2014年8月25日月曜日

イメージ・トレーニング


スポーツなどの世界では、練習としてイメージ・トレーニングがよくおこなわれているようだが、本当に効果があるのだろうか。

イメージと言っても、具体的には、ゲームの流れや成功する自分を想像するという。

別に想像するだけなら誰でも出来るし、そう難しいことではないように思える。
にも関わらず、それだけで効果が上がるなら素晴らしい。

しかしイメージ・トレーニングでさえも、うまくやれなければ効果を得ることはできないようだ。
手軽にできて成功できる、なんて魔法とはちょっと違うようだ。

すでに、どこかの記事で述べたが、人間は「水槽の脳」である。
我々が生きている世界は、擬似感覚かもしれず、あるいは夢かもしれない。

寝ているとき、無意識に見られる夢を、意識的に見られない理由はどこにもないと思わないか。

実際、妄想という言葉があるように、人間は夢を自発的に見ることができる。
この能力を、想像力という。

あるとき私は、目の見えないピアニストが、なぜピアノを弾けるのか不思議に思った。

でもよくよく考えてみると、別に難しいことではないのかもしれない。
現に私も、世の中の現代人の大半も、キーボードを見ずに文字を打つタッチタイピングをおこなうことができる。
同レベルで語るのは失礼かもしれないが、手元を見ずに特定のキーを打つという点で、何も違いはない。

これを世間では「身体で覚える」と呼ぶが、正確には夢を見る能力だと思う。
つまり、目で見えてない部分も、自分の頭の中には存在している点で夢や幻覚と似ている。

別に誰も、目を開じて視界が真っ暗になったからといって、世界が消えてしまったとは思わないだろう。
いきなり停電がきても、慣れ親しんだ建物なら出口に辿り着けるだろう。

それは、過去の記憶を引き出して、現在の世界に重ねているからに過ぎない。
停電の例に限らず、普段目にしている世界もすべて、目から入った光を脳で情報処理するまでの時間を通して見ているから、過去である。
それを元に動作を行うのだから、双方の実例になんら違いはない。
ただ、記憶の新旧の違いでしかない。

つまり、我々はそもそも記憶の中に生きているのに、そうではないと勘違いしている。
だから、記憶よりもなるべく目の前の情報に頼ろうとする。特に一刻一秒を争うスポーツにおいては。

それによって、即時に対応する意識が強くなりすぎて、結果的に記憶を保持する能力が落ちる。
だから、意識的に記憶を保つ練習をする。

これがイメージ・トレーニングの正体だろう。

別に魔法の言葉でもなんでもないし、スポーツに限らず様々なジャンルで役立つ方法と言えそうだ。

だから、成功をイメージするのは実はそんなに重要ではないと私は思う。
ただ、イメージするのは実は結構な労力だから、どうせなら楽しい内容でやったほうが意欲が沸くというだけのことではないか。


2014年8月22日金曜日

アイス・バケツ・チャレンジについて


最近、アイス・バケツ・チャレンジなるキャンペーンが話題らしい。

ALSという難病の患者とその友人が立ち上げたチャリティーイベントだそうだ。
ルールはこうだ。

①氷水をかぶるか、寄付するか、あるいはその両方を選択して実行する。
②SNSを通じて、次の実行者として友人・知人を指名する。

歌手やタレント、スポーツ選手など多くの著名人が参加しているが、ネット上では物議を醸しているようだ。

そもそも、このイベントはチャリティーという名目ではあるが、それをダシにしたお祭りと化している。
実際はお金は集まっているが、普通に寄付をするんじゃいけないのか、というわけである。

別に、多くの人は氷水も寄付も両方選択しているのだから寄付が集まってよいと思うのだが、結局のところ、有名人が話題作りのためにおこなっているという側面もある。

つまり、純粋なチャリティーではなく、楽しんだり、売名行為に走っているだけの偽善じゃないか、というわけである。

だが、実際に莫大な寄付金が集まっているのも事実だし、話題になっている。
成功している。

ALS患者の一人は、嫌悪感を示しているようだが、それが代表意見というわけでもなさそうだ。

個人的には、「発案者はうまいことやったな」としか思えない。

別に、チャリティーをダシにしてお祭り騒ぎをしていたとしても、お金が集まっているならかまわない。
拝金主義的かもしれないが、患者やその周りの人々の生活が少しでも楽になるなら、手段はあまり重要ではない。(死人がでているわけでもないので)

