2013年5月27日月曜日

青い鳥


先日、テレビで「青い鳥」という邦画を見た。
重松清さん原作の、いじめに関する話。

ここからネタバレを含むので、これから読もうという人は回れ右してください。



主人公の少年(園部)がいる二年一組に、新しい先生(村内)が赴任してきた。
前任の先生が休職しているためだ。
いじめによるクラスメイトの自殺未遂事件が原因だった。

当の生徒達は、いじめられていた生徒(野口)のことなんて忘れて、あまり反省の色は窺えない。
園部だけは、毎朝空になった野口の家(コンビニエンスストア)を眺めてから登校していた。

村内は、いじめていた側が忘れるなんて卑怯だ、と生徒たちに静かに言い放つ。
そして、倉庫に置き去りにされた野口の机を、以前あった教室に戻す。
そして「野口くん、おはよう」と毎朝語りかける。

その奇妙な光景に、生徒達は動揺と嫌悪を示す。
しまいには村内に「罰ゲームでやってるのか?」と問いただす。
村内は、人が生きるのはゲームじゃない、と語る。

終わりには、生徒の一部が自主的に反省文を書いて、前任の先生が復職するのを期に村内は学校を去る。
教師は何かを教えることができたら幸運だ、傍にいてやることだけならできる。
というようなことを言い残して。


とまあ、以上があらすじなのだが、主にメインテーマになっているのは「いじめの加害者がどう変わるか」というようなところだろう。
そもそもいじめる側にいじめたという明確な意識がなければ、罰や反省文など与えても効果はないに等しいし、形だけ美辞麗句を並べた反省文など試験となにも変わりはしない。
というようなことも描かれていた。

全体的にはとても面白い作品だったけれど、少しだけ納得いかないところがある。

たしかに、いじめる側がすっきりと忘れてしまうのは卑怯だし不公平だ。
けれど、反省文を書いたところで傷ついた生徒の気持ちや、過去は変わらない。

仮に反省文が効果的でも、結局成長するのはいじめた人間だけで、いじめられたほうは何もケアされないというのは、問題なんじゃないか。

人間関係は利害の上に成り立っていると思うから、基本的に弱い者が強い者にいじめられる。
そして、いじめる側の人間は弱い人間との関わりがなくなっても平気だ。
だが、いじめられる側は違う。妥協しないと生きていけないのだ。

だから、いじめの根底には絶対的な強弱の関係があって、それは利害の関係であって、つまりは周りが仲裁したところで、まったく意味がないのだと思う。

本当に必要なのは社会的な監視の目だと思う。
よくあるパターンだが、いじめていた側がいじめられる側に回るような、そんな圧力が必要だ。

もちろん、善意から皆が円満に仲良くやるのがベストだ。
しかし、強弱関係は生まれながらにして決定づけられている。
覆そうと思ったって無理だ。

だから、個人の関係で考えてはいけないのだ。
そういう雰囲気を作らないといけない。


それともう一つ。
加害者は被害者には何もできない。
例え罪滅ぼしをしたとしても、苦い記憶は残る。

しかし、加害者をいつまでも責めつづけることはしてはいけない。
そうすると、加害者の自省の心を押しつぶしてしまいかねない。

加害者と被害者に与えるもののバランスも考える必要があるだろう。

2013年5月25日土曜日

ほんとうにどうでもいいか


毎日をぼんやりと過ごして、ただつらさを感じる。
今の生活に不満はないし、毎日楽しくないわけでもないが、これから先の事を考えると、不安しか浮かばない。


そんなとき、どうでもいいやという投げやりな感情が芽生えてくる。

もう先のことなんてどうでもいいのだ、私には生きる意味など特に必要ないし、人生とは与えられたものをただこなしていく行為、それだけなのだ。そう思う。

そして、活動らしい活動を捨てて、ただひたすらに空虚な時間を貪る。
ただ寝るとか、なんの未来も保証してくれないゲームに興じるとか。

でも、その気持ちが偽りだったら困るので心に問いかけてみると、やっぱりどうでもよくなんてない、と疼いている。
本当にどうでもいいならなんでも出来るはずなのに、不安や恐れを捨てることが出来ないのは、痛みに打ち克っているのではなく、ただ現実を見ていないだけだ。そんな気がする。

