2013年4月27日土曜日

外来語はかっこいいか?


外来語が幅を利かせるようになって随分経つように思います。

最近では「スマホ」「タブレット」などなど、製品名が外国語ということもあります。
グローバル化、でしょうか。

そもそもが外国生まれの概念ですから、日本でも同じ名前で呼ぶのは当然。
でも、野球なんかは「ベースボール」を訳したって言うじゃないですか。
そこの違いはなんでしょうか。

きっと西洋化ってやつでしょうね。
でも僕はもうひとつ理由があるような気がします。

カタカナ言葉って、わかりやすいからなんじゃないかなって思うんです。
例えば、「異議を唱えることには意義がある」って文章があるとしたら、文章では問題ないですけど、話し言葉としては伝わりにくいんじゃないですかね。同音異義語というやつです。
じゃあ、言い換えればいいじゃないかって話もあるわけですが、異議→反対意見って変更すると、それはそれで語感が悪いし長いですよね。
その点英語は、refuting(異議を唱える)で済むわけです。

なんか、英語のほうが話し言葉に向いてると思いませんか。
だから、最近やたらと外来語を使って話したがる傾向があるのは、ただのかっこつけではなく、機能的な意味があると思うのです。

もともと日本語は、音の基本単位が子音+母音ですから、その組み合わせから単語を作ろうとするとどうしても長くなってしまう傾向があります。
ですが時間の節約も大事なので、同音異義語はわかりにくいけど使い、聞き手は文脈から意味を読み取る、という文化なわけです。

しかし、技術が熟して、黙々と仕事をしていればよかった時代は終わり、議論による意思疎通が重要になってきたわけですね。

そこで、文面では漢字を、口で話すときは外来語を使いわける方向に移行しているわけです。

同音異義語の聞き漏らしや勘違いによって、互いに不確定なまま議論を進めるリスクを抱えるくらいなら、いっそ外来語を導入してしまおうという流れです。

つまり、言葉選びにも適材適所があるということ、その基準は表現と言語の意味の適合率だけではなく、話し手にとっての話しやすさと、聞き手にとっての聞きやすさがせめぎ合っているということですね。

なんだか「かっこいい 外来語」ということで、かっこいい外来語を使いこなしたい人がたまにこの記事を見てくれているようなんですが、相手に伝わらない言葉を使うことに意味はないと、私は思います。

ただ強いて言えば私は、シニカル(嘲笑的)、アイデンティティ(自己同一性)、シンパシー(共感)、クリティカル(危機的)とかがかっこいいと思います。あとペシミスティック(非観的)とか。


他の人がこの現象についてどう思うのか調べていたとき、

「外国語が氾濫している、母国語を大切にしよう!」という意見を見かけました。

しかし私はそうは思いません。
たしかに、言葉は大切です。

でも大切なのは言葉そのものではなくて、言葉がもつ役割だと思います。
哲学で言えば、シニフィエ(言葉の意味)ということでしょう。

いかに効率的かつ忠実に自分の意図や意志を伝えられるかが最も大切なのであって、そのためにどんな言語や言葉を使うかは手段に過ぎない。

もちろん、言葉には音の響きや文字にしたときの視覚的印象も含まれる。
だからすべての言葉は指している意味上まったく同じということはありえない。

そういう意味では、すべての言葉は大切にされるべきだという意見もわかります。
動物の多様性を守ろうってのと似たようなもんです。

しかし、あるものを表現するために使いよい言葉を選択し続ければ、いずれ便利なものが生き残るでしょう。

あえて不必要な、使い勝手の悪い言葉を残すとしたら、それは趣味的領域でしかない。
しかし言葉は伝えてこそ役割を果たすため、流通しない言葉には意味などないのです。
流通しない貨幣と同じ。

そもそも相手と自分が共通して理解できる言葉でなければ、使う意味はありません。
しかし、人の記憶には限界がある(キャパシティはどうか知らないが、時間的制約はあるだろう)ので、共通して知っている表現の数は限られてくる。

そのとき、どんな言葉を優先して選ぶか。
それは効率的で、頻出する、そんな言葉でしょう。

だから外来語だろうか日本語だろうが関係はない。
その言葉が伝えたい意味を表現してくれているか?
表現が相手に伝わるか?
皆が使っているか?

