2014年12月13日土曜日

優柔不断と決定力


優柔不断は悪しき特性である。

物事のほとんどは短所と長所の二面性をもっているが、優柔不断は悪である。

それは単に言葉の与える印象の問題で、慎重と言い換えれば良い特性と捉えることもできると主張する人もあるかもしれないが、私はそうは思わない。

適切に判断を留保し、適切に判断を下せるならば、それは慎重と言えるだろう。
だが、むやみやたらに悩んで時間を浪費するのは、優柔不断以外の何でもない。

判断にかけるべき時間は、事の重大性によって使い分けられるべきである。

例えば今晩の夕飯を何にしようか決めるのに、一時間も二時間もかけていたのでは夕飯を作る時間がなくなってしまうし、逆に将来に関わる志望校を決めるのに二時間程度で決定を下すのはあまりにも慎重さに欠けると言えるだろう。

リスクが、事の重大性とそれが起こる確率によって表現されるように、適切な判断とは時間(労力とも言える)と事の重大性から決まる二元的な行為だと言える。

つまり、事の重大性が低いにも関わらず時間や労力をかけすぎたり、逆に重大な事柄を即時決定してしまうことは悪しき特性であり、特に前者を優柔不断と呼ぶ。

優柔不断は、整理能力の低さか情報蓄積力の不足によって起こると考えられる。

何かを決定するうえで絶対に必要な能力は、情報の蓄積力である。

それは、今決定すべき事項が一体何であるかという問題設定をすべて頭の中に保持するという能力である。

夕飯の決定なら、まず麻婆豆腐か、筑前煮か、ステーキかなどなど、列挙した選択肢をすべて頭の中に浮かべて、それらを比較しなければならない。

このとき、ひとつ浮かべてはひとつ忘れていたのでは、永遠にゴールに辿り着かないのは当然である。

もちろん、最低限ふたつだけ覚えておいて、逐次的に比較し、最終的に決定するという方法も考えられるが、コンドルセのパラドクスによれば、操作の順番によって結果が変わってしまうため、問題を大局的に見なければ公正な決定ができないケースもある。

この情報蓄積力に問題がないとして、優柔不断の原因となりうるのは整理能力の低さである。

冒頭で例を挙げたように、優柔不断という性質について、いや慎重とも言えるのではないかという反論はまっとうに思えるが、そこで思考をやめてしまうと、結局優柔不断はケースバイケースで良くも悪くもあるという結論に至る。
もちろんそういう鷹揚な見方も一つの選択肢ではあると思うが、それが深く考えたうえでの結論か、考えるのをやめたうえでの結論か、そこには大きな違いがあるように思える。
もし一歩踏み込んでどちらかに決定しなければならない場面を迎えたとき、前者は決定ができるが、後者はできないだろう。
それは決定の対象について、何も分類することなく、ただそのときどきであるという当たり前の摂理をうわっつらに述べただけだからだ。

対象を比べるときは、必ず性質を列挙し、それらにポイントをつけなければならないだろう。
そのためには、整理能力が不可欠である。そこには分類をするための処理能力や、列挙するための想起力も含まれていると考えてもよいかもしれない。

別に、決定を留保すること自体を否定するわけではない。
ただ、留保することが慎重で賢いと考えているのであれば、それは違うような気がする。
現実的に頼れる人間は、何かしらの説得力ある決定力をもつ人間だと私は思う。

2014年11月3日月曜日

瞑想のすすめ


私は最近になって瞑想をはじめた。

瞑想は、仏教やその他の宗教で取り入れられている修行であり、雑念を払うことを目的としている。

雑念を払うというと、煩悩や欲を追い出すという意味合いに聞こえるが、これはわかりにくい表現である。

恐らく瞑想は、集中力の訓練であろう。

というのも、仏典によれば、仏教は独りで歩むことを良しとしている。

それはつまり、他の人たちと仲良くすることはあっても、つるむようなことがあってはいけないということである。

もっと具体的に言うなら、仏教はおしゃべりを禁止している。

それは、寄り集まってだらだらと時間を過ごすことが、人生にとって無益でしかないという考えに基づいているに違いない。

それを断つ心を手に入れようというわけである。

また、仏教の目的は涅槃に到達することで、つまるところ、この世の苦しみから解放されること意味すると思われる。

集中をすると、周りの状況が良くも悪くも見えなくなる。

その意味では、あれこれ悩むことから救われると言えるだろう。

もちろん、対処療法に過ぎないやり方だけれども、実際問題どうしようもないことで、無駄に精神だけ参ってしまうということはよくあるので、そのための対策にはなると考えられる。

瞑想の面白いところは、目的が目的でないということである。

つまり、本来集中力というのは何かに傾けるものである。

何かを製作するために集中するとか、そういった類のものであるはずだが、瞑想においては違っていて、それは集中力を養うために他のものを排して集中するという謎のアクティビティである。

すべての思考を排するために集中するのである。

もっと言うなら、集中しよう…!と唱える心の声さえも消えると良い。

このとき、自分の心の中に無が生まれる。

やってみるとわかるが、これが意外と難しい。

なにせ、意識がなくなるのとは違う。

確かに自分が存在して、意識もあるのだが、意識的な思考は一切排されている、そんな感覚である。

もちろん現実的なことを言えば、「そろそろやめようかな…」と考えてやめる以上は、完全に無意識の状態を作るというのは恐らく不可能なのだが、限りなくそれに近づくという行為は、雑多な情報の処理を要求される現代の世の中において貴重な時間である。

何もしない状態を意図的に作ること自体が無駄だというのなら、それはそれでいいだろう。

だが、集中力がなくて作業が進まないとか、思考が途切れやすいと感じる人に、私はおすすめする。

2014年10月22日水曜日

仏教 スッタニパータを読んで


スッタニパータを読んだ。

これは歴史上最古の仏典である。

仏典として最古であることが意味するところ、それは時代の変遷とともに起こりうる意味の曲解を逃れているという原始性である。

私が読んだのは日本語の訳文なので、厳密にはその段階で伝言ゲームが起きているのだけど、他の経路よりはましだと思われる。

仏教の考えについては、まったく知らない状態で読んだので、備忘録として、感想と疑問を記しておく。


まず読んでの雑感としては、仏教ってそんなに崇高でもないな、ということである。

どうも宗教と言うのは、日本人にとって近づきづらく危ない、尊大なもの、というイメージがあるように思われる。

本が240ページもあるものだから、大層立派な説教かと思ったのだが、意外にも当然のことばかり書かれていた。

内容は詩的な対話形式で表現されていて、神霊やバラモン(当時の修行者、偉い人)、弟子たちからの質問に仏陀が受け答えをし、彼らを説得していく様が描かれている。

全体のテーマとしては、涅槃に至る方法(苦しみを取り除く)を説いている。

そのために具体的なルールを大まかに種別すると、

・種々の欲望に囚われてはいけない
・悪事を働いてはいけない
・他人を受け入れ、尊重すること

の三つに大別される。

もしかすると、私が仏教の教えを読んで当然のように感じたのは、それらの思想が現代に無意識的に広く普及しているからこそかもしれない。

もしそれが仏教の影響だとしたら、驚くべきことだが、たしかめようはない。
ただ、幅広く受け入れられる内容だったことは間違いないだろう。

中でも驚いたのは、デカルトが「我思う、故に我あり」という考え方を発見するそのずっと前に仏陀が発見していたということである。

ただし、デカルトが疑いようのない自我を確立するために唱えたのに対して、仏陀は自我を自覚し滅するために唱えた点で真逆であることも興味深い。

基本的な考え方はこうだ。
世の中は苦しみに溢れている。
その苦しみを逃れるには、自分を変えるしかない。
ではその苦しみの原因を列挙して、取り除いてゆくことが必要である。

そこで、悪事や、欲望、他人への軽蔑を挙げて、禁じることにしたのである。

また、自我はすべて六識から生まれる。
これは五感と意(表象と思われる)から生ずる。
それらすべてを取り払うことで、苦しみから逃れるわけである。


だが、そのためには並々ならぬ努力が必要だ。
実際現代人には不可能と思われるような内容も説かれている。

例えば、「慣れしたしむことは恐れを生む。家をもつと塵が生じる。」と述べられている。
これは、家をもたず定住しないのが聖者のさとりだという意味だ。

これではホームレスじゃないか。

また、集会を禁じ、おしゃべりもよくないものとする。
たしかに人とのおしゃべりは、楽しいが過剰だと時間を奪う。
だが、現代では通信が発達しており、これを排するのはますます難しくなるだろう。


スッタニパータでとりわけ納得できなかったのは、神霊の存在である。

神霊は人間以上の存在で、仏陀が生まれるときには偉大な人が生まれると喜んでいる。

それをアシタ仙人が仏陀の両親に伝える。

当の仏陀は悟りを開いて、「人は生まれによってバラモンとなるのではない。行為によってバラモンとなる。」という。

もしも行為によってバラモンになるのなら、仏陀が生まれる以前から偉大であるとされるのは矛盾だ。

つまり、権威は決定論で決まるという考えを否定する仏陀の出自のエピソードが、決定論的なのである。

またその神霊に仏陀が説教をする。

これでは、双方の力関係が不明確過ぎる。

つまりその時点で、言説は歪んでいるのである。

仏陀自身は行為を評価したかもしれない、だが、スッタニパータを書き伝えた人は、権威主義にとらわれて余計なエピソードを付け加えてしまったのだろう。


他にも矛盾はある。

仏陀は、「真に悟った人は他人の考えに依らない」という。
これは自分で判断力をもっているということだろう。
だが一方で、仏陀のいいつけを大いに守るよう奨めている。


そもそも、托鉢で他人から食べ物をもらうシステムもピンとこない。
彼はバラモンには食べ物を与えるように言いつけているが、それは乞食とは何が違うのだろう。
同じとしても違うとしても、それのどこが立派だというのか。

私にはまだわからない。


時代背景もあるだろう。
原始仏教は、やはり未知の世界であった。

ただ、当時から人々が考えているテーマが、死や生、生活やおしゃべり、集会など、現代と多く通ずるものがあるのも事実だ。

我々は、古いものほどいいとか(クラシックのように)、新しいものがいいとか、極端になりがちだが、温故知新といわれるように、新しい時代に合わせた、かつ原始のエッセンスを含んだ仏教が求められるのかもしれない。

今回挙げた疑問については、解決次第追記してゆくつもりだ。


仏教をかじって感じたのは、「とても後ろ向き」ということだ。

この世が苦しみだなんて、超ネガティブ。

だから、仏教の考え方は、「人生の曲がり角」に直面している人向けである。

キリスト教みたく、「神に認めてもらうために頑張る」というようなボジティブさとは一線を画している。

どちらがいい悪いというつもりはないが、私は現実と戦うなら、キリスト教の方が社会の発展に寄与しそうだなと思う。

まあニーチェに言わせれば、キリスト教も隷属的という意味でネガティブであるが。

その点で言えば、仏教の方が自立的かもしれない。

2014年10月19日日曜日

宗教を恐れるということ


現代日本では宗教は恐れられている。

そのため政教分離は当たり前である。
しかし私は、皇族というシステムがある時点で、既にそれは崩壊していると思う。

誰が国を動かしていくかを血脈によって決定することは、例えそれが制度であったとしても、疑うことなく行っている時点で、宗教ではないかと思う。

だから良いとも悪いとも言うつもりはない。

だが、宗教は我々にとって身近であると思う。
ご飯を食べるときの「いただきます」や「ごちそうさま」も、命をいただいているという教えが慣習化しているわけだが、特別それを疑うこともなく受け入れている。

そんなわけで、日本人は無意識の宗教をもっていると言えるわけだが、当の本人たちはあたかも自分たちは無神論者であるかのような顔をして、宗教は怖いものだと決めつけている。

