2013年12月21日土曜日

馬鹿にすること


誰かを馬鹿にすることは、無意味だと思う。

何かを見下してものを言うことは、ネット上では大変流行っている。
twitterでは馬鹿を叩き、2ちゃんねるでも「おまえら」なる架空の集団を叩く。
芸能人が不祥事を起こせば、炎上される。

何をそんなに叩きたいのか、と思う。

たしかに悪は是正されるべきだと思う。
何か悪いことをしたら正すのは当然であって、それが未来を見据えた訓示であるなら、なんら問題ない。

だが、今世の中(主にネット社会になるが)に蔓延している叩く雰囲気は、何も発展性がなく、ただ他人を馬鹿にしているような部分も見受けられる。

誰かを馬鹿にして時間を潰すことは、なにも意味を成さない。
相手は自分に対して何も得をもたらさない。
そこにあるのは、他社を見下して自分を偉く感じるという錯覚による優越感ならびに快感だけである。

認められたい気持ちは誰しももっていると思うが、他人を叩くことで認められることはない。

何よりも、苛烈に他人を批判することは恐ろしいと思う。

自分の間違いの可能性を一分一厘も考慮にいれず、相手に食ってかかっていけるというのは思慮が足りないのをひけらかしているようなものだ。
やはりどこかで自分のことも疑うようでなければ、人は成長していけまい。

なにより、他人を馬鹿にするのは危ない。

馬鹿にされるような人間というのは、この世の大抵のことがどうでもよかったりするので、そういう人間が自棄になってしまったとき、果たして自分の優越感を守りに入っている人間が勝てるかということである。

自棄になった人間が怖いのは、宗教に地獄があることを見ればお分かりだろう。
地獄というのは世捨て人が自暴自棄になるのを防ぐために賢人が考えた世界観である。

馬鹿にされるような人間をつつくのは、爆弾をつつくようなものだ。
優越感程度の幻に浸るべく手をだすには、危なすぎる代物だ。

何より、馬鹿にする側の人間は、自分の弱さを知るべきである。
他人を馬鹿にしないと自尊心を保てないのは自我がない証拠であって、弱みでしかない。
自分の価値の保証を自分が馬鹿にするものに求めるというのは何かおかしな話である。

馬鹿にする行為が溢れる世の中は、爆弾だらけで恐ろしい。

2013年12月17日火曜日

真面目に言えてニ流、ジョークが言えて一流


何かを言う時、正論を言ってはいけない。
なぜか。

正論は、返す言葉をなくすからだ。

正しいことは基本的に、話す内容として不適切である。
なぜならそんなこと皆わかっていることが多い。

それなら間違ったことを言えるくらいのほうがいい。
いわばボケだ。

もちろん、正しい事を把握できる能力は評価しなければならないが、それをそのまま言う事はナンセンス。
あえて裏返して見せるほうがいい。

そこでジョークが評価されることになる。

なぜならジョークは、ひとつのストーリーがあり、かつ可笑しい。
さらに話は膨らむし、政治や職業に関する常識を知っていてこそ面白みがわかる。

自分がもつ知識、その正しさを主張する上で、相手を困らせない。
なおかつ、それが通じる相手は、自分に見合う相手であると見抜けるわけだ。

そういう意味で、ジョークは試金石である。

ジョークのようにストーリー性を含む必要性はない。
面白い要素があって、かつ事実や意味ある内容を含んでいればいい。

真面目なことを真面目に語るのは、ニ流のやる事。

では私がなぜ真面目に語ることの愚を真面目に語っているか。
それは、別にこれを見ている人はストレートな内容を求めているからだ。

冗談は、理解できない人を本来の意図から遠ざけてしまう。
だから、相手を見る必要はあるだろう。

2013年12月12日木曜日

安定性のない人間は成功しない


私たちは外界を見る時、それらを認知します。

目の前にあるりんごを見ます。
そしてその存在を認める。

存在を認め、食べようと思った時、手を伸ばします。
りんごの感触をたしかめ、かじると味がしますね。
ああ、りんご美味しいな、と思う。
このとき、私の中でりんごは存在している。

では、スイカ割りの話をしましょう。

スイカを砂浜に置きます。
棒をもって、スイカから離れます。
目隠しをされます。

さあ、スイカを探せますか。
位置は大体わかりそうですね。

つまり、あなたはスイカからどれくらい離れたか逆算して、スイカがある位置をおおまかに把握しています。

スイカがあるであろう地点までいってみて、試しに棒を振ります。
あれ、スイカが割れた感触がない。

スイカとの距離感が、掴めてなかったようですね。
棒を振っても感触がなかったから、スイカがなかったとわかりました。

きっと少し位置を間違えたのかもしれない。
少し右、少し左にも棒を振り下ろしてみますが、手応えがありません。
おかしいな、たしかにここらへんだったはずなのに…。

わからないよ、と言って目隠しをはずします。
すると、にやにやしながら友達がスイカをもっていました。

なーんだ、もってるんじゃあ、あたりっこないじゃんか。


りんごとスイカの例を比較して違うのは、りんごの場合は自分が思うようにすべての事が運んだという事で、スイカの場合は目隠しによって状況がまったくわからなかったうえに、友人のいじわるという、予想が難しい事態が起こったということです。

りんごの場合ではただりんごを見てとっただけですが、スイカの場合は自分がスイカの位置を予想していましたね。実はそれが大事なのですね。

存在論の記事も話したように、人間は外界を見て、その状態を頭の中に入れます。
なのでりんごの場合も、いったんりんごの場所を頭に入れていて、手を伸ばしています。

こういった想像力は、理解力に直結しています。

何故かというと、理解とは、外的世界の状態を自分なりに解釈することだからです。
そしてもし現実と食い違った時、答え合わせをして解釈通りにいかなかった理由を考えます。

安定性が重要になるのはその理由を考える時です。
さっき、スイカの例で、友人のいたずらのせいでスイカが割れなかったのは、「友人のいたずら」という要素が普段とかけ離れていたからです。
もし友人がよくいじわるをする人なら気付いたかもしれません。

このように、普段起こらないことが混じると、途端に判定が難しくなるのはわかると思います。
表現を変えると、生活が安定していれば、なにかが起こった時に原因が見抜きやすくなるのですね。

だから、いつもと同じように過ごすと、自分の体調や、周りの様子に対して敏感になれるわけです。

2013年12月8日日曜日

想像力


想像力は日常生活においても大切な能力だと思う。

想像力というと、ああしたらこうなる、というような、例えば、ここで怠けたら明日苦労するかもしれない、というように未来を予期する能力を指すものだと思われるかもしれないが、想像力を語る上で押さえられるべき事項は、そのような因果的なものよりも、むしろ我々がもつモデリング能力であると思う。

つまり、私たちは何かを想像している。
こうなったら、ああなるという流れを想像するためには、まず、ああしたらこうなるものである、というモデルが存在しなければならない。つまり、私たちは対象に対して概念を明確にもっており、その前提の下で対象のふるまいを予測しようとする。

もし予測が間違えば、それは自分の中に形成した概念が間違っていたか、あるいはいままでに経験しなかった対象となる概念の新しい側面を見たかのどちらかである。
その違和感を元に、概念の内容を更新する。

ここで概念と言っているのは、つまりあるものに対するイメージとも呼べる。

つまりは、何かをイメージすることがなければ、答え合わせができない、ということを言いたい。

かつての偉人たちが、自分の頭の中に巨大なイメージ空間をもっていたであろう、という話は以前他の記事で触れたと思うが、要するには、目を瞑っていてもできる、というのは、対象に関する情報を他の器官に頼って補完しているだけでなく、今までの経験の蓄積から、すでに見なくても振る舞いが分かっている、とも考えられる。

認識論的な話しでも言われるように、つまり我々が見ている世界は、我々の世界なのであって、個々の人間が独自に作り上げているイメージ空間だと言えるだろう。

目を話していてもタイピングができるのは、手で感触がわかる、という単純な理由だけではなく、そこにキーボードが、このようなサイズで、このような形で存在しているという、明確なイメージをもっているからである。

だから私たちは、自分が見ることのできない世界の状態を勝手に想像する。
北極では熊が暮らしているとか、そういうような。

そして実際に見聞きすることで、現実との答え合わせができるというわけだ。

別にこんなことはわざわざ言うまでもない。
無意識にやっている人はやっている。
しかし、意識されないからこそ、意識してみると面白い、そういうことなのかもしれない。

以前苫米地さんが、人間は一度見たイメージの世界で生きている、と言ったのは恐らくそういうことを指していて、決して我々が好き勝手な世界で生きている、という意味ではなく、一度頭の中に世界のモデルを構築している、そして整合性が合うか確認しながら生きている、ということを言いたかったんだと思う。

また、最近(2014/10/15)になってデカルトの「方法序説」を読んだのだが、その中にも似たような考えがあるので、興味がある方は一読されると良いだろう。
かの有名な「我思う、故に我あり」という文言は、上記の内容と関連していると思える。

2013年12月7日土曜日

カルマ


インドにはカースト制度というものが今もあるらしい。

人々は四つの階層に分けられ、それぞれ優劣がある。
カーストは生まれによって決まるため、人々は生まれながらにして結婚や職業に関して制限がある。

カーストの根本にあるのは輪廻転生の考え方で、人々は何かが死んだことにより生まれ変わった存在であるとされる。
生まれ変わる前の行いが悪ければ低いカーストに生まれる。つまりカルマを背負って生まれてくる。

生きている間に徳を積めば、次に生まれる時は良い身分に生まれることができるわけだ。

カーストは生まれながら階級を規定する制度だから、いくら宗教的とはいえ差別である。
私たちも親が金持ちなら良い教育を受けることができ、結果として高給取りになる可能性が高いように、学歴格差社会は少しカーストに似ている。
カーストの場合は、例え努力しても現世では認められないのだから、より厳しいといえるだろう。

日本人から見れば、この世界観は不自然に映るに違いないが、誰も否定することはできない。
なぜなら、私たちの死が、本当に輪廻転生の一部であるかどうかは、証明しようがないからだ。

なにせ私たちは前世の記憶をもたないうえ、仮に持っていたとしてもそれが真であると証明することができないだろう。この話は世界が5分前に創造されたという仮説を反証できないことに似ている。

ということは、この制度が成り立つのも成り立たないのも不思議ではないし、真偽ではなく善悪の問題である。
だが以下のように、やめさせるための論理を用意することはできる。


カースト制度は、一生を一単位として見ている。
つまり、一単位の間は身分を変えることはできない。

だが、我々の制度では違う。
一生のうち、一分一秒の間にも、立場は時々刻々と変わってゆく。

つまり、双方の差異は、身分を変えることができる時間なのであって、我々の生きる世界のほうが流動的だと言える。

どうせ善行を積ませるなら、生きているうちに報いが返ってくるほうが嬉しい。
そう考えれば、彼らを我々のルールに引きずり込むことができるかもしれない。


2013年12月6日金曜日

ブラック企業は誰のせい


ブラック企業、という言葉が世間でも聞かれるようになってしばらく経つ。
昨年の流行語大賞にノミネートされたし、厚生労働省も対策に乗り出した。

就職活動をする大学生の間では、「あそこはブラックだから」と噂が飛び交う。

若者の話を聞けば、労働環境が悪いからやめた、とまだ勤め始めて数年でやめたという話をよく聞く。

果たして何がブラック企業を産み出しているのか。

そもそもブラック企業とは、どういう会社を言うのだろう。
労基法を守っていない、労働環境の劣悪さ、パワハラ、サービス残業を強要するなどを言うようだ。

つまり、あんまり酷すぎる環境だとダメ、ということらしい。
でも僕はこれに疑問を感じている。

ブラック企業がそれだけ非人間的なことに手を染めるのはきっと理由があるはずだ。
会社の仕事はすべて利益のため、ならば、ブラックな労働の利益はどこへいくのか。

一つ考えられるのは、中間搾取が酷いパターン。
例えば数年前に派遣会社が問題になった。

派遣会社は社員を他の会社で働かせる。
でもよくよく考えれば、別に派遣会社で働く必要はなくて、自分で働く会社に入社すればいい。
というか、そのほうが派遣会社にマージンをとられないから絶対効率いいじゃないか、と思う。
だが、現状そういう雇用形態がある以上、需要があるのだろう。
恐らくは、正社員を雇うより手軽なので、一時期の作業に必要なスキルをもった社員をとっかえひっかえできるのがいいに違いない。
それは逆に、働く側の安定なんて知ったこっちゃないし、使えなければポイすればいいし、という、ちょっと酷い考えが入っている。

これは会社が人材の流動的な確保についていけておらず、昔の正社員システムに引きずられているからとも言えよう。


もうひとつ、ブラック企業の原因としてあまり言われていないのが、人材の能力不足だ。

不況で儲からない、それもたしかにそうかもしれない。
しかし、そもそも会社というのは、人が働いた分の成果が儲けに繋がるはずだ。これは働いた時間の分だけ給与が発生すべきだ、などという暴論ではなく、単純に、働きに見合った給料が払われるべき、という主張に過ぎない。
言い換えてしまうなら、今の人たちは働いた時間の割に利益をだせてないんじゃないの?ということである。

もっぱらブラック企業という言葉は、被害者側が企業に悪印象をもったためにつけられた名前であるが、果たして自省する必要はないのかと言われると、それは違う気がする。

ブラック企業が嫌ならやめればいい…という意見は冷たいように聞こえるだろう。
だがそれも一つの真実だと思う。
働き手がいなくなるのは会社も困る。だが、働けない方はもっと困るから安値で働いてしまう。
しかしながら、そもそも働き口が危ういような人間が、どんどん生産されていること自体が問題なのではないか。

今や大学全入時代と言われることすらなくなったほど、大学に行くのは珍しくなくなった。
しかし、それは若い時間をと労働力をみすみす逃しているに過ぎない。
教育は投資だと考えれば、今の大学の平均レベルは投資ではなく資産を遊ばせているに過ぎない状態のように思える。

そもそも大学と言いながら、底辺の大学では高校内容の焼き増しのようなことをやっているのだから、それは高校のときに済ませておけ、という話ではないか。
人の成長速度が違ったとしても、果たしてそこに長い時間をかける意味はあるのだろうか。

そのうえ、就職の話となれば、企業が求めるスキルと大学での勉強内容が合致しない、という。
そして大学は就職予備校ではない、と言われるわけだが、現状は就職予備校以外の何でもない。
例え研究がしたくても、博士課程まで進むとその後が心配だから、と諦めるものもいる。
そんな中途半端な姿勢を貫いて、若き者の時間をもてあまさせることは、社会に悪影響を及ぼす。

最近言われている、未婚率の増加や晩婚化の傾向の要因として、不況による低収入だけでなく、早くから稼いで貯蓄できないことによる足踏みが挙げられるような気もする。

さらに言うなら、女性の社会進出も悪影響だ。
こんなことを言うと女性から猛抗議を喰らいそうだが、あえて言おう。
稼ぎが苦しいから夫婦共働き、というのは、大変な美談のように聞こえるが、雇用的には人材の価値が上がらなくてまずい。
なにせ働き手が二倍になるわけだから、安値で買い叩かれるのが道理だろう。
つまり、目先の利益を稼ぐために大局的には安い労働を買って出ているような気がする。

それだけ仕事というものの価値があがったとも言えるかもしれない。

さて、ブラック企業の話に戻ると、たしかに労基法を守らないのは悪い。
だが、稼いで食っていけないならより厳しい環境で働くしかないのではないか。
それが嫌なら知恵を絞るしかないのではないか。
それは自然の摂理のように思えないか。
労基法で労働時間を決めたところで、それは逆に、その労働時間で生きていくだけの働きをしなければならない、ということなのだ。
多分独力で生きていけるような能力の持ち主は馬車馬のように働かなくたって生きていけるだろう。

というわけで、私はブラック企業のせいにするだけではなく、人材の教育を見直してほしい、という風に考えている。

2013年12月4日水曜日

子供の遺伝子操作


米国で、遺伝情報を解析し、親が望む子供を作るデザイナーベビーに繋がる技術が開発されたそうだ。
既に特許はとられており、十数年後にはビジネスになるかもしれない。

こうした最新技術について回るのが、倫理問題である。
今回の場合は、遺伝子を操作するという行為が、自然の掟に反するのではないか、という点である。

これは論理的な問題ではない。
何故なら、それによって誰が不利益を被るわけではないからだ。
強いて言えば、操作されることなく生まれてくる赤ちゃんが被害者とも言えるかもしれないが、病気のリスクを避けられるというならば、反対する理由はないだろう。

つまり、人間は自然(あるいは神か)に支配されているべきものであって、交配や自然淘汰のシステムは自然の法則にそぐわないというわけである。

しかしこれは妙な話ではないか。
そもそも交配や自然淘汰のシステムなど、人間が勝手に解釈しただけで誰が生んだとも知れないものを、人間が乗り越えてはいけないというルールがどこにあるのか。

そんなことを言うなら、セックスにおける避妊だって、中絶だって、十二分に掟破りである。
それは宗教として論じられるべきことであって、倫理ではないと私は思う。

中絶はたしかに人を殺すわけであるから、罪の意識があるのも納得できる。
しかし、遺伝情報の操作は違う。

これは子供の産み分けと逆の問題である。
子供の産み分けが、望みにかなわない子を捨てるという発想であるのに対し、遺伝子操作は望みにかなわない子が生まれ、捨てられるのを事前に防いでいると言えるのではないか。
そういう意味で、私は有効だと思う。

子供の産み分けの是非については、私は否定はしない。
なぜなら生むのは親の勝手である。だからといって殺すのも勝手ということはないとしても、責任をもって育てられないなら産み分けと称して命を絶つのはやむを得ない。もちろん手は尽くすべきではあるが、赤ちゃんも親も苦労するであろう(たとえば病気を患っている)などの場合は、やはり当人たちの問題であって、責任をもたない他人が口をはさむべきことではないように思う。
だが、できるならそんな悲劇を避けたいと考えるのは当然のことではないか。

となれば、遺伝子操作による産み分けがノーリスクなら、非常に有効な方法だと思うのだが、どうだろうか。

2013年11月14日木曜日

デジタル化の功罪


21世紀の象徴的な出来事といえば、『インターネットの普及』だろう。

インターネットのために不可欠なパソコン関連の技術は、20世紀末にすでに出来上がっていたが、ネットと社会の繋がりが強くなったのはここ10年くらいのことだろう。

写真も音楽も言語も、あらゆるものがデジタル化されてインターネットという荒波にさらわれてゆく。
人々はそのおかげで、たくさんの楽しみや事件の記憶を共有することができる。

しかし、なにもいいことばかりではない。
最近では、インターネット上に交際相手の写真を載せるリベンジポルノや、twitter上でいたずら的な写真をアップロードする若者もいる。

こうしたデジタル化の弊害が、だんだんと目に見え始めてきている中で、もうひとつ、危惧すべきことがある。
それは、『記憶力の低下』だ。

インターネットを使えば、いまや多くのことを調べることができる。
それは非常にありがたいことだが、その手軽さの分、人間の記憶力は落ちていくのではないだろうかと思われる。

別に記憶力が落ちたところで、手軽に調べられるんだからいいじゃないか、というのはたしかにそうだが、私が問題視するのは、記憶の低下そのものではない。

記憶というのはあくまで行為のための手段であって、それ自体が主体となる機能ではない。
何か現実の事象を取り扱うという目的があって、対象についての知識を頭に叩き込むためのものだ。

私が言いたいのは、記憶力の低下は、創造力の低下に直結するということ。

たしかに単純作業は逐一確認して行えばいい。

しかし、頭の中で何かを発想する力、これは既存の事象をすべて頭に入れていなければ生まれようがない。
仮に調べながら作業したとしても、ミックスする以上は最終的に頭に一緒くたに入れなければならないのは変わらない。

実際、昔の天才数学者オイラーやコンピュータの祖ノイマンは、自分の頭の中ですべて考えていた。
オイラーの業績の半分は彼が視力を失ってからのものだし、ノイマンは頭の中に想像上の自由に描けるホワイトボードをもっていたと語っている。
さらに誰もが知っているであろう作曲家ベートーベンは聴力を失っても曲を書きつづけた。

つまり彼らにとって、もはや現実の世界は意味をなしておらず、すべては頭の中で完結していたのである。
言い換えるなら、彼らが創作を行ううえで必要な情報はすべて記憶されていたということだ。

記憶力は発想の源なのだ。
だが、インターネットはそれの育つ環境を奪っている気がしてならない。

もちろんツールの使い方ひとつで人間はうまくやれるだろう。
だが、必要性に迫られなければ、能力は高まらない。
つまり、ツールが発達すると人間は頼ってどんどん衰退する。
人間はどんどん能力を外部に出していっているのだ。

インターネットのおかげで誰でも何でも出来るようになってきている。
だが、一歩間違えると起こりうる弊害が、我々を脅かしている気がする。

クリエイターが偉大な理由は、そこにある。


[追記]
上記の文章を書いた後に知ったが、どうやらデジタル機器が人間をアルツハイマーに導く可能性が指摘されているようだ。
理由は上記の通りで、デジタル機器の操作は人間の負担を軽くするために、覚えるという行為を操作上徹底的に排除する方針で作られており、それが大衆的に良いデザインとされているためだ。

