2013年2月25日月曜日

メタ思考


作品を楽しむとき、メタ的な発言をする人がある。
例えばドラマや映画をみて、「この役者の演技はいい」だのと批評家めいたことを言う。

私もそうだったが、これはあまり良くないことだと気付いた。

作品に対して文句を付けたりすることは、あたかも物事の良し悪しがわかっているようで格好いいと思いがちだが、そうではないかもしれない。

メタ発言は、裏を返せば作品に集中出来ていないからこそ生まれる発言だ。
つまりは、想像力の欠如だと思う。

もちろん、想像力の励起され具合は作品の質によるところも大きいが、受け手がどれだけの集中力をもって作品に付き合えるかも大事なことだ。

オタクとにわかオタクをわけるのはそのあたりな気がする。

作品を通じて共通の話題を獲得するのがにわかオタク。
作品そのものに楽しみを見出すのがオタク。
そんな感じ。

逆に言えば、オタクは作品を楽しむ過程で楽しみが終わってるから、他人と話し合うには向かない。
でも自分だけで満足できるから幸せだと思う。


[20140215追記]

メタとは、「高次の」という意味で、メタ思考とは外側から覗くことである。

例えば、ある将棋のルール通りにゲームしていて、ふと「なぜこんなルールなのだろう?」と考え込むことである。

大前提として、ある法則や秩序の中に身をおいていて、それを外側から眺めてみる、そんなイメージだ。

もうひとつ例をあげるなら、誰も不思議に思わない重力の存在に、ある日突然疑問を抱いたニューロンの思考がまさにそれである。
りんごが地に落ちるという当たり前の現象を、「なぜ落ちるのか?」と一歩引いて考えたのである。
これがメタ思考だ。

これは問題発見力である。
皆が気付かない当たり前のことに気付けるというのは、重要な価値をもっている。

問題をだされたときに、「それってそもそも~」とちゃぶ台返しをするのもこれに等しい。

問題になるのは、いつもこれを発揮すればいいわけじゃないというところ。
アニメや映画を観ていて、これはここがおかしいとか、いちいち言い出したらキリがないし、楽しめない。
ゲームでルールを守らなかったらまずいし、それは社会でも同じ。

たしかに疑っていく姿勢は大切なのだが、これはある意味で学者的・批評家的職業に求められる資質であって、それに対する好みは分かれると思う。

いつも批評している人の隣でドラマを観ても楽しくないことはなんとなく想像できるだろう。

メタ思考の能力は大事だ。
しかし、使いどころが大切ということはすべてにおいて言えることである。

[2014/10/21]

メタ思考とは、前提を疑う力である。

物事を考えるとき、我々は視野狭窄に陥りがちである。

すべてを当然と信じている。

もちろん、前提を信じる力は大切だ。

何事も、前提を置かなければ前に進められない。

だがその一方で、前提を疑う力も重要である。

両方が合わさって初めて、メタ思考の威力が発揮される。

2013年2月22日金曜日

神様を信じるか


この間、家にキリスト教の勧誘の方がきました。
品の良いおばさまだったし、別に押し付けがましくもなかったので、そこそこに話を聞き流してパンフレットだけ受けとりました。

神様を信じるかと訊かれたら、私は信じません。

例えば「隣人を愛せよ」とかってのは、いい心掛けだと思います。
その教えは信じますが、それを説いた人をあがめるようなことはしません。

たとえ立派な人でも、ある側面では正しく、ある側面では間違っているということはあるので、何かを全面的に信じるということはしません。
それが自分で考えることであり、自分で責任をもつということじゃないかなと思います。

仮に神様がいたとしても、私がいいことをしたからいい結果をもたらしてくれるとは思いません。
そもそも神様にみられているからいいことをするわけではないです。
自分が困らないように、あるいは他人を助けたいと思うからするわけです。

