2013年1月28日月曜日

計算は記憶か


私はたまにフラッシュ暗算をするのが趣味だ。
計算のような単純作業は頭を使わないからいい。

私は昔から計算が苦手だった。
フラッシュ暗算をするうちに、その理由がなんとなく掴めてきた。

今まで、計算は処理であって、その都度考えて結果を算出するものだと思っていた。
だが、それは大きな間違いだった。

私は、一桁の数字を五秒感覚で五つ足すことから始めたのだが、なんだ楽勝だと思ってなめてかかると、存外ずっと難しかった。
最初のうちは伸び悩んだが、ある時にコツを掴んでから、三桁の足し算を二秒間隔に五つ足すことが出来るようになった。
目下四桁の足し算に挑戦中の身だ。

さて、私が掴んだ(?)計算のコツについて書き記しておく。

そのためにはまず、人の記憶がどういう形で蓄えられるかについての私の仮説を話しておく必要がある。
例えば、人の話をよく覚えている人がいる。
彼らは頭の中にまるでレコーダーでも搭載しているみたいに、数秒前に出て来たフレーズを再生することが出来。る。
これは恐らく聴覚的な(音声に関する)記憶を保存する能力が高い。
また違ったタイプとして、情景を頭の中に映像として思い浮かべられるような人は、視覚的な記憶力が高いのだと考える。

当初、私は計算に取り組むとき、「ご、さん、に…」というように数字を頭の中で読み上げる自分に気付いた。
だが、桁数が増えてくると「ひゃくにじゅうはち、にひゃくさんじゅうろく…」というように読み上げていると計算の時間がなくなってしまう。
では、計算の早い人間はどうしているのか。そう考えたときにピンときた。
私は、聴覚的に数字を記憶している。だから、数字を思い出すとき、頭の数字から数えていかないと思い出せない。
しかしこれは計算には向かない。じゃあ、視覚的な記憶力に切り替えたらどうか。
もし頭の中に、文字で数字を記憶できるとしたら、いちいち読み上げる必要はなくなる。
そこで、頭で数字を読み上げずに計算する訓練をした。

しかし、ただ我慢をしただけでは、どうしても音声に頼ろうとしてしまう自分がいる。
そこで考えた。
音声的な感覚は他のことに使ってしまおう。
私は頭の中で、好きな歌を歌いながら、同時に計算する特訓をした。

するとどうしたことか、今までは出来なかった計算が、頭の中で勝手にできるようになっている。
何も読み上げることなく、数字が頭に浮かぶ。
数字を先頭から順番に復唱しなくても思い出せるようになった。
これは大改革だ、そう思った。

ついこないだ、情報学の教科書を読んでいて考えた。
コンピュータというのは、データをもっていても、それが取り扱うのに不都合な形で記憶していると、うまく運用できないそうだ。
これは人間も同じことだ、と思った。
つまりさっきの記憶も、適切な形を適用していなかったから今までは計算ができなかったのだ。

そういう意味では、人間の能力には向き不向きがあるし、無駄な記憶力、というものがある。
たとえば、試験をパス出来ても、運用できる知識とそうでない知識があるのと同じようなものだ。

適材適所、情報の形を加工しやすいように取り込む術を学べば、何をするにも能力の向上が望めそうだ。

ちなみにタイトルに関しては、半分正解で半分間違いだと思う。
人間は同じ作業を繰り返していると、それを自動化する性質がある。
これはある意味、頭の使い方を記憶する行為だと言っていい。
そういう意味では、一桁の足し算すべてのパターンと、桁上がりのルールさえ覚えてしまえば、あとはすべて、決まった処理によって実現される。
その決まった処理も、繰り返しを行ううちに自動化されていくわけだ。
結果、計算という行為はすべて、頭を使う処理ではなく、単なる記憶の呼び出しになるわけだ。