人間死ぬ気になればなんでも出来る、というやつだ。
もちろん空を飛んだりは出来ないが、チャレンジすることはできる。
たとえその結果、死んでしまうとしても、何も困らない。

実際飛行機を作るためにどれだけの人が命を落としたんだか知れない。
彼らは決して、捨て鉢になっていたわけではないだろう。
むしろ微かな成功の可能性を信じて疑わなかっただけだ。

だから捨て鉢になりそうな時は、度胸試しをしてみるべきだ。

私はほんとうにすべてがどうでもいいのか。
試しに何かしてみるべきだ。突拍子もない、とびっきり危ないことを。

そうして恐怖を胸に抱いたとき、自分の本当の心を知るだろう。
やっぱり私は大事だと思うだろう。

もしもそう思えないなら、どうでもいいのだ。
だからなんだっていいし、何も考えなくていい。

大事なのは、自分で自分の本心を隠してしまわないことだ。
結果はどちらに転んだっていい。
自分を騙して生きることほど辛いことはないのだから、そのリスクを避けて、無駄な時間を過ごさないことが大切だ。
無駄というのは、いつも後からついてまわるのだが。

どうでもいい人間にとって、大切だとか、無駄だとか、そんなことはそもそもないはずだ。
もしもそういう言葉が少しでも心に引っかかるのなら、なおさら試してみるべきだ。

もちろんチャレンジは、頭の中でやる。
リハーサルやイメージトレーニングは大切だ。
実際にやってみようとしたら、時間も体力もいるので。
まず頭でやってみるのだ。
それすら出来ないなら、まだ覚悟なんて到底出来ていないのだ。

それ以上のことは言わないでおく。
覚悟が出来ていたとしても、どうするかは自分で決めるべきことだ。

2013年5月19日日曜日

才能


なぜ私ばかりがこんな目に遭っているのかな、ときどきそう思う。

勉強もスポーツもろくにこなせず、狭量で底意地が悪い。
こんな風に生まれついて、将来を見渡しても真っ暗闇にしかみえない。

努力不足だったと言われればそうかもしれない。
たしかに勉強も人よりこなさなかったし、運動だって毛嫌いしていた。
上手くなるはずがない。

でも本当は、上手くできなかったから嫌いになったんだと思う。
この手の話は鶏と卵の話に似ていて、出来ないことはつまらないし、出来ることは楽しい(のだろう)、つまらなければ出来ず、楽しければ出来るようになる。
そういう側面もあるかもしれない。

ならきっと、出来るようになるまで頑張ってみられるかが大事なんだ。

しかしここらへんは悲しい仕組みになっていて、何かを達成したことのある人は自分自身の力を信じて次に進むことが出来るが、達成したことのない人は永遠に諦め癖、つまりは負け犬根性がついてしまうような節がある。

だからこそ、物事は簡単なことから順にこなしていくのが大切なのだろう。

世の中のすべてにおいて、基本は大切にせよと言われるのはきっとそこらへんの理由で、つまりは技術を習得するうえで基礎が大切であるそれ以上に、心がくじけないためにそれは必要なのだ、と思う。

なにもこなせなかった私が言うのは可笑しいが、少なくとも私は基礎を大切にしてこなかった。
出来る人を羨ましがって、見た目の華やかさに惹かれて、基礎をおろそかにして勇み足を踏んだ。
だから失敗してきたんだと思う。

まあ私の場合は、生まれの時点で不利な状況に立たされていたのであまり変わらなかったかもしれない。

そもそも華やかなほうに目がいくのは、それに対する憧れによるところが大きくて、つまり自分にない要素だから欲しい、と言えるような気がする。

簡単なことをこなして、「こんなことは誰でも出来る」と思うことはよくない。
そこに喜びを感じられなければ、いつか心が枯れてしまう。

才能というのは、簡単なことからはじめて、それをひとつひとつ楽しめることなんだろう。
才能のない私が言うのも可笑しいが、そうなんだろう。

2013年5月12日日曜日

負けず嫌い嫌い


私は、負けず嫌いな人間が嫌いです。

別に自分で課した課題に対して完璧を求めるとか、その手の完璧主義ならかまわないのですが、何か勝負事において、勝った負けたで一喜一憂する人間が嫌いなのです。

それは残念ながら、私が勝ちの味を知らないからです。

もちろん、何でもかんでも負けてきたわけではありません。
学力にしろ、運動能力にしろ、誰しも何かしらで少しばかりは人より勝っているものです。
ですが、世の中の平均から見れば常に少し下にいるような存在なのです。

