2013年12月21日土曜日

馬鹿にすること


誰かを馬鹿にすることは、無意味だと思う。

何かを見下してものを言うことは、ネット上では大変流行っている。
twitterでは馬鹿を叩き、2ちゃんねるでも「おまえら」なる架空の集団を叩く。
芸能人が不祥事を起こせば、炎上される。

何をそんなに叩きたいのか、と思う。

たしかに悪は是正されるべきだと思う。
何か悪いことをしたら正すのは当然であって、それが未来を見据えた訓示であるなら、なんら問題ない。

だが、今世の中(主にネット社会になるが)に蔓延している叩く雰囲気は、何も発展性がなく、ただ他人を馬鹿にしているような部分も見受けられる。

誰かを馬鹿にして時間を潰すことは、なにも意味を成さない。
相手は自分に対して何も得をもたらさない。
そこにあるのは、他社を見下して自分を偉く感じるという錯覚による優越感ならびに快感だけである。

認められたい気持ちは誰しももっていると思うが、他人を叩くことで認められることはない。

何よりも、苛烈に他人を批判することは恐ろしいと思う。

自分の間違いの可能性を一分一厘も考慮にいれず、相手に食ってかかっていけるというのは思慮が足りないのをひけらかしているようなものだ。
やはりどこかで自分のことも疑うようでなければ、人は成長していけまい。

なにより、他人を馬鹿にするのは危ない。

馬鹿にされるような人間というのは、この世の大抵のことがどうでもよかったりするので、そういう人間が自棄になってしまったとき、果たして自分の優越感を守りに入っている人間が勝てるかということである。

自棄になった人間が怖いのは、宗教に地獄があることを見ればお分かりだろう。
地獄というのは世捨て人が自暴自棄になるのを防ぐために賢人が考えた世界観である。

馬鹿にされるような人間をつつくのは、爆弾をつつくようなものだ。
優越感程度の幻に浸るべく手をだすには、危なすぎる代物だ。

何より、馬鹿にする側の人間は、自分の弱さを知るべきである。
他人を馬鹿にしないと自尊心を保てないのは自我がない証拠であって、弱みでしかない。
自分の価値の保証を自分が馬鹿にするものに求めるというのは何かおかしな話である。

馬鹿にする行為が溢れる世の中は、爆弾だらけで恐ろしい。

2013年12月17日火曜日

真面目に言えてニ流、ジョークが言えて一流


何かを言う時、正論を言ってはいけない。
なぜか。

正論は、返す言葉をなくすからだ。

正しいことは基本的に、話す内容として不適切である。
なぜならそんなこと皆わかっていることが多い。

それなら間違ったことを言えるくらいのほうがいい。
いわばボケだ。

もちろん、正しい事を把握できる能力は評価しなければならないが、それをそのまま言う事はナンセンス。
あえて裏返して見せるほうがいい。

そこでジョークが評価されることになる。

なぜならジョークは、ひとつのストーリーがあり、かつ可笑しい。
さらに話は膨らむし、政治や職業に関する常識を知っていてこそ面白みがわかる。

自分がもつ知識、その正しさを主張する上で、相手を困らせない。
なおかつ、それが通じる相手は、自分に見合う相手であると見抜けるわけだ。

そういう意味で、ジョークは試金石である。

ジョークのようにストーリー性を含む必要性はない。
面白い要素があって、かつ事実や意味ある内容を含んでいればいい。

真面目なことを真面目に語るのは、ニ流のやる事。

では私がなぜ真面目に語ることの愚を真面目に語っているか。
それは、別にこれを見ている人はストレートな内容を求めているからだ。

冗談は、理解できない人を本来の意図から遠ざけてしまう。
だから、相手を見る必要はあるだろう。

2013年12月12日木曜日

安定性のない人間は成功しない


私たちは外界を見る時、それらを認知します。

目の前にあるりんごを見ます。
そしてその存在を認める。

存在を認め、食べようと思った時、手を伸ばします。
りんごの感触をたしかめ、かじると味がしますね。
ああ、りんご美味しいな、と思う。
このとき、私の中でりんごは存在している。