昔から読み書きそろばんを教えたという理由がよくわかる。
計算が出来ること以上に、物事の習得の仕方そのものを教えていたのだろう。


<余談>
これに思い当たったのは、表象、という哲学用語を知ったときの話。
私はシンボル、みたいな意味の単語だと思っていたのだが、どうやら、「人が情報を取り込むときの形」のことらしい。
これはまさに、数字を音で扱うか、映像で扱うか、と言ったようなもの。
珠算をやっていれば、それが一連の動きという形になって現れるに違いない。

2013年1月26日土曜日

責任


東電が福島第一原発の汚染水を、濃度を下げる処理をしたうえで海に放出するという。
また日本の魚は汚れるのか。

原発関連のニュースがでると、ネット上の一部では、東電の社員は何故責任をとらないのか、依然として高給を貰っているのか、という意見がでる。
責任をとれ、と。

多分それだと、東電の若い人たちは可哀相だ。
別に自分たちが引き起こしたことじゃないのに、と当人達も思っているんじゃないか。

会社としての責任と、その内部にいる人間の責任というのは、一緒くたに考えてはいけない。
会社は息が長いが、人間はそうでもない。

いざというとき、責任という言葉ほど当てにならない物はないと思う。
引責辞任なんて、最たる例だ。
失敗してやめることって、過去に対する責任はとってない。
例えば、車で人を轢き殺したから車に乗るのをやめます、というのは、本人が困るだけであって、被害者に対しては何も償ってはいない。
この先の事故のリスクは減るかもしれないが、それは謝罪でも、責任でもない。

給料を貰って仕事をしているのに、業績がだせなかったら、次は仕事を頼まれない。
責任のシステムは、持続性のもとに成り立っている。

問題だったのは、国土が汚れかねないことを、国としてやらなかったことだと思う。
一会社に手が負える問題ではなかった。
どこに責任を預けるかは、預ける側の責任だ。

2013年1月25日金曜日

数学的素養


数学的素養とは、「数字を以って物事を判断する力」だと個人的には思っている。

主に小中高の算数ならびに数学で教え込まれるのは、今までに名だたる数学者が遺してきた数学的知識と、その思考のなぞり方である。

数字の扱いに始まり、四則演算、比率、関数、ベクトル、確率、微分などと拡張されていく。

これらの計算をこなせることを数学的素養というなら、それもそうかもしれないし、一般的にはそう思う人が多いだろう。
少なくとも数学が苦手な人間は、高度な計算をこなせる人はクールだと思う。
あるいは逆に、すっぱいぶどうの逸話のように「そんなこと出来ても役には立たない」と馬鹿にするかもしれない。

言うまでもなく、数学が出来ることはとても有意義なことだ。

昔の哲学者たちが数学を通して追い求めたもの、それは人類にとっての共通了解だ。
国語と数学を比較してよく言うだろう、「数学は答えがひとつ、国語は答えがいくつもある」。
これは意味するところはすなわち、数学は文章の問いかけの意味が一意に定まる、ということである。
普段使っている自然言語とは違い、ひとつひとつの単語の意味が厳密に定義されて、正解と不正解がはっきりと分かれる世界なのだ。
だから、ある問題の答えがだせないことはあっても、ふたつの答えがでることはない(はず)。

ちゃんと学んでいれば、必ず一つの結論に達するという点で、数字は共通了解を前提とした強い説得力をもっている。
数学は客観的だ。ごまかしが効かないとも言える。

そうした数学の強みを活かすには、数字を扱えるだけではダメで、その上にのせる論理がいる。
言語が話せても語る中身がなければ意味がないのは、数学も同じこと。


話が飛んで申し訳ないが、先日テレビで法哲学の授業をみていたとき、「他人に迷惑をかける行為」をどう判断するかが話し合われていた。
よく、「他人の迷惑になることをしてはいけない」と教育されるが、では「他人に迷惑をかける」とはなにか?という話になると、そこでより繊細な判断が必要となる。

例えば、公衆で煙草を吸ってはいけないのは何故か?というと、それは「他の人間に健康被害を与えるから」であるが、その健康被害とは、「受動喫煙により数年寿命が縮む」ことであり、その判断には数学や統計学をもちいた医学的判断が必要となるのはわかるだろう。

