2014年5月30日金曜日

不思議な夢


私は今朝、不思議な夢をみた。


私が目覚めると、そこはいつも通り家の中で、いつものように支度を済ませて大学へ登校した。

キャンパスに着くと、よく見知った人に呼び止められた。部活動の先輩だ。

普通に会話を進めながらも、私は違和感を覚えていた。

というのも、私は今現在大学四年生であり、先輩が大学にいるはずがないのだ。

文系の先輩だし、普段の様子からして大学院生になっているはずもない。

一体何の用があって大学へきたのかと尋ねてみようとも思ったが、どうも様子がおかしい。

先輩は部活動の予定の話をしたりしていて、まるで自身が大学生であるかのような口ぶりなのだ。

結局、内心動揺しきりで話を合わせてしまった私は、次々に異変に気がつくことになる。

大学の授業にいけば、そこは違う部屋だし、最近会ってないはずの友人に声をかけられもした。


それらの状況から私が導いた結論は、『私は過去に後戻りしたのではないか』ということだった。

実際そう考えると、皆の様子のおかしさすべてについて辻褄が合う。


事実として受け止めるのに少し抵抗はあったが、過去に戻ってしまった事について、気持ちの上では歓迎していた。

何せ記憶はそのままだったし、自分だけ年をとったということもなさそうだったからだ。

『若さというものは若いものなどに分けてやるにはもったいない代物だ』

もう一度すべてをやり直せるなら、以前(本来は未来だが)よりもきっとうまくやれる。

そんな根拠のない自信に満ちていた。


そこから先は、未来を変える作業の連続だった。

知っている場面に行き当たって、それが今後悪い結果に繋がる場合は選択を変えていった。

私は、パラレルワールドという言葉を思いだして、本当にそんなものがあるのかもしれない、私は時間という名の奔流にのまれて、枝分かれした先で、レアケースとしてぐるりと流れを遡ってしまったのだろう、などと考えていた。

だとすれば、もといたはずの私はどうなったのだろうか。

ふたりも同一人物がいれば鉢合わせているはずだし、私の身体はもともと誰のものだったのかということになる。

恐らく、私の意識だけが、ある過去の一点と入れ替わってしまった。

ということは、逆にいきなり未来で目覚めてしまったもう一人の私がいるはずで、彼は今頃どんな顔をしているのだろうか、とよくわからないことを考えていた。


だが、不意に終わりはやってきた。


ある朝目覚めると、目覚めたのは見慣れない、病院のベッドだった。

傍から心配そうに覗いている両親の顔が見えた。

事情を聞くに、私はいきなり意識を失ってしばらく眠っていたという。


つまり、すべては夢だったのである。


そこですべて納得がいった。

過去に戻るなんて非現実的で都合のよい話があるわけもなく、私はただ現実の続きとして夢を見ていただけだった。

親は喜んでいたけれど、私は正直、少しがっかりした。

せっかく、人生をやり直すチャンスを得られたのに、その望みが断たれてしまった。


両親が帰ってしばらく、私は病院のベッドでひとり考えていた。

あんな非現実的なことを、信じてしまうなんて、なんだか少しショックだった。

人間というのは、手がかりを与えられると、簡単に勘違いをしてしまう生き物なんだ、少なくとも私はそうだと思った。

あのとき、夢の可能性を疑わなかった自分が信じられないし、自分自身が思っていたよりも自分の思考はファンタジーを望んでいて、それを受け入れる用意もできているのかもしれないな、と思った。

そしてまた目覚めたら、他の時間軸に戻っていたりはしないかと思った。

と、そこまで考えて流石に眠くなってきたので、目を閉じたのだった。


「はやく起きなさーい!」


母が私を起こす声が聞こえる。

病院なのに、そんな威勢のいい声で起こしてまずくないかと思った。

そして目覚めると、

「今日はでかけるの?」

と尋ねられたのである。そして気がついた。


本来の時間軸に戻ってきたのだ。

いや、いままですべてが夢だったのだと。

つまり、意識を失ったことすらも夢だった。



と、こんな具合である。いわゆる夢中夢だ。

今こうして文章を書いている自分も、夢の中かもしれない。

上述のような夢をみると、『人生は泡沫の夢である』というフレーズの意味がよくわかる気がする。

正直、夢である可能性をあくまで疑わず、すべて受け入れてしまったあたり、私はまだ疑うという事に関して詰めが甘い。

時間遡行を大した躊躇いもなく信じるなんて、めまいがする限りだ。

リアリストの顔をして心底ファンタジックな夢が好きなのだろう。


しかし、小説では絶対にやってはいけない展開だ。

夢落ちを一度使ってしまうと、このようにどこまでが夢か、展開に信憑性がなくなるので、常に疑いながら展開を読まなければならない。

だから、物語の絶対条件は、『語り手が信じられること』であると思う。

2014年5月21日水曜日

メモの意義


就職活動をするようになって、メモをとるようになった。

しかし、メモや手帳の意味はどこにあるのか。
それはつまりシンプルに、メモが"忘れないため"にするものであって、"憶えておくため"にするものではないということである。

ふたつとも同じ意味に聞こえるかもしれないが、それは違う。

メモ書きというものはあくまで、メモ書きでしかなく、メモに書いた内容がそっくりそのまま頭に入っているわけではないと言いたい。

メモは外部記憶のためのツールなのだから当然と思うかもしれない。
だが、ここで言いたいのは、メモが無用だとかいう話ではなく、メモを見て結局頭に入れないといけない、という話だ。

もちろん、メモを体裁上使うということもあるかもしれない、努力を示すポーズとして。

だが、実用的にメモを使おうと思えば、なんでもかんでもメモしていては意味がない。
なぜなら、何かを組み立てるとき、一時的に頭に情報を入れておく必要があるので、ひとつ見てひとつ忘れていたのでは、いつまで経っても双方が組み合わさることはないのであるから。

創造性のためには、記憶が必須条件である。
なにせ創作活動は、0から1を生み出すのではなく、やはり1を10にも100にもする活動だと私は考えているからである。

つまり、必死にメモをとっている人をそれだけで評価することは、愚の骨頂だと言えよう。

誰でもできることをしないのは愚かだと言う人もあるかもしれない。
だが、誰でもできることにそれそのものの価値などないのである。

メモをとる人よりもメモを活かす人にならねばならない。