では、スイカ割りの話をしましょう。

スイカを砂浜に置きます。
棒をもって、スイカから離れます。
目隠しをされます。

さあ、スイカを探せますか。
位置は大体わかりそうですね。

つまり、あなたはスイカからどれくらい離れたか逆算して、スイカがある位置をおおまかに把握しています。

スイカがあるであろう地点までいってみて、試しに棒を振ります。
あれ、スイカが割れた感触がない。

スイカとの距離感が、掴めてなかったようですね。
棒を振っても感触がなかったから、スイカがなかったとわかりました。

きっと少し位置を間違えたのかもしれない。
少し右、少し左にも棒を振り下ろしてみますが、手応えがありません。
おかしいな、たしかにここらへんだったはずなのに…。

わからないよ、と言って目隠しをはずします。
すると、にやにやしながら友達がスイカをもっていました。

なーんだ、もってるんじゃあ、あたりっこないじゃんか。


りんごとスイカの例を比較して違うのは、りんごの場合は自分が思うようにすべての事が運んだという事で、スイカの場合は目隠しによって状況がまったくわからなかったうえに、友人のいじわるという、予想が難しい事態が起こったということです。

りんごの場合ではただりんごを見てとっただけですが、スイカの場合は自分がスイカの位置を予想していましたね。実はそれが大事なのですね。

存在論の記事も話したように、人間は外界を見て、その状態を頭の中に入れます。
なのでりんごの場合も、いったんりんごの場所を頭に入れていて、手を伸ばしています。

こういった想像力は、理解力に直結しています。

何故かというと、理解とは、外的世界の状態を自分なりに解釈することだからです。
そしてもし現実と食い違った時、答え合わせをして解釈通りにいかなかった理由を考えます。

安定性が重要になるのはその理由を考える時です。
さっき、スイカの例で、友人のいたずらのせいでスイカが割れなかったのは、「友人のいたずら」という要素が普段とかけ離れていたからです。
もし友人がよくいじわるをする人なら気付いたかもしれません。

このように、普段起こらないことが混じると、途端に判定が難しくなるのはわかると思います。
表現を変えると、生活が安定していれば、なにかが起こった時に原因が見抜きやすくなるのですね。

だから、いつもと同じように過ごすと、自分の体調や、周りの様子に対して敏感になれるわけです。

2013年12月8日日曜日

想像力


想像力は日常生活においても大切な能力だと思う。

想像力というと、ああしたらこうなる、というような、例えば、ここで怠けたら明日苦労するかもしれない、というように未来を予期する能力を指すものだと思われるかもしれないが、想像力を語る上で押さえられるべき事項は、そのような因果的なものよりも、むしろ我々がもつモデリング能力であると思う。

つまり、私たちは何かを想像している。
こうなったら、ああなるという流れを想像するためには、まず、ああしたらこうなるものである、というモデルが存在しなければならない。つまり、私たちは対象に対して概念を明確にもっており、その前提の下で対象のふるまいを予測しようとする。

もし予測が間違えば、それは自分の中に形成した概念が間違っていたか、あるいはいままでに経験しなかった対象となる概念の新しい側面を見たかのどちらかである。
その違和感を元に、概念の内容を更新する。

ここで概念と言っているのは、つまりあるものに対するイメージとも呼べる。

つまりは、何かをイメージすることがなければ、答え合わせができない、ということを言いたい。

かつての偉人たちが、自分の頭の中に巨大なイメージ空間をもっていたであろう、という話は以前他の記事で触れたと思うが、要するには、目を瞑っていてもできる、というのは、対象に関する情報を他の器官に頼って補完しているだけでなく、今までの経験の蓄積から、すでに見なくても振る舞いが分かっている、とも考えられる。

認識論的な話しでも言われるように、つまり我々が見ている世界は、我々の世界なのであって、個々の人間が独自に作り上げているイメージ空間だと言えるだろう。

目を話していてもタイピングができるのは、手で感触がわかる、という単純な理由だけではなく、そこにキーボードが、このようなサイズで、このような形で存在しているという、明確なイメージをもっているからである。

だから私たちは、自分が見ることのできない世界の状態を勝手に想像する。
北極では熊が暮らしているとか、そういうような。

そして実際に見聞きすることで、現実との答え合わせができるというわけだ。

別にこんなことはわざわざ言うまでもない。
無意識にやっている人はやっている。
しかし、意識されないからこそ、意識してみると面白い、そういうことなのかもしれない。

以前苫米地さんが、人間は一度見たイメージの世界で生きている、と言ったのは恐らくそういうことを指していて、決して我々が好き勝手な世界で生きている、という意味ではなく、一度頭の中に世界のモデルを構築している、そして整合性が合うか確認しながら生きている、ということを言いたかったんだと思う。

また、最近(2014/10/15)になってデカルトの「方法序説」を読んだのだが、その中にも似たような考えがあるので、興味がある方は一読されると良いだろう。
かの有名な「我思う、故に我あり」という文言は、上記の内容と関連していると思える。