2013年11月12日火曜日

小鳥とわたしと鈴と


小学校のとき、『私と小鳥と鈴と』という詩を習った。

私は小鳥のように空を飛べないが、地面を早く走れる。
鈴は綺麗な音色を奏でるが、私のように唄は知らない。
だから、皆違って皆いい。

そういう内容だ。

皆違って皆いい。確かにそうかもしれない。
皆が、優れているなら。

そう、この詩で唄われる世界のように、皆が皆、優れた点を持っているなら素晴らしい。
だが私は、それは虚構だとしか思えない。

楽しみを追求するだけなら、それでいいかもしれない。
走るのは楽しい。飛べるのも楽しい。音色も楽しい。唄も楽しい。

けれど、生活は違う。
走っても飛んでもお金は稼げるかもしれない。
だが、唄や音色で食っていくのは難しいんじゃないか。

皆違う個性で、それを認めようという気持ちはわかる。
だが、社会という規格化された世界においては、突き抜けた個性が役立つことは稀だ。

左利きは寿命が短い。
多くのモノが右利きのために作られているために、ストレスを感じるのが原因だという。
この説も推測の域を出ないが、一理ある。
あるいは、左利きは不利なのかもしれない。

もともと重力下で暮らす人間にとって、上下は大切でも、左右を区別する意味はない。
そのうえで、右利きが多数派を占めている。

その多数派が決めたルールによって、少数派が苦しむのは当然のことだ。
なぜなら、数は力だからだ。
言い方を換えるなら、民主主義的には、最大多数の最大幸福が原則だから。

個性を大事にする考え方は、必要だ。
でも、それを幻想的に教えるのは違う気がする。

社会は個性を認めない場所でありながら、一方初等教育では個性を認める教育をする。
なんだか不思議な気がする。

2013年11月11日月曜日

哲学は役に立つのか


以前、『哲学は人生の役に立つのか?』とかいうタイトルの本を見かけた。

著者は哲学者で、自叙伝的な内容だったので、タイトル詐欺のような印象を受けた。
とりあえずわかったのは、哲学者は原文で読むことを大事にするということだけ。

他にも、哲学科を出たために就職が危ぶまれる学生が新聞の投書欄でお悩み相談してるのも見かけたことがある。

それだけ哲学の価値について、世間の評価が低いと、哲学者自身が強く感じているのかもしれない。

僕自身も、大学の教養で学んだ哲学は正直面白くなかった。
存在とはなにか、人間とはなにか、~であるとはなにか、などなど。
それから、イデア論とか、そういうの。

はっきり言って哲学と名のついてるものは役に立たないと思う。
少なくとも僕には役立てられない。

純粋理性批判だの、形而上学だのというやつは謎だし、わからない。
わからないものを役立たないと批判するのは愚かしいが、時間を費やす前に価値を判断したいのは人間が常に抱える問題だ。

哲学はすべての勉強の素だと言うけれど、役立つものはそれぞれ数学や、物理、社会学など一ジャンルを築く形で巣立っている。

つまり、未だに哲学と崇められてるものは、残りかすのようなものだ。

ああいうのは、貴族やらが暇を持て余してやっていた試みがたまたま実利を獲得しただけで、はじまりは日々の生活からかけ離れたものだ。
そんな歴史も鑑みずに、哲学じゃ食っていけない、なんて言うようでは、逆に哲学してないんじゃないか。

哲学者は霞食って生きてるんだ。きっとね。

2013年10月27日日曜日

呼吸のススメ


私たち人間が生きるためには必ずしなければならないことがある。
それは『呼吸』である。

食べる・寝るももちろんそうだが、半ば無意識的におこなわれるという点で、呼吸は違う。
それは心臓の脈動と同じく、生きることの代名詞でもある。

呼吸とは横隔膜という筋肉を引き下げて肺を広げることで酸素を取り入れ、血液にのせて体中をめぐらせることで、エネルギーを得るための大事な手段である。

そのため昔から呼吸法などと言って研究が行われている。
呼吸は生きるためだけでなく、発声にも深く関わることから、役者や歌手も研究している場合がある。

呼吸は多分、それ以外の面でも大きく体を左右している。
例えば、息を大きく吸い込むと、すなわち身体が膨らむので、体内に圧力がかかると考えられる。
つまり、内臓を軽く圧迫する。
実際、便秘解消のコツとして呼吸法を推しているサイトも多い。

また、耳鳴りの治療にも高酸素治療が使われることから、恐らく呼吸が浅いことが結果的に耳鳴りに繋がっているともみられる。

何より低炭素状態では物忘れが進む事がわかっており、睡眠時無呼吸症高群などは日中の活動に影響を及ぼす。

とまあ、以上で列挙したように、呼吸について研究することは、問題を解決してくれる可能性を秘めている。

何か不調を感じるとき、思考がぼんやりするときに、そっと深呼吸してみるのもいいかもしれない。


奇跡ってなんだろう


最近有名ゲームのストーリーを見返していたら、奇跡という言葉が多用されていた。
あまりにくどいのでした。

奇跡なんていうのは、起こらないから奇跡だとか言われる。
大抵の場合、本来起こり得ないことを指す。
ただし、確率はゼロではない。

限りなく起こらないであろうことが奇跡だ。

物語上では奇跡はない。
ストーリーというのは、メタなレベルの話で言えば、作家の思い通りになることだから、作品中の出来事はすべて、奇跡ではない。

しかしもし世界に神様がいるとすれば、その人はストーリーメイカーであるから、世界に奇跡はないかというと、そうではないような気がする。

つまり物語中で奇跡を起こそうと思ったら、作家は神様にならなければならない。
しかし好きなように話を作って良いわけではなくて、ある程度の秩序が必要になる。

それこそ主人公が必ず勝つなんてのは、ある意味でお決まりだし、当然だ。
そういう意味では主人公の勝利は必然であって、奇跡ではない。

しかし面白おかしい話を演出するためには、当然だと思わせてはいけない。
そうなってくると、都合のいい話ばかり並べるわけにはいかない。

たまに死んでほしくない人があっさり死んでしまうとか、そういうことが必要だ。

だから主要キャラクターが死んだはずなのに蘇ってしまうと、次から死は悲しみの代表的概念ではなくなる。
奇跡的に蘇る主人公がいた時点でそれは奇跡ではなくなる。

別に奇跡出来事が何度起こったって、人が蘇るのは嬉しいし、宝くじが当たるのも嬉しい。人生で最高のパートナーに出会えるのも素晴らしいことだ。
しかしそう何度もあってはいけない。

そういう意味で、最近の漫画に見られる人気による作品の長期化はあまりよくない傾向かもしれない。
物語に奇跡がなかったら、きっと面白くないだろう。
リアリティを求めるなら、あえて作品でファンタジーを語る必要もあるまい。

しかし奇跡は何度も起こらないので、長期連載のはじめのほうで奇跡を起こしてしまうと、主人公はご都合主義の英雄になってしまう。

そういうバランスで成り立っている。

2013年10月22日火曜日

結果論ってなんだよ


「それって結果論だよね」

こんな台詞を聞いたことがある。
何か問題が起こったとき、責任者に厳しい批判を浴びせる人は必ずいる。
そんな人を諫める意味で発される言葉が「結果論」だ。

でも実は僕、結果論の意味をよくわかっていないが、印象だけで善悪判断をするならそれは悪だと思う。
深く立ち入らずに流してしまうのも気味が悪いので、例を挙げて考えてみたい。

例えば、伊豆大島で避難勧告のやり方が杜撰だった事例がある。
避難勧告をちゃんとしなかった結果、土砂崩れで犠牲者が出た。

この事例では、避難勧告をもっとちゃんとしていれば被害者は少なかったはずだ、という批判が出て当然だと思う。

なので僕はそれを結果論だとは思わない。
犠牲になる人数は結果的に減らせたかもしれないならば、最大限の努力は尽くすべきだと思う。

この場合は明らかに、やらないよりはやったほうがいい策があったうえで、ベストを尽くさなかったのが問題なのだから、責任は追及されるべきだし、それを結果論とは言わない。


では別の事例で、ふたつにひとつ、プロジェクトをうまく運ぶうえでとるべき戦略の選択に迫られて、しかも選択肢両方共大して見通しが立たない。こんな場合はどうか。

結果的にプロジェクトリーダーが失敗して、批判に晒されるのは、役職をもつ人間の責任を考えれば当然かもしれない。
しかしこの場合、批判する側も勝馬にのっただけで、実際なんでダメだったのかはわかってない。

あとあとで、あれがダメだった、これがダメだったと原因追及をしてみても、それはすべて、失敗したうえでの結論なので、事前に判断するのとは状況が違う。
結果が出ているという意味で絶対の後ろ盾があるので、批判としてはアンフェアだと思う。

しかしである。
後々から批判を加えること自体は決して悪いことではないと考える。

なぜなら世の中のことはすべて結果論から導かれてきたのだから。
失敗してみて、ああダメだった、次はこうしよう、という思考は当前で、それをやめてしまうのは、改善の糸口を自ら手放すに等しい。

本質的な問題は、すでに起こってしまったことに対して、批判することだけに囚われて前向きな結論を導き出せないことである。

最近の報道を見ていると、こんなことが起こった→○○が悪い!までの流れはあるが、だからどうしようか…ってところの話し合いがすっぽ抜けている。
専門家は考えているのかもしれないが、一般の人々はその点に無関心だ。

これが「結果論」という響きが悪印象を帯びる主要因である。。

だから、結果論の一言で原因追及までをやめてしまう必要はない。
ただ批判に傾倒する姿勢を、前向きな力を得ることに切り替えることが大切なのだ。


・他の事例
ノーベル賞のような世界的な賞に関わる研究でも、「結果論」は生まれる。
有名なので御存知かもしれないが、ロボトミー手術なんかまさにそうだ。

ロボトミー手術は、1949年にノーベル生理学・医学賞を受賞した研究である。
その内容は、精神疾患を抱えて気性の荒くなった患者を穏やかにするために、前頭葉の一部を切除するというものである。
手術は一定の効果があり、実際に患者は穏やかになった。
そしてこの術式はノーベル賞を受賞するまでに至ったのだが、後々恐ろしい事実が判明する。
この手術を受けた患者の一部が、無気力やてんかんなど、様々な副作用に見舞われたのである。
投薬など他の医療法が確立され、一定の効果をあげてきた背景もあり、最終的に医学界ではロボトミー手術は禁忌とされることになる。

ここで単純に「ロボトミーを考えた医者は悪い」と断ずるのはまさに「結果論」である。
たとえ猿で検証したとしても、精神的な副作用については見抜きにくかったかもしれない。
結局人間で試さない限りは、効果はわからないのだ。

悲しいのは、彼らがあくまで善意によっておこなった結果が悲劇を生んでしまったことだ。
だから、この問題によって明らかに言えるのは、誰が悪いということではなく、医学的な判断は慎重に慎重を重ねて判断する必要があるという教訓である。


・おまけ
通常、「批判的」であることと「否定的」であることは区別されない。
ネガティブな印象だ。
だが、哲学でいう批判は疑いをもって情報を鵜呑みにしないことであって、決して世に言われるバッシングの意味合いではない。
その姿勢が大切だ。

2013年10月20日日曜日

ポジティブな哲学


哲学は悲観的学問である。

なぜなら我々は、哲学を学んでいくうえで、数々の厳しい事実に直面することになるからだ。
その例を挙げていこう。

まず、私たちが見ている世界は同一ではない。
哲学ではこの推測をクオリアと呼ぶ。
同じ世界を見つめているようでいて、我々の捉え方はまったく違う。
例えば、私にとって青は冷たい色でも、他の人にとっては違うかもしれない。

また、ウィトゲンシュタインが語ったように、言語で語る事が出来ないものに関して、我々は沈黙しなければならない。

つまり、クオリアのように互いに違う感じ方のように言葉で表現出来ないものは、言語による相互理解からほど遠いところにある。

仮に言葉で意思の伝達ができたとしても、それはあくまで部分的なものである。
我々が互いにすべてを理解し合うことはない。

また、プラトン的に考えれば、我々が見ているものは、あくまで影であって、本質ではない。
つまり、ある物に対してもっているイメージと現実のギャップは、永遠に埋まる事はない。
イメージとは、我々が培った経験から形成される像であるから、あくまで一面的である。
単純に言えば、ある時点で、ある物体の、ある方向からの映像を見ているとき、私たちはその裏側を同時に見ることはできない。
すべてのことは多面的であるのに対して、我々が観測によって獲得するイデア(概念)はそれらの複合によって得られる解釈でしかなく、実際の事物そのものの真実の姿とは溝がある。

これはソクラテスの語った、「無知の知」にも似ている。
「我々は何かについて完全に知ることはない」ということを知っているのが本当の賢さである、という考え方だ。

つまり、私たちは世界を見ても、永遠に真実に辿り着くことはない。
仮に真実を知ったとしても、すべてを知ったと自覚する日は永遠にこない。

そのうえ、皆世界の受け取り方が違ううえに、満足に共有することもできない。
これでは、相互理解なんて夢のまた夢だ。

と、哲学を解釈してしまうと大変後ろ向きな結論を得ることになる。
しかし、ポジティブに捉えてこそ前進する力になる。

上に挙げたような性質は、事実ではあるが、それは逆に他人とうまくやっていくための手掛かりでもある。
心得ておくことで、相互理解の不可能性を理解すれば、自分の意見をむやみに押しつけずに済むし、「無知の知」を意識すれば、常に謙虚な姿勢でいられる。
頭ごなしに怒ることもなくなり、人の話をちゃんと受け止めることが出来るようになる。

悲しい真実をふまえるからこそ、相互理解の瞬間がより一層ありがたいものになる。

このようにポジティブに捉えれば、哲学はネガティブでペシミスティックというイメージそのものが、一面的な受け止め方であるとわかるだろう。
物事は多面的な性質をもつのだ。

2013年10月18日金曜日

執着は敵


物事に対して執着してしまうことはよくある。

私は執着という言葉をネガティブに捉えているかもしれない。
実際の意味はどうだろう。

ネットの辞典によれば、執着とは『一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと』であるという。

似た言葉に集中がある。
これは『一箇所に集めること』であるが、いまや傾注や専心のように「一つの物事に集中する」という意味合いで用いられている。

これらふたつの違いは、コントロールできるか、だろう。

つまり、集中は自らするものであって、執着は捨てられない心だということ。
似ているようで、ある側面では真逆といってもいい。

何かに文句を言うことは、執着に近い。

文句を言いながらも使いつづける、関わりつづける状態は、理想的ではないながらもしばしば起こる。
これは精神衛生上良くない。

文句を言うというのは、相手になんらかの変化を求める表現行動だ。
つまり、現状得られているものは不満足だが代わりがないので文句を言って改善を望んでいる。

この文句が次に繋がる形で行われると良いのだが、文句を言う人間はえてして自分の立場の弱さを忘れがちである。
そして言動が荒くなる。

文句を言う側に立つということは、すなわち供給される側に立つということである。
他人を拠り所にしなければ目的は達成し得ないのである。

仮に自分で実現できるのなら、そもそも相手の力を借りる必要なんてないからだ。
何かに対して文句をつけるときは、常に自分が弱い立場にあることを、忘れてはいけない。

2013年9月12日木曜日

勉強が求めているもの


日本の大学進学率は2012年には50.8%だったそうだ。
前年の2011年は51.0%なので下がったことになるが、ここ10年でみると9.5%上昇している。

これからも上がり続けるかは予測不可能としても、今のところ「大学卒業」の学歴はそれ相応に価値あるものと判断されているようだ。


生徒側は、大学で何かを学びたいということはなく、自分の将来をより明るくするために通っている。

一方で企業側は、ひしめく新卒ブランドの生徒達の中から、いかにして「ホンモノ」を見つけ出すかに四苦八苦している。

企業が求めるのはコミュニケーション力であり、専門性や勉強内容は二の次である。
「大学は就職予備校ではない」と言われる一方で、生徒も企業も就職を強く意識している。

大学に限らず、現在の教育が育てているのはどんな力だろうか。

私が思うに、「読解力」である。
問題の意図を読み取り、それにあった選択肢を選びとる。
現代の勉強の中心はこれだ。

しかしこれだけでは表現力がつかないので、たまに作文を書かせたりしている。

コミュニケーション能力を育てるなら、理解力・表現力双方必要になる。
ふたつ揃ってはじめて、人との疎通が成立する。

だが、問題の回答を選択肢にすれば先生は楽だし公正に見えるので、表現力育成を犠牲にしている。
結果、コミュニケーション能力の不足が取り沙汰される。

当たり前なのだ。
大学はレポートや試験の結果を生徒に返却しない、問題は選択肢にして生徒の個性に向き合わない。
教育する側がコミュニケーションを拒否しているのに、生徒にだけそれを求めるのは甚だおかしい。

手を抜けばそれだけ返ってくるのだ。
もはや大学ブランドに意味はない。

現代の教育はひたすら覚え、従うことに終始している。

言語を交わすうえで一番の悩みの種となるのは、相手にどこまで説明をするかである。
意思疎通は文章によって行なわれるが、逆に言えば単語を知らなければ疎通は不可能である。

今の教育が求めるのは、疎通を円滑にするための知識であり、その手段や思考、目的は無視している。

もっと正確に言えば、目的がフォーカスされていない。
教わる側をうまく誘導できていない。

勉強をただ覚えるものと捉え、そこにある目的を度外視する。
それでいて、本当に勉強と言えるのか。

2013年9月9日月曜日

記憶について


記憶力について。

記憶力をあげたい、という要望はよく聞く。
私もできるなら方法を知りたい。

なので、一般的な方法論を挙げておく。

記憶には、分類がある。
いつどこで何をしたかを覚えるエピソード記憶とりんご→appleというような意味記憶。

しかし上記はあまり関係してこない。

大切なのは、記憶情報の扱い方。
私たちは何かを記憶するとき、外界からの情報を変換して自分なりの形(表象)に変える。
そのプロセスを操れるようになればよい。

例えば絵を覚えるとき、右上には☆が5つ、左下には○が3つ、と覚えているようではいけない。
イメージそのものを、頭に叩き込む。

音も同じ。
雰囲気をそのまま、頭にいれる。言語化しない。

もうひとつのコツは、頭の中で論理的に結びつける。
意味のないことは覚えにくいので、何かしら意味的関連性をもたせる。
語呂合わせなんかはまさにそれだ。

人間は合わせて7±2の意味情報しか覚えられないという。
つまり、意味情報にどれだけ要素を詰め込めるかが、勝負の鍵になる。

言葉と概念


私たちは普段、ものに名前をつける。

赤く甘酸っぱい果実に林檎という名前がついているように、幾多にある触れる物体のみならず、現象や概念にまで言葉を当てはめている。

つまり、言葉は万能で、世界のすべてを言葉で表現できるような気もする。
しかしその反面で、情景や感覚を伝えるときには言葉の無力さを存分に味わうことになる。

「百聞は一見に如かず」という諺があるように、言葉を尽くしての説明には限界がある。

言葉は結局なんなのか。
言葉は単なる属性である。

つまり、林檎は林檎という名前の物体ではない。
赤くて、丸っこい、甘酸っぱい果実の属性がたまたま日本という場所では林檎となる。
ところ変わればappleになったりする。

日本の英語教育では、日本語の単語を英語に、英単語を日本語に訳するテストを課すけれど、あれは間違いをうむ可能性がある。

林檎という単語に関して、appleを対応づけてしまう可能性がある。

これはつまり、林檎を指で指されたとき、「林檎って英語でなんて言うんだっけ?」と思い出し、「林檎はappleだ」というプロセスを辿ることをさす。

しかし我々は日本語を使うとき、直接「林檎」という呼称を思い出すことが出来る。
だから、上記のような英単語の覚え方は不自然だと言える。

日本人が英語を不得手とする理由のひとつが、そこにある気がする。

2013年9月4日水曜日

運動の法則


私は運動が苦手だった。
今でもそれは変わらない。

それでも昔運動をしていたので、どうして私だけができないのか、どうしたら上手くできるのか考える機会は多かった。

例えば走るというような一見シンプルな活動においてさえ、たった50メートルの間に雲泥のタイム差がついたりする。

どうして上手くいかないのか、うんうん悩んで試したが、一向に早くはならない。

今にして思うと、私はそんなに努力家でもなかったから普段走らない人間が走る人間に勝てないのは当然のこと。
それは、身体が順応していないという意味で、つまりは筋力が足りないという意味で勝てないのは当然だ。

でもそれにしたって、私と彼らでは走るときの何かが違う。
そう感じていた。

ある時テレビを見ていたら、ある陸上選手の特集をやっていて、早く走るコツなるものを紹介していた。
私はぼんやりと見ていたのだが、その内容にハッとさせられることになる。

画面内にはその選手の走行時のフォームが映し出される。
次に一般的なフォーム。

そして比較がなされる。

解説によると、その選手独特の「アメンボ走法」は目線がずれない。
そのため視界がぶれることなく、安定した走行ができるという。

そのとき、私の中でちょっとした衝撃が走った。
その走り方に行き着く原因が他に思い当たったのだった。

たしかに目線が安定することは一つの要因かもしれないが、もっと大事なことが言及されていた。
その選手は自分の走りを、「ふとももを持ち上げる勢い」で走ると表現していたのだった。

よくよく考えてみればそうだ。
人間の身体は、筋肉を収縮するときに力が入るようになっている。
私はそれまで人間は地面を踏みしめていると思っていたが、とんでもない。
いくら踏みしめても、体重以上の力はかけられないのだ。

