2014年9月13日土曜日

仏教と決定論


決定論といえば、我々の「運命」に関する哲学の問題である。

現代社会に生きる我々の人生は、科学によって大きく助けられている。
それは、科学がもつ再現性によるところが大きい。
つまり、科学が役立つのは、ただなにかしらの機能を果たすからでもあるが、なによりも意図したとおり確実に機能するからだと言える。

例えば、1/2の確率でしか起動しないパソコンがあったらどうだろう。
使えないよりはましかもしれないが、できれば確実に使えたらいいし、そうあるべきだ。
科学に求められるのは、この再現性(確実性)の高さである。

さて、科学が追い求めるのは機能だけではないことはわかった。
それがなぜ運命と結びつくのか。
運命とは、「確実に起こること」であり、言い換えれば、「予定調和」である。
つまり、科学の追い求める究極的な目的は「運命の手綱を握ること」である。

しかし、ここでひとつの違和感に気付く。
もしも、究極的科学の力をもってして、今現在の状態から、未来すべてを予測することができたとしたら。
我々の行動が科学によって紐解かれ、次に何をするかが予見できてしまうとしたら。
これはつまり、我々の状態が決まってしまえば、すべての未来が決定するという仮定である。
とすれば、生まれながらに授かった運命が、どのようにして終焉を迎えるのか、既知である。

このような世界では、我々は、神の手のひらに踊らされていることになる。
だとすれば、何が起きようとも、それは我々の責任ではないし、すべては因果のせいである。

と、これだけなら特に面白くもないが、ここに仏教を絡めるとどうなるか。

仏教のおもな考え方は、苦を乗り越え、涅槃に至ることだそうだ。
我々は輪廻転生というシステムの一部であり、これにより死ねば次の生を与えられる。
生と死がまるで螺旋構造を描くように、ぐるぐると繰り替えされる。

気の遠くなるような話である。
しかも仏教では四苦という考え方があり、生老病死のよっつをそう呼ぶ。
読んで字の如く、並べた感じ四つの漢字で示される概念が、我々を苦しめる根源だという意味である。

これを見て、いやおかしいと思ったろう。
もし上述のとおり生きることすべてが苦しみで、それが永遠に廻るとしたら、一体救いはどこにあるのかと。
それが、解脱である。

解脱することで、人は仏になることができる。
仏になれば、輪廻からも解き放たれ、苦しみから救われる。
だから、これを主目的とする。

では、解脱するためには具体的にどうしたらよいか。
それは、善行を積むことである。
卑近な例えで申し訳ないが、善行を積むとさながらゲームのレベル上げのように経験値がたまるわけである。
そして、死というジョブチェンジをおこなうことで人間としての位が上がっていくわけである。
もちろん、悪行を積み重ねれば、転落もしてゆく。

人間としての位は、自分の境遇で決まる。
生まれながらの不幸な境遇は、前世の自分の行いが悪かったからである。
このように、自分の行動が、未来へと連鎖してゆく。
これを因果説という。

さて、ここでいくつか矛盾を感じないだろうか。
もし、因果説の通り、すべてが自分のおこないが自分に返ってくるとするなら、物事の因果関係は決定していると言える。
だが、自分で行動して運命を変えてゆくという考え方は、非決定論的ではないのか。

つまり、仏教は決定論と非決定論の両立説をとることになるのかもしれない。
これについては、もう少し学んでから書くこととする。

もうひとつの矛盾としては、輪廻の一番最初ってなんだろう、という素朴な疑問である。
キリスト教の場合は、まず光あり、というわけで、神様がビックバン的ななにかで、この世界を創造なされたわけである。
これを科学的に追い求めると、ビッグバンの原因はなんだろうね、という話になるのだが、たとえそれが解明できたとしても、ビッグバンの原因の原因の…というように無限後退に陥るため、終止符を打つ存在としての神の存在を仮定することは、理解できる。

だが、輪廻の場合は神とかそんなのはあんまり偉くないし、別に世界は誰がつくりたもうたものでもないから、じゃあ最初の状態に平等があったとして、それがどうしてこんな悲劇の引き金が引かれてしまったのかという説明が必要な気がする。
この点についても、後日まとめたい。

とまあ、仏教の教えをざっくりと読んで疑問をあげてみた。
興味がある方、答えを知ってる方、あるいは間違いを指摘してくださる方がいれば、幸いである。