第一、私たちは生まれながらにして平等ではないので、残酷な運命を与えている神様に感謝しようとは思いません。

強いて言えば、こうしたらこうなる、という因果だとか、確率の中に神様はいるんだと思います。
それが教えや経験則という形で現れているだけだと思います。
昔の学者が神様を信じたのは、そういった因果法則をたぐりよせることで神様の考えを知りたかったから、というのもわかるような気がしますね。
こうしたらこうなる、というのは科学も宗教も変わりません。

もちろん、いろいろなものに感謝しようとか、そういう考え方は大事です。
でも、神様がそう仰ってるからそうするわけではないです。
何かを信じて取り入れるとき、一度よくその意味を考えなければいけません。

神様を信じるのはいいですが、神頼みをしても救われることはありません。
気持ちの上でそれが支えになってくれるのなら構いませんが、何も解決はしてくれないと思います。

2013年2月13日水曜日

馬鹿にされても


生きていると、隣の人がどうしても気になる、ということはあります。

世の中を見回すと、幸せそうな人は沢山います。
優秀な人も、美しい人も山ほど。

そんな人たちに羨望を感じることがあるかもしれません。
それは仕方のないことです。

でも、もし馬鹿にされたとしたら、気にすることはないのかなと思います。
自分の中で何かが疼いたりするとしたら、それは図星だからか、現実を受け入れきれてないからだと思います。

たとえば、「お前って馬鹿だよね」とストレートに言われたとしても、「そうだよね、ハハハ」と屈託無く笑っていればいいとおもいます。
だって、彼らはそうやってあなたを馬鹿にする人は、自分が自分だけの力で賢いのだと思っている。
それは大きな間違いです。
彼らはそういう星の下に生まれてラッキーだったのです。
言い方を変えれば、スタート地点が違ったということです。

そんなこと言い出したら全部運じゃないか、貴様は運命論者かって話になりますが、別に努力が無駄とか言ってるわけじゃありません。
未来のことを知り得ない私たちは、そのときそのときでベストを尽くすしかないのは事実です。
ただその結果を見て、次に活かすための反省はするとしても、人様に馬鹿にされるいわれは無いということです。

たとえこの意見に同調してくれる人がいたとしても、これは口に出して大声で言ってはいけません。
何故なら周りの人間の中には、努力が結果に直結すると思っている人も少なくはないからです。
そんな人たちの前でこんな話をすれば、「それは言い訳だ」とか、恰好の餌食されるに違いありません。
恵まれた人たちにとっては、言い訳にしか聞こえないのです。
彼らは生まれつきラッキーな人間なので、アンラッキーな人間のことなどわかりようがないのです。

ただ、こういった考えをもっていると、人様に馬鹿にされてもムキにならずに済むので諍いが減ります。
ついでに、人様にも優しくできますね。

あくまで自分のための免罪符ですから、手抜きのために使ったり、言い訳のために使ったりしてはいけません。
私たちが何を言っても、馬鹿にされるような存在だということには変わりないのですから。
矮小な自分を受け入れたうえで、こっそりお守りとしてもっておく考え方なのです。

それに「出る杭は打たれる」という言葉があるように、馬鹿にされるくらい目立つ、個性があるってこともあります。
「天才と馬鹿は紙一重」とも言いますし、もしかしたら、それだけの秘めた力があるのかもしれませんよ。

さらには、身のない内容で人を馬鹿にする人は「自分に自信がないだけ」なので、気にすることはないと思いますよ。
「余裕がないなあ、この人…」って軽く流しておきましょう。

ただ、中身のある批判については、一度聞いて考える必要はあるかもしれませんね。

批判の中身のあるなしは判断が難しいですが、「~したほうがいい」とか「~なところは直したほうがいいかもよ」というように、こちらのことを否定しないで、かつ未来を見据えた前向きな批判だけ信じましょう。
それ以外はとるに足らない戯れ言でしょう、きっとね。

2013年2月12日火曜日

馬鹿と天才


昔、天才バカボンという漫画がありましたね。
『天才とバカは紙一重』という言葉があるように、一般人にとっては、天才の思慮深い行動もバカの思慮の浅い行動も同じく意図が汲み取れないという意味でしょうか。

