2013年11月14日木曜日

デジタル化の功罪


21世紀の象徴的な出来事といえば、『インターネットの普及』だろう。

インターネットのために不可欠なパソコン関連の技術は、20世紀末にすでに出来上がっていたが、ネットと社会の繋がりが強くなったのはここ10年くらいのことだろう。

写真も音楽も言語も、あらゆるものがデジタル化されてインターネットという荒波にさらわれてゆく。
人々はそのおかげで、たくさんの楽しみや事件の記憶を共有することができる。

しかし、なにもいいことばかりではない。
最近では、インターネット上に交際相手の写真を載せるリベンジポルノや、twitter上でいたずら的な写真をアップロードする若者もいる。

こうしたデジタル化の弊害が、だんだんと目に見え始めてきている中で、もうひとつ、危惧すべきことがある。
それは、『記憶力の低下』だ。

インターネットを使えば、いまや多くのことを調べることができる。
それは非常にありがたいことだが、その手軽さの分、人間の記憶力は落ちていくのではないだろうかと思われる。

別に記憶力が落ちたところで、手軽に調べられるんだからいいじゃないか、というのはたしかにそうだが、私が問題視するのは、記憶の低下そのものではない。

記憶というのはあくまで行為のための手段であって、それ自体が主体となる機能ではない。
何か現実の事象を取り扱うという目的があって、対象についての知識を頭に叩き込むためのものだ。

私が言いたいのは、記憶力の低下は、創造力の低下に直結するということ。

たしかに単純作業は逐一確認して行えばいい。

しかし、頭の中で何かを発想する力、これは既存の事象をすべて頭に入れていなければ生まれようがない。
仮に調べながら作業したとしても、ミックスする以上は最終的に頭に一緒くたに入れなければならないのは変わらない。

実際、昔の天才数学者オイラーやコンピュータの祖ノイマンは、自分の頭の中ですべて考えていた。
オイラーの業績の半分は彼が視力を失ってからのものだし、ノイマンは頭の中に想像上の自由に描けるホワイトボードをもっていたと語っている。
さらに誰もが知っているであろう作曲家ベートーベンは聴力を失っても曲を書きつづけた。

つまり彼らにとって、もはや現実の世界は意味をなしておらず、すべては頭の中で完結していたのである。
言い換えるなら、彼らが創作を行ううえで必要な情報はすべて記憶されていたということだ。

記憶力は発想の源なのだ。
だが、インターネットはそれの育つ環境を奪っている気がしてならない。

もちろんツールの使い方ひとつで人間はうまくやれるだろう。
だが、必要性に迫られなければ、能力は高まらない。
つまり、ツールが発達すると人間は頼ってどんどん衰退する。
人間はどんどん能力を外部に出していっているのだ。

インターネットのおかげで誰でも何でも出来るようになってきている。
だが、一歩間違えると起こりうる弊害が、我々を脅かしている気がする。

クリエイターが偉大な理由は、そこにある。


[追記]
上記の文章を書いた後に知ったが、どうやらデジタル機器が人間をアルツハイマーに導く可能性が指摘されているようだ。
理由は上記の通りで、デジタル機器の操作は人間の負担を軽くするために、覚えるという行為を操作上徹底的に排除する方針で作られており、それが大衆的に良いデザインとされているためだ。

2013年11月12日火曜日

小鳥とわたしと鈴と


小学校のとき、『私と小鳥と鈴と』という詩を習った。

私は小鳥のように空を飛べないが、地面を早く走れる。
鈴は綺麗な音色を奏でるが、私のように唄は知らない。
だから、皆違って皆いい。

そういう内容だ。

皆違って皆いい。確かにそうかもしれない。
皆が、優れているなら。

そう、この詩で唄われる世界のように、皆が皆、優れた点を持っているなら素晴らしい。
だが私は、それは虚構だとしか思えない。

楽しみを追求するだけなら、それでいいかもしれない。
走るのは楽しい。飛べるのも楽しい。音色も楽しい。唄も楽しい。

けれど、生活は違う。
走っても飛んでもお金は稼げるかもしれない。
だが、唄や音色で食っていくのは難しいんじゃないか。

皆違う個性で、それを認めようという気持ちはわかる。
だが、社会という規格化された世界においては、突き抜けた個性が役立つことは稀だ。

左利きは寿命が短い。
多くのモノが右利きのために作られているために、ストレスを感じるのが原因だという。
この説も推測の域を出ないが、一理ある。
あるいは、左利きは不利なのかもしれない。

もともと重力下で暮らす人間にとって、上下は大切でも、左右を区別する意味はない。
そのうえで、右利きが多数派を占めている。

その多数派が決めたルールによって、少数派が苦しむのは当然のことだ。
なぜなら、数は力だからだ。
言い方を換えるなら、民主主義的には、最大多数の最大幸福が原則だから。

個性を大事にする考え方は、必要だ。
でも、それを幻想的に教えるのは違う気がする。

社会は個性を認めない場所でありながら、一方初等教育では個性を認める教育をする。
なんだか不思議な気がする。

2013年11月11日月曜日

哲学は役に立つのか


以前、『哲学は人生の役に立つのか?』とかいうタイトルの本を見かけた。

著者は哲学者で、自叙伝的な内容だったので、タイトル詐欺のような印象を受けた。
とりあえずわかったのは、哲学者は原文で読むことを大事にするということだけ。

他にも、哲学科を出たために就職が危ぶまれる学生が新聞の投書欄でお悩み相談してるのも見かけたことがある。

それだけ哲学の価値について、世間の評価が低いと、哲学者自身が強く感じているのかもしれない。

僕自身も、大学の教養で学んだ哲学は正直面白くなかった。
存在とはなにか、人間とはなにか、~であるとはなにか、などなど。
それから、イデア論とか、そういうの。

はっきり言って哲学と名のついてるものは役に立たないと思う。
少なくとも僕には役立てられない。

純粋理性批判だの、形而上学だのというやつは謎だし、わからない。
わからないものを役立たないと批判するのは愚かしいが、時間を費やす前に価値を判断したいのは人間が常に抱える問題だ。

哲学はすべての勉強の素だと言うけれど、役立つものはそれぞれ数学や、物理、社会学など一ジャンルを築く形で巣立っている。

つまり、未だに哲学と崇められてるものは、残りかすのようなものだ。

ああいうのは、貴族やらが暇を持て余してやっていた試みがたまたま実利を獲得しただけで、はじまりは日々の生活からかけ離れたものだ。
そんな歴史も鑑みずに、哲学じゃ食っていけない、なんて言うようでは、逆に哲学してないんじゃないか。

哲学者は霞食って生きてるんだ。きっとね。