2014年10月22日水曜日

仏教 スッタニパータを読んで


スッタニパータを読んだ。

これは歴史上最古の仏典である。

仏典として最古であることが意味するところ、それは時代の変遷とともに起こりうる意味の曲解を逃れているという原始性である。

私が読んだのは日本語の訳文なので、厳密にはその段階で伝言ゲームが起きているのだけど、他の経路よりはましだと思われる。

仏教の考えについては、まったく知らない状態で読んだので、備忘録として、感想と疑問を記しておく。


まず読んでの雑感としては、仏教ってそんなに崇高でもないな、ということである。

どうも宗教と言うのは、日本人にとって近づきづらく危ない、尊大なもの、というイメージがあるように思われる。

本が240ページもあるものだから、大層立派な説教かと思ったのだが、意外にも当然のことばかり書かれていた。

内容は詩的な対話形式で表現されていて、神霊やバラモン(当時の修行者、偉い人)、弟子たちからの質問に仏陀が受け答えをし、彼らを説得していく様が描かれている。

全体のテーマとしては、涅槃に至る方法(苦しみを取り除く)を説いている。

そのために具体的なルールを大まかに種別すると、

・種々の欲望に囚われてはいけない
・悪事を働いてはいけない
・他人を受け入れ、尊重すること

の三つに大別される。

もしかすると、私が仏教の教えを読んで当然のように感じたのは、それらの思想が現代に無意識的に広く普及しているからこそかもしれない。

もしそれが仏教の影響だとしたら、驚くべきことだが、たしかめようはない。
ただ、幅広く受け入れられる内容だったことは間違いないだろう。

中でも驚いたのは、デカルトが「我思う、故に我あり」という考え方を発見するそのずっと前に仏陀が発見していたということである。

ただし、デカルトが疑いようのない自我を確立するために唱えたのに対して、仏陀は自我を自覚し滅するために唱えた点で真逆であることも興味深い。

基本的な考え方はこうだ。
世の中は苦しみに溢れている。
その苦しみを逃れるには、自分を変えるしかない。
ではその苦しみの原因を列挙して、取り除いてゆくことが必要である。

そこで、悪事や、欲望、他人への軽蔑を挙げて、禁じることにしたのである。

また、自我はすべて六識から生まれる。
これは五感と意(表象と思われる)から生ずる。
それらすべてを取り払うことで、苦しみから逃れるわけである。


だが、そのためには並々ならぬ努力が必要だ。
実際現代人には不可能と思われるような内容も説かれている。

例えば、「慣れしたしむことは恐れを生む。家をもつと塵が生じる。」と述べられている。
これは、家をもたず定住しないのが聖者のさとりだという意味だ。

これではホームレスじゃないか。

また、集会を禁じ、おしゃべりもよくないものとする。
たしかに人とのおしゃべりは、楽しいが過剰だと時間を奪う。
だが、現代では通信が発達しており、これを排するのはますます難しくなるだろう。


スッタニパータでとりわけ納得できなかったのは、神霊の存在である。

神霊は人間以上の存在で、仏陀が生まれるときには偉大な人が生まれると喜んでいる。

それをアシタ仙人が仏陀の両親に伝える。

当の仏陀は悟りを開いて、「人は生まれによってバラモンとなるのではない。行為によってバラモンとなる。」という。

もしも行為によってバラモンになるのなら、仏陀が生まれる以前から偉大であるとされるのは矛盾だ。

つまり、権威は決定論で決まるという考えを否定する仏陀の出自のエピソードが、決定論的なのである。

またその神霊に仏陀が説教をする。

これでは、双方の力関係が不明確過ぎる。

つまりその時点で、言説は歪んでいるのである。

仏陀自身は行為を評価したかもしれない、だが、スッタニパータを書き伝えた人は、権威主義にとらわれて余計なエピソードを付け加えてしまったのだろう。


他にも矛盾はある。

仏陀は、「真に悟った人は他人の考えに依らない」という。
これは自分で判断力をもっているということだろう。
だが一方で、仏陀のいいつけを大いに守るよう奨めている。


そもそも、托鉢で他人から食べ物をもらうシステムもピンとこない。
彼はバラモンには食べ物を与えるように言いつけているが、それは乞食とは何が違うのだろう。
同じとしても違うとしても、それのどこが立派だというのか。

私にはまだわからない。


時代背景もあるだろう。
原始仏教は、やはり未知の世界であった。

ただ、当時から人々が考えているテーマが、死や生、生活やおしゃべり、集会など、現代と多く通ずるものがあるのも事実だ。

我々は、古いものほどいいとか(クラシックのように)、新しいものがいいとか、極端になりがちだが、温故知新といわれるように、新しい時代に合わせた、かつ原始のエッセンスを含んだ仏教が求められるのかもしれない。

今回挙げた疑問については、解決次第追記してゆくつもりだ。


仏教をかじって感じたのは、「とても後ろ向き」ということだ。

この世が苦しみだなんて、超ネガティブ。

だから、仏教の考え方は、「人生の曲がり角」に直面している人向けである。

キリスト教みたく、「神に認めてもらうために頑張る」というようなボジティブさとは一線を画している。

どちらがいい悪いというつもりはないが、私は現実と戦うなら、キリスト教の方が社会の発展に寄与しそうだなと思う。

まあニーチェに言わせれば、キリスト教も隷属的という意味でネガティブであるが。

その点で言えば、仏教の方が自立的かもしれない。

2014年10月19日日曜日

宗教を恐れるということ


現代日本では宗教は恐れられている。

そのため政教分離は当たり前である。
しかし私は、皇族というシステムがある時点で、既にそれは崩壊していると思う。

誰が国を動かしていくかを血脈によって決定することは、例えそれが制度であったとしても、疑うことなく行っている時点で、宗教ではないかと思う。

だから良いとも悪いとも言うつもりはない。

だが、宗教は我々にとって身近であると思う。
ご飯を食べるときの「いただきます」や「ごちそうさま」も、命をいただいているという教えが慣習化しているわけだが、特別それを疑うこともなく受け入れている。

