2013年8月26日月曜日

連続的な思考


「大学生にもなって、親から施しを受けてるなんてどういうことなの?」

某巨大掲示板でこんな感じのスレッドが立っていた。
まとめサイト(掲示板のまとめ記事を載せたブログ)のコメント欄を見ると、「バイトをしたくらいで社会にでたつもりになるな」とか書いてある。

私も昔似たような考えをしたことがある。

現代では高校・大学生が性交渉をするのは割と当然のような風潮があるが、これに関して「養われている身分で子供を作る行為をするなんて」と考えたのだった。

これらふたつの考えかたはある面では正しい。
たしかにバイトと正社員では背負ってるものが違うし、間違って子供ができてしまったら高校生は責任をとれない。

しかしながら、何事も百パーセントということはない。
冷たい言い方をすれば、困るのは個人なので他人が口出しする必要もない。

だがもうひとつ、人間をそうやって区切って捉えるのはいかがなものか、という問題もある。

何事も傾向をみたり、分類するのは人間の本分だし、そうやって物事の理解に関する負担を減らそうという心持ちもわかる。

とはいえ、人間はアナログな生き物だ。
中学生・高校生なんて区切りは所詮、デジタルで画一的なものだ。

しかし、自然的なばらつきはそんなものでは包含できないことはある。

なので、段々ステップを経ていく、というのは大切なことだ。
それは一年生が二年生になるとか、数字上の話ではなくて。
一時間、一日というレベルで。

社会に出る前にバイトをしておくことが、たとえ正社員とは違ったとしても、金を稼ぐという経験をすることで、少しだけ近づくことができるかもしれない。
そういう貪欲さは必要だと思う。

もちろん性交渉の例はリスクが大きいので、大きな声で良しと言うことは出来ない。
しかし、若いうちに多少で済むなら失敗をしておくというのは、いい経験になる。

重要なのは、クリティカルなリスク、つまり今後の人生を左右してしまうようなリスクについてだけ避けるように注意すれば良い。
あとは野放しにしておくくらいのほうが、知恵は育つというものだ。