数学は、ある揺ぎの無い法則を見つけて、体系化していき、その前提の下に、内容をどんどん拡張していく。

対して法哲学は、大雑把に「ルール」を決めて、その線引きは実例や数字を見て決定していく。
言い換えれば、数学が演繹的で、法哲学は帰納的と言えるかもしれない。
別にどちらがいいということはなく、どちらも必要である。

であるから、狭義の「数学的素養」といえば、「高度な計算がこなせること」かもしれないが、そのレベルだけでは物足りない。
本来養われるべき数学的素養は「数字をもって判断基準を設定できる能力」だ。


だが、数学は万能かと言えば、そんなことは全くない。
ここからは哲学の歴史上の話になるので、興味のある人だけ読むといいだろう。

1900年代の前半、様々なジャンルの学者が所属したウィーン学団があった。
その主目的のひとつに、ヒルベルト・プログラムがあった。

ヒルベルト・プログラムは、自然言語のように曖昧な言語ではなく、数学によってこの世界のすべてを表現し、明解にしようという試みだった。

しかしこの夢はウィーン学団のゲーデルが主張した「不完全性定理」によって打ち砕かれてしまった。
数学では解決できない問題も存在する、という結論に至ったのだ。

つまり昔の学者達は、言語や数学のルールをいじくりまわせば、人は効率的に伝達できると思いこんでいた。
しかしながら、それは幻想だった。
普段使っている自然言語には誤解がある。だから誤解のない数学は重宝される。

しかしよくよく考えてみると、その数学を学ぶためには、自然言語による説明が不可欠なのだ。
自然言語に基づいた数学も、結局は曖昧性と戦うことになるのだ。

ただ、それを問題を解くときにおこなうか、伝達の際におこなうかの違いである、

多くの人は、曖昧な自然言語は使えても、厳密な数学は苦手だったりする。
だがその壁を乗り越えるには、結局のところ多くの問題を解いて、自分の理解の確度をあげるしかない。

それに数学には落とし穴がある。
それは、背景が見えない、ということである。

昨今は客観性をもつために何でもかんでも数量化するきらいがあるが、数字の力を過信するのは危険である。

というのも、数字は「圧縮されている」ことを忘れてはならない。
例えば、6個が多いか少ないか、という話になったとしよう。

そのとき、前提として、何が6個なのか、という話になる。
仮にりんごだとしよう。

では、りんごを何に使うのだ。
アップルパイか、ジャムか、そのまま食べるのか。

そもそも、何人で食べるのだろう?

大体りんごって言ったって、りんごの大きさには個体差があるだろう。
品種は何で、そのりんごの平均的な大きさはどれくらいだ?

それに予算はいくらだろう。
値段は?
単純に食べることだけ考えればいいのか?

というように、数字には前提がつきものである。
なので、前提をしっかりわかってないのに数字を読んだところで、それは分かったふりに過ぎない。
数字を読むと客観的に見ている気がするが、前提の捉えかたによって客観性は失われる。

これを利用したのが、所謂「数字のマジック」である。

だから数学的素養は別に数式をいじることではなくて、文脈を以下に読み取れるかである。
よく国語力と別物として語られるが、根本的には同じ力だと私は思う。

2013年1月22日火曜日

生きる力



麻生さんの、延命治療に関する発言が注目されていますね。
本人が望まないなら、延命治療をする必要はないんじゃないかって。

そうですね、僕もそう思います。

別に社会保障費や税金がどうということではなく、人間の在り方として、それでいいと思います。

ベッドの上で動けないのに、楽しくもない余生を送りたくないでしょう。
家族に迷惑かけて、すまないねって謝ることも出来ずに。

人間が生きるって、何気に大変なことですね。

僕も最近、自分ひとりでは生きて行かれない気がしてきました。
人はひとりで生きてるんじゃない、とか言う人もありますが、そんなことないと思います。
もちろん他人を頼らなきゃ社会生活はできないし、生きていくことは出来ないけれど、他人を頼る力だって、所詮は自分の力なのです。

多くの人は見返りもないのに力は貸してくれないでしょう。
たとえ一回目は貸してくれたとしても、二度三度と、お返しもなく頼みに行ったら、門前払いされるに違いありません。