悲しいのは、そうでもしないと寄付金が集まらない状況、病気に興味をもたれることもない、患者の立場である。
ダシにされて、可哀想と同情されてお金を貰うなんて、道化と変わらないような気もする。

もちろんそうやってでも生きなければならないのだろうが、だからこそ悲しい。

そしてもうひとつ、SNSで承認欲求を満たす行為も、ついにここまできたかという感じもする。
SNSが人間の愚かな側面を見せてくれるのは今に始まったことではない。

それがついに寄付という名のビジネス(これはもはやビジネス)に利用されるという結果に至った。
なんか世も末という気がする。

そういった時代に合わせて、うまいこと寄付金を集めた手口は、見事としか言えない。
ただ、その場のノリで参加した人は、一度立ち止まって、よくよく考えたほうがいいんじゃないか。

自分たちの目立ちたいという気持ちが、膨れすぎて利用されているということに。
別に寄付のためだからいいじゃない、というならそれでいい。

ただ、それが悪意的に利用される可能性は心に止めておくべきだと思う。

この問題が一番反発を生んでいるのは、リレー方式、という事だと思う。
指名してやらせるという、暗黙の強制力や、人脈の広さをアピールする行動自体が気持ち悪い。

もしもこれが単に、インターネットで動画を公開して、「僕は氷水をかぶって寄付をします。気骨のある同志募集!」だったら、美談で終われたんじゃないかと思う。

このイベントが生む同調圧力、これが反発を生む原因に違いない。
しかし同時に、それだからこそうまくいったとも言える。

ひねくれ者


不幸なひねくれ者に対して、「そんな態度だから不幸になるのだ」という発言は、正しいのだろうか。

正しくない。
ひねくれ者は不幸のせいでひねくれるのであって、ひねくれているから不幸になったのではない。

そもそも上述の台詞を言うような輩は、大して辛い思いをしたことがないに決まっている。
自分は健全な態度をとっているから幸せだとでも言うのか。

たしかに、ひねくれた態度をとるものは、より不幸になっていくだろう。
別に世間に迎合することを良しとするわけではない。
ただ、ひねくれ者と時間を共にしたところで興ざめだろうから、運も人も遠ざかっていくには違いない。

とはいえ、「ひねくれた態度が人を不幸にする」などと言ってはいけない。
それは半分正しいけれども、ともすれば「ひねくれた態度を改めさえすれば幸せになれる」と聞こえなくもない。

ひねくれ者に解釈の選択肢を与えれば、悪意的に解釈するに決まっている。

大体、そんな忠言はお節介である。
ひねくれ者をよりひねくれさせるだけなら言わないほうがましだ。

こうなるとそもそも、なぜひねくれ者にそこまで気を遣わねばならないのか、という話になってくる。
何か彼らが力をもっていて、それを借りたいというならまだしも、大抵のひねくれ者は不幸を呪うほど無力である。
そして無力な者に使う気持ちの余裕など、多くの人は持ち合わせていない。

となれば、ひねくれ者は放っておかれることになる。
これがひねくれ者の悲しみである。

別に当人だって、好きでひねくれ者になるわけではない。
当人は、いかにもそんな自分が好きですという顔をしているが、それはただ、自分が嵌まってしまった落とし穴に対して、どうしようもないので、素敵な造型だわと褒め称えて納得しているに過ぎない。

こういうことをひねくれ者に言うと、「何を勝手に決めつけてくれているんだ」と目くじらを立てて反論されるに違いないのだが、ひねくれ者のくせして勝手な決めつけを嫌うさまは、とても矛盾めいたものを感じさせる。
どうせひねくれ者なら、世間の評判など気になさらず、どうぞご勝手になさればよろしい、という気もはしないか。