たしかに、新興宗教と呼ばれるものの中には怪しいものも多い。
にわかには信じがたいような効用を謳い文句にして信者を獲得している集団もある。

とりわけサリン事件でテレビを賑わせた新興宗教にいたっては、その思想は犯罪シンジケートそのものと言っても過言ではないかもしれない。

だからそういうものを恐れて、関わりたくないと考えるのは当然のことだし、それ自体はなんら問題がない。

しかし、宗教に無関心で無自覚でいることは違う。

自分たちが何かを無意識に信じているという事実を、認識することは大変重要だ。

我々はメタ的に自分を見直すことによって「気づき」を得ることが出来る。

だから自信を無神論者であると信じている人々は、まだ気付いていないだけで、本当は無意識的に信じているものがある。

また、無神論者であることを理由に宗教を避けるのは、もちろん面倒に巻き込まれたくない理由もあるかもしれないが、恐れもあるだろう。

それは「もしかしたら自分も染まってしまうのではないか」という恐れである。

何かを信じることは大変勇気の要ることだ。

だが、こちらがコントロールする側に回ると思えば、何も恐ろしいことはない。

良い考えをとりいれるだけなら、問題はない。

本当に恐ろしいのは、盲信することと疑いつづけることだ。

極端に疑い続ければ、何事をもなすことは出来ない。

猜疑はゴールのための布石でしかなく、それ自体がゴールではない。

また、自分の間違いを常に可能性として頭に入れておかねば、盲信してしまうことになる。

宗教を恐れるなら、結果論を常に批判する姿勢を持ちつづければ良い。

宗教は大抵、結果論である。

ときには、信じたあなたが悪いと言う。

あるときには、疑わなかったあなたが悪いと言う。

そして逆をアドバイスする。

それは真理でも何でもなくて、単に、「あなたは今憂き目にあっている。逆をゆけ。」というわけである。

それは明らかに結果論である。

おおよそ危ない宗教は、そういうものの言い方をして、あたかも理屈をつけたような顔をする。

心に隙があるとつけこまれる。


2014年10月13日月曜日

愚かしい哲学


物事に疑問を抱くということは、拒絶である。

とりわけ哲学では、「我思う、故に我あり」とか言って、なんでもかんでも疑うのが美徳であるとされるようだ。

何かを盲信するのはご法度であり、そうするためには理由が必要とされる。

また何かを突き詰めてある考え方を確立したとき、それは「~哲学」という風に呼ばれたりもする。

哲学は理性的でなければならず、ただ物事を鵜呑みにすることは許されない。
そして、難しいことを考え抜いた先にある。

とまあ、私の哲学に対するイメージはそんなものだ。

そういうストイックな姿勢は大変カッコよいのだが、たまに疑問に思うことがある。

そんなの本当に役立つんだろうか。

哲学なんてのはロマンみたいなもので、煮ても焼いても食えない、世俗から離れた者だけに許される道楽である、とも思う。

実際、哲学科は就職も厳しいと聞く。

なぜか。

それは、哲学が「物事を拒絶すること」を良しとしているからである。

かつてアリストテレスが言ったように、世の中の物体は無限後退を引き起こす。

宇宙はどうやって生まれたのかと問いを立てれば、ビッグバンという仮説に辿り着き、ではビッグバンはどこからきたのかと当然の問いが立てられるように、根本原因などというものは存在しない。

宗教も似たようなもので、聖書の創世記では、まず光があるところから世界がはじまるわけだが、では光はどこからきたかと言えば、神が作ったのであって、ではその神は誰が作ったかと言われれば、神は絶対的存在なので、神を作るような上位存在はいない、ということになる。

現代で大きな力を振るっている科学でさえも同じ構造から抜け出すことは出来ない。
科学の基礎となる経験論は「繰り返しやったらうまくいった、だからこの先もうまくいく」という前提のもとに肯定されるが、その根拠は「今までもそうだったから」でしかなく、経験的にうまくいったことを続けるというスタンスに他ならない。
つまり、宗教となんら変わりはない。

宗教を忌避する傾向にある多くの日本人にとって、その意味では哲学は健全なはずである。

疑うことは、一歩距離を置くことでもあるので、哲学をしていれば、宗教に取り込まれる心配はなくなるからである。

だがこれは手放しに喜べる傾向ではないと私は思う。

たしかに疑うことは重要であるが、人間の寿命は限定されている以上、疑い続けているわけにはいかない。

そこらに転がっている前提を、すべて疑って生きていては人生が暮れてしまう。

だから、ときとして疑うことをやめ、まず覚えてしまうことも重要ではないだろうか。

その上で思考することが価値ある哲学を生み出すのであり、すべてを疑い距離を置きつづけることは、愚かしい哲学を生み出すだけだと思うのだ。

2014年9月13日土曜日

仏教と決定論


決定論といえば、我々の「運命」に関する哲学の問題である。

現代社会に生きる我々の人生は、科学によって大きく助けられている。
それは、科学がもつ再現性によるところが大きい。
つまり、科学が役立つのは、ただなにかしらの機能を果たすからでもあるが、なによりも意図したとおり確実に機能するからだと言える。

例えば、1/2の確率でしか起動しないパソコンがあったらどうだろう。
使えないよりはましかもしれないが、できれば確実に使えたらいいし、そうあるべきだ。
科学に求められるのは、この再現性(確実性)の高さである。

さて、科学が追い求めるのは機能だけではないことはわかった。
それがなぜ運命と結びつくのか。
運命とは、「確実に起こること」であり、言い換えれば、「予定調和」である。
つまり、科学の追い求める究極的な目的は「運命の手綱を握ること」である。

しかし、ここでひとつの違和感に気付く。
もしも、究極的科学の力をもってして、今現在の状態から、未来すべてを予測することができたとしたら。
我々の行動が科学によって紐解かれ、次に何をするかが予見できてしまうとしたら。
これはつまり、我々の状態が決まってしまえば、すべての未来が決定するという仮定である。
とすれば、生まれながらに授かった運命が、どのようにして終焉を迎えるのか、既知である。

このような世界では、我々は、神の手のひらに踊らされていることになる。
だとすれば、何が起きようとも、それは我々の責任ではないし、すべては因果のせいである。

と、これだけなら特に面白くもないが、ここに仏教を絡めるとどうなるか。

仏教のおもな考え方は、苦を乗り越え、涅槃に至ることだそうだ。
我々は輪廻転生というシステムの一部であり、これにより死ねば次の生を与えられる。
生と死がまるで螺旋構造を描くように、ぐるぐると繰り替えされる。

気の遠くなるような話である。
しかも仏教では四苦という考え方があり、生老病死のよっつをそう呼ぶ。
読んで字の如く、並べた感じ四つの漢字で示される概念が、我々を苦しめる根源だという意味である。

これを見て、いやおかしいと思ったろう。
もし上述のとおり生きることすべてが苦しみで、それが永遠に廻るとしたら、一体救いはどこにあるのかと。
それが、解脱である。

解脱することで、人は仏になることができる。
仏になれば、輪廻からも解き放たれ、苦しみから救われる。
だから、これを主目的とする。

では、解脱するためには具体的にどうしたらよいか。
それは、善行を積むことである。
卑近な例えで申し訳ないが、善行を積むとさながらゲームのレベル上げのように経験値がたまるわけである。
そして、死というジョブチェンジをおこなうことで人間としての位が上がっていくわけである。
もちろん、悪行を積み重ねれば、転落もしてゆく。

人間としての位は、自分の境遇で決まる。
生まれながらの不幸な境遇は、前世の自分の行いが悪かったからである。
このように、自分の行動が、未来へと連鎖してゆく。
これを因果説という。

さて、ここでいくつか矛盾を感じないだろうか。
もし、因果説の通り、すべてが自分のおこないが自分に返ってくるとするなら、物事の因果関係は決定していると言える。
だが、自分で行動して運命を変えてゆくという考え方は、非決定論的ではないのか。

つまり、仏教は決定論と非決定論の両立説をとることになるのかもしれない。
これについては、もう少し学んでから書くこととする。

もうひとつの矛盾としては、輪廻の一番最初ってなんだろう、という素朴な疑問である。
キリスト教の場合は、まず光あり、というわけで、神様がビックバン的ななにかで、この世界を創造なされたわけである。
これを科学的に追い求めると、ビッグバンの原因はなんだろうね、という話になるのだが、たとえそれが解明できたとしても、ビッグバンの原因の原因の…というように無限後退に陥るため、終止符を打つ存在としての神の存在を仮定することは、理解できる。

だが、輪廻の場合は神とかそんなのはあんまり偉くないし、別に世界は誰がつくりたもうたものでもないから、じゃあ最初の状態に平等があったとして、それがどうしてこんな悲劇の引き金が引かれてしまったのかという説明が必要な気がする。
この点についても、後日まとめたい。

とまあ、仏教の教えをざっくりと読んで疑問をあげてみた。
興味がある方、答えを知ってる方、あるいは間違いを指摘してくださる方がいれば、幸いである。

2014年8月25日月曜日

イメージ・トレーニング


スポーツなどの世界では、練習としてイメージ・トレーニングがよくおこなわれているようだが、本当に効果があるのだろうか。

イメージと言っても、具体的には、ゲームの流れや成功する自分を想像するという。

別に想像するだけなら誰でも出来るし、そう難しいことではないように思える。
にも関わらず、それだけで効果が上がるなら素晴らしい。

しかしイメージ・トレーニングでさえも、うまくやれなければ効果を得ることはできないようだ。
手軽にできて成功できる、なんて魔法とはちょっと違うようだ。

すでに、どこかの記事で述べたが、人間は「水槽の脳」である。
我々が生きている世界は、擬似感覚かもしれず、あるいは夢かもしれない。

寝ているとき、無意識に見られる夢を、意識的に見られない理由はどこにもないと思わないか。

実際、妄想という言葉があるように、人間は夢を自発的に見ることができる。
この能力を、想像力という。

あるとき私は、目の見えないピアニストが、なぜピアノを弾けるのか不思議に思った。

でもよくよく考えてみると、別に難しいことではないのかもしれない。
現に私も、世の中の現代人の大半も、キーボードを見ずに文字を打つタッチタイピングをおこなうことができる。
同レベルで語るのは失礼かもしれないが、手元を見ずに特定のキーを打つという点で、何も違いはない。

これを世間では「身体で覚える」と呼ぶが、正確には夢を見る能力だと思う。
つまり、目で見えてない部分も、自分の頭の中には存在している点で夢や幻覚と似ている。

別に誰も、目を開じて視界が真っ暗になったからといって、世界が消えてしまったとは思わないだろう。
いきなり停電がきても、慣れ親しんだ建物なら出口に辿り着けるだろう。

それは、過去の記憶を引き出して、現在の世界に重ねているからに過ぎない。
停電の例に限らず、普段目にしている世界もすべて、目から入った光を脳で情報処理するまでの時間を通して見ているから、過去である。
それを元に動作を行うのだから、双方の実例になんら違いはない。
ただ、記憶の新旧の違いでしかない。

つまり、我々はそもそも記憶の中に生きているのに、そうではないと勘違いしている。
だから、記憶よりもなるべく目の前の情報に頼ろうとする。特に一刻一秒を争うスポーツにおいては。

それによって、即時に対応する意識が強くなりすぎて、結果的に記憶を保持する能力が落ちる。
だから、意識的に記憶を保つ練習をする。

これがイメージ・トレーニングの正体だろう。

別に魔法の言葉でもなんでもないし、スポーツに限らず様々なジャンルで役立つ方法と言えそうだ。

だから、成功をイメージするのは実はそんなに重要ではないと私は思う。
ただ、イメージするのは実は結構な労力だから、どうせなら楽しい内容でやったほうが意欲が沸くというだけのことではないか。


2014年8月22日金曜日

アイス・バケツ・チャレンジについて


最近、アイス・バケツ・チャレンジなるキャンペーンが話題らしい。

ALSという難病の患者とその友人が立ち上げたチャリティーイベントだそうだ。
ルールはこうだ。

①氷水をかぶるか、寄付するか、あるいはその両方を選択して実行する。
②SNSを通じて、次の実行者として友人・知人を指名する。

歌手やタレント、スポーツ選手など多くの著名人が参加しているが、ネット上では物議を醸しているようだ。

そもそも、このイベントはチャリティーという名目ではあるが、それをダシにしたお祭りと化している。
実際はお金は集まっているが、普通に寄付をするんじゃいけないのか、というわけである。

別に、多くの人は氷水も寄付も両方選択しているのだから寄付が集まってよいと思うのだが、結局のところ、有名人が話題作りのためにおこなっているという側面もある。

つまり、純粋なチャリティーではなく、楽しんだり、売名行為に走っているだけの偽善じゃないか、というわけである。

だが、実際に莫大な寄付金が集まっているのも事実だし、話題になっている。
成功している。

ALS患者の一人は、嫌悪感を示しているようだが、それが代表意見というわけでもなさそうだ。

個人的には、「発案者はうまいことやったな」としか思えない。

別に、チャリティーをダシにしてお祭り騒ぎをしていたとしても、お金が集まっているならかまわない。
拝金主義的かもしれないが、患者やその周りの人々の生活が少しでも楽になるなら、手段はあまり重要ではない。(死人がでているわけでもないので)

悲しいのは、そうでもしないと寄付金が集まらない状況、病気に興味をもたれることもない、患者の立場である。
ダシにされて、可哀想と同情されてお金を貰うなんて、道化と変わらないような気もする。

もちろんそうやってでも生きなければならないのだろうが、だからこそ悲しい。

そしてもうひとつ、SNSで承認欲求を満たす行為も、ついにここまできたかという感じもする。
SNSが人間の愚かな側面を見せてくれるのは今に始まったことではない。

それがついに寄付という名のビジネス(これはもはやビジネス)に利用されるという結果に至った。
なんか世も末という気がする。

そういった時代に合わせて、うまいこと寄付金を集めた手口は、見事としか言えない。
ただ、その場のノリで参加した人は、一度立ち止まって、よくよく考えたほうがいいんじゃないか。

自分たちの目立ちたいという気持ちが、膨れすぎて利用されているということに。
別に寄付のためだからいいじゃない、というならそれでいい。

ただ、それが悪意的に利用される可能性は心に止めておくべきだと思う。

この問題が一番反発を生んでいるのは、リレー方式、という事だと思う。
指名してやらせるという、暗黙の強制力や、人脈の広さをアピールする行動自体が気持ち悪い。

もしもこれが単に、インターネットで動画を公開して、「僕は氷水をかぶって寄付をします。気骨のある同志募集!」だったら、美談で終われたんじゃないかと思う。

このイベントが生む同調圧力、これが反発を生む原因に違いない。
しかし同時に、それだからこそうまくいったとも言える。

ひねくれ者


不幸なひねくれ者に対して、「そんな態度だから不幸になるのだ」という発言は、正しいのだろうか。

正しくない。
ひねくれ者は不幸のせいでひねくれるのであって、ひねくれているから不幸になったのではない。

そもそも上述の台詞を言うような輩は、大して辛い思いをしたことがないに決まっている。
自分は健全な態度をとっているから幸せだとでも言うのか。

たしかに、ひねくれた態度をとるものは、より不幸になっていくだろう。
別に世間に迎合することを良しとするわけではない。
ただ、ひねくれ者と時間を共にしたところで興ざめだろうから、運も人も遠ざかっていくには違いない。