2013年8月16日金曜日

何も楽しくないとき


何も楽しくないとき、ってある。

何を観ても心に響かなくて、何をしても「なにやってんだろ」と思う。
挙句の果てには、こんなことしても仕方がない、なんて考える。

きっとそれは、物事に対して気持ちが塞いでいるからだ。

好き嫌いがあるから無理に好きになれとは言わない。
でも、意味を探すのはやめたほうがいい。

意味のあることをするとか、意義のあることをするとか。
そんなことしてもしょうがないとか、だからどうしたんだろうとか。

そんなことを考えたって仕方がない。

大抵そうやって一歩引いて考えているときは、ほんとは何も感じていないし、何も見えていない。
ほんとうの感情に対して、距離を置いている。

ぐっと踏み出して素直になってみると、意味なんてどうでもよくなる。
ただ、楽しいとか、好き嫌いのレベルで物事を感じられる。

それが直情的で危ういと感じるなら、きっと自分の自制心を信じていないからだろう。
感情に対して抑圧的になる必要はない。

もちろん現実的に折り合いをつけなければならないこともある。
嫌々仕事をするとか。

でもそれは何も感じてないのではなくて、嫌だと感じている。
しかしそれ以上に、仕事を放棄したときの損失が大きいなら、理性的にこなせるはずだ。

そうしてバランスをとったときはじめて、等身大の自分と向き合える。

感情の抑圧は単なる逃げ道でしかない。
解放してこそ、理性も浮き立つというものだ。

2013年8月13日火曜日

難しい言葉を使う奴は嫌な奴か否か


先日、「難解な言葉を使う奴は学歴に自信がないので自分を飾っているんだ」という記事を見た。

僕は自覚して改めた(つもり)だから、この考え自体を真っ向から否定はしない。
だが、反論はある。

たしかに、日常生活での大半の状況はそんなに難解な言葉を使わなくても問題は起きない。
だが、難しい言葉はそれなりの意味を含んでいる場合が多いのも事実だ。

例えば、「事故の原因は○○です。」というような内容を述べるとき、「事故の主因は○○です。」と述べるとちょっとお堅い感じがするかもしれない。

しかし前者の文章では、ただひとつの事故原因を説明しているのに対して、後者では、複数の要因がある中での主な原因を説明している。

つまり、そもそも意味しているものが違う。
コンパクトに伝達するために難しい言葉を使うのは何も不自然じゃない。

「ルサンチマンが~」なんて言い出した日には、ぼこぼこにされかねない気すらするが、話している内容がまともならわからんほうも悪い。

これを真面目に説明していたら、本質的な話がいつまで経っても進められないし、互いに言葉を知っているだけで、意思の疎通が円滑の運ぶのは疑いようのない事実である。

「わかるように言ってくれ」というが、それは話し手が分かってほしいときにだけ言えることで、大抵難しい言葉を使う人間は立場が強い。
そういう人間に対して「わかるように言ってくれないと聞く気がしない」なんて駄々をこねたところで、相手の立場が強い以上は、どうにもならないのである。

全員に通じるような説明が出来ればそれは素晴らしい。

だが、人間には時間という大きな制約がある。
しかも、聞き手と話し手という、複数人の時間だ。

皆が知ってるべき(とされる)共通語を使って話すことが、我々にとって大きな資源の節約になることは言うまでもない。

大事なのは、沢山言葉を知っておくこと、そして相手の言っている内容が有益か無益か判断できるだけの耳を持つことだろう。

ついでに言うなら、ここから話し方のコツが垣間見える。

相手の時間を節約するためにも、話は簡潔であるとよい。
しかも情報が密であるとよい。
かつ、話の初めは興味深い内容か、平易な内容がよい。

でないと、難しい言葉に縋っているような人間しか食いつかない。


難しい言葉にぶち当たって、相手の言いたいことがわからないとき、考えるべきことはたったふたつである。

自分の勉強不足か、相手の不器用か。

相手が難しい言葉を使っているからといって、無駄なことを言っているとは限らない。
もし有益なことを話しているなら、それを逃すのは損だ。

その場合は、訊くことが重要である。

企業面接でもよく言われるように、疑問はありますか?と訊かれたら必ず質問しなければならない。
なぜなら、質問することは対話であり、自分の認識のズレを確認する唯一の手段だからである。

難しい言葉にぶち当たったときは、訊けばいい。
もしそれでも相手が語る内容に価値が無いと判断したなら、耳を傾けなくていい。

最初から簡単な言葉で話してくれたら楽なのに、と思うかもしれないがそれは違う。
難しい言葉を使うことは、時間の節約である。

人間にとって時間は有限であるから、伝達に割く時間は短いほどいいのは自明である。
とすれば、ひとことに沢山の情報量を込められる方が有利なのはおわかりだろう。

もちろん、一見無意味な言葉遊びが有効な場合もあるが、それはそれとして伝達以外の意味があるのでよい。

ただ純粋に内容を伝達することだけを考えるなら、短く多く伝えるのがベスト、ということだ。
となると、難しいことを短時間で処理したいと考えれば、思考結果に当てはめる言葉も難しくなるのは当然だろう。

問題は、受け手がその価値を見抜けるかであり、逆に話し手は受け手に対していかに抵抗を持たせないように伝えるかが大切なのである。

つまり、言葉にもTPO(時と場所を選ぶこと)があるのである。
当たり前のことだが。

2013年8月12日月曜日

無視をするという行為


人を無視をする行為。

これはえげつない。

昨今はいじめが横行しているから、無視やシカトが生易しいものに思える。
だが実際、無視をする、あるいはされるというのは、相当につらいだろう。

何故なら、関係性を築く上で、喧嘩をすれば乱暴なりに相手がわかるし(それがたとえ間違ったものだとしても)、話し合えば付き合うべきかわかる。
それを交流と言っていいかは別として、何かしらの関わりはある。

しかし、無視という行為は一切のやりとりを断絶してしまうから、それ以上関係が悪化することも、進展することもない。
つまり、関係がなかったことにされる。

ましてや、学校のように、逃げ場のない状況での無視行為は、どうしようもない。
子供は環境を選択することが難しい。

なので、無視は基本的に許されてよいことではない。


しかし私は、現代社会をみていて、人々はもう少し無視することを覚えてもいいんじゃないかと思う。

昨今はインターネット上で情報が溢れている。

特に顕著なのがtwitterで、これによっていままで触れることのなかった、世界中の人のちょっとした想いや考えがオープンにされることを考えると、この変化というのはあまりにも大きい。