世には『○○バカ』、という言葉もあったりして、学者さんやらの一本槍な人間が、自分の事を謙遜して「いえいえ、私は○○バカでして~」という風にもちいる。
そういう人間が特定の分野では天才的だったりすることもあるだろう。

だが、天才とバカの境界をどう見分けるか、は難題だ。
つまるところ実績をあげていれば天才なのだが、才能がわかってから発掘したのでは遅い。

私が考える天才とバカの例は、以下のようなものだ。
例えば会議など話し合いの場で意見を出す場合に、「それじゃあダメだよ、そんなバカバカしいことよく思いつくね」というように人を見下した態度をとる者がいれば、それは紛れもなく賢い振りをしたバカである。何故なら、会議の席について意見をだしてもらえるということの価値をまったくわかっていないからだ。そして何より、人を馬鹿にすることで意見を封殺してしまっている。これでは会議をしているのに機会損失も甚だしい。逆に、一見バカな事を言っているようでも何かを提案できる人間は評価されるべきだ。天才とまでは言わないまでも、なにかアイディアをだすというのは偉大なことだ。

先の例では、天才とバカというのは、いかに理性的な判断が出来るかどうかでは決まらないことがわかる。
たしかに安定感や安心感を大事にするなら、理性的な発言をする人間のほうが一見見栄えよく見える。
だが、実際に情報を円滑に伝達したり、議論を巻き起こすパワーはバカっぽい発言をする人間のほうが圧倒的に勝っているように思える。

この例における天才とバカの分かれ道は、身のある議論をいかに盛り上げる力があるか、である。
それ次第で、発言に対する評価がバカか天才か、ひっくり返るのだ。

ただし、このタイプの天才は牽引力にはとぼしいかもしれない。
天才像の全容ではなく、あくまでひとつのスタイルである。

また、天才と馬鹿に共通する性質を挙げるとすれば、突飛だということだ。
言う内容にしろとる行動にしろ、彼らは常人より大きな歩幅で進んでいく。
そのため外部からみると、論理性が見えない。

馬鹿がとる行動は突飛ではあるがよくわからないプロセスに支配されており、天才はある意味わけのわからない(説明されることなしには)プロセスを行動に移す。
そのため、常人から見れば双方共に意味不明には違いなく、見分けはつかない。分かれ目があるとすれば、何か利益をもたらすかどうかしかない。

つまり、たとえ天才的な才能をもっていたとしても、評価され、利益をださないことには天才にはなれない。だが、馬鹿は勝手にのたれ死ぬこともできる。


別の例として、哲学の世界で名を残している天才たちの考えを読んでいると、ある意味で底抜けの馬鹿なんじゃないかと思うことがある。

例えば、「人間は理解し合うことができるか」「疑いようのないこととはなにか」「我々が認知できないことはどんなか」なんてことを大真面目に考えている彼らは、あまりにも慎重過ぎるし、その思考は病的にさえみえる。
下手な考え休むににたり、という言葉があるように、考えていれば誰でも天才というわけではない。
一見すると実利のなさそうな彼らの考えも、いまや哲学科で勉強の対象になるのだから不思議なものだ。ただ、哲学科は就職があまりにも厳しいらしく、実利に結びつきにくいジャンルである。

先程は利益をださなければ天才でないと言い、しかし実利に結びつかないことを考える哲学者は天才だと話したが、これは決して矛盾ではない。
ただ、求めている利益の指すものが、金か社会的影響か、という話だ。

しかし彼らが考えた疑問はあまりにベーシック過ぎて役立たないように思えるのに、長い間生き残っている。
工学的・数学的な知識だって、それが有意義だと知らされなければ、さっぱり価値がわからないのと似ている。

