2014年11月3日月曜日

瞑想のすすめ


私は最近になって瞑想をはじめた。

瞑想は、仏教やその他の宗教で取り入れられている修行であり、雑念を払うことを目的としている。

雑念を払うというと、煩悩や欲を追い出すという意味合いに聞こえるが、これはわかりにくい表現である。

恐らく瞑想は、集中力の訓練であろう。

というのも、仏典によれば、仏教は独りで歩むことを良しとしている。

それはつまり、他の人たちと仲良くすることはあっても、つるむようなことがあってはいけないということである。

もっと具体的に言うなら、仏教はおしゃべりを禁止している。

それは、寄り集まってだらだらと時間を過ごすことが、人生にとって無益でしかないという考えに基づいているに違いない。

それを断つ心を手に入れようというわけである。

また、仏教の目的は涅槃に到達することで、つまるところ、この世の苦しみから解放されること意味すると思われる。

集中をすると、周りの状況が良くも悪くも見えなくなる。

その意味では、あれこれ悩むことから救われると言えるだろう。

もちろん、対処療法に過ぎないやり方だけれども、実際問題どうしようもないことで、無駄に精神だけ参ってしまうということはよくあるので、そのための対策にはなると考えられる。

瞑想の面白いところは、目的が目的でないということである。

つまり、本来集中力というのは何かに傾けるものである。

何かを製作するために集中するとか、そういった類のものであるはずだが、瞑想においては違っていて、それは集中力を養うために他のものを排して集中するという謎のアクティビティである。

すべての思考を排するために集中するのである。

もっと言うなら、集中しよう…!と唱える心の声さえも消えると良い。

このとき、自分の心の中に無が生まれる。

やってみるとわかるが、これが意外と難しい。

なにせ、意識がなくなるのとは違う。

確かに自分が存在して、意識もあるのだが、意識的な思考は一切排されている、そんな感覚である。

もちろん現実的なことを言えば、「そろそろやめようかな…」と考えてやめる以上は、完全に無意識の状態を作るというのは恐らく不可能なのだが、限りなくそれに近づくという行為は、雑多な情報の処理を要求される現代の世の中において貴重な時間である。

何もしない状態を意図的に作ること自体が無駄だというのなら、それはそれでいいだろう。

だが、集中力がなくて作業が進まないとか、思考が途切れやすいと感じる人に、私はおすすめする。