そんなわけで、日本人は無意識の宗教をもっていると言えるわけだが、当の本人たちはあたかも自分たちは無神論者であるかのような顔をして、宗教は怖いものだと決めつけている。

たしかに、新興宗教と呼ばれるものの中には怪しいものも多い。
にわかには信じがたいような効用を謳い文句にして信者を獲得している集団もある。

とりわけサリン事件でテレビを賑わせた新興宗教にいたっては、その思想は犯罪シンジケートそのものと言っても過言ではないかもしれない。

だからそういうものを恐れて、関わりたくないと考えるのは当然のことだし、それ自体はなんら問題がない。

しかし、宗教に無関心で無自覚でいることは違う。

自分たちが何かを無意識に信じているという事実を、認識することは大変重要だ。

我々はメタ的に自分を見直すことによって「気づき」を得ることが出来る。

だから自信を無神論者であると信じている人々は、まだ気付いていないだけで、本当は無意識的に信じているものがある。

また、無神論者であることを理由に宗教を避けるのは、もちろん面倒に巻き込まれたくない理由もあるかもしれないが、恐れもあるだろう。

それは「もしかしたら自分も染まってしまうのではないか」という恐れである。

何かを信じることは大変勇気の要ることだ。

だが、こちらがコントロールする側に回ると思えば、何も恐ろしいことはない。

良い考えをとりいれるだけなら、問題はない。

本当に恐ろしいのは、盲信することと疑いつづけることだ。

極端に疑い続ければ、何事をもなすことは出来ない。

猜疑はゴールのための布石でしかなく、それ自体がゴールではない。

また、自分の間違いを常に可能性として頭に入れておかねば、盲信してしまうことになる。

宗教を恐れるなら、結果論を常に批判する姿勢を持ちつづければ良い。

宗教は大抵、結果論である。

ときには、信じたあなたが悪いと言う。

あるときには、疑わなかったあなたが悪いと言う。

そして逆をアドバイスする。

それは真理でも何でもなくて、単に、「あなたは今憂き目にあっている。逆をゆけ。」というわけである。

それは明らかに結果論である。

おおよそ危ない宗教は、そういうものの言い方をして、あたかも理屈をつけたような顔をする。

心に隙があるとつけこまれる。


2014年10月13日月曜日

愚かしい哲学


物事に疑問を抱くということは、拒絶である。

とりわけ哲学では、「我思う、故に我あり」とか言って、なんでもかんでも疑うのが美徳であるとされるようだ。

何かを盲信するのはご法度であり、そうするためには理由が必要とされる。

また何かを突き詰めてある考え方を確立したとき、それは「~哲学」という風に呼ばれたりもする。

哲学は理性的でなければならず、ただ物事を鵜呑みにすることは許されない。
そして、難しいことを考え抜いた先にある。

とまあ、私の哲学に対するイメージはそんなものだ。

そういうストイックな姿勢は大変カッコよいのだが、たまに疑問に思うことがある。

そんなの本当に役立つんだろうか。

哲学なんてのはロマンみたいなもので、煮ても焼いても食えない、世俗から離れた者だけに許される道楽である、とも思う。

実際、哲学科は就職も厳しいと聞く。

なぜか。

それは、哲学が「物事を拒絶すること」を良しとしているからである。

かつてアリストテレスが言ったように、世の中の物体は無限後退を引き起こす。

宇宙はどうやって生まれたのかと問いを立てれば、ビッグバンという仮説に辿り着き、ではビッグバンはどこからきたのかと当然の問いが立てられるように、根本原因などというものは存在しない。

宗教も似たようなもので、聖書の創世記では、まず光があるところから世界がはじまるわけだが、では光はどこからきたかと言えば、神が作ったのであって、ではその神は誰が作ったかと言われれば、神は絶対的存在なので、神を作るような上位存在はいない、ということになる。

現代で大きな力を振るっている科学でさえも同じ構造から抜け出すことは出来ない。
科学の基礎となる経験論は「繰り返しやったらうまくいった、だからこの先もうまくいく」という前提のもとに肯定されるが、その根拠は「今までもそうだったから」でしかなく、経験的にうまくいったことを続けるというスタンスに他ならない。
つまり、宗教となんら変わりはない。

宗教を忌避する傾向にある多くの日本人にとって、その意味では哲学は健全なはずである。

疑うことは、一歩距離を置くことでもあるので、哲学をしていれば、宗教に取り込まれる心配はなくなるからである。

だがこれは手放しに喜べる傾向ではないと私は思う。

たしかに疑うことは重要であるが、人間の寿命は限定されている以上、疑い続けているわけにはいかない。

そこらに転がっている前提を、すべて疑って生きていては人生が暮れてしまう。

だから、ときとして疑うことをやめ、まず覚えてしまうことも重要ではないだろうか。

その上で思考することが価値ある哲学を生み出すのであり、すべてを疑い距離を置きつづけることは、愚かしい哲学を生み出すだけだと思うのだ。