2013年10月22日火曜日

結果論ってなんだよ


「それって結果論だよね」

こんな台詞を聞いたことがある。
何か問題が起こったとき、責任者に厳しい批判を浴びせる人は必ずいる。
そんな人を諫める意味で発される言葉が「結果論」だ。

でも実は僕、結果論の意味をよくわかっていないが、印象だけで善悪判断をするならそれは悪だと思う。
深く立ち入らずに流してしまうのも気味が悪いので、例を挙げて考えてみたい。

例えば、伊豆大島で避難勧告のやり方が杜撰だった事例がある。
避難勧告をちゃんとしなかった結果、土砂崩れで犠牲者が出た。

この事例では、避難勧告をもっとちゃんとしていれば被害者は少なかったはずだ、という批判が出て当然だと思う。

なので僕はそれを結果論だとは思わない。
犠牲になる人数は結果的に減らせたかもしれないならば、最大限の努力は尽くすべきだと思う。

この場合は明らかに、やらないよりはやったほうがいい策があったうえで、ベストを尽くさなかったのが問題なのだから、責任は追及されるべきだし、それを結果論とは言わない。


では別の事例で、ふたつにひとつ、プロジェクトをうまく運ぶうえでとるべき戦略の選択に迫られて、しかも選択肢両方共大して見通しが立たない。こんな場合はどうか。

結果的にプロジェクトリーダーが失敗して、批判に晒されるのは、役職をもつ人間の責任を考えれば当然かもしれない。
しかしこの場合、批判する側も勝馬にのっただけで、実際なんでダメだったのかはわかってない。

あとあとで、あれがダメだった、これがダメだったと原因追及をしてみても、それはすべて、失敗したうえでの結論なので、事前に判断するのとは状況が違う。
結果が出ているという意味で絶対の後ろ盾があるので、批判としてはアンフェアだと思う。

しかしである。
後々から批判を加えること自体は決して悪いことではないと考える。

なぜなら世の中のことはすべて結果論から導かれてきたのだから。
失敗してみて、ああダメだった、次はこうしよう、という思考は当前で、それをやめてしまうのは、改善の糸口を自ら手放すに等しい。

本質的な問題は、すでに起こってしまったことに対して、批判することだけに囚われて前向きな結論を導き出せないことである。

最近の報道を見ていると、こんなことが起こった→○○が悪い!までの流れはあるが、だからどうしようか…ってところの話し合いがすっぽ抜けている。
専門家は考えているのかもしれないが、一般の人々はその点に無関心だ。

これが「結果論」という響きが悪印象を帯びる主要因である。。

だから、結果論の一言で原因追及までをやめてしまう必要はない。
ただ批判に傾倒する姿勢を、前向きな力を得ることに切り替えることが大切なのだ。


・他の事例
ノーベル賞のような世界的な賞に関わる研究でも、「結果論」は生まれる。
有名なので御存知かもしれないが、ロボトミー手術なんかまさにそうだ。

ロボトミー手術は、1949年にノーベル生理学・医学賞を受賞した研究である。
その内容は、精神疾患を抱えて気性の荒くなった患者を穏やかにするために、前頭葉の一部を切除するというものである。
手術は一定の効果があり、実際に患者は穏やかになった。
そしてこの術式はノーベル賞を受賞するまでに至ったのだが、後々恐ろしい事実が判明する。
この手術を受けた患者の一部が、無気力やてんかんなど、様々な副作用に見舞われたのである。
投薬など他の医療法が確立され、一定の効果をあげてきた背景もあり、最終的に医学界ではロボトミー手術は禁忌とされることになる。

ここで単純に「ロボトミーを考えた医者は悪い」と断ずるのはまさに「結果論」である。
たとえ猿で検証したとしても、精神的な副作用については見抜きにくかったかもしれない。
結局人間で試さない限りは、効果はわからないのだ。

悲しいのは、彼らがあくまで善意によっておこなった結果が悲劇を生んでしまったことだ。
だから、この問題によって明らかに言えるのは、誰が悪いということではなく、医学的な判断は慎重に慎重を重ねて判断する必要があるという教訓である。


・おまけ
通常、「批判的」であることと「否定的」であることは区別されない。
ネガティブな印象だ。
だが、哲学でいう批判は疑いをもって情報を鵜呑みにしないことであって、決して世に言われるバッシングの意味合いではない。
その姿勢が大切だ。

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