2013年12月7日土曜日

カルマ


インドにはカースト制度というものが今もあるらしい。

人々は四つの階層に分けられ、それぞれ優劣がある。
カーストは生まれによって決まるため、人々は生まれながらにして結婚や職業に関して制限がある。

カーストの根本にあるのは輪廻転生の考え方で、人々は何かが死んだことにより生まれ変わった存在であるとされる。
生まれ変わる前の行いが悪ければ低いカーストに生まれる。つまりカルマを背負って生まれてくる。

生きている間に徳を積めば、次に生まれる時は良い身分に生まれることができるわけだ。

カーストは生まれながら階級を規定する制度だから、いくら宗教的とはいえ差別である。
私たちも親が金持ちなら良い教育を受けることができ、結果として高給取りになる可能性が高いように、学歴格差社会は少しカーストに似ている。
カーストの場合は、例え努力しても現世では認められないのだから、より厳しいといえるだろう。

日本人から見れば、この世界観は不自然に映るに違いないが、誰も否定することはできない。
なぜなら、私たちの死が、本当に輪廻転生の一部であるかどうかは、証明しようがないからだ。

なにせ私たちは前世の記憶をもたないうえ、仮に持っていたとしてもそれが真であると証明することができないだろう。この話は世界が5分前に創造されたという仮説を反証できないことに似ている。

ということは、この制度が成り立つのも成り立たないのも不思議ではないし、真偽ではなく善悪の問題である。
だが以下のように、やめさせるための論理を用意することはできる。


カースト制度は、一生を一単位として見ている。
つまり、一単位の間は身分を変えることはできない。

だが、我々の制度では違う。
一生のうち、一分一秒の間にも、立場は時々刻々と変わってゆく。

つまり、双方の差異は、身分を変えることができる時間なのであって、我々の生きる世界のほうが流動的だと言える。

どうせ善行を積ませるなら、生きているうちに報いが返ってくるほうが嬉しい。
そう考えれば、彼らを我々のルールに引きずり込むことができるかもしれない。


2013年12月6日金曜日

ブラック企業は誰のせい


ブラック企業、という言葉が世間でも聞かれるようになってしばらく経つ。
昨年の流行語大賞にノミネートされたし、厚生労働省も対策に乗り出した。

就職活動をする大学生の間では、「あそこはブラックだから」と噂が飛び交う。

若者の話を聞けば、労働環境が悪いからやめた、とまだ勤め始めて数年でやめたという話をよく聞く。

果たして何がブラック企業を産み出しているのか。

そもそもブラック企業とは、どういう会社を言うのだろう。
労基法を守っていない、労働環境の劣悪さ、パワハラ、サービス残業を強要するなどを言うようだ。

つまり、あんまり酷すぎる環境だとダメ、ということらしい。
でも僕はこれに疑問を感じている。

ブラック企業がそれだけ非人間的なことに手を染めるのはきっと理由があるはずだ。
会社の仕事はすべて利益のため、ならば、ブラックな労働の利益はどこへいくのか。

一つ考えられるのは、中間搾取が酷いパターン。
例えば数年前に派遣会社が問題になった。

派遣会社は社員を他の会社で働かせる。
でもよくよく考えれば、別に派遣会社で働く必要はなくて、自分で働く会社に入社すればいい。
というか、そのほうが派遣会社にマージンをとられないから絶対効率いいじゃないか、と思う。
だが、現状そういう雇用形態がある以上、需要があるのだろう。
恐らくは、正社員を雇うより手軽なので、一時期の作業に必要なスキルをもった社員をとっかえひっかえできるのがいいに違いない。
それは逆に、働く側の安定なんて知ったこっちゃないし、使えなければポイすればいいし、という、ちょっと酷い考えが入っている。

これは会社が人材の流動的な確保についていけておらず、昔の正社員システムに引きずられているからとも言えよう。


もうひとつ、ブラック企業の原因としてあまり言われていないのが、人材の能力不足だ。

不況で儲からない、それもたしかにそうかもしれない。
しかし、そもそも会社というのは、人が働いた分の成果が儲けに繋がるはずだ。これは働いた時間の分だけ給与が発生すべきだ、などという暴論ではなく、単純に、働きに見合った給料が払われるべき、という主張に過ぎない。
言い換えてしまうなら、今の人たちは働いた時間の割に利益をだせてないんじゃないの?ということである。

もっぱらブラック企業という言葉は、被害者側が企業に悪印象をもったためにつけられた名前であるが、果たして自省する必要はないのかと言われると、それは違う気がする。

ブラック企業が嫌ならやめればいい…という意見は冷たいように聞こえるだろう。
だがそれも一つの真実だと思う。
働き手がいなくなるのは会社も困る。だが、働けない方はもっと困るから安値で働いてしまう。
しかしながら、そもそも働き口が危ういような人間が、どんどん生産されていること自体が問題なのではないか。