とはいえ、「ひねくれた態度が人を不幸にする」などと言ってはいけない。
それは半分正しいけれども、ともすれば「ひねくれた態度を改めさえすれば幸せになれる」と聞こえなくもない。

ひねくれ者に解釈の選択肢を与えれば、悪意的に解釈するに決まっている。

大体、そんな忠言はお節介である。
ひねくれ者をよりひねくれさせるだけなら言わないほうがましだ。

こうなるとそもそも、なぜひねくれ者にそこまで気を遣わねばならないのか、という話になってくる。
何か彼らが力をもっていて、それを借りたいというならまだしも、大抵のひねくれ者は不幸を呪うほど無力である。
そして無力な者に使う気持ちの余裕など、多くの人は持ち合わせていない。

となれば、ひねくれ者は放っておかれることになる。
これがひねくれ者の悲しみである。

別に当人だって、好きでひねくれ者になるわけではない。
当人は、いかにもそんな自分が好きですという顔をしているが、それはただ、自分が嵌まってしまった落とし穴に対して、どうしようもないので、素敵な造型だわと褒め称えて納得しているに過ぎない。

こういうことをひねくれ者に言うと、「何を勝手に決めつけてくれているんだ」と目くじらを立てて反論されるに違いないのだが、ひねくれ者のくせして勝手な決めつけを嫌うさまは、とても矛盾めいたものを感じさせる。
どうせひねくれ者なら、世間の評判など気になさらず、どうぞご勝手になさればよろしい、という気もはしないか。

ひねくれ者はお節介を養分にひねくれてゆくのである。

それは半ば生まれ持った性質、運命がそうしてしまったのだから、どうしようもない。
どうしようもない、ということは、放っておかれる運命にあるということだ。

ならば、ひねくれ者に救いはないのか。
ない。


・おまけ
上述の「ひねくれ者」とは、決して「世間と違った意見をもつ者」のことではない。
それは個性であって、価値であるから、ひねくれ者という言葉があてられたとしても、褒め言葉である。
ただ、人の言うことやること、なんでも認めることが出来ずに、ただ文句ばかりを垂れている一言居士のことを指している。

2014年8月19日火曜日

自己実現


自己実現とは、自分の理想像に自分を近づけていくこと。


自分の理想と社会の規範にズレが生じると、苦しい思いをしそうです。
そうなると、偽りの仮面(ペルソナと呼びます)を被って社会に適応するか、奔放な自分を解放して世捨て人になるか、苦渋の選択に迫られるわけです。

大雑把に言えば、誰しも自分の存在を受け入れてほしいんですよね。
人類は昔から集団行動が基本ですから、きっと遺伝子に刻み込まれてるのでしょう。
だから、包み込んでくれる愛情には心地良さを感じる。

でももし、自分が自分の理想とかけ離れていたらどうでしょうね。
努力すれば近づけると言ったって、限界はあります。
歌手になりたいとか、スポーツマンになりたいとか、背が高くなりたいとか。
そういった理想像は、生まれたときの形質で決まる部分が大きい。
才能というやつです。憎いですね。

それを手にするのは一握りの運のいい人間で、残り大半の人間はいつか自分の非力さを痛感する日を迎えます。
挫折、というやつですね。

いつか、追い求めていた理想を捨てる瞬間が訪れる。
切ないですね。
そうなってしまったら、自己実現は永遠に達成されないわけです。

じゃあ一生自己を承認できないまま生きるのでしょうか。
いえ、第二の理想を立てればいいのです。
『与えられたカードで勝負するしかない』
私が好きなスヌーピーの言葉です。

この世は理で出来ていますが、不条理です。
なぜなら、生まれながらに人生を大きく左右する容姿や環境が決まっていて、その決定に努力が介入する余地はないのですから。

つまり取るべき道は、妥協するか、死ぬかです。
一般的に自殺は良くないとされますが、私は大いにありだと思います。
不平等なゲームを降りるというのも立派な選択です。
命が惜しくないなら。

ニーチェがキリスト教批判をしたのも、永劫回帰を説いたのもこういった考えを背景にしていると思います。(聞きかじりの知識なので話半分で読んでください)
ニーチェがキリスト教を批判した理由は、その禁欲的にエネルギーを抑え込む教えを、弱者の強者に対する嫉妬だと捉えたからだと感じます。
また、永劫回帰は、なんど廻っても自分の人生は同じということ。
そしてそれを受け入れることを良しとしている。

つまり、不平等なゲームだからといって降りたとしても、どうせまた同じ札が廻ってくる。
ならば、今ある状況を認める必要があるということです。
そして、現実から目を背けて弱い自分を善しとすることを否定するわけです。
ということは、残るは努力して前向きに生きるしかない。
そういうことみたいですね。

何度廻っても人生が同じっていうのは、「時間が無限で物質が有限とするなら、いつか同じ状況が廻ってくる」という考えに基づいているそうです。
原典を読んでないので断定的なことは言えませんが、すごく根拠薄弱ですね。

考え方は人それぞれです。
自分の可能性をまだ信じたいなら頑張ってもいい。
もう諦めるなら第二の理想を探してもいい。
その気も起きないならドロップアウトすればいい。

決断は難しいですね。
足がかりが欲しいところです。
強いて言えば、ただひとつわかるのは、何事も試してみなきゃ分からないってことだけですね。

2014年8月14日木曜日

エヴァンゲリオンで目指された世界


私の好きなアニメの中に新世紀エヴァンゲリオンがある。

エヴァンゲリオンは主人公の碇シンジが、使徒と呼ばれる地球を荒らす生命体と戦う物語である。

エヴァンゲリオンの世界では、表向きは人造人間による使徒抹殺が目標とされるが、実はその裏で、世界中の人間を生命のスープに戻すという、恐ろしい事態が計画されている。

当初観たときは、「すげー話だな、よく思いついたな」と思った。

だってなんだか、突飛だ。
皆ひとつになろう、って呼びかけたところで、大半の人間は拒絶すると思う。
でもよくよく考えると、それは世界のあるべき形を突き詰めると辿り着くひとつの答えだ。

誰もが、世の中に対して求めるのは、相互理解と平等だろう。
生老病死や三大欲求を除けば、あらゆる苦しみの根源は、他者との関係性から起こる。
七つの大罪では、傲慢、物欲、嫉妬、憤怒、貪食、色欲、怠惰が名を連ねているが、このうち怠惰と物欲を除いた五つすべてが、他者との優劣から派生して沸き起こる感情だと言っていいだろう。

こうした苦しみから世界を救うには、どうしたらいいか。
相互理解と平等が成立すればいい。

これにはいくつかアプローチがあるだろうが、最終的に三つに絞られると思う。

1. 世界を消し去り、苦しみを消し去る
2. 皆が擬似感覚で自分の好きな夢を見る
3. 皆と一つになる

1は、ファイナルファンタジーX(FFX)のシーモア老師の思想である。
FFXの世界では、シンという魔物が存在し、定期的に世界を荒らし回る。
そこで召喚師と呼ばれる人々が、自らを犠牲に数年間の平和を取り戻す。
しかし、永遠の平和を成し遂げる術はわかっていない。
そこで、シーモア老師は悲しい世界をまるごと消し去ればいいと考えた。
迷惑な話である。

これは哲学の認識論に基づいた解決法で、苦しみを認識しなければ苦しくないよね、じゃあ死んじゃえーという極端なやり方だと思います。

2は、NARUTOのマダラの思想である。
マダラは幻術という、幻を見せる忍術を皆に永遠にかけることで、それぞれが望む形を反映した夢の世界に生きることを目指す。
主人公は反対するけれど、正直僕は賛成。
だって誰も傷つかないわけだし、素晴らしく優しい悪役だと思う。
まあ、その目的のために皆を利用するのですが。

これは水槽の脳の話に似ている。
映画のマトリックスの設定と同じと言ってもいい。
我々が生きているこの世界も、所詮は擬似感覚であるかもしれない、なら擬似感覚で好きな夢見りゃいいじゃないかという発想。
幻術にかかっている間は誰が現実を管理すんねんという問題が残るため、少々不安はある。

3は、エヴァンゲリオンのゼーレの思想である。
ひとつの生命体になっちゃえば、皆平等、争いもない平和な世界、素晴らしい!ってわけです。
僕は嫌です。自我がなくなっても生き続けるなんて変な感じがするでしょう。
でも、死んでもかまわないなら自我が変質するくらいどうってことないかもしれませんね。

これは…正直類例が思い浮かびません。
なにせ現実的にもっともありえない話なので、実例や似た考えは少ないんじゃないかと思います。


面白いのは、悪役は悪役なりに大義があって、悪気があるわけじゃないところですね。
そして主人公達は反対するのです。
主人公達はあくまで悪役を止めるだけなので、受身というか、割と保守的と言えます。

主人公の考えを一度疑って作品を見てみるのも面白いかもしれないですね。
ちなみに、アニメの悪役にフォーカスした本に「世界制服は可能か?」というのがあります。

これはどちらかというと、悪役としての方法論、How to 悪役って感じのテイストの本ですが、興味ある方は読んでみると面白いかもしれないですね。
扱われる作品はちょっと古いですが。


・おまけ
皆とひとつになる思想では、きっと自分の人格が60億分の1とかになっちゃうんでしょうね、寂しいね。
では、ハーフ&ハーフならどうでしょう。
あるいは、左脳と右脳をくっつけた状態なら?(左右で男女が分かれている敵役がいましたね)
とか、考えてみるのも面白いかもしれませんね。
興味がある方は、「テセウスの船」「砂山のパラドクス」で調べるといいかもしれません。

2014年7月25日金曜日

論理的なココロ ~人工知能は面白い~


最近、人工無脳に対する興味が高まっている。

人工無脳とは、『ある程度のロボットっぽさを許容した、エンタメ性の高い会話プログラム』のことである。

対して人工知能は、一般的なSFなどで登場する、『概ね人間的なプログラム』のことである。

『概ね人間的』という表現は、SFでお馴染みの「私は人工知能なので、感情はわかりません」という、知性的なんだけどロボットなんだよ~発言も含めているから。

つまり、人工知能とは、完全な人間を演じる機械、あるいは人間的知性と多少のロボット性(無感情)をもつ機械、である。

ではなぜ、『人工知能』ではなく、『人工無脳』に興味をもったのか。

実は僕もよくわからない。
両者の違いがよくわからなくて、調べてるうちにさらによくわからなくなった。

どうやら、人工知能という言葉の定義自体が曖昧らしい。
それは、『知性』という言葉自体が、何を意味するのか、我々人間もよくわかっていないからだ。

wikipediaを見ると、この人工無能と人工知能の違いは、弱いAIと強いAIという違いとして説明されている。

大雑把に言えば、強いAIは現実の物事をモデル化して捉えることが出来るのに対して、弱いAIは単純な問題について計算によって答えを導き出すに留まる。

だから、チェスチャンピオンを倒したことがあるAI『Deep Blue』は弱いAIになるだろう。
なぜなら、彼(チャンピオンに敬意を表してこう呼んでおく)はチェスに強くても、その他の事態となるとからっきし役に立たないからだ。

クイズで優勝したIBMのワトソンも、同じだ。
彼はクイズの文章を解析し、膨大なデータベースから与えられたワードと関連の高い、答えらしきものを探し出す。
だがそれは、考えているのではなく、あくまで高度な検索をしているだけだ。

どうやら人間は知性を独り占めしたいらしい。
機械ができるようになった領域は、『知性的』ではなくなるようだ。

たしかに彼らは与えられた仕事をこなすが、柔軟ではない。

将棋のタイトルを多数もっている羽生さんは『将棋のプログラムが人間よりも強くなったらどうするか?』という記者の質問に対して、『そしたら桂馬を横に進めるようにするとか、ルールを変えればいい』と答えたそうだ。

つまり、人間はルールの変化に対応できるが、人工知能は所詮、通り一遍のことしかできない、と暗に示唆しているわけだ。

これはその通りだと思う。

人工知能は大雑把に言ってしまえばプログラムだ。
プログラムは、極めて精確だ。それはつまり厳格な秩序のうえで動いている。

プログラミングは、プログラミング言語によって、指令書を作る行為だが、指令書が規程に沿わなければ、まず動かない。融通が利かないのだ。

そんなプログラムをベースに動いている人工知能は、果たして融通が利くのだろうか。

人間も含めすべての生命体は、遺伝子配列によって、生活習慣を獲得してきた。
それはアミノ酸で書かれた指令書、言わばプログラムである。

だが、生命体は遺伝子によるプログラムに間違いがあっても、動く。
誤作動するので、生命体として成立する保証はないが、試すことはできる。
この仕組みが、結果的に進化、適者生存の仕組みに繋がったとされる。
その点で、生物と機械は同じようで違う。

