2014年6月17日火曜日
神を信じるもの(インテリジェント・デザイン)
某掲示板のまとめにこんな記事が。
要約すると、
*『全知全能の神様的存在(創造者)がいるというなら、なぜ世界はこうも不都合な設計になっているのか?』
というわけです。
これは、世界がある創造者の手によって計画的にデザインされたのだとする考え方(インテリジェント・デザイン説)を否定する意見です。
一見、正しい批判のようですが、この言説には相当人間本位で危険な考え方が潜んでいます。
まず、創造者がいるという仮説について、我々は完全否定することはできません。
宇宙人と同じで、存在を確認するまでは、いないと断言することはできないのです。
創造者がいるという考え方は、とっぴな考え方で、SFチックに捉えてしまいますが、別にそんなことはありません。ただ、証拠が少なすぎるだけです。
問題はむしろ、それに文句をつけてるほうです。
最初の問いはつまり、『全知全能の神がこんな不都合な世界を作るはずがない』ということですが、そもそも全知全能だからといって、不都合を好まないとは限りません。
例えば人間でも、完璧過ぎると人間味がなくて好きになれない、ということはあるんじゃないでしょうか。
それと同じように、「人間はちょっとくらい欠点があったほうが可愛いよね」、と思ってるかもしれません。
それどころか、「人間は悪いやつだから、ちょっと不便な思いをさせてやれ」と意地悪をしている可能性すらあります。
つまり、インテリジェント・デザイン説反対論として出された意見*は、そもそも神(あるいは創造者)は人間にとって都合が良い存在である、という暗黙の仮定をしてしまっているわけです。
また、「不都合である」というのも問題です。
例えばここでは、産道が狭すぎるなどの、人間にとって不都合な設計の存在が神を否定しているというわけですが、そもそも不都合というのは、人間的な観点でしかなく、まだ自分たちが、その機能の謎を解明していないだけかもしれません。なんでこんな無駄なことを…と思うことでも、実は意味があるのかもしれないのです。
なので、先の意見*は、人間の傲慢さそのものだと思います。
科学の皮をかぶったような発言ですが、もっとも大切な「無知の知(自分が知らないということを認知すること)」の考えが欠けているのです。
もちろん、インテリジェント・デザイン説も強く推すのはどうかと思います。
しかし、それを真っ向否定してしまって、似非科学宗教的な考え方に無自覚に染まっていることもまた、同じくらい恐ろしいことであります。
どちらが悪いとは言いませんし、冗談で言ってるうちはいいのです。
自分の中では信じているが、根拠がないことを自覚していれば。
別にそれならいいのですが、こうした言い争いに対して、真面目に捉える人がいるとすれば恐ろしいな、と思うのです。
これは反証不可能な問題で、科学のようでいて科学ではないジャンルの話なのです。
・追記
この間テレビで、事故で沈んだ海外の豪華客船を引き上げる作戦が特集されていました。
そのとき、現地の人が成功を神に祈っていたのですが、私などからすると、事故を引き起こしたのも神様なんじゃないのか、と思うわけです。
ですが、祈る人がいるということは、きっと全知全能の神様は人間を愛してくれているという、なにか根拠があるのかもしれませんね。自分の理解が足りていないのだと思います。
2014年6月14日土曜日
片付けができない人
私は片付けが苦手だ。
近年、片付けのできない人が増えているという。
これは、なんの影響かはわからない。
学校教育かもしれないし、家で手伝いをする子供が減ったからかもしれない。
あるいは、テレビやインターネットなど、他の要因が絡んでいるのかもしれない。
だがこういうときはまず、「そもそも」どうなのか考えることが必要だ。
つまり、「そもそも片付けのできない人が増えているのは本当か?」ということ。
別に経験則を見くびるわけじゃないが、大体今は世の中が整理され過ぎてるんじゃないかと感じることもある。
大抵のルールは法律で決まっているし、環境はある程度計画的に設計されている。
進学にしても、勉強のジャンルは緻密に分類されている。
それらはいままでの大人たちが、頑張って積み上げてきたものだが、そもそもがとっちらかった状態だったのだから、整理に対しての基準が違うのではないか、と私は思うのだ。
だがまあ、これについてはデータがないだろうから、水掛け論になってしまうに違いないので無視をして、片付けのできない人について、考えてみよう。
