2013年6月28日金曜日

頼み方断り方


友人からツイッターで飲みにいかないかと誘われた。

僕は最初に明日明後日の予定が空いているかどうかだけを訊かれたので、いつもの通り電話で話したいことがあるなら時間を割けるよ、と返答したのだが、そうじゃなくて飲みにいきたいんだけど、と言われて「流石に長時間付き合わされるのはちょっと…」とたじろいだ。

済ませたい仕事が山積していたし、そもそも飲み会は好きではないし、ましてついこの間ツイッターで愚痴をかましていた友人の誘いとあっては面倒な話に違いないと思ったのだ。

結局考えあぐねたあげく、自分の時間を優先し、「やらなきゃいけないことがあるからごめんね!」と断りを入れた。その時点では「申し訳ないな」、と心を少し痛めていたのだが、僕の断りに対する返答を見て、そんな気持ちはさっぱり失せた。

「大丈夫。○○(共通の友人)は明日忙しいのに今日来てくれたからb」

よくこんな返答ができるなあ、と感心してしまった。

恐らく愚痴放出目的であろう飲み会に誘っておいて、断られたらチクリと棘を刺していくなんて。
いい根性をしている。

実を言うと僕もけっこうな性悪だと自負しているが、類は友を呼ぶというべきか、彼もまた凄いなと切なくなった。

たしかに薄情なのは私かもしれない。
他人の頼みの一つや二つ、笑顔できいてやるくらいの広い心があってもいいはずだ。
彼の愚痴を大事な時間を割いて聞いてやるくらいの余裕があると格好いいのかもしれない。

しかし頼みを断られたからといって、他の人間と比較したうえで暗に貶していくというのは清々しいほど歪んでいる。

皆さんはそういう人にならないように、ぜひぜひ教訓にしていただきたい。
例え自分に余裕がなくても礼節は欠いてはいけないし、頼みごとはダメでもともとだ。

2013年6月23日日曜日

話を聞かない人


驚くほど話を聞いてくれない人がいる。

例えば、「こないだこんなことがあったんですけど…」と切り出すと、途中で、「だいじょぶだいじょぶ!!僕なんてそんなこと常だから!」とか言ってぶった切る。

まあ別にかまわないのだけど、よくそれでうまいことやってるなあと思う。

面倒くさがって話を聞かないだけなら仕方ないことだけど、自分の話にすげ替えて自己主張してくるというのがたまらなく面倒だ。実直に言えばうざったい。

私も人の話を聞くのが嫌いなわけではないが、あまり自分の話ばかりされると対話する気がなくなる。

そもそも人の話を聞かない人は、自分の知っているフィールドでしか勝負が出来ない人だ。
知っている知識ならポポポンとだせるが、知らないことになると途端にだんまりになるか、話を打ちきろうとする。
たしかに知ってる話題で話したほうが盛り上がるのかもしれないが、そういう場面だけでは成立しない。

こうして相手の話を聞いてくれないと不満をもつときは、まず自分を疑ったほうがいい。

実は、相手が話を聞いてくれないときは、自分が話を聞いてなかったりする。
その場合はお互いにぎすぎすしてしまうので、気をつけよう。

なによりまず、自分が聞くことを心掛けよう。
あれ、何の話だったっけ。

なにはともあれ、最初は我慢だ。

ちゃんと話を聞いてあげて、それでも相手が変わらないなら、浅い関係で済ませたほうがお互いに幸せだ。

2013年6月10日月曜日

無心


我々は生きていくうえで考えなければならないことが多すぎる。
そんなとき、仕事や趣味に忙殺されることが一種の快感になることがある。

そうした無心の時間をもつことで、自らを思考から解放してやっていると考えれば素晴らしい。
皆さん趣味はお持ちだろうか。

私は基本的に考えることの少ない人間だが、ぼーっとするのが好きだ。
それこそ日がな一日ぼんやりと過ごすときの幸せったらない。

特に好きなのは、寝る直前のまどろみに身を任せる瞬間である。
疲れて帰ったときの布団の気持ちよさを思い出せば容易に想像できるだろう。

また、考え事をしながら段々とそれを放棄していくのもいい。
何か到底解決できそうにないこと、リーマン予想なんかを自分なりに考えながら、いつの間にか眠りについていたときの心地よさったらない。

そうした時間の何がいいかと言えば、時間の流れが遅いことだ。

例えば夜眠ると途端に朝がきたような感覚に襲われるが、朝の二度寝は十分間でも異様に長く感じられる、そんな経験はないだろうか。

時間を有効に使ってるんだか無駄にしているんだかわからない感じがなんとも言えずよい。
心が休まる。

恐らく宗教的に行われる座禅なんかも似たようなものだろう。
何も考えないことを意識的に行う。
その心地よさを覚える。

たしかにその心地よさは人を救う材料になるが、一歩間違えると洗脳されるとっかかりになりかねない。

たまに新興宗教に学歴のやたら良い人が混ざっていたりするけれど、まさにあれは、『考え過ぎから解放される快感』に染まってしまった人の末路と言えるだろう。

彼らはロジックにしか納得しないので、一度理由をつけて信じ込ませてあげると考えない快感にのめりこんでしまうのだろう。

麻薬や酒に浸る人達も、手段は違えど目的は似たようなものだ。
何かにずぶずぶに嵌るというのは、そういうことだ。

人には考えない時間が必要だ。
すべてを忘れる時間が。

そしてその手段は、自分だけのためのものでなくてはならない。

どんなくだらない手段でもいい、自分を休める手段を獲得するのは、寿命を伸ばすための知恵だと言えるだろう。