どんな情報も物体も、それを見つめる側の眼が曇っていては役に立たないということだ。

なにせガリレオは地動説を唱えてキリスト教に異端審問されたように、時代がその人に追いついてない以上は、どんな天才も馬鹿になってしまうのかもしれない。

馬鹿も天才も紙一重なのは、「常人にとって理解不能」である。
それが他者にとって有意義か否か、それによって天才と馬鹿が分かれるのだ。

2013年2月3日日曜日

覚悟


20を過ぎたあたりから、自分の不器用さや不出来に嫌気がさしてきた。

頭が良くて身体が弱い、知恵はないが健康、何かひとつでも取り柄があれば、世の中わたっていける勇気も沸くものだが、あいにく私には健康も知恵もありはしなかった。

知恵の不足に関しては不勉強のせいもあったが、勉強に励んだからといって、高校生当時の私が残す成績なんてたかが知れていたことは今考えてみてもよくわかる。
現に大学での勉強の成績はよくないからである。

そうとなれば将来働くなんて選択肢を前向きに検討できるわけもなく、ただ流れに乗って大学院進学を決めたわけであるが、私にとってのそれは単なるモラトリアムの意味合いすらもたない。何故なら、モラトリアムというのは大人になる前の猶予期間のことであって、本来大人になれる力をもつものがあえて大人にならない選択を指すのであり、私の場合は大人になる力すらももたないのだから、これはもはや猶予というよりも、延命措置だと考えたほうがよい。

実際問題、私は自分の死に場所を求めている。
今すぐにでも、車にはねられてしまえば楽になれると思っている。

とはいいつつも、自ら命を絶つほどに思いつめてはいないのだが、将来を考えると、死以外に前向きな選択肢など存在しないような気がしてくる。

昔から「働かざる者食うべからず」というように、働く能力がなければ食えない、食えなければいずれは死ぬわけだから、「働かずんば死を与えよ」と言っても大差ない。
もちろんのこと今から働けないと決めつけていることがすでに問題なのだが、個人的には働いて一所懸命生きていくことが仮に素敵だったとしても、その生き様を人様に評価されるために生きているわけでもないので、泥を舐めるような人生を送るくらいなら、いっそここで楽に死んでしまえればどんなにありがたいかと思っている次第である。

仮に私のようなろくでなしを助けてくれる優しい人がいたとしても、それが親でも兄弟でもなければ、私は卑屈にならずにはいられないだろう。
楽しく生きていかれる自信はない。

とはいえ、何故自ら命を絶つという選択肢を前向きに検討しないかといえば、それは聞こえもしないはずの噂が死後に囁かれることを想起するからだ。そういう意味では、人様の評価を気にしているという矛盾がある。

的確に表現するなら、悪くは言われたくないが、別段褒められたくはない、ということだろうか。

生きるにしろ、死ぬにしろ、中途半端な覚悟であってはいけないと思う。
強いて言えば、生きているうちは後悔を活かせるが、死んだらそれすら出来ないからこそ、そう思う。
来世は信じていないので。
死期などいずれ訪れると、気ままに待ってるのが一番なんだろう。

2013年2月1日金曜日

勉強


かねてから親にせっつかれていた、交通免許の学科試験を受験してきた。
田舎だから、免許がないと生活が立ち行かない。

そのための勉強には三日かけた。
難しいと親におどされたが、思いのほか簡単で、一発で合格した。
周りもなんなく合格していたから、それくらいのレベルなんだろう。

とりあえず、勉強した内容が報われるのが嬉しかった。
今までの私は、教科書を読んだだけでわかったつもりになって、いざ試験に望むと公式やら計算屋らがいっさいこなせないパターンが多かったので、たとえ試験のレベルが低くても、努力が反映されるというのはいいものだ。
この感覚を学生時代(いまも大学生だが)に味わっておけば、人生変わったろうなと思う。

勉強をまともにしてみてわかったのは、人間その都度修正でやっていってるってことかな。
昔からのことわざに、「訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥」というのがあるが、まさにそうだと思った。
小さい頃は、間違えるのは恥ずかしいことだと思っていたが、別に誰でも間違いはするし、修正していけばそれでいい。
そのために問題を解く、という簡単な事実が、私は腑に落ちてなかったのだ。
天才は最初から天才だと思っていたから。
天才は単に、間違いの修正が早いだけなんだろう。所謂飲み込みが早いというやつだ。
そうやって人生の格差がどんどん拡がるのを、ただ指をくわえてみている。