2014年4月7日月曜日

体感時間


時間の長さは常に一定である。
私たちはそう信じていて、実際、レースを朝行おうが夜行おうが、10秒は10秒であると思っている。

当然と思うかもしれないが、そんなことはない。
かつてアインシュタインは自身の発見した相対性理論の説明をする際、「楽しい時間は早く過ぎるのと同じようなものだ」と説明したという。

アインシュタインが挙げた例え(というよりジョークか)は体感的な時間間隔に関するものだが、彼の理論では光の速さによって物理的な時間が相対的に伸び縮みする点で、注意が必要だ。

しかし実際問題、私たちも楽しい時間が早く過ぎて感じられるように、同じ時間幅でも体感時間が伸び縮みしたように感じることはある。
例えば、ストップウォッチで10秒ぴったりに止めようと思っても、常に同じようにぴったり止めることは難しい。
また、心理学の分野でも、色の違う、壁紙が赤と青の部屋で過ごすと、青の部屋での時間のほうが長く感じられることが知られている。
さらには、カフェでは混んでくると、お客さんの行動を早めるためにビートの早い音楽をかけることが知られている。

つまり、私たちの体感時間、あるいは行動は、知らず知らずのうちに、外部の影響を受けて、伸び縮みしていると言えるだろう。

とりわけ先の心理学の二例に共通して言えるのは、音についても視覚についても、周波数・あるいは周期の早い波を知覚すると、時間間隔が短く感じられるということである。

同じ例として、ミステリのトリックでは、死亡推定時刻を誤魔化すために、極度に冷たいあるいは温かい環境に死体を放置するというものがある。これもまた、時間の操作と言えるだろう。

また、人間の色彩感覚では、青が寒い、赤が温かいとされる点で、やはり周期的な知覚と体感時間、実際の時間間隔は連動している、あるいは帰属錯誤のようなことが起きていると言えるのかもしれない。

昔の哲学者は、時間とは物体が動くことだと考えた。
だが少々腑に落ちない。
たしかに時間が止まれば物体の動きは止まる。
だが知覚的には静止しているように見える物体でも、ミクロの世界では動いているということはありえる。

また、色や音の違いだけでなく、人生の時期、つまり青年期か壮年期かによっても時間の長さが違って感じられると言われている。これに関しては、今までに過ごしてきた時間に対して、今過ごしている時間の割合が少ないと短く感じられるのだろうとか、今までの経験を生かして、脳の処理時間が早くなるからだろうとか、諸説ある。

それと、人間のみならず動物も時間の感じ方が異なる可能性がある。

彼らに時間という概念があるかは知らないが、生きている限りは必ず時間を利用しているはずだ。
よく言われるのは、大きい動物ほど生きている時間が長く、人生も比例してゆったり過ごしている。小さい生き物は逆だ。だからハエなんぞは、我々人間が必死に叩こうとしたところで、あっさりとよけてしまうのだろうか。そういえば、「ゾウの時間、ねずみの時間」なんてタイトルの本があった。
ペットを飼っている人は、犬年齢とか、人間に換算すると何歳、なんて指標に聞きなじみがあるだろう。

さらに、もっと短い時間間隔でも、こういった時間感覚のムラは存在する。

それは朝である。
私は昔「早起きは三文の得」と聞いて、朝の時間も夜の時間も変わるものかと思った。
しかし現に、朝と夜では、時間感覚が違って感じられることに気付いた。

恐らく昔の人々もこれに気付いていたのだろう。
だから先の格言は、早起きすればいいことがあるというよりも、朝は体感時間が伸びるので仕事が早く進む、そういうことを言いたかったのかもしれない。


・おまけ
主観的時間については先に述べたとおりさまざまな捉え方があるが、客観的時間はただひとつの正解を追い求めるわけだから答えはシンプルだ。

時間の刻みの基準はセシウム原子時計だが、もっと詳しく言えば規定の周波数である。

2014年4月2日水曜日

宗教の根本疑念


私は宗教に明るくないけれども、関連する本を読んでいて思うことがある。

宗教のベースは、教えである。
教えは、正しいものである。
正しくおこなえば、うまくいく。

つまり、宗教の教えを知れば、うまくいく。
教えを真理と呼んでいる。

そして過去に教えを説いた開祖?たちは、究極的な知識とカリスマをもって、知恵を布教した。

しかしそもそも、真理などがあるのだろうか。

自分が真理を知っている、という思考は、「無知の知」の逆である。
無知の知とは、古代の哲学者が言った言葉で、自分の無知を知ることがすなわち知者の証であり、つまり真理を知っているのはある側面について全容を知っていると思い込んでいるが、実際そうとは限らないのである。