実際それに起因する事件や話題は尽きない。

では、そこの世界に足を踏み入れなければ無縁でいられるか、と言えばそうではない。

twitterによって築かれる関係性があったり(希薄ではあると思うが)、現実の行動をtwitterに晒したことで手痛い目を見た人達もいる。

もはや現実と強くリンクしてしまっているので、利用していなければ関係ない、と知らん顔を決め込むのは無理があるだろう。

実際テレビでもその関連のニュースが取り上げられたりするし、一メディアとして成立していると言って問題ない。

そうやって沢山の情報にまみれる中で、自分のアイデンティティを保つため、あるいは輝きを放つために奇異な行動をとってしまうのは、きっと「注目を浴びたいから」だろう。

注目を浴びたいというのはつまり、普遍的な自分、見向きもされない自分から脱皮して、人々に無視されない、気に留められる存在になりたいという願いである。

そういうものを含んだメディアは負のエネルギーを帯びてくる。

そうした精神を起因とする問題を耳にしたとき、害悪なのは彼ら(奇異な行動をする人)であって、周りは関係ないと思いがちだが、そうではない。
彼らは周りに手を叩いてくれる人間がいると信じるから行為に走る。

つまり、彼らの周囲のコミュニティが彼らにそうさせる。
コミュニティの裾野が広いだけに、相手をしてくれる人間は沢山いる。
それが厄介だ。

彼らは実際メディアを騒がせて、その狙いは成功している(それが悪い形だとしても)。
一部の芸能人は、あえて叩かれるような発言をしてみせることで、名前を売っていると言ってもいい。

今の時代に必要なのは、無視をすることだ。
極度に害悪のあるものは排除されるが、それ以外は無視をされる。

相手にしないということは、ある意味で抑制なのだと思う。

もちろん無視だけではいけない。
ときにはたしなめて、あなたの認識は間違っているよ、と教えることも必要だ。

そうしてコミュニティ全体でバランスをとっていく。
そういう自浄効果が必要だ。

無視も立派な行為である。

実際それを裏付ける実験があって、植木理恵さんの「シロクマのことは考えるな!」に載っている。
簡単に言うと、アメとムチより、アメと無視が効くそうだ。

厳しいことを言うより、無視されたほうが堪える。

しかし反面、無視行為は使い方が重要だ。

無視を一番有効に使う方法は、「たまに」無視すること。

上記のように、一度無視をしたらしっぱなし、というのは、もはや関わらないということである。
しかしそれでは、相手が自分の行為を省みたとき、こちらは利益を逃すことにもなる。