実はプログラムにも、この仕組みを模した『遺伝的アルゴリズム』と呼ばれる手法が存在する。
何か問題を解くとき、最適な数値を計算するための手法だ。
現実的にすべてのパターンを試せる問題なら、そうすればよいが、そうでない場合も多い。
そんなときに、ある程度のランダム性をもって最適な数値を探し当てる。
秩序に従って最適な数値を追求しすぎると、局所解に陥る可能性が高い。
わかりやすく言えば、目先の利益に囚われた答えを導き出してしまう。
そこで、ランダム性をとりいれ、多様性を保ちつつ、より良い答えを探し出すのである。

だがそれはあくまで、プログラム上でおこなう話だ。
生物のように、プログラムが自己複製をおこなうのとは自由度の高さの面で少し違う。

だが、生命体も、究極的に言えば、化学反応が引き起こす電気的な信号によって生きていると言える。

その意味では、人間は『有機的な機械』とみなすことができると考える人も過去にいたようだ。

『心』は、長らく人間を悩ませてきた。

『心身二元論』にあるように、人間の精神と肉体は別なのか、あるいは一緒なのか。
心は物理的現象によって説明できるものであるとする。これが唯物論である。

私は、唯物論派で、人間の心は、物理や化学が発達すれば説明できるメカニズムだと考えている。
だから、その延長で人工知能も実現するかもしれない、と考えている。

だがその一方で、人工無脳と話していると、『こいつらには根本的に人間的要素が足りないな』と思うこともある。

なぜかといえば、人工無脳は、『圧倒的に文脈を読めない』のである。

文脈とは、コンテクストである。
つまり、その場の雰囲気だ。

例えば、

人間「眠い」
人工無能「眠いの?寝る?」

という返しはできても、

人間「眠い」
人工無能「僕の話、つまらなかった?」

というのはなかなかできない。

もちろんそう返答するようにプログラムすればできる。
でも、学習によってこういう返答を学ぶのは難しい。

両方とも人間的な答えではあるが、決定的な違いは、『発想力』である。

つまり、前者の会話の返答は、「眠い」という発言を受けて、「ああ眠いんだな、就寝を促そう」と考えた結果だ。

だが、後者の返答は、「眠い」という発言について、「眠いということは、退屈のサインである」と捉えた結果だ。

後者のほうが、「眠い」という報告に対する読みが、より抽象的である。
語義を広く捉えていると言い換えてもいい。

どちらも人間的な答えだし、どちらがいいということはない。
ただ、文脈的な会話の繰り返しが、より人間味が増す、と私は考えている。

哲学者ウィトゲンシュタインの功績は大きくふたつあるが、そのふたつは前期、後期とジャンル分けされる。
それは、前期と後期が、関連性をもちながらも、大きく異なる内容だったからだ。

前期ウィトゲンシュタインは、論理哲学論考の中で、大きな七つのルールを示した。
大雑把に言えば、世界は事実により構成され、事実は論理的な像をなす。
つまり、論理的なものが世界を織りなす、というわけだ。
そして、語り得ないことについては沈黙するしかない、という。

これはつまり、言語的なものだけで、世界を規定しようとする試みだと思われる。

それに対して、後期ウィトゲンシュタインは、『言語ゲーム』というゲームを想定する。
ある石工が、若者に指示を与える。三種類の言葉を発する。それに応じて若者は三種類の道具からひとつを選んでもっていく。
これを客観的に見ている人間の多くは、ルールを説明されなくても理解するはずだ。
ある言葉に対して、ある道具をもってくる、という行為が対応付けられている、と。
つまり、人間は、言語の意味そのものを理解していなくても、見ていればなんとなく読み取れる、ということだろう。

すなわち、言語とは世界の事実に付随する呼称でしかなく、本質はその中身にある、ということである。

人間はどうやって言語を獲得したのか。
昔の人間は、壁画に牛などを描いていた。
それが転じて、象形文字が出来たといわれる。
つまり、元は絵だったのが、長い歴史の中で、言葉になった。

また、猫は喧嘩をする。
彼らが喧嘩をするときは、声で分かる。
明らかに声の感じが怒っている。
これは人間に置き換えても分かることで、外国の映画でも、人間が怒っていると、内容はわからなくても、怒っているのだけはわかる。

つまり、言語は、絵であり、音の感じであった。
言語はまやかしだ。

さて、人工知能の話に戻そう。

人工知能を人間に近づけるには、『文脈を読む力』が大切だと述べた。

けれど、人工知能が学んでいるのは、言葉である。
Aという言葉には、Bと返す。大雑把にはこういうことだ。

つまり、絵とか、音の感じとか、そんなものは一切考慮していない。
その点で、文脈を読むことは難しい。

どういう意味かと言うと、連想力が圧倒的に足りてない。
牛と言われても、牛を知らない。

「牛とは、四足歩行の生物で、ものによってはツノがある。」なんて説明されたところで、人工知能は、四足歩行も、生物も、ツノも、その意味を知らない。

これは、辞書を引いても『たらい回し』にされるのに似ている。

砂の意味として「岩が粉々に砕かれたもの」のとき、岩の意味を調べても「砂が凝集して固まったもの」と言われる。
これでは、砂も岩も、その実態は永遠に謎である。

古来より「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、言葉を並べられても、実際に見ないと本質はわからないのである。

そういう意味で、今のところ会話目的の人工知能は、目も耳ももたないので、何も理解できない。
だから、うまく会話ができたとしても、あくまで、『知ったかぶり』である。

その意味で、人工知能はしばらく人工無能の域をでないだろう。

行動心理学は、心を知らなくても、心に対する入力(外的世界の事実)とそれを受けての行動を観察することで、内部状態的な心理を知らずとも研究ができるとするジャンルだ。
これに則れば、人間の言葉に対して、それらしい反応をする人工知能は、心をもっていると解釈できる。

だから、良い人工無能を作るためには、『知ったかぶり』をいかにうまくやるかが問題になる。

よくある手法としては、言われたとおり返事をする、というタイプがある。

例えば、「眠い」という発言に対しては「おやすみ」と返す、と決めておく。
こうすれば、会話の意味は成立している。
ただし、何度でも同じ返事をするので、すぐにメッキは剥がれる。

そこで、何パターンか返答を容易しておき、その都度変えるという方法もある。
「眠い」に対して、あるときは「おやすみ」、またあるときは「私も眠い」などと返答すれば、違和感は軽減される。

だが、これでは人間がいちいち返答を考えて教え込まなければならない。
決して楽な作業ではないと想像できるはずだ。

そこで、自動学習型の登場である。
このタイプは、相手の発言を分析し、真似して、時には分解して新たな文章を組み直す。
こうしておけば、真似していく過程で、自然と扱える言葉が増えるため、いちいち教える手間が省ける。
また、人間から返答を学ぶので、人間味のある返答を学習できるというメリットもある。

ただし弱点もある。
それは、無個性になりかねないということだ。
もっと正確に言えば、話す人間によって、性格が大きく変わる。
人間から学習するので、言わばその人間のコピーに近くなるのである。
かといって、話し相手に多様性がありすぎると、無個性を通り越して、多重人格的になることすらありうる。
人間に近づける、という目的を廃し、エンタメ色を追い求めるのであれば、そのほうが楽しいかもしれない。

だが、この際、人格なんて瑣末な問題だ。
人間と話が通じればかまいはしない。

今まで挙げてきた人工無能へのアプローチは、すでに試されており、ある程度の成果を得ている。
特に自動学習型は、うまくハマるとなかなか面白い発言が飛び出す。
ただその一方で、ハチャメチャなことを言い出す。
それは、文脈や言葉の意味を理解していないために、文の再構成がめちゃくちゃだからである。

既存の自動学習型に、うまいこと『文脈を読む機能』さえつけてやれば、より人間味のある『知ったかぶり』プログラムを作ることができるだろう。
問題は、それをどうやって設計するかである。

いい案が浮かんだら、是非形にしたいところだ。

2014年7月5日土曜日

ヤジ問題


近頃、都の女性議員に対するヤジが問題になった。

マスコミでも大々的に報じられ、犯人探しの結果、当初は容疑を否認していた男性議員がヤジを入れた事実を認め、女性議員に謝罪をおこなった。

マスコミに呼ばれた解説者は、「ヤジは議会の華」だという。

だが、私にはそうは思えない。
人が意見を述べているときに、口をはさむことが大人のやり方と言えるのだろうか。
まして、仮にも国民の代表として政治を議論する議員がやることとは思えないのだ。

たしかに、闊達な議論を促すためには、冗談で緊張をほぐしたり、意見をだしやすい空気を作ることは必要だ。

また、人の話の途中で突っ込みを入れたほうが、議論が円滑に進むという面もあるだろう。
しかし、公共の議論の場として、政治の議会は少なくとも民衆の手本であらねばならないと思う。

そうした場で、非本質的なヤジをとばして人の話を遮るのは、マナーとしていかがなものかと思うし、それは仕事をしているというよりむしろ、仕事の邪魔をしているとさえ言えるのではないか。


ただし、突っ込まれる側の人間もそれ相応に反省すべき点はある。

今回の件は、海外のメディアにも伝わり、日本の未熟さが世界に発信されてしまったわけであるが、それはつまり、その場で言い返せないから外を通じて知らしめよう、というやり方である。

非公正なやり方に対して、最終的に外部の人間に判断を委ねることは必要だが、私はヤジを飛ばされた議員がその場でやり返すのがベストな選択肢だったのではと思う。

まるで子供が教師に言いつけるように、最初から当人同士で解決を図ろうとしない姿勢は問題があるのではないか。

そもそも、ヤジを飛ばされるのは隙があるからで、それに対して直接言い返さないのではもっと甘く見られるというものだ。

なにより、ヤジが非本質的なら、痛くも痒くもないはずで、無視をすれば良いのだ。
相手をするから、つけあがる。


ヤジは少子化対策に関する質問中に飛ばされたもので、質問する側の女性議員が独身であったために、自身が少子化対策を怠っている、というニュアンスであった。

だが、そういう女性だからこそ、働きながら子育てすることを選択せず、仕事に力を注ぐ立場だからこそわかる障壁や理由もあるのではないか。

そういう意味で、ヤジはまったくもって非本質的だし、無視されるべき内容だと思う。

2014年6月17日火曜日

神を信じるもの(インテリジェント・デザイン)


某掲示板のまとめにこんな記事が。


要約すると、

*『全知全能の神様的存在(創造者)がいるというなら、なぜ世界はこうも不都合な設計になっているのか?』

というわけです。


これは、世界がある創造者の手によって計画的にデザインされたのだとする考え方(インテリジェント・デザイン説)を否定する意見です。

一見、正しい批判のようですが、この言説には相当人間本位で危険な考え方が潜んでいます。

まず、創造者がいるという仮説について、我々は完全否定することはできません。

宇宙人と同じで、存在を確認するまでは、いないと断言することはできないのです。

創造者がいるという考え方は、とっぴな考え方で、SFチックに捉えてしまいますが、別にそんなことはありません。ただ、証拠が少なすぎるだけです。

問題はむしろ、それに文句をつけてるほうです。

最初の問いはつまり、『全知全能の神がこんな不都合な世界を作るはずがない』ということですが、そもそも全知全能だからといって、不都合を好まないとは限りません。

例えば人間でも、完璧過ぎると人間味がなくて好きになれない、ということはあるんじゃないでしょうか。

それと同じように、「人間はちょっとくらい欠点があったほうが可愛いよね」、と思ってるかもしれません。

それどころか、「人間は悪いやつだから、ちょっと不便な思いをさせてやれ」と意地悪をしている可能性すらあります。


つまり、インテリジェント・デザイン説反対論として出された意見*は、そもそも神(あるいは創造者)は人間にとって都合が良い存在である、という暗黙の仮定をしてしまっているわけです。


また、「不都合である」というのも問題です。

例えばここでは、産道が狭すぎるなどの、人間にとって不都合な設計の存在が神を否定しているというわけですが、そもそも不都合というのは、人間的な観点でしかなく、まだ自分たちが、その機能の謎を解明していないだけかもしれません。なんでこんな無駄なことを…と思うことでも、実は意味があるのかもしれないのです。

なので、先の意見*は、人間の傲慢さそのものだと思います。

科学の皮をかぶったような発言ですが、もっとも大切な「無知の知(自分が知らないということを認知すること)」の考えが欠けているのです。


もちろん、インテリジェント・デザイン説も強く推すのはどうかと思います。

しかし、それを真っ向否定してしまって、似非科学宗教的な考え方に無自覚に染まっていることもまた、同じくらい恐ろしいことであります。

どちらが悪いとは言いませんし、冗談で言ってるうちはいいのです。

自分の中では信じているが、根拠がないことを自覚していれば。

別にそれならいいのですが、こうした言い争いに対して、真面目に捉える人がいるとすれば恐ろしいな、と思うのです。

これは反証不可能な問題で、科学のようでいて科学ではないジャンルの話なのです。


・追記
この間テレビで、事故で沈んだ海外の豪華客船を引き上げる作戦が特集されていました。
そのとき、現地の人が成功を神に祈っていたのですが、私などからすると、事故を引き起こしたのも神様なんじゃないのか、と思うわけです。