これを踏まえると、宗教とはいつも、疑いの目をつぶることが始まりなのではないか。
盲目的に信じる必要があるのだ。

その点で科学は、常に疑い続ける。
真理は信じるが、真理にいかに近づくかが重要なのであって、真理を知っているなどと大口は叩かない。

だからどうも、私は科学が好きで、宗教は胡散臭く感じてしまう。

もちろん、科学は慎重過ぎて、物事を複雑にしてしまうこともある。
だが、宗教も、抽象的過ぎて空を掴むような話が多い。

死生を諦めた人(死すべきものとしての人間?)


最近、iPhoneの電子書籍ストアで面白そうな本を探してきて読むのが習慣になりつつある。
たまたま、般若心経の本をみつけたとき、そういえば高校時代には仏教を教わって般若心経を唱えていたにも関わらずまったく教えを知らない自分に気がついた。論語読みの論語知らずである。
手に取ってみたら、以外に私の過去の日記と一致する点があったので、ピックアップする。

この本の中で、死生を諦めることが、ある種の悟りであると書いてある。

本来人間は必ず死ぬべきものである。
物語のあらすじとして、不死を求める悪役の野望が正義の手により潰えるという形式は、一昔前の勧善懲悪におけるスタンダードと言ってもいい。

しかしよく考えてみると、なぜ不死、あるいは不老を求める者が悪として描かれるのか。
彼ら悪役が不死を得るためには、犠牲を強いられるものが多いためであろうか。
ならば、なぜ不老不死は手痛い犠牲を伴うものとして描かれるのか。

人間の目標、ひいては医療の究極目的は、不老不死ではないのか。
世の中から病気が無くなるとはそういうことだろう。
しかし、それが悪として描かれるのはなぜか。

それは恐らく、我々人間がどこかで、死は自然の法則であり、抗ってはいけないと思い込んでいるからだ。
いわゆる生命倫理である。
むやみに命を絶つのがいけないとか、そこまでは明確ではないとしても、不老不死はあまりよくないことだと考えられているのだろう。

つまり、人間は本来死ぬべきものである、ということだ。

大前提として、多くの人間は生きたい。
なぜなら、死ぬのはほっといても死ぬが、生きるのは難しいからである。
難しいから生きたいかというとそれは違うが、大抵価値あることは難しい。

なにより直感的に死ぬのは怖い。
怖いというのは、究極的な自己愛である。
自分を守りたいから、恐怖を感じ、危険を排除する。

しかし、虎穴に入らずんば虎児を得ずという言葉があるように、ときには危険を冒しても行動せねばならない。

こうしたとき、死生を諦めることができなければ、行動することはできない。

死生というのは大仰な言い方であるが、私利私欲を捨て、自己愛を捨て去る、そうしたときに初めて、苦しさに耐えて研鑽できるということであろう。

別にそれは結果としての生死そのものが生き様を決定づけると言っているわけではない。
大義のために死ねることは格好良いが、出来れば死なないに限る。
ただ、大義のために、命を投げ出す覚悟でありさえすればいいということだろう。

だが、このように、死を受け入れる悟りの解釈は勘違いを生む可能性がある。
それは、死を恐れないことだけが本当の悟りだと思ってしまうことである。

例えば、この世を嫌い、早く憂き世を離れたいと思っている者は、果たして健全かということである。
彼らは、生を諦め、死を受け入れる心をもっているが、死生を諦めたのではなく、死を望んでいるのである。
自分から死を望むことが幸せではないことはおおよそわかると思うし、死を受け入れることを理由に、生を諦めればよいということではない。

憂き世を離れたい想いは、ただ逃げだしたいだけであって、死生にこだわりなく生をこなすこととはまったくもって別物であろう。