だから、最初から返せるものをもってない人は、どうしようもないわけです。
そういう人は、頭下げて、嘘ついて、姑息な手を使ってでも生きてゆくしかない。
それが嫌なら、ちょっぴりのプライドをもって死んでいくしかないでしょう。

よくドラマや映画で、自殺志願者を助けるシーンがありますね。
あれはあたかも感動的かのように描かれますが、僕は共感できません。
そこで自殺志願者を助けたとしても、どうせあとで死にたくなるように思います。

生きる力と意志をなくしてたら、それは死んでるようなものです。
死んでしまったらなにもかも終わりだ、命あってのものだねだ、と言いますが、それは生きてるのが楽しい人の意見であって、苦しい人は早く人生を終えたい。
出来ることなら、なんとかやり過ごして終わりたいが、そうできないから自ら死ぬ。

老人ついでに、若者も死を選びたい人は選べればいいなと思います。
無理やり生かされてる人間なんて、いても邪魔なだけです。

2013年1月21日月曜日

嘘つき


論文を書いてたら、自分の研究にミスがみつかった。

先生との共同研究なので、精一杯時間をかけてやってきたつもりだったが、ここにきて、ミスがあまりにも多く見つかるので、へこたれている。

折角余裕をもったのに、次々と発覚する失敗をみると、自分の進路選択が間違っていたような気さえしてくる。

何より学会にだしている手前、先生に申し訳なくて、どう説明したものか迷っている。
心の中では、(このまま黙っていればばれないか…)と邪な気持ちが疼いている。

人がなんで嘘つくかって、二種類だと思う。

一つは幸せで優しくするための嘘。
相手を不幸にしないために、あえて真実を隠す良い嘘だ。
それは、余裕からくるものだ。

僕の嘘は、そんな綺麗なものじゃない。
自分に力がないから、正直にやっていたら、潰れてしまうからつく嘘だ。

僕だって嘘はつきたくない。
できれば正直でいたいが、きっと人を騙くらかすことをしていかなければ、まともに生きてゆかれないほど、力がないんだ。

そう思ったら、情けなくて仕方がない。
素直に泣けないくらい。

どうしてこんなに苦しい想いをするんだか、さっぱりわからない。
真面目にやったつもりで、どこか真面目じゃないんだろう。
だから見落とす。

こうやって努力が報われないことが多すぎて、ただただ切ない。
不真面目にやってたら出来ないのは当たり前、哀しい想いなんてしなくていいものなあ。

だから自分は真面目にやってこなかったんだと、自覚した。

真面目にやったって、結果がでなきゃ仕方ないよ。

2013年1月20日日曜日

俺が悪いんじゃないのに


今朝、親に怒られました。
ぐうたらするな、って。

僕が怒られたときにいつも思うのはこうです。
「俺が悪いわけじゃないのに」

たとえばダラけて働かないとか、ギャンブルが好きとか、ちょっと人の気持ちがわからないとかね。
あと、睡眠時間が他人よりちょっと多いとか。

なんで僕が怒られるかな、と思うわけです。

普通だったら、それはお前が悪い、という。

でも例えば、顔が悪かったとしたら、それは僕が悪いんでしょうか。
働く能力がないのも、僕が悪いんでしょうか。
努力しても出来ないとしたら、それは努力が足りないだけなんでしょうか。

僕は努力も大してしてないので、声を大にして文句を言う資格はない。
けれど、努力してたって出来なかったとしても、きっと努力が足りないんだと言われるだろうな。

成功するまでは、努力が足りないんだと言われる。

でもね、正しくやったら皆うまくいくとは思わないです。
状況は良くなるかもしれないし、それならそれでいいが、周りが努力して成功してるから、あんたも努力が足りないだけだって言われたら、違う人間なんだから、同じようにしても違う結果になるかもよ、とは思う。