これらの条件だけが意識されるべきなのです。

しかし、これに反する内容の実験があるそうです。
使う言語が私たちを規定している、という説です。

つまり、本来我々は、意味があって言葉がある、と考えていますし、言葉はそのうえでの道具でしかないと思いがちですが、実は逆もあるのじゃないか、という話。

例えば、雪に囲まれて暮らすエスキモーが、「白」という色を表現するのに何十種類もの言葉をもちいているのは有名な話。
また、日本で言われる「藍色」というのも、独特な概念です。

これらの色の違いは確かに存在するのですが、その言語に属していない人間からすれば、すべて同じに見えるわけです。

その言語に触れて、当然だと思って育つと、自然に違いが分かるようになる。

一番わかりやすいのは、我々が英語のLとRの発音を聞き分けられない、という話でしょうか。
日本語では、ふたつの音は明確に区別されないので、同じ概念として規定されるわけですね。

このように、言語自体が感性に働きかける場合もあるわけで、上記のように合理主義に走りすぎるのも、問題があるのかもしれません。

2013年4月9日火曜日

高度・表現・文脈


小説の好みについて思うことがある。

例えば、ある人物が心情を示しかたとして、「好き」と囁く、あるいは口付けするだとか様々だと思う。
これは明らかな愛情表現である。

しかし、食事を用意しておくとか、病気のときに世話を焼くというのは、また違った愛情の示し方だと思う。
どちらかといえば、こちらのほうが直情的でないというか、所帯じみている。
また、状況を介して示される分、多少間接的な愛情だ。

さらには、注意をする、指摘をする、というのも愛情である。
その人の将来を思って、辛いのを承知で現実を知らしめるのは、高度な愛情表現である。(パターナリズムというらしい)

こうした愛情一つをとっても、表現の直接的レベルの違いがある。
高度な愛情が目立つことはなく、愚かな人間はそれに気付かない。

抽象化、という点では、高度な文脈のほうがより具体性をもっているように感じる。
何かを抽象化して語ることは、いろんな状況を包含しているため、一見高度に思える。

しかしそれは、ある意味で情報を単純化しているのであり、それを果たしてレベルの高いものとして位置づけしていいものかと思う。

抽象化することは、多くの問題に対する解決を与えるけれど、そのスマートさは具体性をとっぱらったうえで成立していることは意識されるべきかもしれない。

物書きは、如何に文章を膨らませるかが勝負だから、抽象的なテーマ性を具体的に表現していく技能が露骨に要求される。

2013年4月5日金曜日

情報氾濫


皆さんは個人ブログを書いたことがありますか?
私は昔書いていましたし、今もこうして書いています。

最近は個人レベルで情報が発信できるようになり、出版社やテレビ局のもつ力も昔よりは弱体化しつつあります。

そうした中で、個人ブログを書くことは善か悪か?ということをふと考えました。
個人の自由だから善悪なんてないんだ、って意見は当然あると思います。
しかし、私は悪だと思っているとあえて言います。

何故かといえば、情報の取得には私たちの時間が費やされているからです。
別に無尽蔵に時間があるならいくらでも読めばいいです。
でも、現実的には違います。

しかし、インターネット上には個人ブログの類がごろごろ転がっている。
もちろん有意義な内容もありますが、そうではないものもあります。

ところが、私たちは情報を見るまで質を判断できませんから、とりあえず見るしかないわけです。

もし転がっている情報の質が低いということになれば、我々の時間はどんどん無駄になるわけですね。

個人の日記によってこういうことが引き起こされていたとしたら、それは罪なことだと思いませんか。

だから、個人の好き好きで書けばいい、という意見ももっともではありますが、面白いと自信をもってコンテンツを提供しているという自負をもって欲しいなとこっそり思うわけです。

作家さんや俳優さんなんかが、自分の作品を観てもらって感謝するのは気持ちのいいものですが、批判や批評にナニクソとやり返しているようではいけません。

文章を簡潔にまとめるのも、同様に重要なことです。
同じ内容を伝えるなら、短いほうがいいのは当然ですからね。

2013年4月1日月曜日

非難と否定、批評と批判


ポジティブとネガティブってありますね。

例えば同じ事例「ミスをしてしまったこと」に対して、「一度ミスしたから次はミスしないで済む」というのがポジティブ、「一度ミスしたんだから次もまたミスするに違いない」というのがネガティブ。

どちらが次に繋がりやすい考えかは一目瞭然かと思います。

自分の中で何かを解釈するときは、ポジティブもネガティブも気にする必要は薄いかもしれません。
しかし、人の行いに対して意見を述べるとき、その内容は絶対的にポジティブでなければなりません。

例えば人がミスをしたとき、「お前は~な性格だからそうなるんだ」というような人格否定や、「お前は馬鹿だな」というような意見はよくありません。

何故なら、次に繋がらないからです。
上記の例は単なる否定であって、次を感じさせる要素がまったくないのです。

だからせめて、「もっとこうしたほうがいい」とか「こうしたからミスしたんだ」というように、相手のためになる批評をしていかなければ、建設的な意見交換は望めません。

単なる否定というのは、自分の自信のなさから湧き出るもので、他人を下げることで自分を大きくしようとすることなのです。
しかしそういう発想は他人を傷つけるばかりでなく、自分を発展性のない、つまらない人にしてしまいます。

また他人の否定はその人に対する拒否でもありますから、関係性を拒んでいるも同然なのです。
友達ができにくくて悩んでいる方がいたら、まず未来性のない否定をやめてみるといいかもしれませんね。