2013年10月27日日曜日

呼吸のススメ


私たち人間が生きるためには必ずしなければならないことがある。
それは『呼吸』である。

食べる・寝るももちろんそうだが、半ば無意識的におこなわれるという点で、呼吸は違う。
それは心臓の脈動と同じく、生きることの代名詞でもある。

呼吸とは横隔膜という筋肉を引き下げて肺を広げることで酸素を取り入れ、血液にのせて体中をめぐらせることで、エネルギーを得るための大事な手段である。

そのため昔から呼吸法などと言って研究が行われている。
呼吸は生きるためだけでなく、発声にも深く関わることから、役者や歌手も研究している場合がある。

呼吸は多分、それ以外の面でも大きく体を左右している。
例えば、息を大きく吸い込むと、すなわち身体が膨らむので、体内に圧力がかかると考えられる。
つまり、内臓を軽く圧迫する。
実際、便秘解消のコツとして呼吸法を推しているサイトも多い。

また、耳鳴りの治療にも高酸素治療が使われることから、恐らく呼吸が浅いことが結果的に耳鳴りに繋がっているともみられる。

何より低炭素状態では物忘れが進む事がわかっており、睡眠時無呼吸症高群などは日中の活動に影響を及ぼす。

とまあ、以上で列挙したように、呼吸について研究することは、問題を解決してくれる可能性を秘めている。

何か不調を感じるとき、思考がぼんやりするときに、そっと深呼吸してみるのもいいかもしれない。


奇跡ってなんだろう


最近有名ゲームのストーリーを見返していたら、奇跡という言葉が多用されていた。
あまりにくどいのでした。

奇跡なんていうのは、起こらないから奇跡だとか言われる。
大抵の場合、本来起こり得ないことを指す。
ただし、確率はゼロではない。

限りなく起こらないであろうことが奇跡だ。

物語上では奇跡はない。
ストーリーというのは、メタなレベルの話で言えば、作家の思い通りになることだから、作品中の出来事はすべて、奇跡ではない。

しかしもし世界に神様がいるとすれば、その人はストーリーメイカーであるから、世界に奇跡はないかというと、そうではないような気がする。

つまり物語中で奇跡を起こそうと思ったら、作家は神様にならなければならない。
しかし好きなように話を作って良いわけではなくて、ある程度の秩序が必要になる。

それこそ主人公が必ず勝つなんてのは、ある意味でお決まりだし、当然だ。
そういう意味では主人公の勝利は必然であって、奇跡ではない。

しかし面白おかしい話を演出するためには、当然だと思わせてはいけない。
そうなってくると、都合のいい話ばかり並べるわけにはいかない。

たまに死んでほしくない人があっさり死んでしまうとか、そういうことが必要だ。

だから主要キャラクターが死んだはずなのに蘇ってしまうと、次から死は悲しみの代表的概念ではなくなる。
奇跡的に蘇る主人公がいた時点でそれは奇跡ではなくなる。

別に奇跡出来事が何度起こったって、人が蘇るのは嬉しいし、宝くじが当たるのも嬉しい。人生で最高のパートナーに出会えるのも素晴らしいことだ。
しかしそう何度もあってはいけない。

そういう意味で、最近の漫画に見られる人気による作品の長期化はあまりよくない傾向かもしれない。
物語に奇跡がなかったら、きっと面白くないだろう。
リアリティを求めるなら、あえて作品でファンタジーを語る必要もあるまい。

しかし奇跡は何度も起こらないので、長期連載のはじめのほうで奇跡を起こしてしまうと、主人公はご都合主義の英雄になってしまう。

そういうバランスで成り立っている。

2013年10月22日火曜日

結果論ってなんだよ


「それって結果論だよね」

こんな台詞を聞いたことがある。
何か問題が起こったとき、責任者に厳しい批判を浴びせる人は必ずいる。
そんな人を諫める意味で発される言葉が「結果論」だ。

でも実は僕、結果論の意味をよくわかっていないが、印象だけで善悪判断をするならそれは悪だと思う。
深く立ち入らずに流してしまうのも気味が悪いので、例を挙げて考えてみたい。