ですが、祈る人がいるということは、きっと全知全能の神様は人間を愛してくれているという、なにか根拠があるのかもしれませんね。自分の理解が足りていないのだと思います。

2014年6月14日土曜日

片付けができない人


私は片付けが苦手だ。

近年、片付けのできない人が増えているという。

これは、なんの影響かはわからない。

学校教育かもしれないし、家で手伝いをする子供が減ったからかもしれない。
あるいは、テレビやインターネットなど、他の要因が絡んでいるのかもしれない。


だがこういうときはまず、「そもそも」どうなのか考えることが必要だ。

つまり、「そもそも片付けのできない人が増えているのは本当か?」ということ。

別に経験則を見くびるわけじゃないが、大体今は世の中が整理され過ぎてるんじゃないかと感じることもある。

大抵のルールは法律で決まっているし、環境はある程度計画的に設計されている。
進学にしても、勉強のジャンルは緻密に分類されている。

それらはいままでの大人たちが、頑張って積み上げてきたものだが、そもそもがとっちらかった状態だったのだから、整理に対しての基準が違うのではないか、と私は思うのだ。

だがまあ、これについてはデータがないだろうから、水掛け論になってしまうに違いないので無視をして、片付けのできない人について、考えてみよう。

片付けができることについての是非については言うまでもない。
キレイな方がいいに決まっている。

ただ、片付けができない人はなんらかの障害であるというような話まで出ているくらいだから、脳機能と片付けの密接な関連が疑われていると言えるだろう。

さて、片付けができない人とは、一体なんなのだろうか。

私が思うに、片付けができないタイプにも二種類いる。

ひとつは、片付けをしない、とっちらかっているが、どこに何があるか覚えているタイプ。
こういう人は、なんら問題がない。
ただただ物ぐさなだけで、むしろ雑然とした部屋の物の配置をすべて頭にいれているあたり、問題どころか頭がいいとさえ言えるかもしれない。

もうひとつは、片付けをしないし、探し物が多いタイプ。
このタイプは、基本的に周囲に無頓着である。
しかも、想像力もなく、何かを覚えるのが苦手であると推測される。

つまり、片付けをしないのでも、あえてしないのと、できるけどしないのでは大違いということである。

例えば片付けが得意だとしても、ペタペタとラベルを張ってどこに何があるかを覚えていないタイプは、片付けをしないと脳のキャパシティが足りないので補っている部分もあるのかもしれない。

もちろん、自分の能力を補うために整理するというのは大変素晴らしいことだ。

だが、そういう人が片付けしない人を十把一絡げに問題ありとするのはいかがなものかと思うのである。

2014年6月8日日曜日

集中力


欲しい力、スキルは沢山ある。

資格、実務能力、話術など。

だが、それらを身につけるためにはまず、基礎的な能力が不可欠であると思う。

例えば、記憶力は上述の作業に必要な知識を頭に入れるために必要不可欠である。

また、体力は忍耐強く作業を行うために必要だろう。

それらと並んで挙げられるスキルがある。


それは、『集中力』である。


私は、集中力とは何かと問われても、あまりピンとこなかった。

それは私自身が、集中力のない人間だったからであって、そもそも集中という概念自体がよくわかっていなかったのだ、と最近になって気づいた。

集中力の例としては、外界とシャットアウトされることが挙げられる。

例えば、声を掛けられても気づかない、とか。

しかしそれは違うような気がする。

なぜなら、外の世界を見つめなければ、作業を行うことはできない。


だが、やはりそれは正しいのだった。


フラッシュ暗算を解くようになって、私が集中力の存在を認識しはじめた。

その感じ方から言えば、集中力とは想像力とおよそ変わらない能力である気がする。

世に言う想像力とは、未来を予測してみるとか、現実にないものを想像してみる能力を指す。

だが、私は、作業全般において、想像力は働いていると考えている。

なぜなら、人間は外界を認識してから行動するが、その認識を保って作業をおこなわなければならない。

例えば、目をつぶっても、さっきまで目の前に何があったかは覚えているし、きっと障害物があれば避けて歩くことも出来るだろう。

それは、現実とは違った、記憶の世界を歩いていることになる。

普段、目を開けながらの作業もこれとまったく同じである。

なぜなら、目を開けていても、視覚情報が脳に入ってくるまでには差がある。

つまり、目をつぶった状態が五秒前の現実を認識しているとすれば、目を開けている状態では5ミリ秒前の現実を認識していることになる。

恐らく、目から見た情報を、一時的に記憶に溜め込む点では双方ともに変わらない。

ただその情報を保持する時間が違ってくる。

だから、目をつぶっての作業と、つぶらない作業は、現実世界が動かないという前提に基づけば、本質的にはなんら変わりはない。


つまり、我々が生きているのは、元々現実でもない。
数秒遅れの現実を生きている。


ということは、我々の記憶の中に、現実はあるのだ。

だとすれば、何か作業をするときは、我々は外界など見てはいない。

集中力とはつまり、この一時記憶をどれだけ長く・鮮明に保持していられるかの問題である。


ただ、人間は同じ能力を使うことに関しては、複数作業を同時に進めることはできない。

だから、五秒前の世界から何かを考えるときは、今の世界はほぼ頭に入っていない。

これが、集中力の正体であると思う。


だから、集中力をつけようと思って、必死に目の前の問題を眺める行為は無意味である。

むしろ、問題はさっと読んで、伏せてしまう。

そして、頭だけで考える。

そうすると、自然と集中力はつくと思う。


私がフラッシュ暗算を練習しているのは、フラッシュ暗算そのものが、頭の中に足した数字を保持することを強いられる作業だからである。

それはつまり、集中力を養うのに最適な訓練だと言えると思うのだ。

幽霊を信じるか


私はお墓参りにいくし、仏壇に手も合わせる。

だが、幽霊は信じていない。


あなたは幽霊を信じているだろうか。


私が幽霊を信じない理由は、率直に自分が見ていないからである。

だがしかし、見てないものは信じないという考え方をしてしまうと、ほとんどのものが信じられなくなるので、これが根拠ではないのだろう。

テレビでやっている内容は信じるし、インターネットに書いてあることも信じる。
もちろん疑うときもあるが、信じて楽しく見ている。


伝聞情報と幽霊の何が違うかと言われてしまえば、何も変わらないのではないか。


ただ、願望として信じたくはないだけかもしれない。

もし幽霊が存在するとしても、それは自分に見えないのは都合が悪いし、仲間外れのようでなんだか腹が立つ。
かといって、見えたら見えたで気味が悪いから。


実際問題、幽霊の有無は多数決で決まっているようにも思う。


もしも、見える人が多数を占めて、見えない自分が少数派だと思うと、もしかしたら幽霊はいるような気がしてくるかもしれない。

沢山の人が同時に空を見上げたら、ついつい見上げたくなる。
そんなものかもしれない。


幽霊などいないと主張する人間は、幽霊がいたら霊界がパンクして大変であるという。

別に、一定時間経ったら消えるのかもしれないし、現世に残れるのは優秀なものだけとか、そんなルールがあるのかもしれないではないか。

結局、躍起になって幽霊を否定しようが肯定をしようが、その存在を証明することはできない。

なぜなら、幽霊は空気とは違うからだ。


空気は、我々には見えない。

けれど、私たちはその存在を認めている。

それは、様々な実験によって空気の存在が、モデル(概念)という形でその輪郭を認められた結果である。

例えば、風が起こる。空気が移動していると考えると納得がいく。

納得がいくだけ。

ただ、人間の想像した、現実によく合う仮説を当てはめると、それが空気の存在証明となるだけだ。


共感覚も同じだ。

一部の人間は、音を聞くと色が見えたりするという。

だが、一般の人には見えない。

けれど、科学的に信じられている。

その根拠は例えば、脳の動きを見ると、音を聞いたときに視覚野が反応している、そんなところだろうか。


だが、幽霊の場合はどうだろう。

いるはずのない女の人を見たならそれは錯覚だ。

火の玉をみたならそれは自然発火現象である。

でもそれなら幽霊はいないことになる。

実際に視覚野の反応を測っても恐らく、幽霊という結論には至るまい。


つまり、科学的に説明のつかないものが幽霊なのである。


だが、人間が信じるのは科学のみである。

なぜなら科学は、確固たる信用を得るために作られたジャンルだからである。

つまり、科学で説明できない存在(非科学的存在)は、科学的に証明されていないだけで、決していないと断言することはできないのだが、科学の信者は寄ってたかって科学の論理で潰そうとする。


問題なのは、科学の領域に引きずり込まなければ役に立たないということだ。

科学のやり方は、再現性をもち、対象を知って対処するやり方だから、今までも人類に大きな発展をもたらした。

だから、科学のやり方以外は、役に立っていても証明できない。

証明した時点でそれは科学になる。

仮に幽霊が認められるとしたら、人が死んだ直後、必ず霊が現れて確実に話せる場合とか。

なぜなら、そのタイミングが決まって死んだ直後なら、わかりやすい。

しかもはっきり見えるなら、文句なくそれは現象である。


一体、一部の科学の信奉者の中に流れる、幽霊なんていないという確信はどこからくるのか?

もしかしたら、彼らは幽霊を否定したいのではないのかもしれない。

科学にとって、わからない現象があれば、それは研究対象であり、解明すべきものである。

だが、幽霊という考え方は、わからないものをわからないまま受け入れてしまう。

様々な現象が幽霊の仕業になる。

それは科学的に考えると、非常に気味が悪いし、消化不良なのだろう。

だから、一部の科学者は幽霊そのものを信じないというよりも、不思議な現象がすべて幽霊という言葉で処理されてしまうことに、憎しみを覚えるのかもしれない。


2014年5月30日金曜日

不思議な夢


私は今朝、不思議な夢をみた。


私が目覚めると、そこはいつも通り家の中で、いつものように支度を済ませて大学へ登校した。

キャンパスに着くと、よく見知った人に呼び止められた。部活動の先輩だ。

普通に会話を進めながらも、私は違和感を覚えていた。

というのも、私は今現在大学四年生であり、先輩が大学にいるはずがないのだ。

文系の先輩だし、普段の様子からして大学院生になっているはずもない。

一体何の用があって大学へきたのかと尋ねてみようとも思ったが、どうも様子がおかしい。

先輩は部活動の予定の話をしたりしていて、まるで自身が大学生であるかのような口ぶりなのだ。

結局、内心動揺しきりで話を合わせてしまった私は、次々に異変に気がつくことになる。

大学の授業にいけば、そこは違う部屋だし、最近会ってないはずの友人に声をかけられもした。


それらの状況から私が導いた結論は、『私は過去に後戻りしたのではないか』ということだった。

実際そう考えると、皆の様子のおかしさすべてについて辻褄が合う。


事実として受け止めるのに少し抵抗はあったが、過去に戻ってしまった事について、気持ちの上では歓迎していた。

何せ記憶はそのままだったし、自分だけ年をとったということもなさそうだったからだ。

『若さというものは若いものなどに分けてやるにはもったいない代物だ』

もう一度すべてをやり直せるなら、以前(本来は未来だが)よりもきっとうまくやれる。

そんな根拠のない自信に満ちていた。


そこから先は、未来を変える作業の連続だった。

知っている場面に行き当たって、それが今後悪い結果に繋がる場合は選択を変えていった。

私は、パラレルワールドという言葉を思いだして、本当にそんなものがあるのかもしれない、私は時間という名の奔流にのまれて、枝分かれした先で、レアケースとしてぐるりと流れを遡ってしまったのだろう、などと考えていた。

だとすれば、もといたはずの私はどうなったのだろうか。

ふたりも同一人物がいれば鉢合わせているはずだし、私の身体はもともと誰のものだったのかということになる。

恐らく、私の意識だけが、ある過去の一点と入れ替わってしまった。

ということは、逆にいきなり未来で目覚めてしまったもう一人の私がいるはずで、彼は今頃どんな顔をしているのだろうか、とよくわからないことを考えていた。


だが、不意に終わりはやってきた。


ある朝目覚めると、目覚めたのは見慣れない、病院のベッドだった。

傍から心配そうに覗いている両親の顔が見えた。

事情を聞くに、私はいきなり意識を失ってしばらく眠っていたという。


つまり、すべては夢だったのである。


そこですべて納得がいった。

過去に戻るなんて非現実的で都合のよい話があるわけもなく、私はただ現実の続きとして夢を見ていただけだった。

親は喜んでいたけれど、私は正直、少しがっかりした。

せっかく、人生をやり直すチャンスを得られたのに、その望みが断たれてしまった。


両親が帰ってしばらく、私は病院のベッドでひとり考えていた。

あんな非現実的なことを、信じてしまうなんて、なんだか少しショックだった。

人間というのは、手がかりを与えられると、簡単に勘違いをしてしまう生き物なんだ、少なくとも私はそうだと思った。

あのとき、夢の可能性を疑わなかった自分が信じられないし、自分自身が思っていたよりも自分の思考はファンタジーを望んでいて、それを受け入れる用意もできているのかもしれないな、と思った。