つまり、力を出そうと思ったら、いったん身体を持ち上げて重力の力を利用するしか手はないのだ。

まあ正確に言えば、姿勢を保つために収縮する筋肉の反対側に拮抗する筋肉があったりするのだけれど、それとて重力方向に対して収縮という形でしか働きかけることは出来ないには変わりない。

とまあ、運動のうまい人なら誰でも知っていそうなことを知らずにがむしゃらに試行錯誤していた私は当然運動がうまくなるわけもなく。
センスという言葉の残酷さを深く噛み締めたのであった。

2013年9月3日火曜日

病名が人を救う


「なくて七癖、あって四十八癖」という言葉があるように、人間は各々、当人が気付いているにせよいないにせよ、何がしかの癖をもっている。

例えば、貧乏ゆすりだとか、イライラすると指で机をとんとん叩くとか、考えるときに下唇を噛むとか。
私の場合はこれが変わっていて、考え事をするときにぐるぐる回転する、というものだった。
何か考えることに熱中するとき、ぐるぐると回りながら考えると、思考に深く入り込むことができたのだ。
奇異な性質だと自覚はしていたので、周囲の目に触れる場所では我慢していた。

私には他にもいくつか変わった特徴があった。
あるとき本を読んでいて、どうやら私は右目でしか本を見ていないことに気付いた。
まっすぐ見ようとするとぼやけるので、おかしいと思いながらもそれを貫いた。

しかし、片方の眼だけを過度に使うことが眼にとって優しくはないことは想像に難くないだろう。
私の右目の視力は左目とぐんぐん差をつけて落ちていった。

視力が良くないことからも予想がつくかもしれないが、私は運動も得意ではなかった。
サッカーをしてみればボールをまともに蹴ることも出来ない。
野球をしてみればルールもわからないしボールも遠くまで投げられなかった。
挙句の果てには水泳や短距離走のように複雑さの少ない競技でさえもトロくさく、いつもクラスな意ではビリから数えたほうが早い始末であった。
唯一苦手ではなかった(得意でもなかった)のは長距離走だったが、走った後にいつも何故か右側の肺だけ苦しくなるので好きではなかった。

私はいつも姿勢が悪く、頬杖をついていた。
歩き方も何だかおかしいような気がして、一時期かっこいい歩き方を真似してみたこともある。

私が唯一秀でていたのは音に関する感性だけで、人一倍話を聞くのがうまく、耳がよかった。
そのためか音楽の好き嫌いもうるさかったし、人と話すのが好きだった。

だから、スポーツの出来ない私が、高校に入って勉強でも取り残され始めたとき、私が己れに感じた無力感は途方もなかった。

自分はなにもかも平均以下だと自覚し始め、今度は努力をしてこなかった自分を恨んだ。

そこで一念発起して努力できていたならなにか変わっていたかもしれないと今でも思う。
が、残念ながら私の辞書に努力の文字は無かった。

今まで何をしても大してうまくいかず、まともに成果がでたのは人に言われて適当にこなしていた勉強だけだったのだから、努力をすることに意義を感じなかったのも仕方のないことかもしれない。
そもそもやりたいことですら大してなかったのだ。

そしてついには適当にしていた勉強すらしなくなり、毎晩毎夜パソコンで遊ぶ始末だった。
学校は自称進学校の学校だったので部活動も禁止されていた。

こうして受験を迎えた私が入れる大学など殆どあるはずもなかった。
かろうじて手が届くかもしれない最寄りの国立大学をダメ元で受験して、信じられないことに受かってしまった。

大学に入った私は、今までのつらい歴史(それなりに楽しんではいたのだが)を振り払うかのように演劇を始め、そして運動じみたことまで始めた。

しかし、生まれ持っての性質というのは変わらないらしい。
同期がどんどん成長していく中で、自分だけ取り残されていく気持ちは切なくて仕方がなかった。
なにより熱心に教えてくれる先生に対して申し訳なさが募った。

そして二年後、私は両方ともやめた。
理由は簡単だった。伸びなかった。つらかった。

先生は残念そうに見送ってくれたが、私はもう合わせる顔がない。

私が活動をやめたのにはもうひとつ理由があった。
それは、自分がもう伸びないとわかってしまったからだった。

私はどうやら先天的奇形の類だという事実が判明したからだった。
鏡を見たとき、自分の首筋の右側だけに浮き出た筋が私の異常性を物語っていた。
そのとき私は悟った。

いままで私が悩んできた癖はすべて、これに起因している。

ぐるぐる回るのが落ち着くのは、重心がズレているためだし、右目ばかり使っていたのは、首の筋肉が歪んでいたために首を動かし辛かったため。スポーツができないのなんて当然のことだし、頬杖をつくのはもともとバランスが悪かったからで、いくら発声練習をしても伸びなかっただって、普通じゃないんだから当然だった。

この事実を知ったとき、私の心にはふたつの感情が訪れた。

ひとつは、私の努力はなんだったのだろう、ということ。
できるはずもないことで延々時間を浪費して、手元に何も残らなかった虚無感。
そしてもうひとつは、私はできなくて当然だったのだ、という安心感だった。

そう、私が何事もうまくできないのは、私のせいではなかった。
もちろん私のせいだが、私の中にある私を縛り付ける病のせいだったのだ。

こうして病にすべてを押し付けることと引換えに、私は安寧を得た。
誰かが偉そうにしたって、「しょせんお前は健常なのだから当然」と思い、自分が馬鹿にされても「私でなくて病が悪い」と思うようになった。

もちろんこれは全面的にいいことではない。
なんでも病のせいにして現実から目を背けたとしても、私が無力だということは何も変わらないし、周囲に迷惑をかけることもなんら変わらない。

だから、病を楯に自分を擁護するような真似をすることははしたないと思う。
けれど、誰が好き好んでこうなったわけでもないのに、とも思う。

そんな歯痒さが私の中には常に存在している。

でも、よかったこともある。
それは、すべての人がいい形にせよ悪い形にせよ、いろんな運命に従って生きているという想像をめぐらすことができるようになった。

たとえ誰かに腹を立てても、その人ではなく、その人の運命が悪いんだと考えれば、一歩引いて客観的視点に立つことができる。

それから、現実を逃避してファンタジックな世界に憧れる人の気持ちに理解を示せるようになった。
私はファンタジーを好む人たちは非リアリストの夢想家だと勝手に勘違いしていたが、よくよく考えてみれば厳しい現実をよく知っているからこそ、ファンタジーが楽しいのだ。

最近はなんでもかんでも病名をつけたがる、という意見がある。
授業中に落ち着いていられない子供をADHDと言ってみたり、コミュニケーションの解釈に問題を示す人を指してアスペルガー症候群と言ってみたりする。

病名をつけることで一括りにするのはよくないし、それを言い訳に何かを放棄するのはたしかによくないかもしれない。
しかし、自分を深く見つめ直すことで人生が豊かになるだとか、精神的に少し楽になるのなら、それでもいいように思うのだ。

私自身は、自分の病気のことをもっと早く知っていたら、こんなにも無理はしなかったのになあ、と考えてしまう。
冷たい言い方をするなら「自分の分をわきまえていればよかった」と思う。

だから病気がわかったとき、なんで私だけ…と不幸を呪う必要はない。
これ以上無理しなくて済んだ、と考えるべきなのだ。

それは欺瞞だと言う人もあるだろう。
前向きに生きることは常にある種の欺瞞を含んでいる。
そうしないと、やってられない。

ある意味、自分でファンタジーを演じていると思えばいい。

これは決定論的問題に通ずるところがある。
病名がつけられると、途端に自分は悪くないんだという気がしてくる。

それは、自分の無能の責任が、病名に肩代わりしてもらえる気がするからに他ならない。
だが、実際のところ、事実は何も変わらない。

2013年9月2日月曜日

差別と平等について


私は某巨大掲示板のまとめサイトをよく見る。
先日、たまたまダウン症の話題があがっていた。

内容を見てみると、どうやら掲示板では差別的な発言(彼らは遺伝子的に人間じゃないとか)が平気で飛び交っていた。

これに対して、コメント欄では嫌悪感をあらわにする人達の書き込みが並んでいた。

話の中心は、「差別的発言について」であったが、どうも差別的発言を諫めるほうも冷静じゃないように思えた。

ここ最近、どうも人々は平等とか差別とかって言葉を暴力的に振り回しているような気がする。

本来、人間は生まれながらにして誰一人同じということはない。
そこから生じる差異は、好意的に捉えれば個性だし、競争の場では優劣となる。

平等を綺麗な言葉で語れば、「個性を大切にしよう」ということになるが、裏を返せば「身の程を知れ」ということでもある。個々人が本来持つ性質とうまく付き合わなければならない。

だから私は、世に出て働きたいけれど結婚もしたい女性の主張はいまいちピンとこない(気持ちとしてはわかるのだが)し、性転換手術をする人達の勇気には恐れ入る。
もともと自分に与えられた社会的役割をはねのけるエネルギーは並大抵のことではない。

だが、そのエネルギーは見習うべきとしても、今の時代は、個人に与えられた役割が軽視されすぎていると思う。

子供を産めるのは女性の特権だ。
だからこそ邪魔くさくもあるのかもしれないが、そう生まれついたものは仕方あるまい。

前向きな解決方法があるならいいのだ。
それこそ男でも子供を産めるようになるとか。

でも今は無理だ。
なのに、平気で男女平等を推進してしまうのはまずいと思う。

これは差別に関しても同じで、差別をするな、という言葉の捉え方は難しい。

現に、違っているのだからそれに関して指摘されるのは仕方のないことだ。
例えば一般人が不細工だとか言われても、ひどいけれど「差別するな!」とは騒がないだろう。
もちろん心ない一言に心を痛めることには変わりないので、相手が誰だろうがそんなことを言ってはいけない。

しかしそうなると、差別とは一体なんだ、という話になってくる。
障碍者だから差別するな!なんて発言は、一体差別助長じゃなくてなんなのか、という話だ。
障碍を楯にとっていると言ってもいい。

私は今のところ、ここらへんの答えを明確にもってはいない。
漠然と、無意識に自然に接することが大切だと思っている。

ただ、心の端に必ず留めておきたいことがひとつある。
それは、「誰も好き好んでそうなるわけではない」ということだ。

虐げられるような人間は、好き好んで虐げられる道を選んだわけじゃない。
そういう星の下に生まれついてしまった。
だから、本人が迷惑をかけているとしても、それはその人そのものよりも、運命が悪いのだ。

もちろん、迷惑をかけられたほうとしてはたまらないし、かけたほうもそんな言い訳を使ってはいけない。
けれど、その事実は厳然と存在していると思う。

「罪を憎んで、人を憎まず」とはこういう意味なんだと思う。

2013年8月26日月曜日

連続的な思考


「大学生にもなって、親から施しを受けてるなんてどういうことなの?」

某巨大掲示板でこんな感じのスレッドが立っていた。
まとめサイト(掲示板のまとめ記事を載せたブログ)のコメント欄を見ると、「バイトをしたくらいで社会にでたつもりになるな」とか書いてある。

私も昔似たような考えをしたことがある。

現代では高校・大学生が性交渉をするのは割と当然のような風潮があるが、これに関して「養われている身分で子供を作る行為をするなんて」と考えたのだった。

これらふたつの考えかたはある面では正しい。
たしかにバイトと正社員では背負ってるものが違うし、間違って子供ができてしまったら高校生は責任をとれない。

しかしながら、何事も百パーセントということはない。
冷たい言い方をすれば、困るのは個人なので他人が口出しする必要もない。

だがもうひとつ、人間をそうやって区切って捉えるのはいかがなものか、という問題もある。

何事も傾向をみたり、分類するのは人間の本分だし、そうやって物事の理解に関する負担を減らそうという心持ちもわかる。

とはいえ、人間はアナログな生き物だ。
中学生・高校生なんて区切りは所詮、デジタルで画一的なものだ。

しかし、自然的なばらつきはそんなものでは包含できないことはある。

なので、段々ステップを経ていく、というのは大切なことだ。
それは一年生が二年生になるとか、数字上の話ではなくて。
一時間、一日というレベルで。

社会に出る前にバイトをしておくことが、たとえ正社員とは違ったとしても、金を稼ぐという経験をすることで、少しだけ近づくことができるかもしれない。
そういう貪欲さは必要だと思う。

もちろん性交渉の例はリスクが大きいので、大きな声で良しと言うことは出来ない。
しかし、若いうちに多少で済むなら失敗をしておくというのは、いい経験になる。

重要なのは、クリティカルなリスク、つまり今後の人生を左右してしまうようなリスクについてだけ避けるように注意すれば良い。
あとは野放しにしておくくらいのほうが、知恵は育つというものだ。

2013年8月16日金曜日

何も楽しくないとき


何も楽しくないとき、ってある。

何を観ても心に響かなくて、何をしても「なにやってんだろ」と思う。
挙句の果てには、こんなことしても仕方がない、なんて考える。

きっとそれは、物事に対して気持ちが塞いでいるからだ。

好き嫌いがあるから無理に好きになれとは言わない。
でも、意味を探すのはやめたほうがいい。

意味のあることをするとか、意義のあることをするとか。
そんなことしてもしょうがないとか、だからどうしたんだろうとか。

そんなことを考えたって仕方がない。

大抵そうやって一歩引いて考えているときは、ほんとは何も感じていないし、何も見えていない。
ほんとうの感情に対して、距離を置いている。

ぐっと踏み出して素直になってみると、意味なんてどうでもよくなる。
ただ、楽しいとか、好き嫌いのレベルで物事を感じられる。

それが直情的で危ういと感じるなら、きっと自分の自制心を信じていないからだろう。
感情に対して抑圧的になる必要はない。

もちろん現実的に折り合いをつけなければならないこともある。
嫌々仕事をするとか。

でもそれは何も感じてないのではなくて、嫌だと感じている。
しかしそれ以上に、仕事を放棄したときの損失が大きいなら、理性的にこなせるはずだ。

そうしてバランスをとったときはじめて、等身大の自分と向き合える。

感情の抑圧は単なる逃げ道でしかない。
解放してこそ、理性も浮き立つというものだ。

2013年8月13日火曜日

難しい言葉を使う奴は嫌な奴か否か


先日、「難解な言葉を使う奴は学歴に自信がないので自分を飾っているんだ」という記事を見た。

僕は自覚して改めた(つもり)だから、この考え自体を真っ向から否定はしない。
だが、反論はある。

たしかに、日常生活での大半の状況はそんなに難解な言葉を使わなくても問題は起きない。
だが、難しい言葉はそれなりの意味を含んでいる場合が多いのも事実だ。

例えば、「事故の原因は○○です。」というような内容を述べるとき、「事故の主因は○○です。」と述べるとちょっとお堅い感じがするかもしれない。

しかし前者の文章では、ただひとつの事故原因を説明しているのに対して、後者では、複数の要因がある中での主な原因を説明している。

つまり、そもそも意味しているものが違う。
コンパクトに伝達するために難しい言葉を使うのは何も不自然じゃない。

「ルサンチマンが~」なんて言い出した日には、ぼこぼこにされかねない気すらするが、話している内容がまともならわからんほうも悪い。

これを真面目に説明していたら、本質的な話がいつまで経っても進められないし、互いに言葉を知っているだけで、意思の疎通が円滑の運ぶのは疑いようのない事実である。

「わかるように言ってくれ」というが、それは話し手が分かってほしいときにだけ言えることで、大抵難しい言葉を使う人間は立場が強い。
そういう人間に対して「わかるように言ってくれないと聞く気がしない」なんて駄々をこねたところで、相手の立場が強い以上は、どうにもならないのである。

全員に通じるような説明が出来ればそれは素晴らしい。

だが、人間には時間という大きな制約がある。
しかも、聞き手と話し手という、複数人の時間だ。

皆が知ってるべき(とされる)共通語を使って話すことが、我々にとって大きな資源の節約になることは言うまでもない。

大事なのは、沢山言葉を知っておくこと、そして相手の言っている内容が有益か無益か判断できるだけの耳を持つことだろう。

ついでに言うなら、ここから話し方のコツが垣間見える。

相手の時間を節約するためにも、話は簡潔であるとよい。
しかも情報が密であるとよい。
かつ、話の初めは興味深い内容か、平易な内容がよい。

でないと、難しい言葉に縋っているような人間しか食いつかない。


難しい言葉にぶち当たって、相手の言いたいことがわからないとき、考えるべきことはたったふたつである。

自分の勉強不足か、相手の不器用か。

相手が難しい言葉を使っているからといって、無駄なことを言っているとは限らない。
もし有益なことを話しているなら、それを逃すのは損だ。

その場合は、訊くことが重要である。

企業面接でもよく言われるように、疑問はありますか?と訊かれたら必ず質問しなければならない。
なぜなら、質問することは対話であり、自分の認識のズレを確認する唯一の手段だからである。

難しい言葉にぶち当たったときは、訊けばいい。
もしそれでも相手が語る内容に価値が無いと判断したなら、耳を傾けなくていい。

最初から簡単な言葉で話してくれたら楽なのに、と思うかもしれないがそれは違う。
難しい言葉を使うことは、時間の節約である。

人間にとって時間は有限であるから、伝達に割く時間は短いほどいいのは自明である。
とすれば、ひとことに沢山の情報量を込められる方が有利なのはおわかりだろう。

もちろん、一見無意味な言葉遊びが有効な場合もあるが、それはそれとして伝達以外の意味があるのでよい。

ただ純粋に内容を伝達することだけを考えるなら、短く多く伝えるのがベスト、ということだ。
となると、難しいことを短時間で処理したいと考えれば、思考結果に当てはめる言葉も難しくなるのは当然だろう。

問題は、受け手がその価値を見抜けるかであり、逆に話し手は受け手に対していかに抵抗を持たせないように伝えるかが大切なのである。

つまり、言葉にもTPO(時と場所を選ぶこと)があるのである。
当たり前のことだが。

2013年8月12日月曜日

無視をするという行為


人を無視をする行為。

これはえげつない。

昨今はいじめが横行しているから、無視やシカトが生易しいものに思える。
だが実際、無視をする、あるいはされるというのは、相当につらいだろう。

何故なら、関係性を築く上で、喧嘩をすれば乱暴なりに相手がわかるし(それがたとえ間違ったものだとしても)、話し合えば付き合うべきかわかる。
それを交流と言っていいかは別として、何かしらの関わりはある。

しかし、無視という行為は一切のやりとりを断絶してしまうから、それ以上関係が悪化することも、進展することもない。
つまり、関係がなかったことにされる。

ましてや、学校のように、逃げ場のない状況での無視行為は、どうしようもない。
子供は環境を選択することが難しい。

なので、無視は基本的に許されてよいことではない。


しかし私は、現代社会をみていて、人々はもう少し無視することを覚えてもいいんじゃないかと思う。

昨今はインターネット上で情報が溢れている。

特に顕著なのがtwitterで、これによっていままで触れることのなかった、世界中の人のちょっとした想いや考えがオープンにされることを考えると、この変化というのはあまりにも大きい。

実際それに起因する事件や話題は尽きない。

では、そこの世界に足を踏み入れなければ無縁でいられるか、と言えばそうではない。

twitterによって築かれる関係性があったり(希薄ではあると思うが)、現実の行動をtwitterに晒したことで手痛い目を見た人達もいる。

もはや現実と強くリンクしてしまっているので、利用していなければ関係ない、と知らん顔を決め込むのは無理があるだろう。

実際テレビでもその関連のニュースが取り上げられたりするし、一メディアとして成立していると言って問題ない。

そうやって沢山の情報にまみれる中で、自分のアイデンティティを保つため、あるいは輝きを放つために奇異な行動をとってしまうのは、きっと「注目を浴びたいから」だろう。

注目を浴びたいというのはつまり、普遍的な自分、見向きもされない自分から脱皮して、人々に無視されない、気に留められる存在になりたいという願いである。

そういうものを含んだメディアは負のエネルギーを帯びてくる。

そうした精神を起因とする問題を耳にしたとき、害悪なのは彼ら(奇異な行動をする人)であって、周りは関係ないと思いがちだが、そうではない。
彼らは周りに手を叩いてくれる人間がいると信じるから行為に走る。

つまり、彼らの周囲のコミュニティが彼らにそうさせる。
コミュニティの裾野が広いだけに、相手をしてくれる人間は沢山いる。
それが厄介だ。

彼らは実際メディアを騒がせて、その狙いは成功している(それが悪い形だとしても)。
一部の芸能人は、あえて叩かれるような発言をしてみせることで、名前を売っていると言ってもいい。

今の時代に必要なのは、無視をすることだ。
極度に害悪のあるものは排除されるが、それ以外は無視をされる。

相手にしないということは、ある意味で抑制なのだと思う。

もちろん無視だけではいけない。
ときにはたしなめて、あなたの認識は間違っているよ、と教えることも必要だ。

そうしてコミュニティ全体でバランスをとっていく。
そういう自浄効果が必要だ。

無視も立派な行為である。

実際それを裏付ける実験があって、植木理恵さんの「シロクマのことは考えるな!」に載っている。
簡単に言うと、アメとムチより、アメと無視が効くそうだ。

厳しいことを言うより、無視されたほうが堪える。

しかし反面、無視行為は使い方が重要だ。

無視を一番有効に使う方法は、「たまに」無視すること。

上記のように、一度無視をしたらしっぱなし、というのは、もはや関わらないということである。
しかしそれでは、相手が自分の行為を省みたとき、こちらは利益を逃すことにもなる。