片付けができることについての是非については言うまでもない。
キレイな方がいいに決まっている。
ただ、片付けができない人はなんらかの障害であるというような話まで出ているくらいだから、脳機能と片付けの密接な関連が疑われていると言えるだろう。
さて、片付けができない人とは、一体なんなのだろうか。
私が思うに、片付けができないタイプにも二種類いる。
ひとつは、片付けをしない、とっちらかっているが、どこに何があるか覚えているタイプ。
こういう人は、なんら問題がない。
ただただ物ぐさなだけで、むしろ雑然とした部屋の物の配置をすべて頭にいれているあたり、問題どころか頭がいいとさえ言えるかもしれない。
もうひとつは、片付けをしないし、探し物が多いタイプ。
このタイプは、基本的に周囲に無頓着である。
しかも、想像力もなく、何かを覚えるのが苦手であると推測される。
つまり、片付けをしないのでも、あえてしないのと、できるけどしないのでは大違いということである。
例えば片付けが得意だとしても、ペタペタとラベルを張ってどこに何があるかを覚えていないタイプは、片付けをしないと脳のキャパシティが足りないので補っている部分もあるのかもしれない。
もちろん、自分の能力を補うために整理するというのは大変素晴らしいことだ。
だが、そういう人が片付けしない人を十把一絡げに問題ありとするのはいかがなものかと思うのである。
2014年6月8日日曜日
集中力
欲しい力、スキルは沢山ある。
資格、実務能力、話術など。
だが、それらを身につけるためにはまず、基礎的な能力が不可欠であると思う。
例えば、記憶力は上述の作業に必要な知識を頭に入れるために必要不可欠である。
また、体力は忍耐強く作業を行うために必要だろう。
それらと並んで挙げられるスキルがある。
それは、『集中力』である。
私は、集中力とは何かと問われても、あまりピンとこなかった。
それは私自身が、集中力のない人間だったからであって、そもそも集中という概念自体がよくわかっていなかったのだ、と最近になって気づいた。
集中力の例としては、外界とシャットアウトされることが挙げられる。
例えば、声を掛けられても気づかない、とか。
しかしそれは違うような気がする。
なぜなら、外の世界を見つめなければ、作業を行うことはできない。
だが、やはりそれは正しいのだった。
フラッシュ暗算を解くようになって、私が集中力の存在を認識しはじめた。
その感じ方から言えば、集中力とは想像力とおよそ変わらない能力である気がする。
世に言う想像力とは、未来を予測してみるとか、現実にないものを想像してみる能力を指す。
だが、私は、作業全般において、想像力は働いていると考えている。
なぜなら、人間は外界を認識してから行動するが、その認識を保って作業をおこなわなければならない。
例えば、目をつぶっても、さっきまで目の前に何があったかは覚えているし、きっと障害物があれば避けて歩くことも出来るだろう。
それは、現実とは違った、記憶の世界を歩いていることになる。
普段、目を開けながらの作業もこれとまったく同じである。
なぜなら、目を開けていても、視覚情報が脳に入ってくるまでには差がある。
つまり、目をつぶった状態が五秒前の現実を認識しているとすれば、目を開けている状態では5ミリ秒前の現実を認識していることになる。
恐らく、目から見た情報を、一時的に記憶に溜め込む点では双方ともに変わらない。
ただその情報を保持する時間が違ってくる。
だから、目をつぶっての作業と、つぶらない作業は、現実世界が動かないという前提に基づけば、本質的にはなんら変わりはない。
つまり、我々が生きているのは、元々現実でもない。
数秒遅れの現実を生きている。
ということは、我々の記憶の中に、現実はあるのだ。
だとすれば、何か作業をするときは、我々は外界など見てはいない。
集中力とはつまり、この一時記憶をどれだけ長く・鮮明に保持していられるかの問題である。
ただ、人間は同じ能力を使うことに関しては、複数作業を同時に進めることはできない。
だから、五秒前の世界から何かを考えるときは、今の世界はほぼ頭に入っていない。
これが、集中力の正体であると思う。
だから、集中力をつけようと思って、必死に目の前の問題を眺める行為は無意味である。
むしろ、問題はさっと読んで、伏せてしまう。
そして、頭だけで考える。
そうすると、自然と集中力はつくと思う。
