2015年12月20日日曜日

瞑想とは何か


仏教の修行の中に、『瞑想』なるものがあるのは御存じだろう。
ipodやiphoneを作りだしたApple社の創始者である故スティーブ・ジョブズも、この瞑想をおこなっていたという。


瞑想とは、その名の通り、目を瞑る修行である。
ただし、寝るわけではない。
ただ眼を瞑って、心を静める。そして何も考えない状態を保つ。


しかし、そんなことに何の意味があるのか。
私はずっと疑わしく思っていた。


どうも色々な情報を見ている限りは、集中力を上げる訓練のようだ。
しかし、瞑想は我慢であり、無思考状態の維持だから、継続的にある物事を行う点では集中力の修行と言うより、持続力の修行ではないか、と思っていた。


けれどどうもそうではないようだ。
考えてみれば、物事に対して深く思考するとき、我々は外部に目を向ける事はできない。
つまり、外界と遮断されている必要がある。


この排他性こそが、瞑想の追い求めるものである。
つまり、普段思考を行う際に、外部と自分をシャットアウトするために、その予備練習をしておくのが『瞑想』の意味合いであるようだ。


であれば、瞑想にはレベル付けが生まれる事になる。
目を瞑るのはあくまで形式であって、むしろ現実を重視するならば、目を開いたままで、深い思考を行う必要があるということである。


つまり、五感をすべて、意識的にシャットアウトできる能力が、究極の集中力であり、これを育てる第一歩として、瞑想の意義があるのである。


しかし、これには前提がある。
自分の内部世界が、明確に構築されている事である。


つまり、自分自身の外部と内部は、隔たりがあって、自分の内部がしっかりと固められていなければ、この修行を行う意味はない。


なぜなら、最終的には、排他力によって得た思考空間で、いったい何を考えるかが、最重要項目だからである。


であるからして、瞑想はやはり修行であって、あくまでそれを達成すれば、何か力が手に入る類のものではない。
ただし、雑多な世界の中で、何かを思考するうえで、必ずや必要となる能力のひとつではあるだろう。


ここから推測できるのは、瞑想と対をなす修行がある、ということである。
瞑想で得た集中力を活かすには、内部世界を構築する必要があるが、内部世界を構築する術について、修行が必要となるだろう。


その足掛かりとして考えられるのが、記憶力の訓練である。
自分の内部空間を構築するには、部品が必要である、それを集める能力があるとすれば、記憶力しかありえない。

記憶力とは、五感によって得た感覚をそのまま記憶する能力を指す。
この訓練に相当する内容が、きっと仏教の教えの中にあるはずだ。