例えば、伊豆大島で避難勧告のやり方が杜撰だった事例がある。
避難勧告をちゃんとしなかった結果、土砂崩れで犠牲者が出た。

この事例では、避難勧告をもっとちゃんとしていれば被害者は少なかったはずだ、という批判が出て当然だと思う。

なので僕はそれを結果論だとは思わない。
犠牲になる人数は結果的に減らせたかもしれないならば、最大限の努力は尽くすべきだと思う。

この場合は明らかに、やらないよりはやったほうがいい策があったうえで、ベストを尽くさなかったのが問題なのだから、責任は追及されるべきだし、それを結果論とは言わない。


では別の事例で、ふたつにひとつ、プロジェクトをうまく運ぶうえでとるべき戦略の選択に迫られて、しかも選択肢両方共大して見通しが立たない。こんな場合はどうか。

結果的にプロジェクトリーダーが失敗して、批判に晒されるのは、役職をもつ人間の責任を考えれば当然かもしれない。
しかしこの場合、批判する側も勝馬にのっただけで、実際なんでダメだったのかはわかってない。

あとあとで、あれがダメだった、これがダメだったと原因追及をしてみても、それはすべて、失敗したうえでの結論なので、事前に判断するのとは状況が違う。
結果が出ているという意味で絶対の後ろ盾があるので、批判としてはアンフェアだと思う。

しかしである。
後々から批判を加えること自体は決して悪いことではないと考える。

なぜなら世の中のことはすべて結果論から導かれてきたのだから。
失敗してみて、ああダメだった、次はこうしよう、という思考は当前で、それをやめてしまうのは、改善の糸口を自ら手放すに等しい。

本質的な問題は、すでに起こってしまったことに対して、批判することだけに囚われて前向きな結論を導き出せないことである。

最近の報道を見ていると、こんなことが起こった→○○が悪い!までの流れはあるが、だからどうしようか…ってところの話し合いがすっぽ抜けている。
専門家は考えているのかもしれないが、一般の人々はその点に無関心だ。

これが「結果論」という響きが悪印象を帯びる主要因である。。

だから、結果論の一言で原因追及までをやめてしまう必要はない。
ただ批判に傾倒する姿勢を、前向きな力を得ることに切り替えることが大切なのだ。


・他の事例
ノーベル賞のような世界的な賞に関わる研究でも、「結果論」は生まれる。
有名なので御存知かもしれないが、ロボトミー手術なんかまさにそうだ。

ロボトミー手術は、1949年にノーベル生理学・医学賞を受賞した研究である。
その内容は、精神疾患を抱えて気性の荒くなった患者を穏やかにするために、前頭葉の一部を切除するというものである。
手術は一定の効果があり、実際に患者は穏やかになった。
そしてこの術式はノーベル賞を受賞するまでに至ったのだが、後々恐ろしい事実が判明する。
この手術を受けた患者の一部が、無気力やてんかんなど、様々な副作用に見舞われたのである。
投薬など他の医療法が確立され、一定の効果をあげてきた背景もあり、最終的に医学界ではロボトミー手術は禁忌とされることになる。

ここで単純に「ロボトミーを考えた医者は悪い」と断ずるのはまさに「結果論」である。
たとえ猿で検証したとしても、精神的な副作用については見抜きにくかったかもしれない。
結局人間で試さない限りは、効果はわからないのだ。

悲しいのは、彼らがあくまで善意によっておこなった結果が悲劇を生んでしまったことだ。
だから、この問題によって明らかに言えるのは、誰が悪いということではなく、医学的な判断は慎重に慎重を重ねて判断する必要があるという教訓である。


・おまけ
通常、「批判的」であることと「否定的」であることは区別されない。
ネガティブな印象だ。
だが、哲学でいう批判は疑いをもって情報を鵜呑みにしないことであって、決して世に言われるバッシングの意味合いではない。
その姿勢が大切だ。

