2013年5月12日日曜日

負けず嫌い嫌い


私は、負けず嫌いな人間が嫌いです。

別に自分で課した課題に対して完璧を求めるとか、その手の完璧主義ならかまわないのですが、何か勝負事において、勝った負けたで一喜一憂する人間が嫌いなのです。

それは残念ながら、私が勝ちの味を知らないからです。

もちろん、何でもかんでも負けてきたわけではありません。
学力にしろ、運動能力にしろ、誰しも何かしらで少しばかりは人より勝っているものです。
ですが、世の中の平均から見れば常に少し下にいるような存在なのです。

ですから、普通にしていれば大抵負けます。
だから面白くない。

別にそれが、自分の努力不足で、まったくもって自分のせいならいいのです。
相手がいくら勝って喜ぼうが、負けて悲しもうが。

ただ、相手が勝って誇らしげにしてるのをみると、なんだか腹が立ってくる。
何故なら、相手が私に勝ったのは根源的にラッキーでしかないからです。

それ以上でも以下でもありません。

何かで優勝した。
努力が報われて涙を流す。

それは別にかまいません。
運の良さが勝敗をわけていたとしても、その人はその人なりに努力をしたのでしょうから、どちらにせよ涙を流す心情は理解できます。

しかしながら、勝負事で勝ち誇られる瞬間ほど、理不尽なものはありません。
そもそもが同じ条件で戦っていないのだから、当然どちらかは勝つし、負けます。

それはかまわないのですが、相手がすべてを自分の手柄のように振る舞うことが許せないのです。
平たく言えば、謙虚さを知れ、ということです。

極端な事を言ってしまえば、「応援してくれた皆さんのおかげです」なんてのは謙虚でもなくて、半分以上ほんとです。

生まれの差は、努力の差ではありませんので。
だからこそ、ほんとは悔しいのかもしれません。

ただ、覆すことすらできないし、文句を言うことも許されない。
なぜなら、負けた人は努力が足りないだけだとレッテルを貼られてしまうから。
文句を言うなら努力をしろというわけです。

たしかに、努力は大切ですし、文句を言うなら努力を重ねた方が良いというのは正論です。
だからといって、勝った側が偉そうに何を言ってもいいわけではないのです。

たとえ当人が努力をしていたとしても、勝利の要因に少しでも運の要素があったのなら、偉そうにする資格などないのです。

だから、「両親のおかげ」「ファンのおかげ」というのは、単なる謙虚さのアピールではなく、ひとつの真実を述べているだけだと思うのです。

負けず嫌いの人間は、勝つことが大事なのです。
それは自分が他人より勝っていることを証明したいからに相違なく、結局努力を認められる、あるいは運に恵まれていることを証明したいだけなのです。

でもそれがなんだというのでしょう。
別に本人の力じゃなし。

だから、そんなことに執拗に拘る人間は、私は嫌いなのです。

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