これに関連するエピソードが、ゲーム理論にある。

昔、コンピュータ同士を戦わせる大会が開かれた。

そのルールは、相手と協調するか、協力しないかを選ぶというものだ。
協力すれば両者に高得点が加算される。
だが、裏切れば自分だけそこそこな得点が得られる。

両者にとって総合的に得な戦略を選ぶプログラムを競った。
相手あってのことなので、もちろん相手によって戦略の効果は違ってくる。

そんな中で優勝したプログラムのとった戦略は、「しっぺ返し」。

相手が協力してくれば協力、叛意を起こせばこちらも協力しない、というものだった。
戦略としては非常にシンプルだが、複数回優勝しているので優秀さは保証されている。

さきほどの無視の話に単純に当てはめてしまうと、無視をされたら無視をし返すのがいい、という解釈をされてしまうかもしれないが、言いたいのはそうではない。

無視しても相手が協力的な姿勢になったり、こちらの意見に耳を傾けてくれそうな時は、無視を取りやめて対話路線でいくことが必要だということだ。

無視はよくないとはいえ、何かを切り捨てずに何かを得るというのは不可能である。

賢い選択の仕方を覚えたいところだ。


2013年8月4日日曜日

平等論と再分配


先日NHKのコロンビア白熱教室で、先生が生徒に3つのグラフを見せていた。
その内訳は、

①富を5つのグループで5等分する。
②努力の割合に応じてちょっと分け前を変動させる。
③極端に分配がおこなわれる。

といった具合だ。
果たしてどれが平等か、と生徒に問うわけである。

私は③が平等でないのはわかった。
っていうか、自分で極端って書いているし。

問題は①か②だ。

どちらが平等かに答えはない。

何故なら富を等分してしまうと、頑張った人が報われないからだ。
これではいけない。
ちゃんと働きを評価しなければ、やる気は失われてしまう。

では②が平等かというと、そうではない。

何故なら元々身体が悪かったりして頑張りようのない人は、どうしようもないからだ。
個人の頑張りというのは、持って生まれた性質に左右される。


しかし恐らくは、②が平等だと主張する人が多いとは思う。

言ってしまえば弱く生まれついたものは力をもたない。
役に立たなければ食っていけない。

弱く生まれたものにとっては、このシステムはたまらなくつらいのだが。
誰も好き好んで弱く生まれついたわけではないのだから。
しかも自分のせいではない。


ちなみにその講義の先生が、「①は私が平等だと思って書いたものです」というような発言をしていて驚いた。

その先生は病気を患って目が見えないので、そういう考え方をしたくなるのもわかるが、私はそれが平等だとは思えない。


この問題の根本的な考え方はこうだ。

「生まれついての差は埋めるべきか否か?」

私のかつての知り合いに、学びの格差をなくしたいと言っている人がいた。
つまり、生まれつきの環境によって、学べない人をなくしたいという。

凄くクリーンな論理に聞こえるが、どうだろうか。

たしかに有能な人材の発掘、ひいては国の将来のためと言えば聞こえはいい。
しかし、学力の面だけでそういった地ならしをおこなうことが、果たして平等と言えるだろうか。

それはつまり、もともと頭のいい人間は、環境にも恵まれるべきだ、という風に聞こえる。
これはとんでもなく不平等な話ではないか。

考え方としては非常に実利的だしそれでかまわないと私は思う。
しかし、その人はそれがさも平等に与えられる権利かのように語っているのが気になる。

頭のよさは育てられる面もあるが、生まれつきの部分もある。
なんに関してもそうだ。

生まれつきが違うのは絶対なので、その差とどう向き合っていくかを考えなければならない。
そこには必ず利益に基づく判断が存在する。

平等とは聞こえはいいが、そんな言葉はまやかしなので騙されてはいけない。
そこには実利的な判断が必ず存在する。


もっとちゃんと書くなら、平等は個人の利益のためではなく、大衆のためにあるということだ。
当たり前と思うかもしれないが違う。

個人は自分にとって何が利益かで物事を判断しがちだ。
それに相手の置かれている状況を想像するのはそう簡単なことではない。

生まれつきが平等ではない以上、本質的な平等条件は存在しえない。
ならば、法の下での平等、社会としての平等は、社会にとっての利益にフォーカスしなければならない。

平等なら皆得なんてことはことはない。
誰かは損をする。

でも誰かが損をすることで、全体の利益になるなら、それは損をした人も大局的には損じゃないかもしれない。

それが、平等条件の落とし所なのだ。

ニーチェに何がわかるものかよ


はじめて「ルサンチマン」という言葉を目にしたときは、なんだそれはと思った。

てっきり人や役職の名前だと思っていたが、「恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態」を指す概念だと知った。

ニーチェの原本を読んでいるわけでもないから、正当な言い分かはわからない。
だが、ルサンチマンの考え方を知ったとき、私は、「おまえに何がわかるものか」と思った。

goo辞書によればルサンチマンとは、

もともと恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態をいう言葉だが,ニーチェはこれを弱い者への思いやりや自己犠牲を説く平等主義的な道徳の起源を説明するために用いた.彼によればキリスト教道徳や,そこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権の思想は,弱者の強者に対する恨みや復讐心を道徳として表した奴隷の道徳なのである.この延長上にある社会主義の思想も,このような奴隷道徳の一部にほかならないと考えられる.ニーチェはこれに対して強者の道徳,貴族的な誇りや勇気を讃える戦士の道徳,君主の道徳を対置した(ニーチェ『道徳の系譜』).しかしこれは結局ファシズムによって利用される結果にもなった.

私なりに解釈すると、

宗教的道徳や善の考え方は、力をもたない弱者の倫理である、ということだ。
弱者は強者に恨みつらみを抱えていて、その否定をしようとする。

また他の説明からも、

全ての高貴な道徳が、自己自身への勝ち誇った肯定から生じて来るのに対して、奴隷道徳は始めから“外部”“他者”“自己でないもの”に対して否を言う。そしてこの否が奴隷たちの[せめてもの]創造的行為なのである。この価値付与の眼差しの転回 - 自己自身へと立ち返らずに外部へと向かうこの必然的な方向 - はまさにルサンチマンに属するのである。

強者の道徳は自身は正しいという自信からくる健全なものだが、弱者の道徳は強者を否定する不健全なものである。

という風に解釈できる。

もしこの記述がニーチェの考えを如実に表しているとすれば、私は「おまえに何がわかるものかよ」と思わざるを得ない。

特に現代では、ルサンチマンを助長するメディアがある。
それはネットである。

匿名性があり、発信に多くの労力を要さない環境は、力をもたぬ弱者のルサンチマンを増長する。
よく言われる「炎上」は、そのうちのひとつかもしれない。

「火のないところに煙は立たない」と言われるように「非のないところに煙は立たない」のだとは思う。
だが、近年の「炎上」は明らかに行き過ぎている。

某巨大掲示板では、その場所を自嘲する意味で、「便所の落書き」という表現がしばしば使われる。
そこは、現実に受け入れてもらえない弱者のフラストレーションの捌け口である。

弱く生まれついたものは、文句を言いつつも生きるしかない。
善や道徳という建前を巧みに盾にして、数という力によって強者を抑えつけなければ、自分たちは滅びてしまう。

そもそも、強者として生まれついたものは自身がなんの努力をしたわけでもないのに、何故そんなに偉そうな口を叩くのか。
弱者として生まれただけで何故そこまで否定されなければならないか。

私はむしろ、強者こそ努力せずに才能を手に入れた部分もあるのだから、謙虚になれと思うのだが。

しかし強者は強いので、この論理は通用しない。

強者は実力を自分の手柄にしたほうが得だし、弱者は不出来を運のせいにしたほうが楽だ。
自分の掴んでいる成功は努力の賜物か、天からの授かり物か。
このふたつの考えは平行線を辿ったままだ。

2013年8月1日木曜日

ヘイトスピーチ


最近、「ヘイトスピーチ」という言葉をちょこちょこ見かける。

ヘイトスピーチとは、
『憎悪にもとづく発言。差別的行為を煽動する言動、または各種の表現』
を指す言葉だそうだ。

当人が改善できないことをぐちぐち言うこともこれに相当するようだ。
今までに取り上げた、処女信仰の根本原因もこれだな、と思う。

要するに「どうせ話し合うなら前向きにやりましょうよ」という考え方だ。

どうもネットにおいては、嫌いな物事について罵詈雑言を吐き出すことで発散する傾向が見られる。
特に女性や嫌韓問題については苛烈な意見も多い。

本当に嫌いなら無視を決め込むのが大人の対応という気がするのだが、利権が関わってくるとそうも言ってはいられない。

ただ、憎悪や差別という言葉はあまりにも曖昧過ぎて、裁く側の判断基準が難しい所だと思う。

それに、男女の違いや人種の違いについて口に出すことは避けましょう、という風潮になるのも恐ろしく不自然なことだ。

たしかに差別をされない世の中は素晴らしいが、それは決して没個性を目指す意味ではなく、個性を尊重し、前向きにとらえることが大切なのだ。

しかしひとたびヘイトスピーチと言って極端な言論封殺をおこなってしまうと、開けっぴろげな話し合いの場を失ってしまう可能性すらある。

話し合いが起きなければ当然理解は深まらない。

もちろん話し合いですべてが解決できるわけがないけれど、それすらもできなくなる方向に進んでしまうのは状況の悪化でしかない。

ヘイトスピーチを裁く側の良識が問われていると思う。

2013年7月28日日曜日

人を殺す理由


16歳の少女が殺人を犯した。

供述によると、動機は喧嘩だった。

でも喧嘩なんて殺しの理由にならない。
喧嘩にも原因がある。

原因は「しね、人間じゃない」とグループチャットで言われたからだそうだ。


何故それで人を殺すまでに至ってしまうのか。
人間じゃないと言われて腹が立ったとしても、それで殺すまでいけるものか。

根深いところにある動機は、「自尊心の欠如」だと思う。
自分が心の何処かで思っていることを、相手に言われてしまったから、本気になってしまった。

普通なら人間じゃないと言われたとしても、そんなことはないと胸を張っていればいいだけの話。
なのにまともにとりあってしまうのは、どこかで負い目があったからに違いない。

まして、チャットで出会っただけの、自分の事を何も知らないような相手にそんなことを言われたとしても、心に響かないはずなのだ、普通は。お前が私の何を知ってるんだ、と思うはずだ。

けれど、殺すまでに至ってしまったのは、悲しいかな、どこかで指摘を認めてしまっているから。
あるいは、自分を認めてくれていると感じられる相手がいなかったために、チャットで浴びせられるような言葉でさえも、自分にとって重いものになってしまった。

彼女が抱えていたのは、孤独感かあるいは自己嫌悪なのかな、と思う。


もうひとつ主だった原因があったとすれば、誰しも自分が悪いわけではないということだ。

誤解を恐れずに言えば、悪い人なんていない。
誰しも悪くなりたくて悪くなるわけではない。

そういう星の下に生まれる。
生まれただけで馬鹿にされる。

もちろん、努力の介在する余地はあるかもしれない。
だが、それだけでは覆せない運命も存在すると、私は思う。

そんなとき、そんな理不尽をたまたま引き当てた人間はどう思うか。
私が悪いんじゃないのに、と思うだろう。

そしてそんな自分を馬鹿にする相手がいたら考えるだろう。
なぜこいつはたまたま運がよかっただけなのに、こんなにも私に対して偉そうに振る舞うのかと。
なぜ自分は悪くないのに、こんな目に遭わなければならないのかと。

そのときに、心中で殺人は正当化される。

もちろん、世間の秩序を考えればまったくもって許されることではないのだが、しかし人の尊厳を踏みにじるというのはつまりそういうことだ。

この事件に関しては、心ない言葉をかけたほうも悪いかな、と私は思う。
ある意味では、加害者も被害者だ。

あまり大きな声では言えないが、先天的に与えられるものが等しくない以上、それを取り戻すための歪みが生じることは仕方がないことだと思う。
それをなくすことは永遠に不可能だ。

けれどそれで人生のどん底に落ちるのももったいないことだし、殺されるのも御免だ。
だから人に何かを追及したり、非難をするとき、そのやり方は考えられる必要がある。

2013年7月24日水曜日

やってみなけりゃわからない


最近、心理学の植木先生の『シロクマのことだけは考えるな』を読んだのだが、その中に興味深いことが書いてあった。

売上に貢献するためにもかいつまんでしか話さないが、どうやら鬱の患者というのは、統計的判断を一般人よりも正しく行えるというのだ。

例えば宝くじを買う時、一般人は自分の手で買った方が当たりそうな気がすると答える人が多いのに対して、鬱病の患者はその割合が低いのだそうだ。

つまり、宝くじを誰が買っても確率的には同じだという事実をシビアに受け止めているのだそうだ。


私はこれを読んで、ははあなるほど、と思った。
何故なら上記の現象は、鬱気質の本質を突いているような気がしたからである。


大雑把に言えば、統計的判断とは、昨日も今日も太陽は昇った、だから明日も昇る確率が高い、そんなものである。

でもこれは妙な話で、別に明日太陽が昇らなくてもなんの不思議もない。

しかし、鬱病患者は考える。
今まで人生悪いこと続きだったから、これからも悪いことが起こるに違いない。
こうして未来への希望を見失い、活力を奪われるのである。

別に今日が悪くたって、明日があるさ、と思えるならば、それは鬱とは程遠い。
鬱病に陥る思考形態とは、すなわち科学的判断が原因なのだ。

しかしながら、知っておいた方がよい。
科学的なものというのは危うい基盤の下に成り立っているということを。

たとえ物理法則を実験によって裏付けて解き明かしたとしても、その時その場で解き明かしたものは、その時だけの答えなのである。

時々刻々と状況が変化する中で、たまたま長いこと変化が起きてないだけなのだ。

だから不幸が続いても、明日はいいことがあることもあり得る。
明日になれば、重力は軽く、身体も軽くなるかもしれない。
やってみなけりゃわからない、ということだ。

もちろん、事前にイメージをしておくことも大切だ。
でも時には、飛び込む勇気を振り絞るといいのかもしれない。

2013年7月16日火曜日

野暮なこと


「野暮なこと言うもんじゃない」

と、粋なおばちゃんが若いのに声をかけるシーンがなんとなく浮かんだ。


例えば初音ミクのライブに対して、「なぜ情報でしかないアイドルのコンサートに行くのか?」という疑問は、まさしく野暮である。

なんでソーシャルゲームのカードなんかにお金を使うの?というのも、ゲームのキャラクターに恋をするのか、というのも全部野暮である。

人の趣味なんだから勝手にさせておきなさい。
もちろんそういう意味でも野暮だ。

それに考えてもみなさい。
わからないこと、理解できないことを批判したって仕方がないし、理解できないなら口出ししないほうがましだ。

なにより、映画に役者がいたって、あなたはそれを意識せずにストーリーを楽しめるだろう。
なら0と1のデータがライブを開いたって同じこと。

これはおかしい、あれはおかしいとリアルを追求する審美眼は必要だ。
だが、話に没入できるだけの想像力はもたなければならない。

つまり、熱に浮かされて盲目的になることもある種の才能だということだ。
それは同じものを与えられても2倍、3倍楽しめるということだから。

宗教や熱狂が持つ力は人を動かす。
想像力が現実を支配している。

物理法則だけではない、情報もまた、私たちを支配している。

2013年7月11日木曜日

諦めるのは悪いこと?


私は以前、演劇部に所属していたのですが、そのときの先輩が口にしていた言葉で嫌いだったものがあります。

それは「逃げ」という言葉です。

当時その先輩にとってはホットなワードだったらしく、盛んに「それは逃げだからしたくない」というように口走っていました。

「物事に立ち向かっていく」ということを絶対的なポジティブと見なし、それに反する行為を「逃げ」と称して嫌っていたわけです。

しかし私はこの考え方が好きではありませんでした。

たしかに、物事に向き合わずに「逃げ」の一手を打ってしまうことは安易だし、楽なほうに流されているという意見はわかります。

ですが、物事に向き合った上で「逃げる」あるいは「諦める」という選択をおこなうことは立派な判断だし、問題に対する対処だと思うのです。

例えば本を半分くらいまで読み進めたうえであまり面白くなかったとき、最後まで読み進めるか、途中で諦めるかという二択に迫られると思います。
そのとき、あなたはどんな判断をしますか?
判断をしたとして、どうしてその選択をしたのでしょう?

きっと私の昔の先輩からすると、読み進めることをチャレンジすることと捉え、諦めることはネガティブな選択ということになるでしょう。

この選択は、言い換えれば、経験的にこの本は面白くなかったからこれからも面白くないだろう、あるいは、これからはどうなるかわからないという判断であり、科学的と非科学的がせめぎあっているような状態です。

私はどちらがいいと言う風には考えておらず、そのときどきによって判断を下せばいいと考えています。

たしかに、「逃げ」ないという明確なポリシーを打ち立てることは、判断を楽にしてくれますが、それは逆に言えば、個々の問題に立ち向かわないということでもあります。

つまり、「逃げ」という言葉を安易に濫用することで、逆に「問題に真摯に向き合うことを諦める」という選択になりうるわけです。

私が「逃げ」という言葉を嫌ったのは、その言葉の安直さというよりもむしろ、ポリシーを決めることによる問題の過剰な単純化がおこなわれてしまう可能性を危惧してのことだったのではないか、と今では思っています。

要は「逃げるが勝ち」も戦略のひとつだ、というそれだけの話です。

2013年7月7日日曜日

なんなら遺書を書いてみろ!!


生きるのが面倒くさい、毎日がつまらない…とボヤいてるそこのあなた。

それって自分が何をしたいのかわかっていないのではないでしょうか。
なんとなく人生どうでもいいやと思いつつ、反面どうでもよくないと思っていたりしませんか。

そんなあなたに、「遺書」を書いてみることをオススメします!!


「遺書って、死ぬ決意をしたときに書くあの遺書…?」


そうです、あの遺書です!!

一度遺書を書いてごらんなさい。
そんな辛気臭いことしたくないよ…なんて思わずに、さあさあ!!


私がなぜ、このような一見狂気に満ちたオススメをするのか。
それは、遺書という行為が、自分の人生に後悔がないかの確認行為になるからです。

よく考えてごらんなさい。

両親や兄弟に宛てるメッセージ。
自分が死んだらどう扱ってほしいか。
自分の人生は満足であったか。

いろいろ書くことがあるでしょう?

暇をもてあましてるならやってみましょう、ゲームみたいなものです。

実際に書いてみると、自分の人生を振り返れたり、やり残しがあることに気がつきます。
ついでに、恨めしい気持ちも晴れてくるのです。

ほんとうにあなたの人生がつまらないなら、きっと遺書もつまらないものになるでしょう。
でももし、人の心を打ちそうな内容が書けたり、自分って案外イケてること書けるな、って思ったなら、それは素晴らしい発見じゃあありませんか。
死に対峙して新たな自分を発見するなんて、なんだか素敵じゃないですか。


実際死のうなんて人は、意外に考えを放棄してるだけだったりするのです。
やりたいことがあっても土台無理だと思っていたり、ハードルをあげすぎて楽しむことを忘れていたり。
遺書を書いてみると、そういう部分が浮き彫りになってくるものです。

自分が一体何者で、何が望みなのかもわからないまま死んでいくなんてつまらないでしょう?