2013年10月20日日曜日

ポジティブな哲学


哲学は悲観的学問である。

なぜなら我々は、哲学を学んでいくうえで、数々の厳しい事実に直面することになるからだ。
その例を挙げていこう。

まず、私たちが見ている世界は同一ではない。
哲学ではこの推測をクオリアと呼ぶ。
同じ世界を見つめているようでいて、我々の捉え方はまったく違う。
例えば、私にとって青は冷たい色でも、他の人にとっては違うかもしれない。

また、ウィトゲンシュタインが語ったように、言語で語る事が出来ないものに関して、我々は沈黙しなければならない。

つまり、クオリアのように互いに違う感じ方のように言葉で表現出来ないものは、言語による相互理解からほど遠いところにある。

仮に言葉で意思の伝達ができたとしても、それはあくまで部分的なものである。
我々が互いにすべてを理解し合うことはない。

また、プラトン的に考えれば、我々が見ているものは、あくまで影であって、本質ではない。
つまり、ある物に対してもっているイメージと現実のギャップは、永遠に埋まる事はない。
イメージとは、我々が培った経験から形成される像であるから、あくまで一面的である。
単純に言えば、ある時点で、ある物体の、ある方向からの映像を見ているとき、私たちはその裏側を同時に見ることはできない。
すべてのことは多面的であるのに対して、我々が観測によって獲得するイデア(概念)はそれらの複合によって得られる解釈でしかなく、実際の事物そのものの真実の姿とは溝がある。

これはソクラテスの語った、「無知の知」にも似ている。
「我々は何かについて完全に知ることはない」ということを知っているのが本当の賢さである、という考え方だ。

つまり、私たちは世界を見ても、永遠に真実に辿り着くことはない。
仮に真実を知ったとしても、すべてを知ったと自覚する日は永遠にこない。

そのうえ、皆世界の受け取り方が違ううえに、満足に共有することもできない。
これでは、相互理解なんて夢のまた夢だ。

と、哲学を解釈してしまうと大変後ろ向きな結論を得ることになる。
しかし、ポジティブに捉えてこそ前進する力になる。

上に挙げたような性質は、事実ではあるが、それは逆に他人とうまくやっていくための手掛かりでもある。
心得ておくことで、相互理解の不可能性を理解すれば、自分の意見をむやみに押しつけずに済むし、「無知の知」を意識すれば、常に謙虚な姿勢でいられる。
頭ごなしに怒ることもなくなり、人の話をちゃんと受け止めることが出来るようになる。

悲しい真実をふまえるからこそ、相互理解の瞬間がより一層ありがたいものになる。

このようにポジティブに捉えれば、哲学はネガティブでペシミスティックというイメージそのものが、一面的な受け止め方であるとわかるだろう。
物事は多面的な性質をもつのだ。

2013年10月18日金曜日

執着は敵


物事に対して執着してしまうことはよくある。

私は執着という言葉をネガティブに捉えているかもしれない。
実際の意味はどうだろう。

ネットの辞典によれば、執着とは『一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと』であるという。

似た言葉に集中がある。
これは『一箇所に集めること』であるが、いまや傾注や専心のように「一つの物事に集中する」という意味合いで用いられている。

これらふたつの違いは、コントロールできるか、だろう。

つまり、集中は自らするものであって、執着は捨てられない心だということ。
似ているようで、ある側面では真逆といってもいい。

何かに文句を言うことは、執着に近い。

文句を言いながらも使いつづける、関わりつづける状態は、理想的ではないながらもしばしば起こる。
これは精神衛生上良くない。

文句を言うというのは、相手になんらかの変化を求める表現行動だ。
つまり、現状得られているものは不満足だが代わりがないので文句を言って改善を望んでいる。

この文句が次に繋がる形で行われると良いのだが、文句を言う人間はえてして自分の立場の弱さを忘れがちである。
そして言動が荒くなる。

文句を言う側に立つということは、すなわち供給される側に立つということである。
他人を拠り所にしなければ目的は達成し得ないのである。

仮に自分で実現できるのなら、そもそも相手の力を借りる必要なんてないからだ。
何かに対して文句をつけるときは、常に自分が弱い立場にあることを、忘れてはいけない。