顔が悪い人はアイドルになるなんて難しい。
そんなもんですて。

だから不細工な人は不細工を馬鹿にされても、なんで俺が…って思うでしょう。
いい生活してたらイケメンになるって、そんなことがありますか。

美醜に関してはね、救いがないですね。
お笑い芸人になるという手はある。

そういう意味では、僕の怒られた内容とまったく同列に並べることはできない。
けど、僕が怒られるときに思うのはそんなこと。

ある意味では責任転嫁ですけどね。
背負って生まれてしまった物は仕方ないって。

病気なんかも似たようなもので、「ああ、なんで私こんな身体で生まれてしまったんだろう」って恨むこと数えきれない人もあるでしょう。
皆のように楽しくできなくて、私がなにをしたって言うんだ。こんちくしょう、って。

でも、周りは分かってなんかくれない。
だって、違う人生歩んでるんだからね。

そういう意味では、「俺が悪いわけじゃないのに」なんて、思っても口に出しちゃいけません。
不幸な人は多分、皆似たようなコトを考えてるし、言ったところでそれは拒絶でしかない。

もう何も口出さないでくれ、って。

ほんとにそうされたら、口だされないで、放っとかれて、しまいにゃ孤独になってしまう。
砂漠に一人、みたいな。

注意ってのも、ある程度は喜ばないといけません。
ただ、応えられるかどうかはわからないし、出来ないと苦しい。
しなきゃってわかってても出来ない、実現できなかったら、相手に見放してもらうのを待つしかない。

応える力がないってのは寂しいことですね。
誰からも必要とされないということだから。


2013年1月15日火曜日

知らぬが仏


浮気を許すか許さないか。

昔、浮気されたら嫌?と彼女に聞いて、「ばれないようにやってくれたらいい」と返答されたとき、大変驚きました。

当時、彼女の行動にいちいちいちゃもんつけるくらい支配欲の強かった私にしてみれば、浮気なんてバレようがバレまいがもってのほかだったのです。

相手の過去を知りたいか否か、という話も似たようなものです。
皆さんはどう思いますか?
相手の女の子が売春とかに手を出してたら、私は嫌だな。

例えば結婚前に、あいつ昔俺と付き合ってたんだゼ、とか耳打ちされたら、なんだか嫌です。
過去があって、今の彼女があるといえばそうだけれど、やはり心は濁ったようになる。

別にそんなこと、終わったことだし、今更になってなんの問題にもならない。
でも、問題にならなくても、その事実を知っただけで愛せなくなる。
そんなことはあると思います。

だから、もしクリーンじゃない過去をもっていて、それを言わずにいれば相手が愛してくれるとしたら…どうしますかね。

正直な人は、欺いて、ばれないかびくびくしながら生きるのに疲れを感じるかもしれませんね。

嘘はばれるまでは真実です。
だから、それで幸せな夢がみられるなら、たとえ不誠実でも嘘つくのはありかなと思います。
嘘をつき通せるならね。

「なんで言わなかったんだ?」
「訊かれなかったから」

なんてやりとりが目に浮かぶような話。

でもやっぱり、私も嘘をつかれていたら嫌だな。
そういう意味では、正直に言ってくれた人の誠意は買わなきゃいけません。

だからといって、無理して一緒に過ごすことはないけれど。

2013年1月14日月曜日

転換


以前は、夢を持たない人はダメだと思っていた。
人生の輝きは、夢や目標をもってこそ増すものだと考えていた。

だから自分は夢をもっていたし、それに向けてある程度頑張っているつもりでいた。
けれど最近、夢なんてなくてもいいと思い始めた。

たとえ夢をもったとしても、叶う見込みが少ない場合、諦めたっていい。

そこで諦めるから叶わないんだと、暑苦しいことを言う人もあるかもしれないが、どんなに頑張っても叶わないことというのはあるだろう。
もちろん試してみなければわからない。
けれど、ある程度試すと、自分の得手不得手もわかるというものだろう。
今は第二の人生を歩むのは難しいようだ。

だから、適正がないと思ったら諦めるのも、ひとつの判断だと思う。

そうなったときに、残りの余生をどう過ごすかっていうと、その日その日の楽しみを受け取っていくことになるんだろう。
だから漫画とか本とか、スポーツとか、趣味を追い、仕事に追われ、日々が過ぎていく。
それだけでいい。