ひねくれ者はお節介を養分にひねくれてゆくのである。

それは半ば生まれ持った性質、運命がそうしてしまったのだから、どうしようもない。
どうしようもない、ということは、放っておかれる運命にあるということだ。

ならば、ひねくれ者に救いはないのか。
ない。


・おまけ
上述の「ひねくれ者」とは、決して「世間と違った意見をもつ者」のことではない。
それは個性であって、価値であるから、ひねくれ者という言葉があてられたとしても、褒め言葉である。
ただ、人の言うことやること、なんでも認めることが出来ずに、ただ文句ばかりを垂れている一言居士のことを指している。

2014年8月19日火曜日

自己実現


自己実現とは、自分の理想像に自分を近づけていくこと。


自分の理想と社会の規範にズレが生じると、苦しい思いをしそうです。
そうなると、偽りの仮面(ペルソナと呼びます)を被って社会に適応するか、奔放な自分を解放して世捨て人になるか、苦渋の選択に迫られるわけです。

大雑把に言えば、誰しも自分の存在を受け入れてほしいんですよね。
人類は昔から集団行動が基本ですから、きっと遺伝子に刻み込まれてるのでしょう。
だから、包み込んでくれる愛情には心地良さを感じる。

でももし、自分が自分の理想とかけ離れていたらどうでしょうね。
努力すれば近づけると言ったって、限界はあります。
歌手になりたいとか、スポーツマンになりたいとか、背が高くなりたいとか。
そういった理想像は、生まれたときの形質で決まる部分が大きい。
才能というやつです。憎いですね。

それを手にするのは一握りの運のいい人間で、残り大半の人間はいつか自分の非力さを痛感する日を迎えます。
挫折、というやつですね。

いつか、追い求めていた理想を捨てる瞬間が訪れる。
切ないですね。
そうなってしまったら、自己実現は永遠に達成されないわけです。

じゃあ一生自己を承認できないまま生きるのでしょうか。
いえ、第二の理想を立てればいいのです。
『与えられたカードで勝負するしかない』
私が好きなスヌーピーの言葉です。

この世は理で出来ていますが、不条理です。
なぜなら、生まれながらに人生を大きく左右する容姿や環境が決まっていて、その決定に努力が介入する余地はないのですから。

つまり取るべき道は、妥協するか、死ぬかです。
一般的に自殺は良くないとされますが、私は大いにありだと思います。
不平等なゲームを降りるというのも立派な選択です。
命が惜しくないなら。

ニーチェがキリスト教批判をしたのも、永劫回帰を説いたのもこういった考えを背景にしていると思います。(聞きかじりの知識なので話半分で読んでください)
ニーチェがキリスト教を批判した理由は、その禁欲的にエネルギーを抑え込む教えを、弱者の強者に対する嫉妬だと捉えたからだと感じます。
また、永劫回帰は、なんど廻っても自分の人生は同じということ。
そしてそれを受け入れることを良しとしている。

つまり、不平等なゲームだからといって降りたとしても、どうせまた同じ札が廻ってくる。
ならば、今ある状況を認める必要があるということです。
そして、現実から目を背けて弱い自分を善しとすることを否定するわけです。
ということは、残るは努力して前向きに生きるしかない。
そういうことみたいですね。

何度廻っても人生が同じっていうのは、「時間が無限で物質が有限とするなら、いつか同じ状況が廻ってくる」という考えに基づいているそうです。
原典を読んでないので断定的なことは言えませんが、すごく根拠薄弱ですね。

考え方は人それぞれです。
自分の可能性をまだ信じたいなら頑張ってもいい。
もう諦めるなら第二の理想を探してもいい。
その気も起きないならドロップアウトすればいい。

