2013年7月28日日曜日

人を殺す理由


16歳の少女が殺人を犯した。

供述によると、動機は喧嘩だった。

でも喧嘩なんて殺しの理由にならない。
喧嘩にも原因がある。

原因は「しね、人間じゃない」とグループチャットで言われたからだそうだ。


何故それで人を殺すまでに至ってしまうのか。
人間じゃないと言われて腹が立ったとしても、それで殺すまでいけるものか。

根深いところにある動機は、「自尊心の欠如」だと思う。
自分が心の何処かで思っていることを、相手に言われてしまったから、本気になってしまった。

普通なら人間じゃないと言われたとしても、そんなことはないと胸を張っていればいいだけの話。
なのにまともにとりあってしまうのは、どこかで負い目があったからに違いない。

まして、チャットで出会っただけの、自分の事を何も知らないような相手にそんなことを言われたとしても、心に響かないはずなのだ、普通は。お前が私の何を知ってるんだ、と思うはずだ。

けれど、殺すまでに至ってしまったのは、悲しいかな、どこかで指摘を認めてしまっているから。
あるいは、自分を認めてくれていると感じられる相手がいなかったために、チャットで浴びせられるような言葉でさえも、自分にとって重いものになってしまった。

彼女が抱えていたのは、孤独感かあるいは自己嫌悪なのかな、と思う。


もうひとつ主だった原因があったとすれば、誰しも自分が悪いわけではないということだ。

誤解を恐れずに言えば、悪い人なんていない。
誰しも悪くなりたくて悪くなるわけではない。

そういう星の下に生まれる。
生まれただけで馬鹿にされる。

もちろん、努力の介在する余地はあるかもしれない。
だが、それだけでは覆せない運命も存在すると、私は思う。

そんなとき、そんな理不尽をたまたま引き当てた人間はどう思うか。
私が悪いんじゃないのに、と思うだろう。

そしてそんな自分を馬鹿にする相手がいたら考えるだろう。
なぜこいつはたまたま運がよかっただけなのに、こんなにも私に対して偉そうに振る舞うのかと。
なぜ自分は悪くないのに、こんな目に遭わなければならないのかと。

そのときに、心中で殺人は正当化される。

もちろん、世間の秩序を考えればまったくもって許されることではないのだが、しかし人の尊厳を踏みにじるというのはつまりそういうことだ。

この事件に関しては、心ない言葉をかけたほうも悪いかな、と私は思う。
ある意味では、加害者も被害者だ。

あまり大きな声では言えないが、先天的に与えられるものが等しくない以上、それを取り戻すための歪みが生じることは仕方がないことだと思う。
それをなくすことは永遠に不可能だ。