そしてまた目覚めたら、他の時間軸に戻っていたりはしないかと思った。

と、そこまで考えて流石に眠くなってきたので、目を閉じたのだった。


「はやく起きなさーい!」


母が私を起こす声が聞こえる。

病院なのに、そんな威勢のいい声で起こしてまずくないかと思った。

そして目覚めると、

「今日はでかけるの?」

と尋ねられたのである。そして気がついた。


本来の時間軸に戻ってきたのだ。

いや、いままですべてが夢だったのだと。

つまり、意識を失ったことすらも夢だった。



と、こんな具合である。いわゆる夢中夢だ。

今こうして文章を書いている自分も、夢の中かもしれない。

上述のような夢をみると、『人生は泡沫の夢である』というフレーズの意味がよくわかる気がする。

正直、夢である可能性をあくまで疑わず、すべて受け入れてしまったあたり、私はまだ疑うという事に関して詰めが甘い。

時間遡行を大した躊躇いもなく信じるなんて、めまいがする限りだ。

リアリストの顔をして心底ファンタジックな夢が好きなのだろう。


しかし、小説では絶対にやってはいけない展開だ。

夢落ちを一度使ってしまうと、このようにどこまでが夢か、展開に信憑性がなくなるので、常に疑いながら展開を読まなければならない。

だから、物語の絶対条件は、『語り手が信じられること』であると思う。

2014年5月21日水曜日

メモの意義


就職活動をするようになって、メモをとるようになった。

しかし、メモや手帳の意味はどこにあるのか。
それはつまりシンプルに、メモが"忘れないため"にするものであって、"憶えておくため"にするものではないということである。

ふたつとも同じ意味に聞こえるかもしれないが、それは違う。

メモ書きというものはあくまで、メモ書きでしかなく、メモに書いた内容がそっくりそのまま頭に入っているわけではないと言いたい。

メモは外部記憶のためのツールなのだから当然と思うかもしれない。
だが、ここで言いたいのは、メモが無用だとかいう話ではなく、メモを見て結局頭に入れないといけない、という話だ。

もちろん、メモを体裁上使うということもあるかもしれない、努力を示すポーズとして。

だが、実用的にメモを使おうと思えば、なんでもかんでもメモしていては意味がない。
なぜなら、何かを組み立てるとき、一時的に頭に情報を入れておく必要があるので、ひとつ見てひとつ忘れていたのでは、いつまで経っても双方が組み合わさることはないのであるから。

創造性のためには、記憶が必須条件である。
なにせ創作活動は、0から1を生み出すのではなく、やはり1を10にも100にもする活動だと私は考えているからである。

つまり、必死にメモをとっている人をそれだけで評価することは、愚の骨頂だと言えよう。

誰でもできることをしないのは愚かだと言う人もあるかもしれない。
だが、誰でもできることにそれそのものの価値などないのである。

メモをとる人よりもメモを活かす人にならねばならない。

2014年4月7日月曜日

体感時間


時間の長さは常に一定である。
私たちはそう信じていて、実際、レースを朝行おうが夜行おうが、10秒は10秒であると思っている。

当然と思うかもしれないが、そんなことはない。
かつてアインシュタインは自身の発見した相対性理論の説明をする際、「楽しい時間は早く過ぎるのと同じようなものだ」と説明したという。

アインシュタインが挙げた例え(というよりジョークか)は体感的な時間間隔に関するものだが、彼の理論では光の速さによって物理的な時間が相対的に伸び縮みする点で、注意が必要だ。

しかし実際問題、私たちも楽しい時間が早く過ぎて感じられるように、同じ時間幅でも体感時間が伸び縮みしたように感じることはある。
例えば、ストップウォッチで10秒ぴったりに止めようと思っても、常に同じようにぴったり止めることは難しい。
また、心理学の分野でも、色の違う、壁紙が赤と青の部屋で過ごすと、青の部屋での時間のほうが長く感じられることが知られている。
さらには、カフェでは混んでくると、お客さんの行動を早めるためにビートの早い音楽をかけることが知られている。

つまり、私たちの体感時間、あるいは行動は、知らず知らずのうちに、外部の影響を受けて、伸び縮みしていると言えるだろう。

とりわけ先の心理学の二例に共通して言えるのは、音についても視覚についても、周波数・あるいは周期の早い波を知覚すると、時間間隔が短く感じられるということである。

同じ例として、ミステリのトリックでは、死亡推定時刻を誤魔化すために、極度に冷たいあるいは温かい環境に死体を放置するというものがある。これもまた、時間の操作と言えるだろう。

また、人間の色彩感覚では、青が寒い、赤が温かいとされる点で、やはり周期的な知覚と体感時間、実際の時間間隔は連動している、あるいは帰属錯誤のようなことが起きていると言えるのかもしれない。

昔の哲学者は、時間とは物体が動くことだと考えた。
だが少々腑に落ちない。
たしかに時間が止まれば物体の動きは止まる。
だが知覚的には静止しているように見える物体でも、ミクロの世界では動いているということはありえる。

また、色や音の違いだけでなく、人生の時期、つまり青年期か壮年期かによっても時間の長さが違って感じられると言われている。これに関しては、今までに過ごしてきた時間に対して、今過ごしている時間の割合が少ないと短く感じられるのだろうとか、今までの経験を生かして、脳の処理時間が早くなるからだろうとか、諸説ある。

それと、人間のみならず動物も時間の感じ方が異なる可能性がある。

彼らに時間という概念があるかは知らないが、生きている限りは必ず時間を利用しているはずだ。
よく言われるのは、大きい動物ほど生きている時間が長く、人生も比例してゆったり過ごしている。小さい生き物は逆だ。だからハエなんぞは、我々人間が必死に叩こうとしたところで、あっさりとよけてしまうのだろうか。そういえば、「ゾウの時間、ねずみの時間」なんてタイトルの本があった。
ペットを飼っている人は、犬年齢とか、人間に換算すると何歳、なんて指標に聞きなじみがあるだろう。

さらに、もっと短い時間間隔でも、こういった時間感覚のムラは存在する。

それは朝である。
私は昔「早起きは三文の得」と聞いて、朝の時間も夜の時間も変わるものかと思った。
しかし現に、朝と夜では、時間感覚が違って感じられることに気付いた。

恐らく昔の人々もこれに気付いていたのだろう。
だから先の格言は、早起きすればいいことがあるというよりも、朝は体感時間が伸びるので仕事が早く進む、そういうことを言いたかったのかもしれない。


・おまけ
主観的時間については先に述べたとおりさまざまな捉え方があるが、客観的時間はただひとつの正解を追い求めるわけだから答えはシンプルだ。

時間の刻みの基準はセシウム原子時計だが、もっと詳しく言えば規定の周波数である。

2014年4月2日水曜日

宗教の根本疑念


私は宗教に明るくないけれども、関連する本を読んでいて思うことがある。

宗教のベースは、教えである。
教えは、正しいものである。
正しくおこなえば、うまくいく。

つまり、宗教の教えを知れば、うまくいく。
教えを真理と呼んでいる。

そして過去に教えを説いた開祖?たちは、究極的な知識とカリスマをもって、知恵を布教した。

しかしそもそも、真理などがあるのだろうか。

自分が真理を知っている、という思考は、「無知の知」の逆である。
無知の知とは、古代の哲学者が言った言葉で、自分の無知を知ることがすなわち知者の証であり、つまり真理を知っているのはある側面について全容を知っていると思い込んでいるが、実際そうとは限らないのである。

これを踏まえると、宗教とはいつも、疑いの目をつぶることが始まりなのではないか。
盲目的に信じる必要があるのだ。

その点で科学は、常に疑い続ける。
真理は信じるが、真理にいかに近づくかが重要なのであって、真理を知っているなどと大口は叩かない。

だからどうも、私は科学が好きで、宗教は胡散臭く感じてしまう。

もちろん、科学は慎重過ぎて、物事を複雑にしてしまうこともある。
だが、宗教も、抽象的過ぎて空を掴むような話が多い。

死生を諦めた人(死すべきものとしての人間?)


最近、iPhoneの電子書籍ストアで面白そうな本を探してきて読むのが習慣になりつつある。
たまたま、般若心経の本をみつけたとき、そういえば高校時代には仏教を教わって般若心経を唱えていたにも関わらずまったく教えを知らない自分に気がついた。論語読みの論語知らずである。
手に取ってみたら、以外に私の過去の日記と一致する点があったので、ピックアップする。

この本の中で、死生を諦めることが、ある種の悟りであると書いてある。

本来人間は必ず死ぬべきものである。
物語のあらすじとして、不死を求める悪役の野望が正義の手により潰えるという形式は、一昔前の勧善懲悪におけるスタンダードと言ってもいい。

しかしよく考えてみると、なぜ不死、あるいは不老を求める者が悪として描かれるのか。
彼ら悪役が不死を得るためには、犠牲を強いられるものが多いためであろうか。
ならば、なぜ不老不死は手痛い犠牲を伴うものとして描かれるのか。

人間の目標、ひいては医療の究極目的は、不老不死ではないのか。
世の中から病気が無くなるとはそういうことだろう。
しかし、それが悪として描かれるのはなぜか。

それは恐らく、我々人間がどこかで、死は自然の法則であり、抗ってはいけないと思い込んでいるからだ。
いわゆる生命倫理である。
むやみに命を絶つのがいけないとか、そこまでは明確ではないとしても、不老不死はあまりよくないことだと考えられているのだろう。

つまり、人間は本来死ぬべきものである、ということだ。

大前提として、多くの人間は生きたい。
なぜなら、死ぬのはほっといても死ぬが、生きるのは難しいからである。
難しいから生きたいかというとそれは違うが、大抵価値あることは難しい。

なにより直感的に死ぬのは怖い。
怖いというのは、究極的な自己愛である。
自分を守りたいから、恐怖を感じ、危険を排除する。

しかし、虎穴に入らずんば虎児を得ずという言葉があるように、ときには危険を冒しても行動せねばならない。

こうしたとき、死生を諦めることができなければ、行動することはできない。

死生というのは大仰な言い方であるが、私利私欲を捨て、自己愛を捨て去る、そうしたときに初めて、苦しさに耐えて研鑽できるということであろう。

別にそれは結果としての生死そのものが生き様を決定づけると言っているわけではない。
大義のために死ねることは格好良いが、出来れば死なないに限る。
ただ、大義のために、命を投げ出す覚悟でありさえすればいいということだろう。

だが、このように、死を受け入れる悟りの解釈は勘違いを生む可能性がある。
それは、死を恐れないことだけが本当の悟りだと思ってしまうことである。

例えば、この世を嫌い、早く憂き世を離れたいと思っている者は、果たして健全かということである。
彼らは、生を諦め、死を受け入れる心をもっているが、死生を諦めたのではなく、死を望んでいるのである。
自分から死を望むことが幸せではないことはおおよそわかると思うし、死を受け入れることを理由に、生を諦めればよいということではない。

憂き世を離れたい想いは、ただ逃げだしたいだけであって、死生にこだわりなく生をこなすこととはまったくもって別物であろう。

2014年3月10日月曜日

自分を許すこと



ある本によれば、完璧主義者はうつ病になりやすいという。


意外と思われるかもしれない。

なぜなら完璧主義はやる気があるから完璧を求めるのに対して、うつ病は無気力の病であり、双方が対比的に映るからだ。


しかし、真逆のようなふたつの性質は、視点を変えれば同じ要素をもっている。


まず、うつ病とは、何もかもがうまくいかないために起こるエネルギー節約病である。
今までやってきたけれど、どうせダメだからこれからもきっとダメだからやらない、シンプルに言えばそういうことだ。

一方の完璧主義は、常に理想像と今の自分との差を埋めることを考えている。

完璧主義を追い求めるうちに、心の中には現実のとギャップという、歪みが蓄積していく。
それが肥大化して、心の大半を占めてしまうと、ある日突然に途端に動力源を失ってしまうことになりえる。

つまり、自己実現目標に対して、自らの能力が低すぎる状態の持続が、うつ病の誘因となる。


そこで、うつ状態を脱するために、カウンセリング的な観点ではおそらく、できない自分を許してあげよう、という論理をもちだすことが必要となる。

出来ない自分を許すとはつまり、諦めるということである。

自分の能力は所詮ここまでだと見切りをつけることを覚える。

ネガティブに思われるかもしれないが、精神衛生上、非常に大切な要素である。


誰しも人は、努力だけでどうなるものでもない。


だが完璧主義者は自分の能力や努力を信じている。
もちろん、それでもいい。

自分の力を信じられることは素晴らしいし、それが出来なければ、成長は望めないだろう。

しかし、いつまでも自分を追い詰める必要などない。
誰しも、限界というものはあるはずだ。
問題は、限界は限界を超えるまでわからないという点である。


成功者は、限界を追求することを礼賛するし、それは自分の胸に秘めておく以上は良いことだ。
だが一方で、他人と比較して気に病むのは不健全である。
努力を否定するつもりはないが、成功者が成功するのは、究極的にはあくまで恵まれていたからに過ぎない。
だから、彼らの言葉に耳を傾けて、限界を追求したとしても、運の部分で差がついてしまう、そんなものだ。


だから、限界を決めて、自分を許してやることは何も悪いことではない。

もう自分はここまでだし、それでよい、と諦観をもつことで心の荷物が降ろせるというものだ。
そもそも、他人と比べてどうするのか。
最初から環境が違うのだから、誰が偉くて誰が偉くないなどということは本来ありえない。