今や大学全入時代と言われることすらなくなったほど、大学に行くのは珍しくなくなった。
しかし、それは若い時間をと労働力をみすみす逃しているに過ぎない。
教育は投資だと考えれば、今の大学の平均レベルは投資ではなく資産を遊ばせているに過ぎない状態のように思える。

そもそも大学と言いながら、底辺の大学では高校内容の焼き増しのようなことをやっているのだから、それは高校のときに済ませておけ、という話ではないか。
人の成長速度が違ったとしても、果たしてそこに長い時間をかける意味はあるのだろうか。

そのうえ、就職の話となれば、企業が求めるスキルと大学での勉強内容が合致しない、という。
そして大学は就職予備校ではない、と言われるわけだが、現状は就職予備校以外の何でもない。
例え研究がしたくても、博士課程まで進むとその後が心配だから、と諦めるものもいる。
そんな中途半端な姿勢を貫いて、若き者の時間をもてあまさせることは、社会に悪影響を及ぼす。

最近言われている、未婚率の増加や晩婚化の傾向の要因として、不況による低収入だけでなく、早くから稼いで貯蓄できないことによる足踏みが挙げられるような気もする。

さらに言うなら、女性の社会進出も悪影響だ。
こんなことを言うと女性から猛抗議を喰らいそうだが、あえて言おう。
稼ぎが苦しいから夫婦共働き、というのは、大変な美談のように聞こえるが、雇用的には人材の価値が上がらなくてまずい。
なにせ働き手が二倍になるわけだから、安値で買い叩かれるのが道理だろう。
つまり、目先の利益を稼ぐために大局的には安い労働を買って出ているような気がする。

それだけ仕事というものの価値があがったとも言えるかもしれない。

さて、ブラック企業の話に戻ると、たしかに労基法を守らないのは悪い。
だが、稼いで食っていけないならより厳しい環境で働くしかないのではないか。
それが嫌なら知恵を絞るしかないのではないか。
それは自然の摂理のように思えないか。
労基法で労働時間を決めたところで、それは逆に、その労働時間で生きていくだけの働きをしなければならない、ということなのだ。
多分独力で生きていけるような能力の持ち主は馬車馬のように働かなくたって生きていけるだろう。

というわけで、私はブラック企業のせいにするだけではなく、人材の教育を見直してほしい、という風に考えている。

2013年12月4日水曜日

子供の遺伝子操作


米国で、遺伝情報を解析し、親が望む子供を作るデザイナーベビーに繋がる技術が開発されたそうだ。
既に特許はとられており、十数年後にはビジネスになるかもしれない。

こうした最新技術について回るのが、倫理問題である。
今回の場合は、遺伝子を操作するという行為が、自然の掟に反するのではないか、という点である。

これは論理的な問題ではない。
何故なら、それによって誰が不利益を被るわけではないからだ。
強いて言えば、操作されることなく生まれてくる赤ちゃんが被害者とも言えるかもしれないが、病気のリスクを避けられるというならば、反対する理由はないだろう。

つまり、人間は自然(あるいは神か)に支配されているべきものであって、交配や自然淘汰のシステムは自然の法則にそぐわないというわけである。

しかしこれは妙な話ではないか。
そもそも交配や自然淘汰のシステムなど、人間が勝手に解釈しただけで誰が生んだとも知れないものを、人間が乗り越えてはいけないというルールがどこにあるのか。

そんなことを言うなら、セックスにおける避妊だって、中絶だって、十二分に掟破りである。
それは宗教として論じられるべきことであって、倫理ではないと私は思う。

中絶はたしかに人を殺すわけであるから、罪の意識があるのも納得できる。
しかし、遺伝情報の操作は違う。

これは子供の産み分けと逆の問題である。
子供の産み分けが、望みにかなわない子を捨てるという発想であるのに対し、遺伝子操作は望みにかなわない子が生まれ、捨てられるのを事前に防いでいると言えるのではないか。
そういう意味で、私は有効だと思う。

子供の産み分けの是非については、私は否定はしない。
なぜなら生むのは親の勝手である。だからといって殺すのも勝手ということはないとしても、責任をもって育てられないなら産み分けと称して命を絶つのはやむを得ない。もちろん手は尽くすべきではあるが、赤ちゃんも親も苦労するであろう(たとえば病気を患っている)などの場合は、やはり当人たちの問題であって、責任をもたない他人が口をはさむべきことではないように思う。
だが、できるならそんな悲劇を避けたいと考えるのは当然のことではないか。

となれば、遺伝子操作による産み分けがノーリスクなら、非常に有効な方法だと思うのだが、どうだろうか。