私がフラッシュ暗算を練習しているのは、フラッシュ暗算そのものが、頭の中に足した数字を保持することを強いられる作業だからである。
それはつまり、集中力を養うのに最適な訓練だと言えると思うのだ。
幽霊を信じるか
私はお墓参りにいくし、仏壇に手も合わせる。
だが、幽霊は信じていない。
あなたは幽霊を信じているだろうか。
私が幽霊を信じない理由は、率直に自分が見ていないからである。
だがしかし、見てないものは信じないという考え方をしてしまうと、ほとんどのものが信じられなくなるので、これが根拠ではないのだろう。
テレビでやっている内容は信じるし、インターネットに書いてあることも信じる。
もちろん疑うときもあるが、信じて楽しく見ている。
伝聞情報と幽霊の何が違うかと言われてしまえば、何も変わらないのではないか。
ただ、願望として信じたくはないだけかもしれない。
もし幽霊が存在するとしても、それは自分に見えないのは都合が悪いし、仲間外れのようでなんだか腹が立つ。
かといって、見えたら見えたで気味が悪いから。
実際問題、幽霊の有無は多数決で決まっているようにも思う。
もしも、見える人が多数を占めて、見えない自分が少数派だと思うと、もしかしたら幽霊はいるような気がしてくるかもしれない。
沢山の人が同時に空を見上げたら、ついつい見上げたくなる。
そんなものかもしれない。
幽霊などいないと主張する人間は、幽霊がいたら霊界がパンクして大変であるという。
別に、一定時間経ったら消えるのかもしれないし、現世に残れるのは優秀なものだけとか、そんなルールがあるのかもしれないではないか。
結局、躍起になって幽霊を否定しようが肯定をしようが、その存在を証明することはできない。
なぜなら、幽霊は空気とは違うからだ。
空気は、我々には見えない。
けれど、私たちはその存在を認めている。
それは、様々な実験によって空気の存在が、モデル(概念)という形でその輪郭を認められた結果である。
例えば、風が起こる。空気が移動していると考えると納得がいく。
納得がいくだけ。
ただ、人間の想像した、現実によく合う仮説を当てはめると、それが空気の存在証明となるだけだ。
共感覚も同じだ。
一部の人間は、音を聞くと色が見えたりするという。
だが、一般の人には見えない。
けれど、科学的に信じられている。
その根拠は例えば、脳の動きを見ると、音を聞いたときに視覚野が反応している、そんなところだろうか。
だが、幽霊の場合はどうだろう。
いるはずのない女の人を見たならそれは錯覚だ。
火の玉をみたならそれは自然発火現象である。
でもそれなら幽霊はいないことになる。
実際に視覚野の反応を測っても恐らく、幽霊という結論には至るまい。
つまり、科学的に説明のつかないものが幽霊なのである。
だが、人間が信じるのは科学のみである。
なぜなら科学は、確固たる信用を得るために作られたジャンルだからである。
つまり、科学で説明できない存在(非科学的存在)は、科学的に証明されていないだけで、決していないと断言することはできないのだが、科学の信者は寄ってたかって科学の論理で潰そうとする。
問題なのは、科学の領域に引きずり込まなければ役に立たないということだ。
科学のやり方は、再現性をもち、対象を知って対処するやり方だから、今までも人類に大きな発展をもたらした。
だから、科学のやり方以外は、役に立っていても証明できない。
証明した時点でそれは科学になる。
仮に幽霊が認められるとしたら、人が死んだ直後、必ず霊が現れて確実に話せる場合とか。
なぜなら、そのタイミングが決まって死んだ直後なら、わかりやすい。
しかもはっきり見えるなら、文句なくそれは現象である。
一体、一部の科学の信奉者の中に流れる、幽霊なんていないという確信はどこからくるのか?
もしかしたら、彼らは幽霊を否定したいのではないのかもしれない。
科学にとって、わからない現象があれば、それは研究対象であり、解明すべきものである。
だが、幽霊という考え方は、わからないものをわからないまま受け入れてしまう。
様々な現象が幽霊の仕業になる。
それは科学的に考えると、非常に気味が悪いし、消化不良なのだろう。
だから、一部の科学者は幽霊そのものを信じないというよりも、不思議な現象がすべて幽霊という言葉で処理されてしまうことに、憎しみを覚えるのかもしれない。
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