ですから、普通にしていれば大抵負けます。
だから面白くない。

別にそれが、自分の努力不足で、まったくもって自分のせいならいいのです。
相手がいくら勝って喜ぼうが、負けて悲しもうが。

ただ、相手が勝って誇らしげにしてるのをみると、なんだか腹が立ってくる。
何故なら、相手が私に勝ったのは根源的にラッキーでしかないからです。

それ以上でも以下でもありません。

何かで優勝した。
努力が報われて涙を流す。

それは別にかまいません。
運の良さが勝敗をわけていたとしても、その人はその人なりに努力をしたのでしょうから、どちらにせよ涙を流す心情は理解できます。

しかしながら、勝負事で勝ち誇られる瞬間ほど、理不尽なものはありません。
そもそもが同じ条件で戦っていないのだから、当然どちらかは勝つし、負けます。

それはかまわないのですが、相手がすべてを自分の手柄のように振る舞うことが許せないのです。
平たく言えば、謙虚さを知れ、ということです。

極端な事を言ってしまえば、「応援してくれた皆さんのおかげです」なんてのは謙虚でもなくて、半分以上ほんとです。

生まれの差は、努力の差ではありませんので。
だからこそ、ほんとは悔しいのかもしれません。

ただ、覆すことすらできないし、文句を言うことも許されない。
なぜなら、負けた人は努力が足りないだけだとレッテルを貼られてしまうから。
文句を言うなら努力をしろというわけです。

たしかに、努力は大切ですし、文句を言うなら努力を重ねた方が良いというのは正論です。
だからといって、勝った側が偉そうに何を言ってもいいわけではないのです。

たとえ当人が努力をしていたとしても、勝利の要因に少しでも運の要素があったのなら、偉そうにする資格などないのです。

だから、「両親のおかげ」「ファンのおかげ」というのは、単なる謙虚さのアピールではなく、ひとつの真実を述べているだけだと思うのです。

負けず嫌いの人間は、勝つことが大事なのです。
それは自分が他人より勝っていることを証明したいからに相違なく、結局努力を認められる、あるいは運に恵まれていることを証明したいだけなのです。

でもそれがなんだというのでしょう。
別に本人の力じゃなし。

だから、そんなことに執拗に拘る人間は、私は嫌いなのです。

2013年5月1日水曜日

学習システム


以前、大学の授業のガイダンスを聞いていたときのことです。


教授は仰いました。

「授業資料を事前にインターネットにアップロードすると、皆授業にこなくなるのでそれはしません」


生徒として聞いていた私は、「きっと先生方も色々苦心されたに違いない」と思いました。
生徒が授業にこず、がっくりと肩を落とした日もあったかもしれません。

大学の先生というのはそもそも先生である前に一研究者でありますから、全員が全員、教えることに意義を見出しているわけではないでしょう。

しかし、質のいい生徒を育てたいのなら、アップロードするべきかなと思います。

そもそも授業なんて、自分でわからなかったところが解消できればいいわけでしょう?
なら、講義の中身なんて、殆どすっからかんでいいと思いませんか。

強いて言えば、「この教科書のどこらへんを勉強してください」くらいの指示はあってもいいかもしれない。
それ以外には何も必要ありません。

講義内で延々と何かを語ったとしても、わかっている生徒にとっては無駄な時間だし、わからない生徒にとってはわからないままです。

昔の哲学者が対話形式の授業を好んだのもこのあたりを意識していたからに違いありません。

もちろん、私の通っている大学だけの話かもしれません。
だとしたら少し切ないですね。
それだけ生徒のやる気がないということでもあるので。

今の時代の人たちの多くは勉強を「やらされて」いますが、果たしてそれが正しいことなのでしょうか。
大学レベルの知識をもつ人間が増えたところで、世の中が便利になるんでしょうか。

時間を無駄にしている人が多いように思えるのです。

それに大学生が優秀に見えるのは、単に年齢がある程度高いからなのかなとも思います。
高卒だろうが大卒だろうが、ある年齢に達すればそれなりの考えはもつのかなと思うのですが。

今の社会がどういう人材を要求しているのか、いまいちわかりませんね。