これに関連するエピソードが、ゲーム理論にある。

昔、コンピュータ同士を戦わせる大会が開かれた。

そのルールは、相手と協調するか、協力しないかを選ぶというものだ。
協力すれば両者に高得点が加算される。
だが、裏切れば自分だけそこそこな得点が得られる。

両者にとって総合的に得な戦略を選ぶプログラムを競った。
相手あってのことなので、もちろん相手によって戦略の効果は違ってくる。

そんな中で優勝したプログラムのとった戦略は、「しっぺ返し」。

相手が協力してくれば協力、叛意を起こせばこちらも協力しない、というものだった。
戦略としては非常にシンプルだが、複数回優勝しているので優秀さは保証されている。

さきほどの無視の話に単純に当てはめてしまうと、無視をされたら無視をし返すのがいい、という解釈をされてしまうかもしれないが、言いたいのはそうではない。

無視しても相手が協力的な姿勢になったり、こちらの意見に耳を傾けてくれそうな時は、無視を取りやめて対話路線でいくことが必要だということだ。

無視はよくないとはいえ、何かを切り捨てずに何かを得るというのは不可能である。

賢い選択の仕方を覚えたいところだ。


2013年8月4日日曜日

平等論と再分配


先日NHKのコロンビア白熱教室で、先生が生徒に3つのグラフを見せていた。
その内訳は、

①富を5つのグループで5等分する。
②努力の割合に応じてちょっと分け前を変動させる。
③極端に分配がおこなわれる。

といった具合だ。
果たしてどれが平等か、と生徒に問うわけである。

私は③が平等でないのはわかった。
っていうか、自分で極端って書いているし。

問題は①か②だ。

どちらが平等かに答えはない。

何故なら富を等分してしまうと、頑張った人が報われないからだ。
これではいけない。
ちゃんと働きを評価しなければ、やる気は失われてしまう。

では②が平等かというと、そうではない。

何故なら元々身体が悪かったりして頑張りようのない人は、どうしようもないからだ。
個人の頑張りというのは、持って生まれた性質に左右される。


しかし恐らくは、②が平等だと主張する人が多いとは思う。

言ってしまえば弱く生まれついたものは力をもたない。
役に立たなければ食っていけない。

弱く生まれたものにとっては、このシステムはたまらなくつらいのだが。
誰も好き好んで弱く生まれついたわけではないのだから。
しかも自分のせいではない。


ちなみにその講義の先生が、「①は私が平等だと思って書いたものです」というような発言をしていて驚いた。

その先生は病気を患って目が見えないので、そういう考え方をしたくなるのもわかるが、私はそれが平等だとは思えない。


この問題の根本的な考え方はこうだ。

「生まれついての差は埋めるべきか否か?」

私のかつての知り合いに、学びの格差をなくしたいと言っている人がいた。
つまり、生まれつきの環境によって、学べない人をなくしたいという。

凄くクリーンな論理に聞こえるが、どうだろうか。

たしかに有能な人材の発掘、ひいては国の将来のためと言えば聞こえはいい。
しかし、学力の面だけでそういった地ならしをおこなうことが、果たして平等と言えるだろうか。

それはつまり、もともと頭のいい人間は、環境にも恵まれるべきだ、という風に聞こえる。
これはとんでもなく不平等な話ではないか。

考え方としては非常に実利的だしそれでかまわないと私は思う。
しかし、その人はそれがさも平等に与えられる権利かのように語っているのが気になる。

頭のよさは育てられる面もあるが、生まれつきの部分もある。
なんに関してもそうだ。

生まれつきが違うのは絶対なので、その差とどう向き合っていくかを考えなければならない。
そこには必ず利益に基づく判断が存在する。

平等とは聞こえはいいが、そんな言葉はまやかしなので騙されてはいけない。
そこには実利的な判断が必ず存在する。


もっとちゃんと書くなら、平等は個人の利益のためではなく、大衆のためにあるということだ。
当たり前と思うかもしれないが違う。

個人は自分にとって何が利益かで物事を判断しがちだ。
それに相手の置かれている状況を想像するのはそう簡単なことではない。

生まれつきが平等ではない以上、本質的な平等条件は存在しえない。
ならば、法の下での平等、社会としての平等は、社会にとっての利益にフォーカスしなければならない。

平等なら皆得なんてことはことはない。
誰かは損をする。

でも誰かが損をすることで、全体の利益になるなら、それは損をした人も大局的には損じゃないかもしれない。

それが、平等条件の落とし所なのだ。

ニーチェに何がわかるものかよ


はじめて「ルサンチマン」という言葉を目にしたときは、なんだそれはと思った。

てっきり人や役職の名前だと思っていたが、「恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態」を指す概念だと知った。

ニーチェの原本を読んでいるわけでもないから、正当な言い分かはわからない。
だが、ルサンチマンの考え方を知ったとき、私は、「おまえに何がわかるものか」と思った。

goo辞書によればルサンチマンとは、

もともと恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態をいう言葉だが,ニーチェはこれを弱い者への思いやりや自己犠牲を説く平等主義的な道徳の起源を説明するために用いた.彼によればキリスト教道徳や,そこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権の思想は,弱者の強者に対する恨みや復讐心を道徳として表した奴隷の道徳なのである.この延長上にある社会主義の思想も,このような奴隷道徳の一部にほかならないと考えられる.ニーチェはこれに対して強者の道徳,貴族的な誇りや勇気を讃える戦士の道徳,君主の道徳を対置した(ニーチェ『道徳の系譜』).しかしこれは結局ファシズムによって利用される結果にもなった.

