2014年12月13日土曜日

優柔不断と決定力


優柔不断は悪しき特性である。

物事のほとんどは短所と長所の二面性をもっているが、優柔不断は悪である。

それは単に言葉の与える印象の問題で、慎重と言い換えれば良い特性と捉えることもできると主張する人もあるかもしれないが、私はそうは思わない。

適切に判断を留保し、適切に判断を下せるならば、それは慎重と言えるだろう。
だが、むやみやたらに悩んで時間を浪費するのは、優柔不断以外の何でもない。

判断にかけるべき時間は、事の重大性によって使い分けられるべきである。

例えば今晩の夕飯を何にしようか決めるのに、一時間も二時間もかけていたのでは夕飯を作る時間がなくなってしまうし、逆に将来に関わる志望校を決めるのに二時間程度で決定を下すのはあまりにも慎重さに欠けると言えるだろう。

リスクが、事の重大性とそれが起こる確率によって表現されるように、適切な判断とは時間(労力とも言える)と事の重大性から決まる二元的な行為だと言える。

つまり、事の重大性が低いにも関わらず時間や労力をかけすぎたり、逆に重大な事柄を即時決定してしまうことは悪しき特性であり、特に前者を優柔不断と呼ぶ。

優柔不断は、整理能力の低さか情報蓄積力の不足によって起こると考えられる。

何かを決定するうえで絶対に必要な能力は、情報の蓄積力である。

それは、今決定すべき事項が一体何であるかという問題設定をすべて頭の中に保持するという能力である。

夕飯の決定なら、まず麻婆豆腐か、筑前煮か、ステーキかなどなど、列挙した選択肢をすべて頭の中に浮かべて、それらを比較しなければならない。

このとき、ひとつ浮かべてはひとつ忘れていたのでは、永遠にゴールに辿り着かないのは当然である。

もちろん、最低限ふたつだけ覚えておいて、逐次的に比較し、最終的に決定するという方法も考えられるが、コンドルセのパラドクスによれば、操作の順番によって結果が変わってしまうため、問題を大局的に見なければ公正な決定ができないケースもある。

この情報蓄積力に問題がないとして、優柔不断の原因となりうるのは整理能力の低さである。

冒頭で例を挙げたように、優柔不断という性質について、いや慎重とも言えるのではないかという反論はまっとうに思えるが、そこで思考をやめてしまうと、結局優柔不断はケースバイケースで良くも悪くもあるという結論に至る。
もちろんそういう鷹揚な見方も一つの選択肢ではあると思うが、それが深く考えたうえでの結論か、考えるのをやめたうえでの結論か、そこには大きな違いがあるように思える。
もし一歩踏み込んでどちらかに決定しなければならない場面を迎えたとき、前者は決定ができるが、後者はできないだろう。
それは決定の対象について、何も分類することなく、ただそのときどきであるという当たり前の摂理をうわっつらに述べただけだからだ。

対象を比べるときは、必ず性質を列挙し、それらにポイントをつけなければならないだろう。
そのためには、整理能力が不可欠である。そこには分類をするための処理能力や、列挙するための想起力も含まれていると考えてもよいかもしれない。

別に、決定を留保すること自体を否定するわけではない。
ただ、留保することが慎重で賢いと考えているのであれば、それは違うような気がする。
現実的に頼れる人間は、何かしらの説得力ある決定力をもつ人間だと私は思う。