だが、この考え方は一歩間違えると危うい。


悪く解釈すれば、すべては決定的だから努力は無意味であるということになる。
ただ、自分のペースでやることが大切だ。


たしかに、すべては事前に決定されていて、運がないと成功しないのかもしれない。

それこそアカシックレコードのように、この世の状態はすべて、初期状態から法則にしたがって計算されているだけで、私たちはその上で踊っているだけなのかもしれない。

だが、そうした考え方はあくまで思想だし、仮定である。
なにより自分が信じていたとしても、そうではない人々もいる。

それは当然理解されないものだし、言い訳としか捉えてくれないに決まっている。
特に成功者は、自分の力で成功したと思っている人も多いので、自分ができるなら人もできるし、すべては努力の賜物だと勘違いしている節がある。


また、諦めてしまっては前に進めないのもまた事実だ。


別に前に進みたくない、と思うかもしれない。

けれど、前に進みたくない、と思ったところで、勝手に進んでしまうものだ。

それこそ、自ら死なずとも自然と死んでしまうのに似ている。
人生における選択を放棄することは放棄という選択である。

だから、前に進もうという強い意志をもてとは言わないまでも、なにかしらの覚悟は必要かもしれない。

ならば結局、諦めればいいのか、希望をもてばいいのか、どっちなんだという話である。


言いたいのは、両方もっておきなさい、ということである。


ときには自分を許してやる、ときには信じて頑張ってみる。

バランスが大切だ。
他人からみればいくらくだらなくても、自分はここまでできた。
そうやって一歩ずつ進んでいける精神が大切なのだ。

それでもダメで、あまりにつらいときはこう思えばいい。
別に私だってなりたくてそうなったわけじゃない、と。

頑張れそうな時は、ちょっとやってみようかな、と思えばいい。

でも過度な期待はしない。
ちょっとだけできそうなことから始めてみる。


結局人間の限界は決まっているだろう。

2014年2月18日火曜日

話し下手


私は話下手である。

人にはよく喋ると言われていたし、学生時代も会話をリードすることが多かった。
それは、相手の言うことをよく読み取り、補足することに長けていたし、何気ない会話をすることが得意だったからだ。
しかし、あるときから、空間を言葉で埋め立てることに意味を感じなくなってしまった。

意味のない会話をすることに、意味を感じなくなった。

私は、相手を見て話していないのかもしれない、と思ったとき、絶望のようなものを感じた。
ことあるごとに、相手を分類したがる私の話し方は、相手を知るのではなく、相手を知った気になっているだけだと、気付いてしまった。
極端なことを言えば、あなたはO型だからこんな性格ですね、という決め付けと同じで、あなたはこの職業の人だから、こういうこともするんですか、というように、その人の属性としての職業ではなく、カテゴリとしてのその人を見てしまっていた。

自分は相手のことを読む力が優れているのだと自負していたが、ある時、それは相手を尊重しているのではなく、相手の意見を自分の理解しやすいよう、いいように先回りして決めつけているとも言えるのではないか、と思い至ってしまった。つまり、相手の話をほんとに聞いてるとは言えない。それは相手を尊重しているとは言えない。

やはり会話をうまく運ぶためには、相手の話に耳を傾けるのが基本だろう。
最悪相手がおしゃべりなら、相槌だけでどうにでもなることすらありうる。

そういった意味で、私の自分自身に対する、お喋り上手の評価は、根本的な部分が抜けていると感じたとき、今までかぶっていた殻が馬鹿馬鹿しい装飾にように思えて、ついには脱ぎ捨ててしまったのである。

しかし今までの武器を捨て去った私は、何も手立てをもたないので、うまい会話の仕方を目下模索中なのだが、実はここにも矛盾が存在していて、「うまい会話がしたい」というのは、所詮表層的にうまくやりたいだけであって、結局のところ他人と楽しく過ごしたいという基本的な想いが欠けているような気がするのである。

やはり話上手になるためには、聞き上手でなければならず、また他人に興味をもたなければならない。だが、義務感でもつ興味なんてものは意味がないので、結局、根が変わらねばどうしようもないのだという虚無的な結論に至るのである。

2014年2月17日月曜日

他人のために生きること


人間はなんのために生きているか。
この問いに対する答えは決してひとつに定まることはないだろう。

生物学的解釈では子孫繁栄が生物の主目的とされているが、では子を産まない人は何を残すために生きるというのか。作品や文化的遺伝子(思想)なのかもしれない。
だがそもそも、何かを残すという行為に執着しない人もいるだろう。
なぜなら、自分のいなくなった世界は自分に関係ないので、そこに何かを残したところでわかりはしないし、意味もありはしない。なら、本当に大切なのは今を楽しむことだけだ、と考えることもありえる。

これはつまり、利他的と利己的、主義の違いである。
自分の望みが、人に尽くすことであるか、自分を満たすことかという違い。
根本的には自分の望みには違いないのだが、結果的に他人のためになるかどうかの違いである。

楽天イーグルスの優勝やフィギュアスケートの羽生選手の金メダルを見ていると、他人のために強くなることはあるのだなと思う。
その点では、利他主義は強い。

なにより、生物による進化上で淘汰されなかった利他主義は、おそらくパワーを秘めているんだろう。
自分が生きるということよりも、子を守ることを優先する考えが、結果的に最善の策になるのかもしれない。
もちろん、自分が生きて、また子を産めばいいという考えもあるが、それは状況次第ということになるだろうか。

ではなぜ利他主義が強いか。
それは「他人のためだから」である。これでは説明にならないか。
つまり、目的を乗り越えるためには当然苦しみが予想されるが、それを利己主義で乗りきろうとすると、結局自分の喜びと苦しみを天秤にかけることになり、苦しみのほうが大きくなると、心がくじけてしまう。しかも喜びというのは、大抵目標達成のあとに満たされるものだから、苦しみが先にきてしまって、喜びは後回しになるのである。この際に想像力を働かせて、「これを乗りきればきっといいことがある」と信じることができなければ、簡単に心は折れてしまうだろう。
その点利他主義は、他人が満足すれば自分が苦しんでも構わないので、そもそも自分の苦しみと喜びを天秤にかけるという構図は生まないのである。

ただ我々が利己主義を捨て去ることは難しい。
なぜなら、自分に余裕がない人間は利己主義に陥りがちである。
そして利己主義に陥ると、さらに努力が難しくなり、余裕がなくなるという悪循環を産む。

そこでこれを回避するために、教育や宗教の出番である。
他人のために何かをすることはいいことですよ、と教え込む。盲目的に。
「情けは人のためならず」などと。

2014年2月6日木曜日

マイナスの個性


作曲家の佐村河内氏のニュースが世間に衝撃を与えている。
彼は完全に聴覚を失った全ろうの作曲家として活動していたが、ゴーストライターの存在が発覚した。

ゴーストライターは謝罪会見で、「佐村河内さんは耳が聞こえているようだ」と語り、聴衆にさらなる衝撃を与えた。それがもし本当なら、障害を利用して売名したとも言える。
しかしながら、「障害者手帳を見せられたこともある」と語ってもいるため、本当のところは佐村河内氏本人に確認しなければわからない。少なくとも、全ろうではなかった可能性はある。

佐村河内氏のCDは18万枚売れたそうだが、果たしてこれが普通に売り出しても同じようなことになったか。
きっと、メディアとともに、全ろうで被爆二世の悲劇の作曲家というストーリーを作り上げ、それが聴衆の心を打った部分も大きいのではないか。

ゴーストライターが発覚しただけならまだしも、全ろうまで嘘だったとなれば、追及は免れないだろう。

この一連のニュースを聞いていて思うのは、障害者についての扱いは、本当に難しいな、ということである。
これはアファーマティヴ・アクションと同じタイプの問題である。

例えばアメリカの入学テストでは、日本のような試験結果至上主義ではなく、生徒の背景を考慮に入れることがある。
この際に、裕福な家庭でいい成績を修めた者と貧困ながらに到達点には達した者、どちらを評価するかという問題が生じる。
純粋に試験の成績だけを評価するか、将来性も見込んで、逆境の中でおさめた成績を評価するか、というのが争点である。

今回の問題に置き換えれば、純粋に曲の良さを評価するか、背景事情も含めて曲の評価とするか、ということである。

あなたはどう考えるか。

私は、試験については元々ルールを定めて、通知しておけばどちらでもいいと思う。
学校のコンセプトは学校が決めてよいし、校風に沿った生徒をとるのは当然のことで、採点についてどちらの方式がとられたとしても生徒は文句を言う資格はない。
しかし、経営者の視点でみれば、教育における基準の是非を問う問題となり、慎重に考えなければならない。

だが、曲の評価については同じように考えるわけにはいかない。
なぜなら、曲の良し悪しは学校のように決められた立場の、限定された問題ではないからだ。
一視聴者としては、曲自体が評価されれば良いと考えるが、曲はそこに表現された思想も大切だから、歴史上や作曲家の背景を知ることもひとつの楽しみ方ではある。

全ろうを盾にとって評価されようという行為はとても問題であるし、障害者だから安易に評価するというのは障害者に対する逆差別だ、という意見もわかる。
だが、障害を抱えながらも頑張っている人がいる、という点については、それが一定の人に勇気や希望を与えるならば、それで構わないのかもしれない、とも思える。
しかしこの考え方をしてしまうと、今回のような嘘でさえも、希望を与えたのだから良い、ということになってしまう。
そこの線引きは、嘘は露呈すれば結果的に落胆を生むのでよくないが、頑張っている人について事実は変わらないのでよい、という風に決着をつけよう。

障害をもつということは、マイナスの個性と思われがちだが、この事件においては、逆手にとってプラスの個性として利用されてしまった。
恐らく個性などというのは、マイナスばかり目立つがプラスもある。
「短所は長所の裏返し」ってなものだ。
気をつけるべきは、それを悪意をもって利用しようとする存在についてである。

なにせ障害というのも、自己申告制である。
障害があるかのチェックは、耳なら聴力を測り、目なら視力を測る。
しかしながら、これらのチェックは、どの程度まで聞こえているか・見えているかは測れても、どの程度聞こえていないか・見えていないか、を測定することはできない。

なぜなら、聞こえてない・見えてないことに関しては完全に自己申告だからだ。
聞こえなかった、と言われてしまえば、周りもそれを検証する術をもたない。
本来、目や耳が不自由というのは、利点にはならないため、そういうシステムになっているのだろう。
しかし今回の件で、そういった個性にも逆手にとればプラスの面として利用できることが感じられた。
そういった悪意の付け入る隙を減らすのも、重要であると思う。

ちなみに私は、これに関する対策として、脳波で分析するようにすればいいと思っている。ただし脳波の計測機器はコストがかかるので、技術の問題以前に導入は難しいかもしれない。

2014年1月20日月曜日

神の怒り


科学と宗教を別個に考える人は少なからずいる。
私もその一人であった。

科学と宗教の差異を考えるならば、科学とは世界の法則を見つけることであって、その営みは経験的に行われるのに対し、宗教は根拠もなく神を信じ、信じがたい現象をも受け入れる行為に思える。

しかしある側面で見れば、両者は同一の思想に基づいているとも言える。
その共通項が「神の怒り」である。

神の怒りとは、何か悪い出来事があったときに、それを自分の行為によって引き起こされたものとして見る考え方である。
科学でもまた、悪いことが起きたら、それは何がいけなかったのか考える。

つまり両者ともに、悪いことを避けるために改善できる点を探す、という部分は共通している。
原因を内省する姿勢をもっているということだ。

では神の奇蹟のように、経験的でない、おおよそ信じがたいものを受容する考えはどのように解釈したら良いのか。
「ふしぎなキリスト教」という本によれば、奇蹟とはつまり神の代弁者である預言者の信用性を主張するための証明であるという。本来覆せないはずの法則をいじくって、奇蹟を起こすことによって、そこに神の存在を見るというのだ。
そういった思考をするためには、秩序だった世界が大前提だと言う。

たしかにこの解釈なら科学と宗教を同じ世界観で語ることができるように思える。
しかしもっと突き詰めてみると、奇蹟とは経験的に起こりにくい、珍事とも言い換えることができる。
例えば、日食などは周期が長いため、経験的に考えることは難しい。
それを奇蹟と捉えてしまうと、スケールの大きいことはすべて神の奇蹟と解釈することになる。
つまりスケールの大きいことは人間の力の及ぶ範囲外であり、また本来のルールではないと考えることになる。
しかし科学はそういった部分も疑って、正しいと思える論理を構成してきた。

そういう意味で、先の論理は完全に科学と宗教を結びつけるものではないようにも考えられる。
ややこしくなってきたので、論理を整理しよう。
世界が秩序だっていると前提し、その裏返しとして奇蹟を起こると神の存在の確度があがる。
しかし、奇蹟を珍事だと捉えると、スケールの大きな事象はすべて奇蹟になる。
だが科学は、スケールの大きな事象も解き明かしてきた。

つまり奇蹟を信じる姿勢は、機序の解明を諦めるに値し、科学的姿勢を捨てることではないのか。
また、奇蹟をすべて解き明かす姿勢は、神の存在を危うくするのではないか(否定するものではないが)。