私なりに解釈すると、

宗教的道徳や善の考え方は、力をもたない弱者の倫理である、ということだ。
弱者は強者に恨みつらみを抱えていて、その否定をしようとする。

また他の説明からも、

全ての高貴な道徳が、自己自身への勝ち誇った肯定から生じて来るのに対して、奴隷道徳は始めから“外部”“他者”“自己でないもの”に対して否を言う。そしてこの否が奴隷たちの[せめてもの]創造的行為なのである。この価値付与の眼差しの転回 - 自己自身へと立ち返らずに外部へと向かうこの必然的な方向 - はまさにルサンチマンに属するのである。

強者の道徳は自身は正しいという自信からくる健全なものだが、弱者の道徳は強者を否定する不健全なものである。

という風に解釈できる。

もしこの記述がニーチェの考えを如実に表しているとすれば、私は「おまえに何がわかるものかよ」と思わざるを得ない。

特に現代では、ルサンチマンを助長するメディアがある。
それはネットである。

匿名性があり、発信に多くの労力を要さない環境は、力をもたぬ弱者のルサンチマンを増長する。
よく言われる「炎上」は、そのうちのひとつかもしれない。

「火のないところに煙は立たない」と言われるように「非のないところに煙は立たない」のだとは思う。
だが、近年の「炎上」は明らかに行き過ぎている。

某巨大掲示板では、その場所を自嘲する意味で、「便所の落書き」という表現がしばしば使われる。
そこは、現実に受け入れてもらえない弱者のフラストレーションの捌け口である。

弱く生まれついたものは、文句を言いつつも生きるしかない。
善や道徳という建前を巧みに盾にして、数という力によって強者を抑えつけなければ、自分たちは滅びてしまう。

そもそも、強者として生まれついたものは自身がなんの努力をしたわけでもないのに、何故そんなに偉そうな口を叩くのか。
弱者として生まれただけで何故そこまで否定されなければならないか。

私はむしろ、強者こそ努力せずに才能を手に入れた部分もあるのだから、謙虚になれと思うのだが。

しかし強者は強いので、この論理は通用しない。

強者は実力を自分の手柄にしたほうが得だし、弱者は不出来を運のせいにしたほうが楽だ。
自分の掴んでいる成功は努力の賜物か、天からの授かり物か。
このふたつの考えは平行線を辿ったままだ。

2013年8月1日木曜日

ヘイトスピーチ


最近、「ヘイトスピーチ」という言葉をちょこちょこ見かける。

ヘイトスピーチとは、
『憎悪にもとづく発言。差別的行為を煽動する言動、または各種の表現』
を指す言葉だそうだ。

当人が改善できないことをぐちぐち言うこともこれに相当するようだ。
今までに取り上げた、処女信仰の根本原因もこれだな、と思う。

要するに「どうせ話し合うなら前向きにやりましょうよ」という考え方だ。

どうもネットにおいては、嫌いな物事について罵詈雑言を吐き出すことで発散する傾向が見られる。
特に女性や嫌韓問題については苛烈な意見も多い。

本当に嫌いなら無視を決め込むのが大人の対応という気がするのだが、利権が関わってくるとそうも言ってはいられない。

ただ、憎悪や差別という言葉はあまりにも曖昧過ぎて、裁く側の判断基準が難しい所だと思う。

それに、男女の違いや人種の違いについて口に出すことは避けましょう、という風潮になるのも恐ろしく不自然なことだ。

たしかに差別をされない世の中は素晴らしいが、それは決して没個性を目指す意味ではなく、個性を尊重し、前向きにとらえることが大切なのだ。

しかしひとたびヘイトスピーチと言って極端な言論封殺をおこなってしまうと、開けっぴろげな話し合いの場を失ってしまう可能性すらある。

話し合いが起きなければ当然理解は深まらない。

もちろん話し合いですべてが解決できるわけがないけれど、それすらもできなくなる方向に進んでしまうのは状況の悪化でしかない。

ヘイトスピーチを裁く側の良識が問われていると思う。