それに人間なんていつ死ぬかわかったものじゃありません。
念には念を。あらかじめ準備しておくというのはいいものですよ。

ちなみに僕はかなり満足な遺書がかけたので、生きられるだけ生きることにしました。

こういう類の話(どういう類だろうか)が好きな人には、寺山修司の『自殺学入門』をおすすめしておく。

2013年6月28日金曜日

頼み方断り方


友人からツイッターで飲みにいかないかと誘われた。

僕は最初に明日明後日の予定が空いているかどうかだけを訊かれたので、いつもの通り電話で話したいことがあるなら時間を割けるよ、と返答したのだが、そうじゃなくて飲みにいきたいんだけど、と言われて「流石に長時間付き合わされるのはちょっと…」とたじろいだ。

済ませたい仕事が山積していたし、そもそも飲み会は好きではないし、ましてついこの間ツイッターで愚痴をかましていた友人の誘いとあっては面倒な話に違いないと思ったのだ。

結局考えあぐねたあげく、自分の時間を優先し、「やらなきゃいけないことがあるからごめんね!」と断りを入れた。その時点では「申し訳ないな」、と心を少し痛めていたのだが、僕の断りに対する返答を見て、そんな気持ちはさっぱり失せた。

「大丈夫。○○(共通の友人)は明日忙しいのに今日来てくれたからb」

よくこんな返答ができるなあ、と感心してしまった。

恐らく愚痴放出目的であろう飲み会に誘っておいて、断られたらチクリと棘を刺していくなんて。
いい根性をしている。

実を言うと僕もけっこうな性悪だと自負しているが、類は友を呼ぶというべきか、彼もまた凄いなと切なくなった。

たしかに薄情なのは私かもしれない。
他人の頼みの一つや二つ、笑顔できいてやるくらいの広い心があってもいいはずだ。
彼の愚痴を大事な時間を割いて聞いてやるくらいの余裕があると格好いいのかもしれない。

しかし頼みを断られたからといって、他の人間と比較したうえで暗に貶していくというのは清々しいほど歪んでいる。

皆さんはそういう人にならないように、ぜひぜひ教訓にしていただきたい。
例え自分に余裕がなくても礼節は欠いてはいけないし、頼みごとはダメでもともとだ。

2013年6月23日日曜日

話を聞かない人


驚くほど話を聞いてくれない人がいる。

例えば、「こないだこんなことがあったんですけど…」と切り出すと、途中で、「だいじょぶだいじょぶ!!僕なんてそんなこと常だから!」とか言ってぶった切る。

まあ別にかまわないのだけど、よくそれでうまいことやってるなあと思う。

面倒くさがって話を聞かないだけなら仕方ないことだけど、自分の話にすげ替えて自己主張してくるというのがたまらなく面倒だ。実直に言えばうざったい。

私も人の話を聞くのが嫌いなわけではないが、あまり自分の話ばかりされると対話する気がなくなる。

そもそも人の話を聞かない人は、自分の知っているフィールドでしか勝負が出来ない人だ。
知っている知識ならポポポンとだせるが、知らないことになると途端にだんまりになるか、話を打ちきろうとする。
たしかに知ってる話題で話したほうが盛り上がるのかもしれないが、そういう場面だけでは成立しない。

こうして相手の話を聞いてくれないと不満をもつときは、まず自分を疑ったほうがいい。

実は、相手が話を聞いてくれないときは、自分が話を聞いてなかったりする。
その場合はお互いにぎすぎすしてしまうので、気をつけよう。

なによりまず、自分が聞くことを心掛けよう。
あれ、何の話だったっけ。

なにはともあれ、最初は我慢だ。

ちゃんと話を聞いてあげて、それでも相手が変わらないなら、浅い関係で済ませたほうがお互いに幸せだ。

2013年6月10日月曜日

無心


我々は生きていくうえで考えなければならないことが多すぎる。
そんなとき、仕事や趣味に忙殺されることが一種の快感になることがある。

そうした無心の時間をもつことで、自らを思考から解放してやっていると考えれば素晴らしい。
皆さん趣味はお持ちだろうか。

私は基本的に考えることの少ない人間だが、ぼーっとするのが好きだ。
それこそ日がな一日ぼんやりと過ごすときの幸せったらない。

特に好きなのは、寝る直前のまどろみに身を任せる瞬間である。
疲れて帰ったときの布団の気持ちよさを思い出せば容易に想像できるだろう。

また、考え事をしながら段々とそれを放棄していくのもいい。
何か到底解決できそうにないこと、リーマン予想なんかを自分なりに考えながら、いつの間にか眠りについていたときの心地よさったらない。

そうした時間の何がいいかと言えば、時間の流れが遅いことだ。

例えば夜眠ると途端に朝がきたような感覚に襲われるが、朝の二度寝は十分間でも異様に長く感じられる、そんな経験はないだろうか。

時間を有効に使ってるんだか無駄にしているんだかわからない感じがなんとも言えずよい。
心が休まる。

恐らく宗教的に行われる座禅なんかも似たようなものだろう。
何も考えないことを意識的に行う。
その心地よさを覚える。

たしかにその心地よさは人を救う材料になるが、一歩間違えると洗脳されるとっかかりになりかねない。

たまに新興宗教に学歴のやたら良い人が混ざっていたりするけれど、まさにあれは、『考え過ぎから解放される快感』に染まってしまった人の末路と言えるだろう。

彼らはロジックにしか納得しないので、一度理由をつけて信じ込ませてあげると考えない快感にのめりこんでしまうのだろう。

麻薬や酒に浸る人達も、手段は違えど目的は似たようなものだ。
何かにずぶずぶに嵌るというのは、そういうことだ。

人には考えない時間が必要だ。
すべてを忘れる時間が。

そしてその手段は、自分だけのためのものでなくてはならない。

どんなくだらない手段でもいい、自分を休める手段を獲得するのは、寿命を伸ばすための知恵だと言えるだろう。


2013年5月27日月曜日

青い鳥


先日、テレビで「青い鳥」という邦画を見た。
重松清さん原作の、いじめに関する話。

ここからネタバレを含むので、これから読もうという人は回れ右してください。



主人公の少年(園部)がいる二年一組に、新しい先生(村内)が赴任してきた。
前任の先生が休職しているためだ。
いじめによるクラスメイトの自殺未遂事件が原因だった。

当の生徒達は、いじめられていた生徒(野口)のことなんて忘れて、あまり反省の色は窺えない。
園部だけは、毎朝空になった野口の家(コンビニエンスストア)を眺めてから登校していた。

村内は、いじめていた側が忘れるなんて卑怯だ、と生徒たちに静かに言い放つ。
そして、倉庫に置き去りにされた野口の机を、以前あった教室に戻す。
そして「野口くん、おはよう」と毎朝語りかける。

その奇妙な光景に、生徒達は動揺と嫌悪を示す。
しまいには村内に「罰ゲームでやってるのか?」と問いただす。
村内は、人が生きるのはゲームじゃない、と語る。

終わりには、生徒の一部が自主的に反省文を書いて、前任の先生が復職するのを期に村内は学校を去る。
教師は何かを教えることができたら幸運だ、傍にいてやることだけならできる。
というようなことを言い残して。


とまあ、以上があらすじなのだが、主にメインテーマになっているのは「いじめの加害者がどう変わるか」というようなところだろう。
そもそもいじめる側にいじめたという明確な意識がなければ、罰や反省文など与えても効果はないに等しいし、形だけ美辞麗句を並べた反省文など試験となにも変わりはしない。
というようなことも描かれていた。

全体的にはとても面白い作品だったけれど、少しだけ納得いかないところがある。

たしかに、いじめる側がすっきりと忘れてしまうのは卑怯だし不公平だ。
けれど、反省文を書いたところで傷ついた生徒の気持ちや、過去は変わらない。

仮に反省文が効果的でも、結局成長するのはいじめた人間だけで、いじめられたほうは何もケアされないというのは、問題なんじゃないか。

人間関係は利害の上に成り立っていると思うから、基本的に弱い者が強い者にいじめられる。
そして、いじめる側の人間は弱い人間との関わりがなくなっても平気だ。
だが、いじめられる側は違う。妥協しないと生きていけないのだ。

だから、いじめの根底には絶対的な強弱の関係があって、それは利害の関係であって、つまりは周りが仲裁したところで、まったく意味がないのだと思う。

本当に必要なのは社会的な監視の目だと思う。
よくあるパターンだが、いじめていた側がいじめられる側に回るような、そんな圧力が必要だ。

もちろん、善意から皆が円満に仲良くやるのがベストだ。
しかし、強弱関係は生まれながらにして決定づけられている。
覆そうと思ったって無理だ。

だから、個人の関係で考えてはいけないのだ。
そういう雰囲気を作らないといけない。


それともう一つ。
加害者は被害者には何もできない。
例え罪滅ぼしをしたとしても、苦い記憶は残る。

しかし、加害者をいつまでも責めつづけることはしてはいけない。
そうすると、加害者の自省の心を押しつぶしてしまいかねない。

加害者と被害者に与えるもののバランスも考える必要があるだろう。

2013年5月25日土曜日

ほんとうにどうでもいいか


毎日をぼんやりと過ごして、ただつらさを感じる。
今の生活に不満はないし、毎日楽しくないわけでもないが、これから先の事を考えると、不安しか浮かばない。


そんなとき、どうでもいいやという投げやりな感情が芽生えてくる。

もう先のことなんてどうでもいいのだ、私には生きる意味など特に必要ないし、人生とは与えられたものをただこなしていく行為、それだけなのだ。そう思う。

そして、活動らしい活動を捨てて、ただひたすらに空虚な時間を貪る。
ただ寝るとか、なんの未来も保証してくれないゲームに興じるとか。

でも、その気持ちが偽りだったら困るので心に問いかけてみると、やっぱりどうでもよくなんてない、と疼いている。
本当にどうでもいいならなんでも出来るはずなのに、不安や恐れを捨てることが出来ないのは、痛みに打ち克っているのではなく、ただ現実を見ていないだけだ。そんな気がする。

人間死ぬ気になればなんでも出来る、というやつだ。
もちろん空を飛んだりは出来ないが、チャレンジすることはできる。
たとえその結果、死んでしまうとしても、何も困らない。

実際飛行機を作るためにどれだけの人が命を落としたんだか知れない。
彼らは決して、捨て鉢になっていたわけではないだろう。
むしろ微かな成功の可能性を信じて疑わなかっただけだ。

だから捨て鉢になりそうな時は、度胸試しをしてみるべきだ。

私はほんとうにすべてがどうでもいいのか。
試しに何かしてみるべきだ。突拍子もない、とびっきり危ないことを。

そうして恐怖を胸に抱いたとき、自分の本当の心を知るだろう。
やっぱり私は大事だと思うだろう。

もしもそう思えないなら、どうでもいいのだ。
だからなんだっていいし、何も考えなくていい。

大事なのは、自分で自分の本心を隠してしまわないことだ。
結果はどちらに転んだっていい。
自分を騙して生きることほど辛いことはないのだから、そのリスクを避けて、無駄な時間を過ごさないことが大切だ。
無駄というのは、いつも後からついてまわるのだが。

どうでもいい人間にとって、大切だとか、無駄だとか、そんなことはそもそもないはずだ。
もしもそういう言葉が少しでも心に引っかかるのなら、なおさら試してみるべきだ。

もちろんチャレンジは、頭の中でやる。
リハーサルやイメージトレーニングは大切だ。
実際にやってみようとしたら、時間も体力もいるので。
まず頭でやってみるのだ。
それすら出来ないなら、まだ覚悟なんて到底出来ていないのだ。

それ以上のことは言わないでおく。
覚悟が出来ていたとしても、どうするかは自分で決めるべきことだ。

2013年5月19日日曜日

才能


なぜ私ばかりがこんな目に遭っているのかな、ときどきそう思う。

勉強もスポーツもろくにこなせず、狭量で底意地が悪い。
こんな風に生まれついて、将来を見渡しても真っ暗闇にしかみえない。

努力不足だったと言われればそうかもしれない。
たしかに勉強も人よりこなさなかったし、運動だって毛嫌いしていた。
上手くなるはずがない。

でも本当は、上手くできなかったから嫌いになったんだと思う。
この手の話は鶏と卵の話に似ていて、出来ないことはつまらないし、出来ることは楽しい(のだろう)、つまらなければ出来ず、楽しければ出来るようになる。
そういう側面もあるかもしれない。

ならきっと、出来るようになるまで頑張ってみられるかが大事なんだ。

しかしここらへんは悲しい仕組みになっていて、何かを達成したことのある人は自分自身の力を信じて次に進むことが出来るが、達成したことのない人は永遠に諦め癖、つまりは負け犬根性がついてしまうような節がある。

だからこそ、物事は簡単なことから順にこなしていくのが大切なのだろう。

世の中のすべてにおいて、基本は大切にせよと言われるのはきっとそこらへんの理由で、つまりは技術を習得するうえで基礎が大切であるそれ以上に、心がくじけないためにそれは必要なのだ、と思う。

なにもこなせなかった私が言うのは可笑しいが、少なくとも私は基礎を大切にしてこなかった。
出来る人を羨ましがって、見た目の華やかさに惹かれて、基礎をおろそかにして勇み足を踏んだ。
だから失敗してきたんだと思う。

まあ私の場合は、生まれの時点で不利な状況に立たされていたのであまり変わらなかったかもしれない。

そもそも華やかなほうに目がいくのは、それに対する憧れによるところが大きくて、つまり自分にない要素だから欲しい、と言えるような気がする。

簡単なことをこなして、「こんなことは誰でも出来る」と思うことはよくない。
そこに喜びを感じられなければ、いつか心が枯れてしまう。

才能というのは、簡単なことからはじめて、それをひとつひとつ楽しめることなんだろう。
才能のない私が言うのも可笑しいが、そうなんだろう。

2013年5月12日日曜日

負けず嫌い嫌い


私は、負けず嫌いな人間が嫌いです。

別に自分で課した課題に対して完璧を求めるとか、その手の完璧主義ならかまわないのですが、何か勝負事において、勝った負けたで一喜一憂する人間が嫌いなのです。

それは残念ながら、私が勝ちの味を知らないからです。

もちろん、何でもかんでも負けてきたわけではありません。
学力にしろ、運動能力にしろ、誰しも何かしらで少しばかりは人より勝っているものです。
ですが、世の中の平均から見れば常に少し下にいるような存在なのです。

ですから、普通にしていれば大抵負けます。
だから面白くない。

別にそれが、自分の努力不足で、まったくもって自分のせいならいいのです。
相手がいくら勝って喜ぼうが、負けて悲しもうが。

ただ、相手が勝って誇らしげにしてるのをみると、なんだか腹が立ってくる。
何故なら、相手が私に勝ったのは根源的にラッキーでしかないからです。

それ以上でも以下でもありません。

何かで優勝した。
努力が報われて涙を流す。

それは別にかまいません。
運の良さが勝敗をわけていたとしても、その人はその人なりに努力をしたのでしょうから、どちらにせよ涙を流す心情は理解できます。

しかしながら、勝負事で勝ち誇られる瞬間ほど、理不尽なものはありません。
そもそもが同じ条件で戦っていないのだから、当然どちらかは勝つし、負けます。

それはかまわないのですが、相手がすべてを自分の手柄のように振る舞うことが許せないのです。
平たく言えば、謙虚さを知れ、ということです。

極端な事を言ってしまえば、「応援してくれた皆さんのおかげです」なんてのは謙虚でもなくて、半分以上ほんとです。

生まれの差は、努力の差ではありませんので。
だからこそ、ほんとは悔しいのかもしれません。

ただ、覆すことすらできないし、文句を言うことも許されない。
なぜなら、負けた人は努力が足りないだけだとレッテルを貼られてしまうから。
文句を言うなら努力をしろというわけです。

たしかに、努力は大切ですし、文句を言うなら努力を重ねた方が良いというのは正論です。
だからといって、勝った側が偉そうに何を言ってもいいわけではないのです。

たとえ当人が努力をしていたとしても、勝利の要因に少しでも運の要素があったのなら、偉そうにする資格などないのです。

だから、「両親のおかげ」「ファンのおかげ」というのは、単なる謙虚さのアピールではなく、ひとつの真実を述べているだけだと思うのです。

負けず嫌いの人間は、勝つことが大事なのです。
それは自分が他人より勝っていることを証明したいからに相違なく、結局努力を認められる、あるいは運に恵まれていることを証明したいだけなのです。

でもそれがなんだというのでしょう。
別に本人の力じゃなし。

だから、そんなことに執拗に拘る人間は、私は嫌いなのです。

2013年5月1日水曜日

学習システム


以前、大学の授業のガイダンスを聞いていたときのことです。


教授は仰いました。

「授業資料を事前にインターネットにアップロードすると、皆授業にこなくなるのでそれはしません」


生徒として聞いていた私は、「きっと先生方も色々苦心されたに違いない」と思いました。
生徒が授業にこず、がっくりと肩を落とした日もあったかもしれません。

大学の先生というのはそもそも先生である前に一研究者でありますから、全員が全員、教えることに意義を見出しているわけではないでしょう。

しかし、質のいい生徒を育てたいのなら、アップロードするべきかなと思います。

そもそも授業なんて、自分でわからなかったところが解消できればいいわけでしょう?
なら、講義の中身なんて、殆どすっからかんでいいと思いませんか。

強いて言えば、「この教科書のどこらへんを勉強してください」くらいの指示はあってもいいかもしれない。
それ以外には何も必要ありません。

講義内で延々と何かを語ったとしても、わかっている生徒にとっては無駄な時間だし、わからない生徒にとってはわからないままです。

昔の哲学者が対話形式の授業を好んだのもこのあたりを意識していたからに違いありません。

もちろん、私の通っている大学だけの話かもしれません。
だとしたら少し切ないですね。
それだけ生徒のやる気がないということでもあるので。

今の時代の人たちの多くは勉強を「やらされて」いますが、果たしてそれが正しいことなのでしょうか。
大学レベルの知識をもつ人間が増えたところで、世の中が便利になるんでしょうか。

時間を無駄にしている人が多いように思えるのです。

それに大学生が優秀に見えるのは、単に年齢がある程度高いからなのかなとも思います。
高卒だろうが大卒だろうが、ある年齢に達すればそれなりの考えはもつのかなと思うのですが。

今の社会がどういう人材を要求しているのか、いまいちわかりませんね。

2013年4月27日土曜日

外来語はかっこいいか?


外来語が幅を利かせるようになって随分経つように思います。

最近では「スマホ」「タブレット」などなど、製品名が外国語ということもあります。
グローバル化、でしょうか。

そもそもが外国生まれの概念ですから、日本でも同じ名前で呼ぶのは当然。
でも、野球なんかは「ベースボール」を訳したって言うじゃないですか。
そこの違いはなんでしょうか。

きっと西洋化ってやつでしょうね。
でも僕はもうひとつ理由があるような気がします。

カタカナ言葉って、わかりやすいからなんじゃないかなって思うんです。
例えば、「異議を唱えることには意義がある」って文章があるとしたら、文章では問題ないですけど、話し言葉としては伝わりにくいんじゃないですかね。同音異義語というやつです。
じゃあ、言い換えればいいじゃないかって話もあるわけですが、異議→反対意見って変更すると、それはそれで語感が悪いし長いですよね。
その点英語は、refuting(異議を唱える)で済むわけです。

なんか、英語のほうが話し言葉に向いてると思いませんか。
だから、最近やたらと外来語を使って話したがる傾向があるのは、ただのかっこつけではなく、機能的な意味があると思うのです。

もともと日本語は、音の基本単位が子音+母音ですから、その組み合わせから単語を作ろうとするとどうしても長くなってしまう傾向があります。
ですが時間の節約も大事なので、同音異義語はわかりにくいけど使い、聞き手は文脈から意味を読み取る、という文化なわけです。

しかし、技術が熟して、黙々と仕事をしていればよかった時代は終わり、議論による意思疎通が重要になってきたわけですね。

そこで、文面では漢字を、口で話すときは外来語を使いわける方向に移行しているわけです。

同音異義語の聞き漏らしや勘違いによって、互いに不確定なまま議論を進めるリスクを抱えるくらいなら、いっそ外来語を導入してしまおうという流れです。

つまり、言葉選びにも適材適所があるということ、その基準は表現と言語の意味の適合率だけではなく、話し手にとっての話しやすさと、聞き手にとっての聞きやすさがせめぎ合っているということですね。

なんだか「かっこいい 外来語」ということで、かっこいい外来語を使いこなしたい人がたまにこの記事を見てくれているようなんですが、相手に伝わらない言葉を使うことに意味はないと、私は思います。

ただ強いて言えば私は、シニカル(嘲笑的)、アイデンティティ(自己同一性)、シンパシー(共感)、クリティカル(危機的)とかがかっこいいと思います。あとペシミスティック(非観的)とか。


他の人がこの現象についてどう思うのか調べていたとき、

「外国語が氾濫している、母国語を大切にしよう!」という意見を見かけました。

しかし私はそうは思いません。
たしかに、言葉は大切です。

でも大切なのは言葉そのものではなくて、言葉がもつ役割だと思います。
哲学で言えば、シニフィエ(言葉の意味)ということでしょう。

いかに効率的かつ忠実に自分の意図や意志を伝えられるかが最も大切なのであって、そのためにどんな言語や言葉を使うかは手段に過ぎない。

もちろん、言葉には音の響きや文字にしたときの視覚的印象も含まれる。
だからすべての言葉は指している意味上まったく同じということはありえない。

そういう意味では、すべての言葉は大切にされるべきだという意見もわかります。
動物の多様性を守ろうってのと似たようなもんです。

しかし、あるものを表現するために使いよい言葉を選択し続ければ、いずれ便利なものが生き残るでしょう。

あえて不必要な、使い勝手の悪い言葉を残すとしたら、それは趣味的領域でしかない。
しかし言葉は伝えてこそ役割を果たすため、流通しない言葉には意味などないのです。
流通しない貨幣と同じ。

そもそも相手と自分が共通して理解できる言葉でなければ、使う意味はありません。
しかし、人の記憶には限界がある(キャパシティはどうか知らないが、時間的制約はあるだろう)ので、共通して知っている表現の数は限られてくる。

そのとき、どんな言葉を優先して選ぶか。
それは効率的で、頻出する、そんな言葉でしょう。

だから外来語だろうか日本語だろうが関係はない。
その言葉が伝えたい意味を表現してくれているか?
表現が相手に伝わるか?
皆が使っているか?