公務員を目指す安定指向の人間が増える気持ちもよくわかる。

しかし、夢を追い求める人が減るのは少し寂しくもある。
不景気が人の人生までも小さくまとめる、そんな気がする。

2013年1月12日土曜日

結婚観


結婚を考えたことはありますでしょうか。

僕はありません。
結婚は助け合い、支え合いだと言いますね。
僕には人を支えるだけの力がありませんので、支え合うことは恐らく出来ない。

学生結婚を考えている友人は、甲斐性がないから結婚すると言っていました。
真逆の発想に驚きました。

結婚は社会的な契約ですが、なんだか不思議です。
そこに詰まっているのは愛や生活、子供や保険です。

いざというときに支え合うという、それだけの契約なのにあまりにも重いのです。

もっと流動的でいいんじゃないかって、たまに思います。
動物みたいに群れをなして、血縁なんて関係なく助け合えばいい。

煩わしいでしょう。
突然に旅に出たくなったり、違う人を好きになったりしたら。
自由に求めることすらできないなんて。


2013年1月11日金曜日

好き嫌い


僕はtwitterをしているんですが、リツイート(RT)というのがいまいちピンときません。

現実に当てはめるとすれば、「これ面白かったよ!!」って報告するようなもんなのかも。
あるいは呟きを引用したいとき。

特に反応に困るのが、教訓めいたRTを乱発されたとき。
いい言葉を教えてくれるのはありがたいんですが…なんでRTしたのかなって考えると複雑な気持ちになります。

それはたぶん、自己啓発本や雑学に似たものを感じるからかもしれません。
「~したほうがいい」
「~は身体にいい」
そういう教訓めいたことを言われると、頭が痛くなります。

老婆心で言ってくれるならありがたいんですが、裏に自己顕示欲が透けて見えたりすると、聞いててやるせなくなります。

好き嫌いで語ればいいと思うんです。
「挨拶はちゃんとできるようになろう」っていうけど、別にいいじゃないですか。
そんなの、人とうまくやっていきたければそうすればいい話だし。
「挨拶のできる人って素敵だわ」って言えばいい話です。
「トマトってリコピンが入ってるから肌にいいのよ」なんて言われるより、「トマトは酸っぱいから嫌い」って言われたほうが楽しいです。

特に最近目についたのは、「嫌いってのがわからない。嫌いになれるほど対象を全部知ってるわけじゃないのに」って意見でした。
そんなの言い出したらなんでもそうです。
一面だけを見て嫌いになるということは充分あると思うし、好きなもののことは全部知ってるのかって、そんなことはないし。

わからない、って表現してる以上は嫌いって言うのは悪だ!って話ではないみたいですが、個人的には嫌いっていうのは良くないと思ってるから書いてるんだろうなと感じました。

それだけ嫌いって響きが強力ってことかもしれませんね。
そりゃ他人に対してすぐ嫌いだとか言ってたらそれこそ自分が嫌われちゃいますが、いい子ちゃんぶって無難にまとめた意見しかださないよりは、よほど使い手のある情報だと思うんですけどネ。

2013年1月5日土曜日

馴染まない心


周囲の人々とうまくやっていくのは難しいですね。
皆会話とかで感じることが多いと思います。

「こんなところでなにやってんの?」って訊かれたら、色んな解釈がありますよね。
顔をしかめながら言われたら、邪魔だってこと。
やらしい薄ら笑いを浮かべながら言われたら、馬鹿にされてるのかも。
微笑みながら言われたら、興味をもたれている。

もちろん、作業をしている私は相手の顔なんてみれない。
だから声なりなんなりで判断するんだろう。

一つの言葉でこんなに解釈が分れてしまう。
だから、人間同士で得意不得意があるのは当たり前。

正確に伝わるように話すのも技術。
あえてミスリードするのも技術。
冗談もそう。
突飛な事を言っていると自覚していることが、周囲に伝わらないといけない。

だから冗談を言い合える友だちは大事にしよう。
そこにはある種の信頼感や理解がある。