なぜ奇蹟を信じるのか。
またそれを科学と結びつける妥当な解釈はあるだろうか。

おそらくこれは論理パズルであって、「すべては法則で成り立っている」と「奇蹟」の集合的解釈の問題である。すべての法則の中に奇蹟を含めるかどうかという点が問題だ。すべての法則に奇蹟を加えるとすればそれは奇蹟でなくなる。加えなければ科学的懐疑主義の姿勢は崩れるだろう。

そんな根本的な不和を抱えながら、西洋文化を土壌にして両方がすくすくと育ってきたのは一体どういうことだろうか。

うまいこと論理的説明がつけられれば、素敵だなと思う次第だ。

言語と表現性


昨今、コミュニケーション力、略してコミュ力を問われる場面が多くなった。

コミュ力と言われても、その内容はあまりにも漠然としている。
その中身はおそらく、空気が読めるとか、なんとなくうまいことやれる、質問に対して正しい回答ができる、など様々である。
もっと堅い言葉で包括的に表現するなら、意思や思考を正しく伝達する能力である。

もっと抽象的なもので言い換えるなら、表現力である。

伝達力というとどうしても言葉を重視してしまうのが学歴社会であると言えよう。
例えば数学や国語は別ジャンルとして捉えられることが多いが、論理の表現形式やツールとしての役割が違うだけであって、求めているものは伝達力である。
特に数学は厳密性が高いので、数学的な後ろ盾が得られた議論は説得力が高い。
英語もまた、表現するための形式に数えられる。

つまり、学歴重視型の社会は、文字による確実な表現を求めている。
表現に厳密性を求めている。

そこで重視されるのは、言葉の意味をいかに妥当に疎通できるか、また表現できるかである。
その下地として、基礎的な表現を学ぶ。

しかしここである悩みが生まれる。
自分が厳密な表現を心掛けることは大切だが、相手にそれを求めるのは違うという点だ。
リテラシーのない人間に対しては、厳密性を排除して耳を傾けなければならない。

例えば、パソコンに詳しくない人間に対して説明を行うとき、厳密な言葉遣いで表現することは重要であるが、あちらの要求はざっくりと聞き取らなければならない。
その使い分けが、真の意味でのコミュ力であると言えるだろう。

一方で厳密性をもちながら、他方では曖昧性を汲み取れる存在でなければならない。
その柔軟な使い分けは、人によっては混乱してしまうだろう。

昔の哲学者が対話形式を大事にしたのは、この点について強く認識していたからに違いない。
相手の表現を受け取り、それを自分の表現形式に直して問い直すことで初めて意思の疎通ができるようになる。

しかし、なんでもかんでも質問しているようでは、相手に負担をかけてしまうだろう。
察しがいい人間になるには、どうしたらいいか。

例えばこういう方法はどうだろうか。

相手にyes/noを求めるのではなく、こちらの解釈が間違っていたときだけ、訂正を求めるのである。

例えばメールの文面を例にとれば、「それは~ということですか?」と再確認するのではなく、「それは~ということですよね、わかりました」と一旦完結しておく。
すると、相手はこちらの考えが間違っているときだけ返事をすればよいので、ほぼ聞き流すだけでいい。

難しい言葉を使わないなど、目に見えて省ける手間に加えて、こういう部分で少し工夫すると、相手の負担を減らすことができるのではないか。
相手の負担を減らしつつ、適切な意思疎通をするのがコミュ力、という結論である。

2014年1月10日金曜日

言葉の功罪


言葉を覚えるのが早いことはいいことだろうか?

言葉をうまく操れることは、一般的に評価されやすい。
言葉は現代社会では自己表現に不可欠なツールだ。
その意味で、言葉を早く覚えることは、社会に早く馴染むための近道に思えるかもしれない。

しかし、20世紀の天才のひとりとして数えられるアインシュタインは、言葉を覚えるのが遅過ぎて親の心配を買ったという話もある。
また、「バカの壁」の著者として知られる養老孟司もまた、自身は言葉を覚えるのが遅かった著書で語っている。

こうした例を見ると、言語による表現力の早熟が天才や秀才としての絶対条件ではないという気がしてくる。たったニ例から判断するのは早計とはいえ、可能性を考えることは興味深い。

もし言葉が天才の絶対条件ではないとすれば、それは言葉があくまでツールだからだろう。
言語能力はあくまで表現の一手段であり、その高さは身を助けてくれるが必ずしも必要ではない。

例えば人に説明するとき、言葉だけではわからないので図を使うことを考えれば、言語能力が万能ではないことがわかる。

つまり、言葉そのものに価値があるのではなく、その表現内容に価値があるのであって、その表現形式が世の中に受け入れられるものであれば、それは言葉ではなくてもいいということである。


もうひとつ、こんな話がある。

考え事をするとき、あなたは何語で考えているか?
母語で考えている人もいるだろうし、そうじゃないかもしれない。

言葉で何かを表現するのに苦労を感じた事はないだろうか。
それはあなたの言語能力が低いせいではない可能性がある。
むしろ、想像力が豊かすぎるがために、自分の考えを言葉で表現することが難しいだけなのかもしれない。

人間は言葉にすると物事に対する理解が浅くなる、と心理学者の植木先生が著書で書かれているように、言語表現によって、表現内容が固定されてしまう、つまり言葉のイメージに引き摺られてしまうことはあり得る。

だから、母語で考える人よりも、そうでない人のほうが、淀みなく話せる人よりもそうでない人のほうが、実は頭が良いというのは十二分にあり得る話である。
表現できなければ意味がない、という批判はひとまずおいておこう。


私が何を危惧しているのか、そろそろお察しだろう。
今までの話を総合すると、言語で表現することは必ずしもよい事ではない、ということである。
そのままの形で、感じたことを自分の中にとっておくことも大切なのだ。
言語をあまりに早く覚えてしまうと、知っている範囲の言葉でなんでも表現しようとするため、感性が鈍る可能性があると私は指摘したい。
鋭い感性を表現するには、言葉はあまりにも不完全過ぎる。


結論として、表現内容に適した表現形式をとれることが大切だ。
言語はそのうちのひとつであって、すべてではない。
社会的には言語能力が必要だとしても、それを早く覚えさせることがいいかどうかはまた別問題である。


こぼれ話として、早期英語教育に言及しよう。
グローバル化にともなって、就職ではTOEICの資格が有利、小学校では英語教育の必要性が叫ばれ始めている。

母語を大切にしようとか、英語と日本語どちらがよいかという議論は以前に書いてあるので割愛して、早期英語教育の是非とそのやり方について、思うところを述べる。

先程述べたように、言語は表現形式であるから、言語能力とは自分の表現したい内容をいかに的確かつ一般的に表現できるかを指すと考えられる。
つまり、英語だろうが日本語だろうが、表現前の内容は同じだ。

しかし、今の英語教育は、単語帳で日本語と英語を覚えているだけだ。
これでは、表現内容が結びつかないと思う。
つまり、本来ならりんごを見て、apple、と発したいところが、りんごを見たのち、りんごという日本語は英語でappleだから、appleと述べる。
このように、ひとつプロセスが多くなってしまう。

そういう意味で、早期の英語教育は問題ないと思う。
日本語的な感性が出来上がる前に英語を教える点が問題視されているが、むしろ逆で、日本語的感性は英語教育に必要ない。少なくとも単語を覚えるレベルではそうだ。

というか、ネイティヴレベルで英語を覚えようと思ったら、いちいち日本語で考えて英語で訳しているようではきっと意味がない。
それでは機械翻訳も同然である。

2014年1月6日月曜日

当然起きる食品偽装


昨年、阪急ホテルグループの食品偽装を皮きりに偽装が次々と発覚した事件があった

なぜこういったことが起きるのか。
そもそも食を人に預けるとはなにか。

近年のコンビニや外食産業の発達をみれば、人々が毎日の食事を外部委託することに心理的抵抗を抱かなくなっていることがわかる。
だからこそ、こういった機会に食の重要性を考え直すことも必要かもしれない。

今回の事件はあくまで品質が多少落ちる程度の問題だったが、これが安全性の問題まで発展すると大変だ。
なにをまた大袈裟な、と思われるかもしれないが、劇的に危険な食品ならまだ恐ろしくない。
なぜなら、すぐに効果がわかるし大多数への被害も少ないからだ。確率的リスクは少ない。
もっとも恐ろしいのは、長期的に身体をむしばむ食品だ。
これは判明するまでに時間を要するため、我々の身に降りかかる可能性が高い。

劇的とまではいかなくとも、体調を崩すレベルでの食に関する事件がアクリフーズの冷凍食品への農薬混入事件だ。
仮に意図的ではなくとも恐ろしい話だ。


外食産業ではなくとも、我々は食べ物を人に預けるのが当たり前になっている。
野菜は農家からではなくスーパーで買うし、肉などの材料だってそうだ。
まとめて購入できるのは便利だが、間に人を介すると信用がしにくくなる。

食べ物は信用のうえで成り立っているのだが、責任の追求は難しい。
短期的に影響が出る食品はまだしも、発がん性物質などに関しては長期的に調べなければわからない。

だから食べ物に関しては、いままで食べられてきたものを食べる、のが一番である。
新しい食品に含まれる新しい技術や素材は、よくも悪くも未知数なのである。

食の伝統を守ることは大切なことだ。
昔の宗教が食に関して言及するものが多いのも頷けるというものである。

2014年1月2日木曜日

認識論


認識論は哲学の一ジャンルで、

1.人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
2.人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
3.ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
4.人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。

wikipediaによれば、上記のような項目を探求するジャンルらしい。

私はこれらのテーマに関して予備知識をまったくもっていない。
だが、だからこそ既成概念を無視して柔軟な発想ができることもあると信じている。
それぞれのテーマについて書き記してゆく。


1. 人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。

 そもそも問題を問い直す形になってしまうが、我々は物事を正しく知る方法について語る前に、物事を正しく知ることはできないことを知っておくべきだ。そのために有名な例を挙げよう。

 昔、ソクラテスという学者がいた。彼は賢人と呼ばれていたが、それはただ賢く、知識が豊富だったからではない。彼は自分がすべて知っているわけではないことを知っていたからである。これを「無知の知」という。
 この話ではつまり、物事を知り尽くすことは絶対にできない、という教訓が語られている。似たような例をもうひとつ挙げよう。

 プラトンという学者は、イデア(概念)について語る上で、我々は物事について、まるで洞窟の壁に写った影を見ているようなものだ、と例えた。
 この話では、我々が見ているものはすべて本質ではなく、ある物の一部分でしかないと解釈できるだろう。

 上に挙げた例のように、我々は何かについてすべてを知ることはできない。例えばコインを知ろうとしても、我々はコインのすべてを知ることはできない。表を見ているときに裏は見れない。じゃあ裏返せばいいじゃないか、と仰るかもしれないが、表と裏を同時に見ることはできない。

 つまり、我々がある立場である限りは、何事も全容を知ることはできない。常にある一部分を切り取って感じている。

 そういう意味で、我々は物事について正しく知ることはできない。しかしこれは悲観的な結論ではなく、スタートである。では、どうやってより真実に近いものを知るか…というテーマにすり変える必要がある。

2.人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。

 まず、この題はあることを前提としている。それは、必ず物事には真実と嘘があるということである。あるいは、正誤で判定できるもののみ扱うことを示唆している。

 つまり、先ほどで言うところの真実により近づいた場合を正とし、より遠い場合を誤りとする。どの程度の乖離が許されるのかは問題に依存する。

 例えば、誤りを抱く状況のわかりやすい例として詐欺がある。9人に明日の天気を予告し続ける。晴れ、曇り、雨を毎日予想し続ける。ただし、3人ずつにそれぞれ違う予想を伝える。翌日仮に晴れたとして、晴れの予想をした人それぞれに違う予想を伝える。すると、翌々日には1人だけ二日連続で正しい予想結果を送った人がでることになる。
 二日天気を当てたくらいでは大したことはないが、これをもっと大規模に行えば、10日連続的中も必ず可能だ。
 つまり、普段起こり得ないことを簡単に起こせる。そして、騙される側は10連続当てるなんてすごい、と信じるかもしれない。このとき間違いが起こる。
 この間違いが起きた原因は、立場による違いである。騙す側にとっては当然でも、騙される側にとってはそうではない、つまり情報が欠如しているのだ。仮に情報が満ち足りているとき、正しく推論ができると仮定すれば、情報の欠如が間違いの一因だということがわかるだろう。

 そして、テーマ1で情報をすべて知ることはできないということについて指摘した。つまり、情報の欠如は常々あり、我々は常に間違うリスクを背負っている。


3.ある考え方が正しいかどうか確かめる方法はあるか?

 ある考え方が正しいという結論に辿り着くことは永遠にない。例えば数学の問題に関しては正しさが証明によって保証されていると思うかもしれない。だが、我々にとって正しく見えているだけで、正しいとは限らない。ただ、論理的な穴がいまのところ見つかっていないだけである。つまり、正しい可能性が高いことはあるが、完全に正しいと断定することはできない。


4.人間にとって不可知の領域はあるか、あるとしたらどんな形で存在するか?

 不可知なことだらけだろう。1のテーマで語ったように、ある立場から見ているとき、もう片側を同時に見ることはできない。また、我々の認識外のもの、例えば幽霊などは不可知の領域と言えよう。だが、わからないのなら存在しないも同然なので、語るまでもないだろう。我々にとっても問題になるのは、我々が扱える問題だけである。