これらの条件だけが意識されるべきなのです。

しかし、これに反する内容の実験があるそうです。
使う言語が私たちを規定している、という説です。

つまり、本来我々は、意味があって言葉がある、と考えていますし、言葉はそのうえでの道具でしかないと思いがちですが、実は逆もあるのじゃないか、という話。

例えば、雪に囲まれて暮らすエスキモーが、「白」という色を表現するのに何十種類もの言葉をもちいているのは有名な話。
また、日本で言われる「藍色」というのも、独特な概念です。

これらの色の違いは確かに存在するのですが、その言語に属していない人間からすれば、すべて同じに見えるわけです。

その言語に触れて、当然だと思って育つと、自然に違いが分かるようになる。

一番わかりやすいのは、我々が英語のLとRの発音を聞き分けられない、という話でしょうか。
日本語では、ふたつの音は明確に区別されないので、同じ概念として規定されるわけですね。

このように、言語自体が感性に働きかける場合もあるわけで、上記のように合理主義に走りすぎるのも、問題があるのかもしれません。

2013年4月9日火曜日

高度・表現・文脈


小説の好みについて思うことがある。

例えば、ある人物が心情を示しかたとして、「好き」と囁く、あるいは口付けするだとか様々だと思う。
これは明らかな愛情表現である。

しかし、食事を用意しておくとか、病気のときに世話を焼くというのは、また違った愛情の示し方だと思う。
どちらかといえば、こちらのほうが直情的でないというか、所帯じみている。
また、状況を介して示される分、多少間接的な愛情だ。

さらには、注意をする、指摘をする、というのも愛情である。
その人の将来を思って、辛いのを承知で現実を知らしめるのは、高度な愛情表現である。(パターナリズムというらしい)

こうした愛情一つをとっても、表現の直接的レベルの違いがある。
高度な愛情が目立つことはなく、愚かな人間はそれに気付かない。

抽象化、という点では、高度な文脈のほうがより具体性をもっているように感じる。
何かを抽象化して語ることは、いろんな状況を包含しているため、一見高度に思える。

しかしそれは、ある意味で情報を単純化しているのであり、それを果たしてレベルの高いものとして位置づけしていいものかと思う。

抽象化することは、多くの問題に対する解決を与えるけれど、そのスマートさは具体性をとっぱらったうえで成立していることは意識されるべきかもしれない。

物書きは、如何に文章を膨らませるかが勝負だから、抽象的なテーマ性を具体的に表現していく技能が露骨に要求される。

2013年4月5日金曜日

情報氾濫


皆さんは個人ブログを書いたことがありますか?
私は昔書いていましたし、今もこうして書いています。

最近は個人レベルで情報が発信できるようになり、出版社やテレビ局のもつ力も昔よりは弱体化しつつあります。

そうした中で、個人ブログを書くことは善か悪か?ということをふと考えました。
個人の自由だから善悪なんてないんだ、って意見は当然あると思います。
しかし、私は悪だと思っているとあえて言います。

何故かといえば、情報の取得には私たちの時間が費やされているからです。
別に無尽蔵に時間があるならいくらでも読めばいいです。
でも、現実的には違います。

しかし、インターネット上には個人ブログの類がごろごろ転がっている。
もちろん有意義な内容もありますが、そうではないものもあります。

ところが、私たちは情報を見るまで質を判断できませんから、とりあえず見るしかないわけです。

もし転がっている情報の質が低いということになれば、我々の時間はどんどん無駄になるわけですね。

個人の日記によってこういうことが引き起こされていたとしたら、それは罪なことだと思いませんか。

だから、個人の好き好きで書けばいい、という意見ももっともではありますが、面白いと自信をもってコンテンツを提供しているという自負をもって欲しいなとこっそり思うわけです。

作家さんや俳優さんなんかが、自分の作品を観てもらって感謝するのは気持ちのいいものですが、批判や批評にナニクソとやり返しているようではいけません。

文章を簡潔にまとめるのも、同様に重要なことです。
同じ内容を伝えるなら、短いほうがいいのは当然ですからね。

2013年4月1日月曜日

非難と否定、批評と批判


ポジティブとネガティブってありますね。

例えば同じ事例「ミスをしてしまったこと」に対して、「一度ミスしたから次はミスしないで済む」というのがポジティブ、「一度ミスしたんだから次もまたミスするに違いない」というのがネガティブ。

どちらが次に繋がりやすい考えかは一目瞭然かと思います。

自分の中で何かを解釈するときは、ポジティブもネガティブも気にする必要は薄いかもしれません。
しかし、人の行いに対して意見を述べるとき、その内容は絶対的にポジティブでなければなりません。

例えば人がミスをしたとき、「お前は~な性格だからそうなるんだ」というような人格否定や、「お前は馬鹿だな」というような意見はよくありません。

何故なら、次に繋がらないからです。
上記の例は単なる否定であって、次を感じさせる要素がまったくないのです。

だからせめて、「もっとこうしたほうがいい」とか「こうしたからミスしたんだ」というように、相手のためになる批評をしていかなければ、建設的な意見交換は望めません。

単なる否定というのは、自分の自信のなさから湧き出るもので、他人を下げることで自分を大きくしようとすることなのです。
しかしそういう発想は他人を傷つけるばかりでなく、自分を発展性のない、つまらない人にしてしまいます。

また他人の否定はその人に対する拒否でもありますから、関係性を拒んでいるも同然なのです。
友達ができにくくて悩んでいる方がいたら、まず未来性のない否定をやめてみるといいかもしれませんね。

2013年3月31日日曜日

モテたいなら冗談を言え!!


誰しも人と仲良くしたいって願望を持ってると思います。
いつも皆から囲まれて楽しそうにしてる人、羨ましいと思いませんか?

ああいう風になるのはどうしたらいいのでしょう。

人気を掴むための要素はいくつかあると思います。
例えば、秀でた特技などはわかりやすい手段のひとつでしょう。

しかしそれは、特技に対して相手が魅力を感じるのであって、自分から相手に働きかけられるものではありません。
相手が興味をもってくれなければ意味がないのです(仲良くなるという点においては)。

となれば、幅広い相手と自分を繋げるための手段は、会話が主になるでしょう。
会話の中で相手を楽しませるなら、話し上手になるか聞き上手になるか、どちらかです。

話し上手は技術的なものもありますが、つまるところ自分の経験からしか生み出せないものですから、そこに自信がなければ相手に対して働きかけられる可能性は高くはありません。
しかし、聞き上手は、相手を受け止めさえすればいいのですから、高い順応性・汎用性があります。

ですが、どちらのアプローチをとるにせよ、会話に華を添えることは必要となります。
はじめは表層的な会話しかできなくても、次第に深いところまで話し合えるようになります。
問題は、その段階まで辿り着くことです。

多くの場合は、最初の話のきっかけが掴めず、結果としてお互いを表面的に知るところでコミュニケーションが終わってしまいます。
ですから、それまでの短い間に、親密度をいかに高めるかが次のステップへと進む鍵となります。

そこで、親密度を高めるために必要なのは、冗談を言えることだと感じます。
何故なら冗談というのは、信頼の下に成り立つコミュニケーションだから。

冗談を冗談と理解するには、「この人は本当はこういう人ではない」と思わせるほどに、自分の事を知ってもらう必要があります。
だから悪い冗談を言っても許される人がいたとしたら、「心根は優しいやつだ」とか思われてるんでしょう。
よくわからない奴に言われた冗談なんて、本当かどうか判断する術はありません。

親密度を測るには冗談をうまく使いましょう。

しかしこれは鶏と卵であって、仲良くなって信用できる間柄だから冗談が通じるのであり、また冗談が通じるからこそより仲が深まるというもの。

つまり、仲良くなるためにいきなり冗談を使うというのは、自分という人柄を誤解されるリスクを伴っているのです。

しかし、真面目なことばかり言っているようでは聞いているほうはつまらない。

そこで、冗談を小出しに言うのが大切になってきます。
わかるように冗談を言うことで、「この人は冗談を言う人だ」と認知させることができなければ、何を言っても冗談と思ってもらえないからです。

ですから、初めての人や親しくない人に対して冗談を言うときは、必ず冗談と分かる形で伝えることが大切です。

冗談を言うときのコツがあるとすれば、明らかにおかしなことを言うとか、口調もちょっとおどけてみせるとか、相手に伝わってなさそうであれば、「冗談だよ~」と冗談であることを明確に伝えてあげるのもいいでしょう。

そうして冗談を言いつつも、真面目な側面も見せることで、メリハリのある魅力的な人間に一歩近づけるでしょう。

富裕層の人間は、概ね人間関係を作るのが上手だから地位を得られるわけですが、彼らは大抵、詩か、ジョークを嗜んでいます(国外の話です)。

それが意味するところはつまり、真面目な事を真面目に語ることは、愚の骨頂ということです。

真面目な話は常識的で、ありふれていてつまらないのです。
逆に、面白い冗談は大抵非常識です。

冗談でおどけてみせることは、非常識の塊のように思えますが、実のところは、常識的だからこそ非常識な行動に可笑しさを覚えるのですね。

だから、同じ冗談で笑うということは、常識や認識における、互いの共通性を確認していると言えるわけです。

その中で、非常識な発想も出来るという、意外性・万能性を示すことが、人間的魅力に繋がるわけですね。

2013年3月27日水曜日

妥協と恋


よく恋愛を語る場面で言われる、「理想が高すぎる」というトピックの話。

最近は娯楽が増えてきたし、夜中開いてる店も多い。
インターネットもあって、いつでも誰でも繋がることが容易な時代になりました。

そんな中で、特定の人と過ごす価値はどう変わっているんでしょうか。

テレビを見ていると、独身女性や草食系男子が増えてるとか言いますね。
もっと恋愛しないと!!って煽っているのをよく見かけます。

インターネット上では、「一人のほうが楽だから…」「面倒だし」という理由で、独り身の寂しさよりも楽さが勝つ人も増えているようです。

また、男女共に掲げる理想が高いというのもあるかもしれません。
何かしらに秀でている人はモテるし相手も選べるのでいい人が現れます。
けれど、他人より劣っている人は妥協するか、独り身を貫くかという選択を迫られます。

パズルのピースのように相性がピタリとハマっていけばいいのですが、現実はそううまくもいかないようですね。

さて、自分に自信のある人には関係ない話ですが、そういった選択を迫られたとき、あなたは妥協する派でしょうか?孤独と戦いますか?

どちらがいいとはいいませんが、私は考えてしまいます。
「自分に見合う相手だからこの人でいいや」という思考は、果たして恋や愛なのでしょうか。
一度好きになって恋は盲目になってしまえばそんな思案も必要ないのでしょうが、そんな機会に恵まれる人って多くはないような気もします。
じゃあ妥協して付き合う、くらいならいいですが、結婚とまで踏みきって幸せになれるかどうか。

結局の所、相手への尊敬がなければ尊重する心も生まれないと思うんですね。
なので気持ちを無理やりねじ曲げて、周りの目が気になるから妥協して結婚するというのは、なんだか違うように思うのです。

しかし、残念ながらこれは理想論ですね。
自分が尊敬できる相手というのは、得てして自分より上のレベルにいる存在ですから。
ぴったり合う相手なんてのは、なかなか見つかりませんね。

また、不景気による男性の収入低下も影響しているようですね。
年収300万以下は、結婚も望めないとか。
女性も人生がかかってるし、選びたくなるのは当然のことだと思います。
ただ、弱い者同士が力を合わせて生きていく、という発想にはならないんだなあって少し寂しくも思いますね。
共同生活で得する部分も大きいと思うのですが…自分の身に置き換えると弱腰になってしまいますね。
それだけ、自立した人間が少ないのかもしれませんね。
どこかで相手に頼っているというか。
もちろん頼ることも必要ですが、何事にも限度はありますからね。

かくいう私は、甲斐性なしの結婚考えられない派なんですけどね。

皆さん事情はあるのかなと思います。
ただ、個人主義もここまで進むと、少し心配になる部分もありますね。
私が甲斐性のある人間だったら、絶対結婚するんだけどな。
皆そう思ってるか(笑)

2013年3月26日火曜日

ハングリー精神


「将来が怖い、どうなるかわからない」

そう言ったら、親にたしなめられました。
あなたが必死になっているところを見たことがない、と。

恐らく、専門学校や大学の卒業という時期、沢山の人が同じようなことを考えるんだと思います。

今まではただ何も考えずに勉強や運動だけしていれば良かったし、困ったときは周りが助けてくれました。
進路だって、周りを見回しながら、なんとなく先の見通しが良さそうな方向についていきました。

でも卒業してしまったら、そんなやり方は通用しない。
いくら怖くたって自分でやらなきゃいけないし、自分で責任をとらなきゃいけない。

独力でやっていくことへの不安が、とても大きな存在として覆い被さってくるような気がします。
そもそも生きていくことそれ自体、誰に頼まれてやっているわけでもないのに、とさえ思います。
もちろんそんなこと言えやしませんから、口はつぐみます。

そういえば、必死になるって言葉の意味を知りませんでした。
なんとなくこんな感じだろうなって想像はしていました。
でも、自分で体験したことはないな…って思います。

必死の意味を調べてみたら、辞書にはこうありました。


必死とは…

  1. 必ず死ぬこと
  2. 死ぬ覚悟で全力を尽くすこと。また、そのさま。死にものぐるい。
  3. 将棋で、次に必ず王将が詰む、受ける方法がない状態。


今回言っているのは、2番の意味ですね。

でもこれって…死ぬのが嫌だから頑張れるんじゃないですか。
頑張って生きるために死ぬ覚悟をするなんて、なんか不思議な感じがしませんか。

じゃあ生きることに疑問をもってしまったら、必死になれないじゃないですか!!(怒

でもね、本当に死ぬ思いしたことあるかって訊かれたら、ないと思います。
食うに困ったことはないですし、学校も無事卒業してます。
道端でいきなりチンピラにナイフを向けられたこともないし、車にはねられたこともありません。
そういえば、自転車乗ってるときにはねられました。当てられた程度ですけど。

お前贅沢言ってるよ、って言われてしまったら、それまでかなとも思います。
本当に生きたいやつの気持ちが分かるかって、わかりません。すいません。

思えば、何かを欲したときに、手を伸ばしたことが殆どないように思います。
つまり、ハングリー精神がまったくない。

親が世話を焼いてくれたので、それに甘えすぎました。
一時期は親を責めたことがあります。甘やかしたよねって。
でも凄く後悔しています。

親が甘やかしてくれたのも親心からだし、何よりほったらかしといた日には私は死んでしまっていたに違いない。
それだけ生きる力がなかった。
だから甘やかしたのも、彼らからすれば選択肢のない選択だったと思います。
それを証拠に、今の私はすっからかんです。
健康な身体も、冴えた頭ももちあわせていない。

こうしてぬくぬくと育った私。
今までが幸せだっただけに、これから転落人生が始まるかと思うと、いっそ時計の針が止まればと思うこともあります。

未来に明るい夢を持てないことほど、寂しいことはありません。
夢のない人間に、ハングリー精神や必死さを求めることは無意味です。

まず夢を見させてやらないと。

…というわけで、皆さんは夢や欲望に忠実であってください。
別に他人に迷惑をかけなければいい。
毎日の楽しみが少しあるだけで、きっと人生って豊かになると思うので。

2013年3月25日月曜日

処女信仰


ネット上の某掲示板のまとめブログをみていると、定期的に処女信仰に関する話題が挙がる。
そしてコメント欄は大荒れする。

誰でも参加できる話題だけに関心も高いということだろうか。

処女信仰とは、誰にも身体を許してこなかった女性を好む考え方のことだ。
某掲示板ではそういった信仰を揶揄する意味で、信者に「処女厨」なんて蔑称がつけられている。

そして、処女厨vsその他という構図で、大論争が巻き起こる。
処女厨の主な言い分はこうだ。

①「人が汚したものなんて触りたくない」
②「性交渉は結婚してからすべき」
③「別れるような男に身体を許すなんてありえない」

それぞれ考察しよう。

①「人が汚したものなんて触りたくない」
この意見は分かる気がする。
他人がベタベタ触った人と密接に触れあうのは少し抵抗がある。
これは潔癖症みたいなものだから、好みとしては仕方のないことだと思う。
事実そういった経験が多いほど、疾病のリスクは高いと思われるので、ただの神経質と切り捨てることもできない。

心情の問題としては、好きな相手が自分だけのものであってほしいという独占欲の現れとも言えるだろう。
ただそれが、今現在だけでなく過去にまで及ぶという意味で強烈な束縛である。

女性側からすれば、男性が女性をモノとして見ているようで嫌かもしれない。
それこそアクセサリー感覚で扱っていると考える人もあるだろう。


②「性交渉は結婚してからすべき」
これに関しては、悩むべきところだ。
今時は婚前交渉が普通になっているし、嫁入り前の娘がどうの…ということもない。
これは避妊が確実性を増してきたからこそ、性交渉の重みがなくなってきたとも言えるだろう。
そのリスクを重くみるか軽くみるかの価値観の相違が問題となる。

大半の男性にとっては、他の男性の子供を養わされるのはもってのほかである。
浮気なんてありえないし、過去の男性遍歴も気になるのは当然だ。

ただ、婚前に互いをよく知らなければ長続きしないとも言えるだろう。
離婚原因の大きな要因として数えられる問題だけに、事前に見定めようとする考えは理解できる。


③「別れるような男に身体を許すなんてありえない」
これに関しては、完全に結果論だろう。
結婚したって別れることはあるし、誰しも間違いはある。
現状をみるに女性にはもう少し慎重さがあってもいいように思えるが、やはりどうなるかはわからないものだ。


そしてこれらの意見に対して、色々な反論が飛び交うのだが…。
大抵の場合、「中古(処女でない女性を指して)が必死だ」とか「童貞が何言ってるの」と言った架空の個人に対する誹謗中傷が繰り広げられ、両者は疲弊し、いつしか争いは自然消滅していく。

なぜこうも争いが激化するのか?
それは、この争いが単なる「処女信仰」を守るための戦いではないからだ。

この争いの根底には、人を見下す精神のぶつけ合いと、それに伴う自己の価値創出がある。

つまり、処女厨は処女の価値を認めているのではなく、処女ではない人の価値を否定することで、教義を守る自分を肯定し、そこに価値を見出している。
そして反対勢力も同時に、夢見がちな理想を否定して見せることによって、「現実を知る経験豊富で大人な自分」を演出する。
相互に批判し合うことで、自らの価値を高めようとしている。

そうした行為は、「自分への自信のなさ」あるいは「承認欲求」の裏返しである。

自分への自信を付けたい気持ちは理解できるが、人を貶して得られる自信なんてものはない。
ほんとに余裕があるなら、黙って好みの女性にアプローチすればいい。
何より、終わってしまったことに関してとやかく言ってもしかたがない。
正直な心情を吐露するのは仕方ないとしても、あえてキツい言い方で安易に他人を傷つける必要はない。

互いに無視をできないインターネット社会が生み出した禍根だと言える。


このテーマは関心を抱く人が多いようだ。
ネット上の争いとは別の切り口で追記をしておく。完全に私見だ。

私が思うに、恐らく処女に関する悩みは二種類あるに違いない。
それは、「処女は重くないか、かっこ悪いのではないか」というものと、「処女とは価値あるものなのか」ということ。

これらは字面上違った悩みのようにも思えるが、その根っこにあるものは同じである。
つまり処女性はプラスなのか、マイナスなのかということ。

私個人は、「年齢による」と思う。

例えば、若いうち、責任ももてない高校生が惚れた腫れたの流れに任せて、というのは聞いていて情けない。
人間の成長速度なんてそれぞれだし、決して身分や学年だけが個人性を決定するわけではないが、有事の際にどうすることも出来ない身分で責任を伴う行為に及ぶのは好ましくない。

逆にある程度の年を重ねて経験がないとなると、これは逆に何か妙だ、と勘ぐってしまうことはあるようだ。

だからといって焦る必要はないとは思う。
それらはあくまで一つの要素なのであって、すべてではない。

本当は、その人の今を見つめるのが一番だ。
人間関係は過去ではなく、現在のインタラクティブにある。

ただ、男の本音としては、他の男性と関係のあった女性を大切にする気持ちは、ほんの少しだけ薄れるのかもしれない。

同じ条件で、処女とそうでない人どちらがいいか、と問われたら、間違いなく私は処女を選ぶだろう。
そして大半の男性も同じだ。

しかし、人間なんて様々な要素で形作られていて、誰一人同じ人間などいない。
だから先ほどの問いは、前提からして破綻している。

処女性だけを切り取ることはできないし、そうではない人だけが得る価値もきっとあるはずだ。

すべては夢見がちな男共の夢想に過ぎない。
そんなものは蹴っ飛ばして進んでしまうのが健全だ。


[20131020追記]
何故、処女信仰が存在するか?

