2013年2月12日火曜日

馬鹿と天才


昔、天才バカボンという漫画がありましたね。
『天才とバカは紙一重』という言葉があるように、一般人にとっては、天才の思慮深い行動もバカの思慮の浅い行動も同じく意図が汲み取れないという意味でしょうか。

世には『○○バカ』、という言葉もあったりして、学者さんやらの一本槍な人間が、自分の事を謙遜して「いえいえ、私は○○バカでして~」という風にもちいる。
そういう人間が特定の分野では天才的だったりすることもあるだろう。

だが、天才とバカの境界をどう見分けるか、は難題だ。
つまるところ実績をあげていれば天才なのだが、才能がわかってから発掘したのでは遅い。

私が考える天才とバカの例は、以下のようなものだ。
例えば会議など話し合いの場で意見を出す場合に、「それじゃあダメだよ、そんなバカバカしいことよく思いつくね」というように人を見下した態度をとる者がいれば、それは紛れもなく賢い振りをしたバカである。何故なら、会議の席について意見をだしてもらえるということの価値をまったくわかっていないからだ。そして何より、人を馬鹿にすることで意見を封殺してしまっている。これでは会議をしているのに機会損失も甚だしい。逆に、一見バカな事を言っているようでも何かを提案できる人間は評価されるべきだ。天才とまでは言わないまでも、なにかアイディアをだすというのは偉大なことだ。

先の例では、天才とバカというのは、いかに理性的な判断が出来るかどうかでは決まらないことがわかる。
たしかに安定感や安心感を大事にするなら、理性的な発言をする人間のほうが一見見栄えよく見える。
だが、実際に情報を円滑に伝達したり、議論を巻き起こすパワーはバカっぽい発言をする人間のほうが圧倒的に勝っているように思える。

この例における天才とバカの分かれ道は、身のある議論をいかに盛り上げる力があるか、である。
それ次第で、発言に対する評価がバカか天才か、ひっくり返るのだ。

ただし、このタイプの天才は牽引力にはとぼしいかもしれない。
天才像の全容ではなく、あくまでひとつのスタイルである。

また、天才と馬鹿に共通する性質を挙げるとすれば、突飛だということだ。
言う内容にしろとる行動にしろ、彼らは常人より大きな歩幅で進んでいく。
そのため外部からみると、論理性が見えない。

馬鹿がとる行動は突飛ではあるがよくわからないプロセスに支配されており、天才はある意味わけのわからない(説明されることなしには)プロセスを行動に移す。
そのため、常人から見れば双方共に意味不明には違いなく、見分けはつかない。分かれ目があるとすれば、何か利益をもたらすかどうかしかない。

つまり、たとえ天才的な才能をもっていたとしても、評価され、利益をださないことには天才にはなれない。だが、馬鹿は勝手にのたれ死ぬこともできる。


別の例として、哲学の世界で名を残している天才たちの考えを読んでいると、ある意味で底抜けの馬鹿なんじゃないかと思うことがある。

例えば、「人間は理解し合うことができるか」「疑いようのないこととはなにか」「我々が認知できないことはどんなか」なんてことを大真面目に考えている彼らは、あまりにも慎重過ぎるし、その思考は病的にさえみえる。
下手な考え休むににたり、という言葉があるように、考えていれば誰でも天才というわけではない。
一見すると実利のなさそうな彼らの考えも、いまや哲学科で勉強の対象になるのだから不思議なものだ。ただ、哲学科は就職があまりにも厳しいらしく、実利に結びつきにくいジャンルである。

先程は利益をださなければ天才でないと言い、しかし実利に結びつかないことを考える哲学者は天才だと話したが、これは決して矛盾ではない。
ただ、求めている利益の指すものが、金か社会的影響か、という話だ。

しかし彼らが考えた疑問はあまりにベーシック過ぎて役立たないように思えるのに、長い間生き残っている。
工学的・数学的な知識だって、それが有意義だと知らされなければ、さっぱり価値がわからないのと似ている。

どんな情報も物体も、それを見つめる側の眼が曇っていては役に立たないということだ。

なにせガリレオは地動説を唱えてキリスト教に異端審問されたように、時代がその人に追いついてない以上は、どんな天才も馬鹿になってしまうのかもしれない。

馬鹿も天才も紙一重なのは、「常人にとって理解不能」である。
それが他者にとって有意義か否か、それによって天才と馬鹿が分かれるのだ。

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