨てることではないのか。
また、奇蹟をすべて解き明かす姿勢は、神の存在を危うくするのではないか(否定するものではないが)。
なぜ奇蹟を信じるのか。
またそれを科学と結びつける妥当な解釈はあるだろうか。
おそらくこれは論理パズルであって、「すべては法則で成り立っている」と「奇蹟」の集合的解釈の問題である。すべての法則の中に奇蹟を含めるかどうかという点が問題だ。すべての法則に奇蹟を加えるとすればそれは奇蹟でなくなる。加えなければ科学的懐疑主義の姿勢は崩れるだろう。
そんな根本的な不和を抱えながら、西洋文化を土壌にして両方がすくすくと育ってきたのは一体どういうことだろうか。
うまいこと論理的説明がつけられれば、素敵だなと思う次第だ。