恐らく男性にとっては、本能的に他の男性よりも先であることが大事で、それは昔、子供を授かったときに誰の子供か判断する術がなかったからに違いない。

相手が処女であれば、生まれてくるのは自分の子供だという保証が得られることが、処女信仰の第一義だとされる。

これは一見まともな論理に聞こえるが、よくよく考えるとおかしい。
女性が子供を産むまでの時間は十月十日と言われるくらい精確なわけだから、それさえ考慮に入れれば自分の子供かどうかくらいわかる。

つまりリスクを避けるためには、相手が最後にいつ交渉したかさえ知っていればいいわけで、過去すべてにおける遍歴をチェックする必要はない。

それに、処女性や男性遍歴の申告は大抵の場合、女性の自己申告である。
つまり、求めたところで真実は闇の中だ。
だから、拘ったところで無意味である。

そこが、処女信仰が信仰を脱しきれない由縁であるかもしれない。


じゃあ処女信仰が一部の男性に支持される理由ってなんだろう、という話に移ろう。

女性を物扱いするようで申し訳ないが、つまるところ「お下がり」のような感覚なんだろう。
新しいものがいい、という無根拠な価値感を土台として、それを欲しがる。

もっと言うなら、自分は新しいもの(=いいもの)を与えてもらえるだけの人間だ、とどこかで信じている。

これはとても夢想的だ。

幼い頃に、どんな夢をもっていたか。
振り返ってみると、サッカー選手やプロ野球選手、女性なら花屋やケーキ屋などが上位を占めるだろう。
今はそんな夢、見れない。
大半の人間は、そういうものを捨てて、軌道修正して大人になってゆく。

それは、「分を知る」からである。
自分が与えられたものはどの程度か、外界と対話しながら探ってゆく。

だから、大人になってまで女性に処女性を求める男性は、自分に見合ってない望みをもっている夢想家のように思える。

処女厨とかいって否定されるのはそういう部分かもしれない。

処女がいいよね、というなら、それはかまわないことだと思うし、他人に否定されるいわれは無いかもしれない。
だが他人から見ると、現実を見ろと滑稽さを感じるのかもしれない。


よく言われるのが、処女というのは要素だから、要は中身なんか見てなくて、その事実だけあればいいんじゃないか、という話だが、処女も立派な中身の評価だと私は思う。

少なくともお金持ちだから凄い人、なんて価値感よりは人の評価としてよほど妥当なんじゃないか。
だから良いとか悪いというつもりはないが、判断基準として使われること自体には疑問は無い。

実際、恋愛遍歴やそういう部分での感覚というのは、生活面でも大きく関わってくると思う。

だから、処女を求めるやつは中身なんか見てない!ってのは間違いで、そういうことを言う人は少々的外れなことを言っているように思える。

ただ、処女は未来で変貌するかもしれないが、お金は貨幣価値が変わらない限り使えるという意味では、未来志向の判断基準としてお金のほうが有効かもしれない。

2013年3月24日日曜日

You Get What You Give


海外ドラマのGlee3を見ている中で、「You Get What You Give」という曲がでてきました。
タイトルの通り、「与えたものを得ることが出来る」という素敵な歌詞です。

でもね、与えるものがない人はどうすればいいんでしょうね。
そもそも、生まれながらにして得るのは、自分が与えたものではない。

結局の所、天運で貰ったものですよ。

心掛けとしては素敵ですよ。
でも最高にムカつく台詞だ。

与えるほどの余裕があったら苦労はしません。
与えるほどのものをもってる時点で恵まれてるんですよ。

与えたから得たわけじゃない。
もともと与えられたから与えられるんだ。

だから私はこの歌詞が半分好きだし半分嫌いです。
理想としては綺麗です。
でも出来ない自分は悔しいし、実現出来るほどclearに存在してる人が憎い。

たとえ希望をもっても、不平等が覆されるわけではない。

もちろん、そんな我侭を言っていたって誰も救ってはくれないし、どうしようもないことはわかっています。
けれど、あまりに綺麗過ぎる物言いって、ときに文句をつけたくなる。
倦んだ感情ってのはそういうものです。

一番悲しいのは、歪んだ見かたしか出来ない自分の心なんですが。

2013年3月20日水曜日

ファンタジック



私はファンタジーが嫌いだった。

ハリーポッターのように魔法が使える世界は、あまりにも不可思議過ぎて、現実から大きくかけ離れている。
あの世界には現実感がない。

だから、リアリティこそ正義だと考えてきた。

でも最近はそういうのも愛せるようになった。
ああいうものはそういうバランスの下に成り立っているんじゃないとわかってきた。

現実の厳しさを解放するのがファンタジー。
夢を与える。
現実での倦んだ部分を、一時だけでも消し去ってくれる。
だからファンタジーは凄い。

ただ難しいのは、ファンタジック過ぎると現実ではなくなってしまう。
だから、ほどよくファンタジーなのがいい。

人間が追体験できるレベルで、言われたら想像できるレベルで描かれる話。
だから面白い。

この間テレビで、「アリスinワンダーランド」を放送していて、やはり不思議の国のアリスの著者は凄いなと感心しきりだった。
ファンタジックな世界で得たものを、現実に活かしていく主人公の姿勢は最高に前向きだ。

現実とファンタジーのシーソーゲームをよく描いてある作品だなと感じた。

2013年3月17日日曜日

鬱は甘えか


やる気が出ない、倦怠感、何もしたくない…
鬱病、でしょうか。

現代は、新型鬱とかって呼ばれる、新たな鬱病が発生しているようで。
従来の鬱は行動全般にやる気が起きなくなる症状だったのに対して、新型は仕事とかだけ行きたくなくて、休日や趣味の時間はイキイキしてる症状を指すんですって。

そんなのが鬱であって溜まるか。

楽しいことはやりたいし、嫌なことはやりたくない。
当然でしょ。

そういう思考を実行に移す人たちは、楽しみのために仕事をしている、という感覚がないのかもしれない。
仕事があるからこそ楽しみがもてる。
じゃあ仕事も我慢して頑張ろう。
そういう思考になってないのかもしれない。

仕事が楽しくないのも問題だが、自分の生活をオンオフで考えすぎではないか。

某掲示板で「鬱は甘えか?」って議題が話合われていたが、どうだろうか。
私は甘えだと考えている。

例えば不細工や低身長に生まれたりしたら、それを人のせいにするか?
しないでしょう。

仮に人のせいにしたところで、何も解決しません。
だって、不細工だし、低身長だもの。

話の中心が鬱病になると急に、甘えかどうか議論しだすのは不思議な話で。
鬱だろうがなかろうが、世の中の役に立たないことには変わらない。
じゃあどうするか?立ち直る策を考えたほうが幾分マシである。

生まれ持っての性質を人に文句垂れたって、そりゃ甘えって言われます。
周りからしたら迷惑には変わりないもん。

そもそも鬱病が生まれ持っての性質かってのも問題ですが。
遺伝性の場合もありますからね、その場合は生まれつきですね。

でもね、だからって自分を責めていろって言ってるわけではない。
だって全部当人の責任かって言えば、ほんとのことを言えば、根源的にはすべて天運だからです。
皆、誰一人努力して生まれてきたわけじゃないもの。腹を痛めたのは親御さんであって、当人ではない。
だから、お前がうまくいかないのは努力が足りないからだ、なんて上から目線で軽々しく口にする奴はあほなんです。
じゃあ逆におめーは良く生まれてくるためになんか努力したのか、という話で。
偉そうなこと言ってる暇があったら親に感謝しなさい、という話です。

でもね、だからって卑屈になっていいってことではない。
本当に自分のためを思って言ってくれている人には、心の中だけでも感謝しなきゃいけない。

それに、すべてを天運のせいにするわけにはいかない。
だって、なんでもかんでも人のせいにしてたら、もう流されるままになっちゃうでしょう。

努力なんて意味ないかもしれないし、運命なんて決まってるかもしれない。
でも、そんなのは勝手な思い込みです。
そりゃなんでもできるってことはない。美女に生まれ変わるとかは無理。
でも、なんでもできないって思ってるとしたら、それは思い込みの可能性がある。
だから疑ってみるのがいい。
ちょっと人生生きたからって、全部分かった気になってやしないか、と。

私たちの運命がすべてを決定しているにせよしないにせよ、私たちは運命を切り開くために最善の努力をしなければならない。
なぜなら、私たちはどちらが真実か知り得ない以上、努力をしないという選択肢はありえないからだ。

2013年3月15日金曜日

死後の世界を信じるか?


天国と地獄って曲がありますね。
運動会の徒競走でよく流れてる曲です。
たしかに、トップランナーは天国、最下位は地獄なのかもしれない。


皆さんは、「死後の世界」って信じますか?

別にあるかないかを争点に激論を交わそうというわけではありません。
信じるも信じないも自由だし、見たことないので断言できないというのが公正な意見だと思います。

しかし見たことない人が大半なのに、その存在がまことしやかに語られているということは、ちまたで囁かれている死後の世界観は作られたものに違いない。

作られたからには何かメッセージがあるはずなので、読み取ってみよう。

まず天国というモデルから。
死後の世界をいい世界とすることの利点。
それは、死ぬのが怖くなくなること。

昔、お釈迦様が「生老病死」と語ったように、人生とは四つの苦しみで構成されている。
生きるのも死ぬのもまた苦しみ、ということだ。
ここで語られる死は死ぬ瞬間の苦しみのことだろうから、厳密には死後のことではないだろう。

で、何故死ぬのが怖いか。
それは、未知の世界だから。
生きていると、今までの経験からこれから起こることも、なんとなく予想が出来る気がする。
しかし、死ぬということはまったく経験がないので、生きるのと比べるとちょっと怖い。

つまり我々は生と死の幸福量を比較して生きている。
生に苦しみしか感じなくなったとき、死んだほうがましになって自殺する。

地獄というモデルはどうか。
地獄があると、悪いことがしにくくなる。
だって、この世が嫌になって、自暴自棄になったとき、「もう死んでやるーっ!!」ってなって、じゃあ思いきり周りに迷惑かけて死んでやる!!って思われたら困る。
だから、この世で悪いことすると、あの世で酷い目に遭うぞ、って言っておくと、思い切った行動に出られなくなる。
この世で憂き目にあっている人が自棄にならないためのストッパーなんだな、って思った。

心理学者の苫米地英人さんは、来世があると信じるのは危ないモデルだと言っていた。
何故かというと、輪廻転生の概念によって、カーストの制度がうまれるから。
生まれながらにして魂のレベルが高いとか低いとか言いだすと、上下関係が生まれちゃうし。

死後のモデルを想定するということは、死後にも自分の存在はあると信じることに他ならない。
それが上記のように役立つかもわからないし、役立たないかもしれない。

宗教が良い方向にいくのも、悪い方向にいくのも、教団の長次第ってこと。

2013年3月12日火曜日

コールド・リーディング


コールド・リーディングを知っていますか?
事前のリサーチ無しに、相手の情報を探る方法です。
相手のことをあたかもお見通しかのように話す技術です。

その一例を示します。

Q. あなたってもしかして、お菓子が好きだったりしませんか?

YESと答えたあなたは、「なんでわかったのかな」と思うかもしれません。
NOと答えたあなたは、「なんでそんなこと聞くのだろう?」と思ってるかもしれません。

YESと答えた人が「なんでわかったの?」と訊き返してきたら、もっともらしい理由をつけます。
「だって、好きそうな顔をしてたから」

騙されやすい人は、「そんなことでわかるのかな…」と思います。

NOと答えた人は、「どうしてそうおもったの?」って訊くと思うので、「なんとなく」と答えておきます。

このシステム、実はずるいってわかりますか?

当たれば+1ポイント、はずれれば0ポイントなんですよ。
つまり、ノーリスクなんですね。

やりつづければ、相手のことを当てまくる凄い人になれます。
もちろん、タネがわかってる人は騙されませんが。

お守りを信じるか?で書いたお守りというシステムも同じです。

お守りをもってる状態で事故ったら「お守りをもってたおかげでこの程度で済んだ」と思うか、「お守りをもってたのに事故をした」と思うかのどちらか。
これは、+1ポイント、0ポイントシステムですね。
つまりリスクがないんです。

だから長期的にやりつづければ信じてもらえます。

宗教とか、相手を騙す技術というのは、実は高度に逃れられない論理トリックを利用しているとわかりますね。

2013年3月11日月曜日

お守りを信じるか?


Q. あなたはお守りを信じますか?

私は信じません。気休めだと思います。
では質問を変えましょう。

あなたは事故に遭いました。
命を落とすことはなかったけれど、軽い傷を負いました。
そのとき交通安全のお守りを持っていた。

このとき、
「お守りをもっていたのに事故に遭ったのか」
「お守りをもっていたからこの程度で済んだのか」

お守りを信じているかという質問が、より具体化されましたね。

前者と答えるあなたはお守りを信じない派、後者なら信じる派。

では、信じない派だったあなたはお守りを捨てることが出来ますか?
出来るなら、あなたは本物。

お守りの効力のあるなしは、わかりません。
お守りをもっていたからこの程度で済んだのかもしれません。
わからない以上、もっといたほうが得ですよね。

だってお守りをもってたから助かったか、もってても変わらないのかどっちかですから。
あえて手放す理由はありません。

そう考えると、お守りってちょっとずるいと思いませんか?
そりゃ長年、文化として残るわけですよね。
論理的に追及できない以上、信じたほうが得なんだし。

こうして事実に解釈を後付けするやり方は、永遠に科学とは成り得ません。
論理的に「反証不可能(証明不可能)」であり、科学とは相反するものです。

かといってお守りすべてが嘘と断言はできない。
あくまで効力の測定が不可なのであって、無効であるとは言えないのです。

信じるかどうかは個人の自由ですが、客観的に信じるに足るかどうかはまったくの謎。
少なくとも上記のように後付け解釈が出来てしまう以上、都合よく捉えることも、悪くとらえることも可能です。

実はこれと同じ方法が話術にもあります。

コールド・リーディングというのですが、それについても記事を書いてるのでよかったら読んでみてください。

・追記
同じ内容が、「知性の限界」という本に載っていました。
科学と非科学の比較として、上記の例が挙げられています。
面白い本なので、おすすめしておきます。

2013年3月10日日曜日

運命を信じるか?


以下の三つの質問に直感的に答えてみてください。

Q.1 あなたは、運命を信じますか?

Q.2 では、科学を信じますか?

Q.3 運命と科学は相反する概念でしょうか?



「運命」とは、

1. 人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐりあわせ。運。

2. 将来の成り行き。今後どのようになるかということ。

ということだそうで。
今回使う「運命」は、2番の意味合いです。


正確には、

「運命的」…運命として決まっているさま。

のほうが意味として近いかもしれません。
「運命的な出会い」など、事前に決定づけられているということですね。


さて、冒頭の質問に話を戻しますと、Q.3にYESと答えた方。

ほんとうにそうでしょうか。


科学的とは、

1. 考え方や行動のしかたが、論理的、実証的で、系統立っているさま。

2. 特に自然科学の方法に合っているさま。


今回用いる「科学」は1番の意味合いです。


現在、科学はとっても発達してきています。

たとえば、我々が携帯電話やテレビを使えるのは、科学の恩恵によるところが大きいですね。

こういった恩恵は、「こうなったらこうなるはずだ」という科学的な考え方に基づいています。

これが、論理的ということです。

そして実際に試してみたら出来た、これが実証的ということです。



その考え方が万物に通用するようになったら、どうなるでしょうか?

未来を予測できるようになりますね。

こうなったらこうなるはず…という推測を組み合わせていけば、これから起こることすべてがわかるわけです。

科学の究極形ですね。



そしてこの考え方は、この世の森羅万象が因果法則に支配されているという信条の下に成り立っていますね。



つまり、すべてのことは事前に決定づけられてると考えてるわけです。

これって、「運命的」ってのと同じですよね。


だから、運命的と科学的ってのは、相反する響きに聞こえて実は、根幹にある考え方は一緒なんですね。


※こぼれ話
来予測は出来る見込みは薄そうです。
科学では観測の限界というのがあるらしく、我々がこの世のすべての状態を知るということはありえないので、完全な予測は出来ないとされています。
運命があるかどうかは永遠に謎のまま。

第二の夢


小さいころになりたかったもの。

近年の小学生のなりたい職業ランキング。
男子がスポーツ選手、警察官、運転手。
女子がお菓子屋・パン屋、タレント、花屋さん。

ジェンダーフリーが叫ばれる中、男女ではっきり分かれているのが面白い。
待遇関係なく印象だけで選ぶとこうなるということだろう。

歳を経ていくと、夢なんてものは正直に言えなくなる。
語る夢が大きければ大きいほど、周囲の嘲笑が怖くなるもの。
無理からぬ夢を否定されるということもありうる。

生きていく上で大切なことは、第二の夢をもつことだと思う。

大人に向かって歩を進めるにつれて、誰しも自分の望み通りになれないことを知る。
そのとき、腐ってしまわないことが大切だ。

「第二の人生」なんて言葉があるように、何かに挫折したら、しばらく休んで、また歩き出す。

そもそも職業=夢というのも違うのかもしれない。
何かを職業にするということは、その道のプロとしてやっていくことであって、周囲から認められることでもある。
それは、自分の承認欲求を満たすうえでも、社会参画を果たすうえでも大事なことだ。

しかし最近は景気が不安定なこともあって、公務員を目指すものも多い。
「安定指向」というやつだ。
そこには職業と夢を直結た発想はなく、のんびり生きたいから公務員、という思考がある。

いつまでも夢を追い過ぎるのも見ていて苦しいが、最初から収まりすぎているのも面白くない。
何かを思いきりやって、思いきり挫折し、思いきり第二の人生を歩んでいる人は、みていてどこか清々しい。

夢を追いつづけるだけでなく、諦めることもまた一つの勇気なのだと、個人的には感じている。

2013年2月25日月曜日

メタ思考


作品を楽しむとき、メタ的な発言をする人がある。
例えばドラマや映画をみて、「この役者の演技はいい」だのと批評家めいたことを言う。

私もそうだったが、これはあまり良くないことだと気付いた。

作品に対して文句を付けたりすることは、あたかも物事の良し悪しがわかっているようで格好いいと思いがちだが、そうではないかもしれない。

メタ発言は、裏を返せば作品に集中出来ていないからこそ生まれる発言だ。
つまりは、想像力の欠如だと思う。

もちろん、想像力の励起され具合は作品の質によるところも大きいが、受け手がどれだけの集中力をもって作品に付き合えるかも大事なことだ。

オタクとにわかオタクをわけるのはそのあたりな気がする。

作品を通じて共通の話題を獲得するのがにわかオタク。
作品そのものに楽しみを見出すのがオタク。
そんな感じ。

逆に言えば、オタクは作品を楽しむ過程で楽しみが終わってるから、他人と話し合うには向かない。
でも自分だけで満足できるから幸せだと思う。


[20140215追記]

メタとは、「高次の」という意味で、メタ思考とは外側から覗くことである。

例えば、ある将棋のルール通りにゲームしていて、ふと「なぜこんなルールなのだろう?」と考え込むことである。

大前提として、ある法則や秩序の中に身をおいていて、それを外側から眺めてみる、そんなイメージだ。

もうひとつ例をあげるなら、誰も不思議に思わない重力の存在に、ある日突然疑問を抱いたニューロンの思考がまさにそれである。
りんごが地に落ちるという当たり前の現象を、「なぜ落ちるのか?」と一歩引いて考えたのである。
これがメタ思考だ。

これは問題発見力である。
皆が気付かない当たり前のことに気付けるというのは、重要な価値をもっている。

問題をだされたときに、「それってそもそも~」とちゃぶ台返しをするのもこれに等しい。

問題になるのは、いつもこれを発揮すればいいわけじゃないというところ。
アニメや映画を観ていて、これはここがおかしいとか、いちいち言い出したらキリがないし、楽しめない。
ゲームでルールを守らなかったらまずいし、それは社会でも同じ。

たしかに疑っていく姿勢は大切なのだが、これはある意味で学者的・批評家的職業に求められる資質であって、それに対する好みは分かれると思う。

いつも批評している人の隣でドラマを観ても楽しくないことはなんとなく想像できるだろう。

メタ思考の能力は大事だ。
しかし、使いどころが大切ということはすべてにおいて言えることである。

[2014/10/21]

メタ思考とは、前提を疑う力である。

物事を考えるとき、我々は視野狭窄に陥りがちである。

すべてを当然と信じている。

もちろん、前提を信じる力は大切だ。

何事も、前提を置かなければ前に進められない。

だがその一方で、前提を疑う力も重要である。

両方が合わさって初めて、メタ思考の威力が発揮される。

2013年2月22日金曜日

神様を信じるか


この間、家にキリスト教の勧誘の方がきました。
品の良いおばさまだったし、別に押し付けがましくもなかったので、そこそこに話を聞き流してパンフレットだけ受けとりました。

神様を信じるかと訊かれたら、私は信じません。

例えば「隣人を愛せよ」とかってのは、いい心掛けだと思います。
その教えは信じますが、それを説いた人をあがめるようなことはしません。

たとえ立派な人でも、ある側面では正しく、ある側面では間違っているということはあるので、何かを全面的に信じるということはしません。
それが自分で考えることであり、自分で責任をもつということじゃないかなと思います。

仮に神様がいたとしても、私がいいことをしたからいい結果をもたらしてくれるとは思いません。
そもそも神様にみられているからいいことをするわけではないです。
自分が困らないように、あるいは他人を助けたいと思うからするわけです。

第一、私たちは生まれながらにして平等ではないので、残酷な運命を与えている神様に感謝しようとは思いません。

強いて言えば、こうしたらこうなる、という因果だとか、確率の中に神様はいるんだと思います。
それが教えや経験則という形で現れているだけだと思います。
昔の学者が神様を信じたのは、そういった因果法則をたぐりよせることで神様の考えを知りたかったから、というのもわかるような気がしますね。
こうしたらこうなる、というのは科学も宗教も変わりません。

もちろん、いろいろなものに感謝しようとか、そういう考え方は大事です。
でも、神様がそう仰ってるからそうするわけではないです。
何かを信じて取り入れるとき、一度よくその意味を考えなければいけません。

神様を信じるのはいいですが、神頼みをしても救われることはありません。
気持ちの上でそれが支えになってくれるのなら構いませんが、何も解決はしてくれないと思います。

2013年2月13日水曜日

馬鹿にされても


生きていると、隣の人がどうしても気になる、ということはあります。

世の中を見回すと、幸せそうな人は沢山います。
優秀な人も、美しい人も山ほど。

そんな人たちに羨望を感じることがあるかもしれません。
それは仕方のないことです。

でも、もし馬鹿にされたとしたら、気にすることはないのかなと思います。
自分の中で何かが疼いたりするとしたら、それは図星だからか、現実を受け入れきれてないからだと思います。