けれどそれで人生のどん底に落ちるのももったいないことだし、殺されるのも御免だ。
だから人に何かを追及したり、非難をするとき、そのやり方は考えられる必要がある。

2013年7月24日水曜日

やってみなけりゃわからない


最近、心理学の植木先生の『シロクマのことだけは考えるな』を読んだのだが、その中に興味深いことが書いてあった。

売上に貢献するためにもかいつまんでしか話さないが、どうやら鬱の患者というのは、統計的判断を一般人よりも正しく行えるというのだ。

例えば宝くじを買う時、一般人は自分の手で買った方が当たりそうな気がすると答える人が多いのに対して、鬱病の患者はその割合が低いのだそうだ。

つまり、宝くじを誰が買っても確率的には同じだという事実をシビアに受け止めているのだそうだ。


私はこれを読んで、ははあなるほど、と思った。
何故なら上記の現象は、鬱気質の本質を突いているような気がしたからである。


大雑把に言えば、統計的判断とは、昨日も今日も太陽は昇った、だから明日も昇る確率が高い、そんなものである。

でもこれは妙な話で、別に明日太陽が昇らなくてもなんの不思議もない。

しかし、鬱病患者は考える。
今まで人生悪いこと続きだったから、これからも悪いことが起こるに違いない。
こうして未来への希望を見失い、活力を奪われるのである。

別に今日が悪くたって、明日があるさ、と思えるならば、それは鬱とは程遠い。
鬱病に陥る思考形態とは、すなわち科学的判断が原因なのだ。

しかしながら、知っておいた方がよい。
科学的なものというのは危うい基盤の下に成り立っているということを。

たとえ物理法則を実験によって裏付けて解き明かしたとしても、その時その場で解き明かしたものは、その時だけの答えなのである。

時々刻々と状況が変化する中で、たまたま長いこと変化が起きてないだけなのだ。

だから不幸が続いても、明日はいいことがあることもあり得る。
明日になれば、重力は軽く、身体も軽くなるかもしれない。
やってみなけりゃわからない、ということだ。

もちろん、事前にイメージをしておくことも大切だ。
でも時には、飛び込む勇気を振り絞るといいのかもしれない。

2013年7月16日火曜日

野暮なこと


「野暮なこと言うもんじゃない」

と、粋なおばちゃんが若いのに声をかけるシーンがなんとなく浮かんだ。


例えば初音ミクのライブに対して、「なぜ情報でしかないアイドルのコンサートに行くのか?」という疑問は、まさしく野暮である。

なんでソーシャルゲームのカードなんかにお金を使うの?というのも、ゲームのキャラクターに恋をするのか、というのも全部野暮である。

人の趣味なんだから勝手にさせておきなさい。
もちろんそういう意味でも野暮だ。

それに考えてもみなさい。
わからないこと、理解できないことを批判したって仕方がないし、理解できないなら口出ししないほうがましだ。

なにより、映画に役者がいたって、あなたはそれを意識せずにストーリーを楽しめるだろう。
なら0と1のデータがライブを開いたって同じこと。

これはおかしい、あれはおかしいとリアルを追求する審美眼は必要だ。
だが、話に没入できるだけの想像力はもたなければならない。

つまり、熱に浮かされて盲目的になることもある種の才能だということだ。
それは同じものを与えられても2倍、3倍楽しめるということだから。

宗教や熱狂が持つ力は人を動かす。
想像力が現実を支配している。

物理法則だけではない、情報もまた、私たちを支配している。

2013年7月11日木曜日

諦めるのは悪いこと?


私は以前、演劇部に所属していたのですが、そのときの先輩が口にしていた言葉で嫌いだったものがあります。

それは「逃げ」という言葉です。

当時その先輩にとってはホットなワードだったらしく、盛んに「それは逃げだからしたくない」というように口走っていました。

「物事に立ち向かっていく」ということを絶対的なポジティブと見なし、それに反する行為を「逃げ」と称して嫌っていたわけです。

しかし私はこの考え方が好きではありませんでした。

たしかに、物事に向き合わずに「逃げ」の一手を打ってしまうことは安易だし、楽なほうに流されているという意見はわかります。

ですが、物事に向き合った上で「逃げる」あるいは「諦める」という選択をおこなうことは立派な判断だし、問題に対する対処だと思うのです。

例えば本を半分くらいまで読み進めたうえであまり面白くなかったとき、最後まで読み進めるか、途中で諦めるかという二択に迫られると思います。
そのとき、あなたはどんな判断をしますか?
判断をしたとして、どうしてその選択をしたのでしょう?

きっと私の昔の先輩からすると、読み進めることをチャレンジすることと捉え、諦めることはネガティブな選択ということになるでしょう。

この選択は、言い換えれば、経験的にこの本は面白くなかったからこれからも面白くないだろう、あるいは、これからはどうなるかわからないという判断であり、科学的と非科学的がせめぎあっているような状態です。

私はどちらがいいと言う風には考えておらず、そのときどきによって判断を下せばいいと考えています。

たしかに、「逃げ」ないという明確なポリシーを打ち立てることは、判断を楽にしてくれますが、それは逆に言えば、個々の問題に立ち向かわないということでもあります。

つまり、「逃げ」という言葉を安易に濫用することで、逆に「問題に真摯に向き合うことを諦める」という選択になりうるわけです。

私が「逃げ」という言葉を嫌ったのは、その言葉の安直さというよりもむしろ、ポリシーを決めることによる問題の過剰な単純化がおこなわれてしまう可能性を危惧してのことだったのではないか、と今では思っています。

要は「逃げるが勝ち」も戦略のひとつだ、というそれだけの話です。

2013年7月7日日曜日

なんなら遺書を書いてみろ!!


生きるのが面倒くさい、毎日がつまらない…とボヤいてるそこのあなた。

それって自分が何をしたいのかわかっていないのではないでしょうか。
なんとなく人生どうでもいいやと思いつつ、反面どうでもよくないと思っていたりしませんか。

そんなあなたに、「遺書」を書いてみることをオススメします!!


「遺書って、死ぬ決意をしたときに書くあの遺書…?」


そうです、あの遺書です!!

一度遺書を書いてごらんなさい。
そんな辛気臭いことしたくないよ…なんて思わずに、さあさあ!!


私がなぜ、このような一見狂気に満ちたオススメをするのか。
それは、遺書という行為が、自分の人生に後悔がないかの確認行為になるからです。

よく考えてごらんなさい。

両親や兄弟に宛てるメッセージ。
自分が死んだらどう扱ってほしいか。
自分の人生は満足であったか。

いろいろ書くことがあるでしょう?

暇をもてあましてるならやってみましょう、ゲームみたいなものです。

実際に書いてみると、自分の人生を振り返れたり、やり残しがあることに気がつきます。
ついでに、恨めしい気持ちも晴れてくるのです。

ほんとうにあなたの人生がつまらないなら、きっと遺書もつまらないものになるでしょう。
でももし、人の心を打ちそうな内容が書けたり、自分って案外イケてること書けるな、って思ったなら、それは素晴らしい発見じゃあありませんか。
死に対峙して新たな自分を発見するなんて、なんだか素敵じゃないですか。


実際死のうなんて人は、意外に考えを放棄してるだけだったりするのです。
やりたいことがあっても土台無理だと思っていたり、ハードルをあげすぎて楽しむことを忘れていたり。
遺書を書いてみると、そういう部分が浮き彫りになってくるものです。

自分が一体何者で、何が望みなのかもわからないまま死んでいくなんてつまらないでしょう?

それに人間なんていつ死ぬかわかったものじゃありません。
念には念を。あらかじめ準備しておくというのはいいものですよ。

ちなみに僕はかなり満足な遺書がかけたので、生きられるだけ生きることにしました。

こういう類の話(どういう類だろうか)が好きな人には、寺山修司の『自殺学入門』をおすすめしておく。