決断は難しいですね。
足がかりが欲しいところです。
強いて言えば、ただひとつわかるのは、何事も試してみなきゃ分からないってことだけですね。

2014年8月14日木曜日

エヴァンゲリオンで目指された世界


私の好きなアニメの中に新世紀エヴァンゲリオンがある。

エヴァンゲリオンは主人公の碇シンジが、使徒と呼ばれる地球を荒らす生命体と戦う物語である。

エヴァンゲリオンの世界では、表向きは人造人間による使徒抹殺が目標とされるが、実はその裏で、世界中の人間を生命のスープに戻すという、恐ろしい事態が計画されている。

当初観たときは、「すげー話だな、よく思いついたな」と思った。

だってなんだか、突飛だ。
皆ひとつになろう、って呼びかけたところで、大半の人間は拒絶すると思う。
でもよくよく考えると、それは世界のあるべき形を突き詰めると辿り着くひとつの答えだ。

誰もが、世の中に対して求めるのは、相互理解と平等だろう。
生老病死や三大欲求を除けば、あらゆる苦しみの根源は、他者との関係性から起こる。
七つの大罪では、傲慢、物欲、嫉妬、憤怒、貪食、色欲、怠惰が名を連ねているが、このうち怠惰と物欲を除いた五つすべてが、他者との優劣から派生して沸き起こる感情だと言っていいだろう。

こうした苦しみから世界を救うには、どうしたらいいか。
相互理解と平等が成立すればいい。

これにはいくつかアプローチがあるだろうが、最終的に三つに絞られると思う。

1. 世界を消し去り、苦しみを消し去る
2. 皆が擬似感覚で自分の好きな夢を見る
3. 皆と一つになる

1は、ファイナルファンタジーX(FFX)のシーモア老師の思想である。
FFXの世界では、シンという魔物が存在し、定期的に世界を荒らし回る。
そこで召喚師と呼ばれる人々が、自らを犠牲に数年間の平和を取り戻す。
しかし、永遠の平和を成し遂げる術はわかっていない。
そこで、シーモア老師は悲しい世界をまるごと消し去ればいいと考えた。
迷惑な話である。

これは哲学の認識論に基づいた解決法で、苦しみを認識しなければ苦しくないよね、じゃあ死んじゃえーという極端なやり方だと思います。

2は、NARUTOのマダラの思想である。
マダラは幻術という、幻を見せる忍術を皆に永遠にかけることで、それぞれが望む形を反映した夢の世界に生きることを目指す。
主人公は反対するけれど、正直僕は賛成。
だって誰も傷つかないわけだし、素晴らしく優しい悪役だと思う。
まあ、その目的のために皆を利用するのですが。

これは水槽の脳の話に似ている。
映画のマトリックスの設定と同じと言ってもいい。
我々が生きているこの世界も、所詮は擬似感覚であるかもしれない、なら擬似感覚で好きな夢見りゃいいじゃないかという発想。
幻術にかかっている間は誰が現実を管理すんねんという問題が残るため、少々不安はある。

3は、エヴァンゲリオンのゼーレの思想である。
ひとつの生命体になっちゃえば、皆平等、争いもない平和な世界、素晴らしい!ってわけです。
僕は嫌です。自我がなくなっても生き続けるなんて変な感じがするでしょう。
でも、死んでもかまわないなら自我が変質するくらいどうってことないかもしれませんね。

これは…正直類例が思い浮かびません。
なにせ現実的にもっともありえない話なので、実例や似た考えは少ないんじゃないかと思います。


面白いのは、悪役は悪役なりに大義があって、悪気があるわけじゃないところですね。
そして主人公達は反対するのです。
主人公達はあくまで悪役を止めるだけなので、受身というか、割と保守的と言えます。

主人公の考えを一度疑って作品を見てみるのも面白いかもしれないですね。
ちなみに、アニメの悪役にフォーカスした本に「世界制服は可能か?」というのがあります。

これはどちらかというと、悪役としての方法論、How to 悪役って感じのテイストの本ですが、興味ある方は読んでみると面白いかもしれないですね。
扱われる作品はちょっと古いですが。


・おまけ
皆とひとつになる思想では、きっと自分の人格が60億分の1とかになっちゃうんでしょうね、寂しいね。
では、ハーフ&ハーフならどうでしょう。
あるいは、左脳と右脳をくっつけた状態なら?(左右で男女が分かれている敵役がいましたね)
とか、考えてみるのも面白いかもしれませんね。
興味がある方は、「テセウスの船」「砂山のパラドクス」で調べるといいかもしれません。