たとえば、「お前って馬鹿だよね」とストレートに言われたとしても、「そうだよね、ハハハ」と屈託無く笑っていればいいとおもいます。
だって、彼らはそうやってあなたを馬鹿にする人は、自分が自分だけの力で賢いのだと思っている。
それは大きな間違いです。
彼らはそういう星の下に生まれてラッキーだったのです。
言い方を変えれば、スタート地点が違ったということです。

そんなこと言い出したら全部運じゃないか、貴様は運命論者かって話になりますが、別に努力が無駄とか言ってるわけじゃありません。
未来のことを知り得ない私たちは、そのときそのときでベストを尽くすしかないのは事実です。
ただその結果を見て、次に活かすための反省はするとしても、人様に馬鹿にされるいわれは無いということです。

たとえこの意見に同調してくれる人がいたとしても、これは口に出して大声で言ってはいけません。
何故なら周りの人間の中には、努力が結果に直結すると思っている人も少なくはないからです。
そんな人たちの前でこんな話をすれば、「それは言い訳だ」とか、恰好の餌食されるに違いありません。
恵まれた人たちにとっては、言い訳にしか聞こえないのです。
彼らは生まれつきラッキーな人間なので、アンラッキーな人間のことなどわかりようがないのです。

ただ、こういった考えをもっていると、人様に馬鹿にされてもムキにならずに済むので諍いが減ります。
ついでに、人様にも優しくできますね。

あくまで自分のための免罪符ですから、手抜きのために使ったり、言い訳のために使ったりしてはいけません。
私たちが何を言っても、馬鹿にされるような存在だということには変わりないのですから。
矮小な自分を受け入れたうえで、こっそりお守りとしてもっておく考え方なのです。

それに「出る杭は打たれる」という言葉があるように、馬鹿にされるくらい目立つ、個性があるってこともあります。
「天才と馬鹿は紙一重」とも言いますし、もしかしたら、それだけの秘めた力があるのかもしれませんよ。

さらには、身のない内容で人を馬鹿にする人は「自分に自信がないだけ」なので、気にすることはないと思いますよ。
「余裕がないなあ、この人…」って軽く流しておきましょう。

ただ、中身のある批判については、一度聞いて考える必要はあるかもしれませんね。

批判の中身のあるなしは判断が難しいですが、「~したほうがいい」とか「~なところは直したほうがいいかもよ」というように、こちらのことを否定しないで、かつ未来を見据えた前向きな批判だけ信じましょう。
それ以外はとるに足らない戯れ言でしょう、きっとね。

2013年2月12日火曜日

馬鹿と天才


昔、天才バカボンという漫画がありましたね。
『天才とバカは紙一重』という言葉があるように、一般人にとっては、天才の思慮深い行動もバカの思慮の浅い行動も同じく意図が汲み取れないという意味でしょうか。

世には『○○バカ』、という言葉もあったりして、学者さんやらの一本槍な人間が、自分の事を謙遜して「いえいえ、私は○○バカでして~」という風にもちいる。
そういう人間が特定の分野では天才的だったりすることもあるだろう。

だが、天才とバカの境界をどう見分けるか、は難題だ。
つまるところ実績をあげていれば天才なのだが、才能がわかってから発掘したのでは遅い。

私が考える天才とバカの例は、以下のようなものだ。
例えば会議など話し合いの場で意見を出す場合に、「それじゃあダメだよ、そんなバカバカしいことよく思いつくね」というように人を見下した態度をとる者がいれば、それは紛れもなく賢い振りをしたバカである。何故なら、会議の席について意見をだしてもらえるということの価値をまったくわかっていないからだ。そして何より、人を馬鹿にすることで意見を封殺してしまっている。これでは会議をしているのに機会損失も甚だしい。逆に、一見バカな事を言っているようでも何かを提案できる人間は評価されるべきだ。天才とまでは言わないまでも、なにかアイディアをだすというのは偉大なことだ。

先の例では、天才とバカというのは、いかに理性的な判断が出来るかどうかでは決まらないことがわかる。
たしかに安定感や安心感を大事にするなら、理性的な発言をする人間のほうが一見見栄えよく見える。
だが、実際に情報を円滑に伝達したり、議論を巻き起こすパワーはバカっぽい発言をする人間のほうが圧倒的に勝っているように思える。

この例における天才とバカの分かれ道は、身のある議論をいかに盛り上げる力があるか、である。
それ次第で、発言に対する評価がバカか天才か、ひっくり返るのだ。

ただし、このタイプの天才は牽引力にはとぼしいかもしれない。
天才像の全容ではなく、あくまでひとつのスタイルである。

また、天才と馬鹿に共通する性質を挙げるとすれば、突飛だということだ。
言う内容にしろとる行動にしろ、彼らは常人より大きな歩幅で進んでいく。
そのため外部からみると、論理性が見えない。

馬鹿がとる行動は突飛ではあるがよくわからないプロセスに支配されており、天才はある意味わけのわからない(説明されることなしには)プロセスを行動に移す。
そのため、常人から見れば双方共に意味不明には違いなく、見分けはつかない。分かれ目があるとすれば、何か利益をもたらすかどうかしかない。

つまり、たとえ天才的な才能をもっていたとしても、評価され、利益をださないことには天才にはなれない。だが、馬鹿は勝手にのたれ死ぬこともできる。


別の例として、哲学の世界で名を残している天才たちの考えを読んでいると、ある意味で底抜けの馬鹿なんじゃないかと思うことがある。

例えば、「人間は理解し合うことができるか」「疑いようのないこととはなにか」「我々が認知できないことはどんなか」なんてことを大真面目に考えている彼らは、あまりにも慎重過ぎるし、その思考は病的にさえみえる。
下手な考え休むににたり、という言葉があるように、考えていれば誰でも天才というわけではない。
一見すると実利のなさそうな彼らの考えも、いまや哲学科で勉強の対象になるのだから不思議なものだ。ただ、哲学科は就職があまりにも厳しいらしく、実利に結びつきにくいジャンルである。

先程は利益をださなければ天才でないと言い、しかし実利に結びつかないことを考える哲学者は天才だと話したが、これは決して矛盾ではない。
ただ、求めている利益の指すものが、金か社会的影響か、という話だ。

しかし彼らが考えた疑問はあまりにベーシック過ぎて役立たないように思えるのに、長い間生き残っている。
工学的・数学的な知識だって、それが有意義だと知らされなければ、さっぱり価値がわからないのと似ている。

どんな情報も物体も、それを見つめる側の眼が曇っていては役に立たないということだ。

なにせガリレオは地動説を唱えてキリスト教に異端審問されたように、時代がその人に追いついてない以上は、どんな天才も馬鹿になってしまうのかもしれない。

馬鹿も天才も紙一重なのは、「常人にとって理解不能」である。
それが他者にとって有意義か否か、それによって天才と馬鹿が分かれるのだ。

2013年2月3日日曜日

覚悟


20を過ぎたあたりから、自分の不器用さや不出来に嫌気がさしてきた。

頭が良くて身体が弱い、知恵はないが健康、何かひとつでも取り柄があれば、世の中わたっていける勇気も沸くものだが、あいにく私には健康も知恵もありはしなかった。

知恵の不足に関しては不勉強のせいもあったが、勉強に励んだからといって、高校生当時の私が残す成績なんてたかが知れていたことは今考えてみてもよくわかる。
現に大学での勉強の成績はよくないからである。

そうとなれば将来働くなんて選択肢を前向きに検討できるわけもなく、ただ流れに乗って大学院進学を決めたわけであるが、私にとってのそれは単なるモラトリアムの意味合いすらもたない。何故なら、モラトリアムというのは大人になる前の猶予期間のことであって、本来大人になれる力をもつものがあえて大人にならない選択を指すのであり、私の場合は大人になる力すらももたないのだから、これはもはや猶予というよりも、延命措置だと考えたほうがよい。

実際問題、私は自分の死に場所を求めている。
今すぐにでも、車にはねられてしまえば楽になれると思っている。

とはいいつつも、自ら命を絶つほどに思いつめてはいないのだが、将来を考えると、死以外に前向きな選択肢など存在しないような気がしてくる。

昔から「働かざる者食うべからず」というように、働く能力がなければ食えない、食えなければいずれは死ぬわけだから、「働かずんば死を与えよ」と言っても大差ない。
もちろんのこと今から働けないと決めつけていることがすでに問題なのだが、個人的には働いて一所懸命生きていくことが仮に素敵だったとしても、その生き様を人様に評価されるために生きているわけでもないので、泥を舐めるような人生を送るくらいなら、いっそここで楽に死んでしまえればどんなにありがたいかと思っている次第である。

仮に私のようなろくでなしを助けてくれる優しい人がいたとしても、それが親でも兄弟でもなければ、私は卑屈にならずにはいられないだろう。
楽しく生きていかれる自信はない。

とはいえ、何故自ら命を絶つという選択肢を前向きに検討しないかといえば、それは聞こえもしないはずの噂が死後に囁かれることを想起するからだ。そういう意味では、人様の評価を気にしているという矛盾がある。

的確に表現するなら、悪くは言われたくないが、別段褒められたくはない、ということだろうか。

生きるにしろ、死ぬにしろ、中途半端な覚悟であってはいけないと思う。
強いて言えば、生きているうちは後悔を活かせるが、死んだらそれすら出来ないからこそ、そう思う。
来世は信じていないので。
死期などいずれ訪れると、気ままに待ってるのが一番なんだろう。

2013年2月1日金曜日

勉強


かねてから親にせっつかれていた、交通免許の学科試験を受験してきた。
田舎だから、免許がないと生活が立ち行かない。

そのための勉強には三日かけた。
難しいと親におどされたが、思いのほか簡単で、一発で合格した。
周りもなんなく合格していたから、それくらいのレベルなんだろう。

とりあえず、勉強した内容が報われるのが嬉しかった。
今までの私は、教科書を読んだだけでわかったつもりになって、いざ試験に望むと公式やら計算屋らがいっさいこなせないパターンが多かったので、たとえ試験のレベルが低くても、努力が反映されるというのはいいものだ。
この感覚を学生時代(いまも大学生だが)に味わっておけば、人生変わったろうなと思う。

勉強をまともにしてみてわかったのは、人間その都度修正でやっていってるってことかな。
昔からのことわざに、「訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥」というのがあるが、まさにそうだと思った。
小さい頃は、間違えるのは恥ずかしいことだと思っていたが、別に誰でも間違いはするし、修正していけばそれでいい。
そのために問題を解く、という簡単な事実が、私は腑に落ちてなかったのだ。
天才は最初から天才だと思っていたから。
天才は単に、間違いの修正が早いだけなんだろう。所謂飲み込みが早いというやつだ。
そうやって人生の格差がどんどん拡がるのを、ただ指をくわえてみている。


2013年1月28日月曜日

計算は記憶か


私はたまにフラッシュ暗算をするのが趣味だ。
計算のような単純作業は頭を使わないからいい。

私は昔から計算が苦手だった。
フラッシュ暗算をするうちに、その理由がなんとなく掴めてきた。

今まで、計算は処理であって、その都度考えて結果を算出するものだと思っていた。
だが、それは大きな間違いだった。

私は、一桁の数字を五秒感覚で五つ足すことから始めたのだが、なんだ楽勝だと思ってなめてかかると、存外ずっと難しかった。
最初のうちは伸び悩んだが、ある時にコツを掴んでから、三桁の足し算を二秒間隔に五つ足すことが出来るようになった。
目下四桁の足し算に挑戦中の身だ。

さて、私が掴んだ(?)計算のコツについて書き記しておく。

そのためにはまず、人の記憶がどういう形で蓄えられるかについての私の仮説を話しておく必要がある。
例えば、人の話をよく覚えている人がいる。
彼らは頭の中にまるでレコーダーでも搭載しているみたいに、数秒前に出て来たフレーズを再生することが出来。る。
これは恐らく聴覚的な(音声に関する)記憶を保存する能力が高い。
また違ったタイプとして、情景を頭の中に映像として思い浮かべられるような人は、視覚的な記憶力が高いのだと考える。

当初、私は計算に取り組むとき、「ご、さん、に…」というように数字を頭の中で読み上げる自分に気付いた。
だが、桁数が増えてくると「ひゃくにじゅうはち、にひゃくさんじゅうろく…」というように読み上げていると計算の時間がなくなってしまう。
では、計算の早い人間はどうしているのか。そう考えたときにピンときた。
私は、聴覚的に数字を記憶している。だから、数字を思い出すとき、頭の数字から数えていかないと思い出せない。
しかしこれは計算には向かない。じゃあ、視覚的な記憶力に切り替えたらどうか。
もし頭の中に、文字で数字を記憶できるとしたら、いちいち読み上げる必要はなくなる。
そこで、頭で数字を読み上げずに計算する訓練をした。

しかし、ただ我慢をしただけでは、どうしても音声に頼ろうとしてしまう自分がいる。
そこで考えた。
音声的な感覚は他のことに使ってしまおう。
私は頭の中で、好きな歌を歌いながら、同時に計算する特訓をした。

するとどうしたことか、今までは出来なかった計算が、頭の中で勝手にできるようになっている。
何も読み上げることなく、数字が頭に浮かぶ。
数字を先頭から順番に復唱しなくても思い出せるようになった。
これは大改革だ、そう思った。

ついこないだ、情報学の教科書を読んでいて考えた。
コンピュータというのは、データをもっていても、それが取り扱うのに不都合な形で記憶していると、うまく運用できないそうだ。
これは人間も同じことだ、と思った。
つまりさっきの記憶も、適切な形を適用していなかったから今までは計算ができなかったのだ。

そういう意味では、人間の能力には向き不向きがあるし、無駄な記憶力、というものがある。
たとえば、試験をパス出来ても、運用できる知識とそうでない知識があるのと同じようなものだ。

適材適所、情報の形を加工しやすいように取り込む術を学べば、何をするにも能力の向上が望めそうだ。

ちなみにタイトルに関しては、半分正解で半分間違いだと思う。
人間は同じ作業を繰り返していると、それを自動化する性質がある。
これはある意味、頭の使い方を記憶する行為だと言っていい。
そういう意味では、一桁の足し算すべてのパターンと、桁上がりのルールさえ覚えてしまえば、あとはすべて、決まった処理によって実現される。
その決まった処理も、繰り返しを行ううちに自動化されていくわけだ。
結果、計算という行為はすべて、頭を使う処理ではなく、単なる記憶の呼び出しになるわけだ。

昔から読み書きそろばんを教えたという理由がよくわかる。
計算が出来ること以上に、物事の習得の仕方そのものを教えていたのだろう。


<余談>
これに思い当たったのは、表象、という哲学用語を知ったときの話。
私はシンボル、みたいな意味の単語だと思っていたのだが、どうやら、「人が情報を取り込むときの形」のことらしい。
これはまさに、数字を音で扱うか、映像で扱うか、と言ったようなもの。
珠算をやっていれば、それが一連の動きという形になって現れるに違いない。

2013年1月26日土曜日

責任


東電が福島第一原発の汚染水を、濃度を下げる処理をしたうえで海に放出するという。
また日本の魚は汚れるのか。

原発関連のニュースがでると、ネット上の一部では、東電の社員は何故責任をとらないのか、依然として高給を貰っているのか、という意見がでる。
責任をとれ、と。

多分それだと、東電の若い人たちは可哀相だ。
別に自分たちが引き起こしたことじゃないのに、と当人達も思っているんじゃないか。

会社としての責任と、その内部にいる人間の責任というのは、一緒くたに考えてはいけない。
会社は息が長いが、人間はそうでもない。

いざというとき、責任という言葉ほど当てにならない物はないと思う。
引責辞任なんて、最たる例だ。
失敗してやめることって、過去に対する責任はとってない。
例えば、車で人を轢き殺したから車に乗るのをやめます、というのは、本人が困るだけであって、被害者に対しては何も償ってはいない。
この先の事故のリスクは減るかもしれないが、それは謝罪でも、責任でもない。

給料を貰って仕事をしているのに、業績がだせなかったら、次は仕事を頼まれない。
責任のシステムは、持続性のもとに成り立っている。

問題だったのは、国土が汚れかねないことを、国としてやらなかったことだと思う。
一会社に手が負える問題ではなかった。
どこに責任を預けるかは、預ける側の責任だ。

2013年1月25日金曜日

数学的素養


数学的素養とは、「数字を以って物事を判断する力」だと個人的には思っている。

主に小中高の算数ならびに数学で教え込まれるのは、今までに名だたる数学者が遺してきた数学的知識と、その思考のなぞり方である。

数字の扱いに始まり、四則演算、比率、関数、ベクトル、確率、微分などと拡張されていく。

これらの計算をこなせることを数学的素養というなら、それもそうかもしれないし、一般的にはそう思う人が多いだろう。
少なくとも数学が苦手な人間は、高度な計算をこなせる人はクールだと思う。
あるいは逆に、すっぱいぶどうの逸話のように「そんなこと出来ても役には立たない」と馬鹿にするかもしれない。

言うまでもなく、数学が出来ることはとても有意義なことだ。

昔の哲学者たちが数学を通して追い求めたもの、それは人類にとっての共通了解だ。
国語と数学を比較してよく言うだろう、「数学は答えがひとつ、国語は答えがいくつもある」。
これは意味するところはすなわち、数学は文章の問いかけの意味が一意に定まる、ということである。
普段使っている自然言語とは違い、ひとつひとつの単語の意味が厳密に定義されて、正解と不正解がはっきりと分かれる世界なのだ。
だから、ある問題の答えがだせないことはあっても、ふたつの答えがでることはない(はず)。

ちゃんと学んでいれば、必ず一つの結論に達するという点で、数字は共通了解を前提とした強い説得力をもっている。
数学は客観的だ。ごまかしが効かないとも言える。

そうした数学の強みを活かすには、数字を扱えるだけではダメで、その上にのせる論理がいる。
言語が話せても語る中身がなければ意味がないのは、数学も同じこと。


話が飛んで申し訳ないが、先日テレビで法哲学の授業をみていたとき、「他人に迷惑をかける行為」をどう判断するかが話し合われていた。
よく、「他人の迷惑になることをしてはいけない」と教育されるが、では「他人に迷惑をかける」とはなにか?という話になると、そこでより繊細な判断が必要となる。

例えば、公衆で煙草を吸ってはいけないのは何故か?というと、それは「他の人間に健康被害を与えるから」であるが、その健康被害とは、「受動喫煙により数年寿命が縮む」ことであり、その判断には数学や統計学をもちいた医学的判断が必要となるのはわかるだろう。

数学は、ある揺ぎの無い法則を見つけて、体系化していき、その前提の下に、内容をどんどん拡張していく。

対して法哲学は、大雑把に「ルール」を決めて、その線引きは実例や数字を見て決定していく。
言い換えれば、数学が演繹的で、法哲学は帰納的と言えるかもしれない。
別にどちらがいいということはなく、どちらも必要である。

であるから、狭義の「数学的素養」といえば、「高度な計算がこなせること」かもしれないが、そのレベルだけでは物足りない。
本来養われるべき数学的素養は「数字をもって判断基準を設定できる能力」だ。


だが、数学は万能かと言えば、そんなことは全くない。
ここからは哲学の歴史上の話になるので、興味のある人だけ読むといいだろう。

1900年代の前半、様々なジャンルの学者が所属したウィーン学団があった。
その主目的のひとつに、ヒルベルト・プログラムがあった。

ヒルベルト・プログラムは、自然言語のように曖昧な言語ではなく、数学によってこの世界のすべてを表現し、明解にしようという試みだった。

しかしこの夢はウィーン学団のゲーデルが主張した「不完全性定理」によって打ち砕かれてしまった。
数学では解決できない問題も存在する、という結論に至ったのだ。

つまり昔の学者達は、言語や数学のルールをいじくりまわせば、人は効率的に伝達できると思いこんでいた。
しかしながら、それは幻想だった。
普段使っている自然言語には誤解がある。だから誤解のない数学は重宝される。

しかしよくよく考えてみると、その数学を学ぶためには、自然言語による説明が不可欠なのだ。
自然言語に基づいた数学も、結局は曖昧性と戦うことになるのだ。

ただ、それを問題を解くときにおこなうか、伝達の際におこなうかの違いである、

多くの人は、曖昧な自然言語は使えても、厳密な数学は苦手だったりする。
だがその壁を乗り越えるには、結局のところ多くの問題を解いて、自分の理解の確度をあげるしかない。

それに数学には落とし穴がある。
それは、背景が見えない、ということである。

昨今は客観性をもつために何でもかんでも数量化するきらいがあるが、数字の力を過信するのは危険である。

というのも、数字は「圧縮されている」ことを忘れてはならない。
例えば、6個が多いか少ないか、という話になったとしよう。

そのとき、前提として、何が6個なのか、という話になる。
仮にりんごだとしよう。

では、りんごを何に使うのだ。
アップルパイか、ジャムか、そのまま食べるのか。

そもそも、何人で食べるのだろう?

大体りんごって言ったって、りんごの大きさには個体差があるだろう。
品種は何で、そのりんごの平均的な大きさはどれくらいだ?

それに予算はいくらだろう。
値段は?
単純に食べることだけ考えればいいのか?

というように、数字には前提がつきものである。
なので、前提をしっかりわかってないのに数字を読んだところで、それは分かったふりに過ぎない。
数字を読むと客観的に見ている気がするが、前提の捉えかたによって客観性は失われる。

これを利用したのが、所謂「数字のマジック」である。

だから数学的素養は別に数式をいじることではなくて、文脈を以下に読み取れるかである。
よく国語力と別物として語られるが、根本的には同じ力だと私は思う。